見田宗介のエッセイに「晴風万里」と「アートの人間学」と題された小品二編があります。いずれも「野口整体」の生みの親である野口晴哉についての文章です。私の知る限り、野口晴哉の体癖論を社会科学者が採りあげた唯一の例です(勿論、私が知らないだけで、他にもあるかもしれませんが)。
体癖は身体の運動特性による人間のタイプの分類であり、野口晴哉の『整体入門』などで紹介されています(私は片山洋次郎さんの著書である『骨盤にきく』と『身体にきく』で体癖論を知りました。片山さんの説明のほうが、少なくとも初心者にはオリジナルより判りやすいと思います)。
体癖には1種から12種までありますが、他と分類の基準が異なる11種(過敏型)と12種(遅鈍型)を除くと、次のようにまとめることができます(「晴風万里」より一部修正して転載)。
運動特性 活発な部位 性格特性 行動基準 体型
1種/2種 上下 脳神経系 知性型 真/偽 縦長、直線的
3種/4種 左右 消化器系 感情型 好/嫌 柔らか、曲線的
5種/6種 前後 呼吸器系 行動型 得/損 逆三角形、スマート
7種/8種 捻れ 泌尿器系 闘争型 勝/負 胴太く、がっちり
9種 閉 生殖器系 直観型 愛/憎 細く締まり強靭
10種 開 生殖器系 直観型 愛/憎 太く、ふくよか
野口晴哉は、30年に及ぶ治療歴において、100万を超える椎骨に触れ、身体反応の現象を観察してきたといいます。これらを所謂「科学的根拠に基づく医療」(Evidence-based medicine)の方法論で実証するのは困難と思われますが、圧倒的な経験的データに立脚した仮説であることは論を俟ちません。見田宗介は、これを「間身体の現象学」と呼んでいます。
実際、周りを観察してみると、人によって優先する価値基準が違うという点には思い当たる節があるかと思います。好き/嫌いで判断する人、損/得で物事を決める人、正しいかどうかにこだわる人...その人の体型や性格と照らし合わせてみると、うなずける点があるのではないでしょうか。
見田の「アートの人間学」は、体癖論を使って古今の名画に描かれた人物の特徴を解説する楽しいエッセイです。例えば、ムンクの「思春期」に描かれた少女は「9種が少し入った6種」、即ち「9種がちょっと入っていて大変旺盛なリビドー、性的なエネルギーが、6種の呼吸器の弱さに妨げられて自分の中に内攻して、純粋な憧れとか高い理想とか、潔癖な倫理観とか、そういったものに昇華する」。
また、杉山寧の「生」という作品で描かれた裸婦は、典型的な5種です。野口晴哉曰く「以前には少なかったタイプ。現代になって初めて多くなってきたタイプ」とのこと。アメリカ人は5種が多いとされます。アメリカの文化、制度、ビジネスは現実的、実用的、合理的な5種型人間を前提としたシステムになっている、とは見田の見立てです。
(今年4月、朝日カルチャーセンター新宿校で、見田先生ご自身が同じテーマで講義されました。スライドを使って名画の登場人物の解説をするというスタイルで、大変面白い講義でした。)
さて、次に知りたくなるのは、体癖論(あるいは野口整体)が見田社会学とどのような関係があるのか、ということでしょう。見田自身は2つのエッセイにおいて、直接それには言及していません。が、手掛かりのようなパラグラフを残しています。
「晴風万里」には、次のようなエピソードが引かれています。
「イスラエル人の母親が逆子で困って訪れた時、野口はヘブライ語は話せないので仕方なく日本語で胎児に「オイ逆さまだよ。頭は下になるのがまともなんだよ」と言ったら、胎児は正常に戻ったという。」
このエピソードについて、見田は
「コミュニケーションには言語的(ヴァーバル)と非言語的(ノンヴァーバル)があるが、言語に随伴する「下言語的」(サブヴァーバル)交流という領野が存在すると思う。言語が意識の交通なら、下言語は潜在意識の交通である。野口晴哉は、潜在意識の交通の達人であった。」
「経済的な「交換」のコンセプトを拡大することで、マルセル・モースやカール・ポランニーやジョルジュ・バタイユはそれぞれ豊饒な社会学の理論を展開してきたが、<気の交換>のシステムとして、潜在意識の交流し交響する空間としての「社会」の様相に光を当てるなら、また一つ新しい射程と深度とを獲得した人間世界のダイナミズムの理論が開かれてゆくだろう。」
と述べています。
社会システムは言語のみで成立するものではない。間身体・間潜在意識の社会システム論が展開されたら...と思うと、これまた楽しくもエキサイティングな試みではありませんか。