
炭火や焚火の熾きで盛大に焼いたアツアツの秋刀魚をたっぷりの大根おろしと醤油で食すとき、極上の幸せを噛みしめる。この日本という国に生まれてよかったと、無信心なくせに心から神に感謝していたりする。
ところが、キャンプで秋刀魚を出すと眉をひそめる人たちがいる。彼らの顔には次のように書いてある。
――こんな下賎な魚を食わせやがって……。
これまで2組の夫婦が顔をこわばらせ、目を背けた。決してハイソな生活をなさっている方々ではない。いずれも、「キャンプは非日常の追体験」というぼくの考えに同意してくれたはずだったのに……。
どうやら、彼らの“非日常性”とは、たとえば、ギンガムチェックのクロスがかかったテーブルには野の花などが活けてあり、ナプキンを膝にナイフとフォークとスプーンで食事をする――そんなイメージだったらしい。

先日、はじめて一緒にキャンプへ出かけた義理の従兄は、「う~ん、うまい! いい焼きぐあいだぁ」と言いながら内臓にいたるまでむさぼり、食べ尽くしてくれた。
この人とはお互い体力がつづくかぎり末永く一緒にキャンプができると確信した。
翌週の連休をぼくは静岡のキャンプ場で二泊三日を過ごした。一週間前のキャンプでの秋刀魚の味が忘れられず、さっそく初日の夕飯から秋刀魚の炭火焼だった。このキャンプ場は直火が禁止されているのでシチリンを持参した。珪藻土ではなく、スチール製のヤツだけど……。
このとき、どうしても試してみたいことがあった。近江在住のキャンプ仲間から教わった秋刀魚を焼くときの驚くべきテクニックである。
シチリンで焼くとき、周りに炭をおいて真ん中にキャベツを置くと、焼くときに秋刀魚からしたたる脂をすいとってくれるので炎が上がらず、秋刀魚が焦げて黒くならないというのである。
初日――なるほど! いい具合に焼けている。片側は実にきれいに焼けている。すっかり気をよくして反対側を焼くときに油断した。ふと見ると盛大な炎が上がっているではないか。火が強すぎたのでキャベツが燃え尽きていた。
あららら、いつもいり真っ黒じゃないか。

2日目――今度は前日より火を弱めにして、キャベツの追加も用意しながら焼く。時間はかかったものの大成功! いい具合に焼けた。
しかし……である。食べてみると、たしかにうまいのだけど、どうにも品がよすぎるのだ。
あの口にジャリっとくる炭化した皮と一緒じゃないとせっかく炭火で焼いた秋刀魚を食べているという実感が湧いてこない。ガキのころから下品な食べ方をしてきたのが習い性となってしまったようだ(ぷりんさん、ごめんね)。
でも、キャベツを使うテクニックは、口が上品な方々にはまちがいなくおススメのシチリンでの焼き方である。
蛇足ながら、ダッチオーブンで蒸し焼きにした秋刀魚がうまいというのを信じ、キャンプで試したことがある。妙な味だった。あれは秋刀魚じゃない。
せっかくの秋刀魚を……いまだにものすごく損をしたという思いが抜けきらない。
秋は長い。
来月、もう一度、黒い秋刀魚を食べに出かけよう。