今年の初稽古は「たけくらべ」で始まります。
たけくらべは一葉さんが書いた一番長い小説ですから、そのまま読んでしまったら2時間以上かかります。
朗読CDなどするならいいでしょうが、ささやかな朗読会ではちょっと無理ですので、苦労してやっと半分くらいの時間になるように台本をつくりました。
これを元になんとか鑑賞に堪える作品に仕上げていこうと思っています。
ところで私のかかりつけの医院は浅草4丁目にあるのですが、地図で眺めると、なんとたけくらべの舞台の新吉原の近くにあることを再確認!!!
土曜日に昨年暮れの胃カメラ検査の結果をきくのと薬をもらいに行くついでに「たけくらべの世界」の現地調査を思い立ち、行ってまいりました・・・・。
たけくらべの連載が始まったのは明治28年ですが、上野、浅草界隈の大きな道路は基本的には当時と変わっていないようなのです。
それでも地図でながめているだけではよく分らないこともあるものです。
おはぐろどぶの南側です。吉原の遊郭は周りをぐるりと「おはぐろどぶ」と呼ばれる用水路に囲まれています。 遊女がおはぐろを捨て、そのために水が黒く濁ったのでこの名があるそうです。花魁は鉄漿をつけていたのですね。用水の幅は2間あったそうです。遊女の逃亡を防ぐほかにも、客も簡単に出入り出来ないようにする目的もあったのでしょうね。吉原への出入りは「大門」からのみだったのです。そこで「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く」という書き出しの文章になるわけですね。花魁道中が行われたという仲の町の通りを左折して、地図ではよくわからなかった「水道尻」と呼ばれた遊郭の西側の境界を確認。
水道尻を出てすぐ右側には吉原神社、このあたりから浅草七福神参りの人たちの人通りが多くなりました。
吉原神社の少し先に関東大震災で亡くなった遊女たちの慰霊塔がありました。
ここが「検査場」だったのかな~というあたりを抜けて鷲神社へ…。
鷲(おおとり)神社はなかなかの人手でした。お酉様の賑わいはまた格別なのでしょうが…。私は浅草生まれですが酉の市にはいったことがないのです。子どもの頃はお祭りばかりが楽しみでした…。さて国際通りを直進せずに、もう一度吉原の北側に戻りました。
跳ね橋のあったあたりに美登利の住んでいた大黒屋の寮のモデルとなった「松大黒屋」の寮があったそうです。向かい側の薬局に解説のプレートが貼ってありました。道路は老朽化のため工事中でした。ここから一葉の旧居「龍泉町368番地」はこの先すぐです。一葉の駄菓子兼荒物屋は二軒長屋で隣はくるま屋さんだったそうです。一葉の旧居手前を右に入ると一葉記念館がありますが、ちょっと時間に余裕がありません。
一葉旧居跡の碑は見つけられぬまま筆屋のあった辺りに来てしまいました。向かいに信如の父親の大和尚が蒲焼を誂えたむさし屋があったそうです。この通りは吉原に向かう客の行き来も多かったようで、一葉は「三島神社までは氣違ひ街道、寐ぼれ道」と表現しています。「氣違ひ!」は吉原に通う客のこと…一葉は商売をしながらも、深夜や早朝に行きかう廓通いの殿方の観察も怠りなかった様子です。
国際通りに面して信如の龍華寺のモデルという大音寺があります。鷲神社からすぐですが、ここには人影がありません。あまりひっそりしていて通り過ぎてしまい、裏手に廻ったら簪の会社がありました。大和尚は酉の市では門前に簪の店を出し、大黒さんが手ぬぐいかぶって「まけましょ、まけましょ」と売りたてる場面を思い出してしまいました。龍華寺は浄土真宗のお寺さんであることを一葉さんは七章の冒頭で「如是我聞、佛説阿彌陀經、聲は松風に和して」と表しているそうですが、大音寺さんは浄土宗でしたよ。
ところで、鎌倉時代の浄土真宗の僧に如信(にょしん)という方が実在したそうです…。
大音寺前の「竜泉」バス停から都バスに乗って帰りました。暖かな一日でした。
たけくらべは一葉さんが書いた一番長い小説ですから、そのまま読んでしまったら2時間以上かかります。
朗読CDなどするならいいでしょうが、ささやかな朗読会ではちょっと無理ですので、苦労してやっと半分くらいの時間になるように台本をつくりました。
これを元になんとか鑑賞に堪える作品に仕上げていこうと思っています。
ところで私のかかりつけの医院は浅草4丁目にあるのですが、地図で眺めると、なんとたけくらべの舞台の新吉原の近くにあることを再確認!!!
土曜日に昨年暮れの胃カメラ検査の結果をきくのと薬をもらいに行くついでに「たけくらべの世界」の現地調査を思い立ち、行ってまいりました・・・・。
たけくらべの連載が始まったのは明治28年ですが、上野、浅草界隈の大きな道路は基本的には当時と変わっていないようなのです。
それでも地図でながめているだけではよく分らないこともあるものです。
おはぐろどぶの南側です。吉原の遊郭は周りをぐるりと「おはぐろどぶ」と呼ばれる用水路に囲まれています。 遊女がおはぐろを捨て、そのために水が黒く濁ったのでこの名があるそうです。花魁は鉄漿をつけていたのですね。用水の幅は2間あったそうです。遊女の逃亡を防ぐほかにも、客も簡単に出入り出来ないようにする目的もあったのでしょうね。吉原への出入りは「大門」からのみだったのです。そこで「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く」という書き出しの文章になるわけですね。花魁道中が行われたという仲の町の通りを左折して、地図ではよくわからなかった「水道尻」と呼ばれた遊郭の西側の境界を確認。
水道尻を出てすぐ右側には吉原神社、このあたりから浅草七福神参りの人たちの人通りが多くなりました。
吉原神社の少し先に関東大震災で亡くなった遊女たちの慰霊塔がありました。
ここが「検査場」だったのかな~というあたりを抜けて鷲神社へ…。
鷲(おおとり)神社はなかなかの人手でした。お酉様の賑わいはまた格別なのでしょうが…。私は浅草生まれですが酉の市にはいったことがないのです。子どもの頃はお祭りばかりが楽しみでした…。さて国際通りを直進せずに、もう一度吉原の北側に戻りました。
跳ね橋のあったあたりに美登利の住んでいた大黒屋の寮のモデルとなった「松大黒屋」の寮があったそうです。向かい側の薬局に解説のプレートが貼ってありました。道路は老朽化のため工事中でした。ここから一葉の旧居「龍泉町368番地」はこの先すぐです。一葉の駄菓子兼荒物屋は二軒長屋で隣はくるま屋さんだったそうです。一葉の旧居手前を右に入ると一葉記念館がありますが、ちょっと時間に余裕がありません。
一葉旧居跡の碑は見つけられぬまま筆屋のあった辺りに来てしまいました。向かいに信如の父親の大和尚が蒲焼を誂えたむさし屋があったそうです。この通りは吉原に向かう客の行き来も多かったようで、一葉は「三島神社までは氣違ひ街道、寐ぼれ道」と表現しています。「氣違ひ!」は吉原に通う客のこと…一葉は商売をしながらも、深夜や早朝に行きかう廓通いの殿方の観察も怠りなかった様子です。
国際通りに面して信如の龍華寺のモデルという大音寺があります。鷲神社からすぐですが、ここには人影がありません。あまりひっそりしていて通り過ぎてしまい、裏手に廻ったら簪の会社がありました。大和尚は酉の市では門前に簪の店を出し、大黒さんが手ぬぐいかぶって「まけましょ、まけましょ」と売りたてる場面を思い出してしまいました。龍華寺は浄土真宗のお寺さんであることを一葉さんは七章の冒頭で「如是我聞、佛説阿彌陀經、聲は松風に和して」と表しているそうですが、大音寺さんは浄土宗でしたよ。
ところで、鎌倉時代の浄土真宗の僧に如信(にょしん)という方が実在したそうです…。
大音寺前の「竜泉」バス停から都バスに乗って帰りました。暖かな一日でした。