犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

効用の及ばない場所

2013-12-11 22:45:15 | 日記
生物の最も優先すべき課題は「生き延びること」であると、さしあたりは言うことができます。しかし、この考え方を徹底させると、いかに利他的な行為であろうとも、結局のところ生き延びるために役に立つから選択されたに過ぎない、という理屈に回収されてしまいます。
この理屈は、逃れようとしても執拗に追いかけてくる引力のようなものです。どのような立派な動機を持ち出しても、「結局のところそれは、しかじかの目的に役立つから」と先回りされると、反論するのは容易ではありません。
 
嘘をつくことが結局自分の利益になることがあったとしても、やはり嘘をつくのはやめようと思うことがあります。これは嘘が露見して受ける社会的信用の失墜と当面の不利益とを用心深く比較考量したからなのだ、という理屈にも繋がります。カントはこれを批判して、「普遍的法則」というものを提示しました。「嘘をついてはならない」という普遍的法則がなければ、社会的な信用の失墜も、それを恐れる気持ちも起こらないはずだというのです。
それにしても、その普遍的法則に従おうとする、もともとの動機を進化論的な条件付けなどによって、先回りして説明することも可能なはずです。ある種の効用の追求がまず先にあるという考え方です。
 
茂木健一郎さんは、このような引力から抜け出すためには、「動機や目的の置き換え」では太刀打ちができないのだと言います。
例えば、道端に横たわるホームレスと私との間には、超え難い壁があって、それぞれが確固とした「個」としてこの世界に存在すると考えるならば、次のような結論にたどり着きます。
ホームレスは自己責任でそのような姿になったのだから、自助努力によってこそ、そのような境遇を打開すべきだ。同情して手を差し伸べても結局、事態の根本的解決にならないのならば、むしろ突き放すことこそがホームレスにとっても私にとっても、合理的な選択なのだと。ホームレスと私との関係を観察する第三者がいなければ、つまり周りの評判を気にする必要もなければ、そのホームレスが緊急の援助を必要としている時でも、内心に何の痛痒もなくそう割り切って考えることができるでしょう。
効用であれ、環境への適応であれ、ある究極の目的から遡って現在のありようを求めるならば、私という確固たる存在のなかで完結する「計算」が、迷いのない結論に導いてくれるに違いありません。
 
しかし、これは日々我々が感じている、心の機微を正しく説明するものではありません。茂木さんは「確固たる私」の立ち位置からのものの見方を「個別化の原理」と呼んで批判します。そのときオールタナティブを提起するのではなく、次のように述べてそのような立ち位置を揺るがせてみせます。
 
全世界に学生運動の嵐が吹き荒れた頃、ジョーン・バエズが歌った『フォーチュン』のようなフォークソングは、明らかに個別化の原理を超えた世界を志向していた。床に寝転がる酔っぱらいも、空爆の下でおびえて暮らす人たちも、「個別化の原理」を通して「この私」から絶対的に隔絶されてしまっているのではなく、私はひょっとしたら彼だったかもしれなくて、彼が、私になっていたかもしれないのである。そのような可能性を許容し、その示唆するところについて考えることこそを、世界がどうなっているのか追究する原理問題としても、いかに生きるべきかを考える倫理問題としても大切に育んだ点に、あの頃の時代精神の矜恃はあったのである。(『欲望する脳』集英社新書 51頁)
 
孟子の言う「惻隠の心」は、一人一人の人間という「個別」にプラトン的世界の気配を感じさせる「普遍」を感じ取ることから生じるのだと、茂木さんは言います。そしてそれはこの世界の最大の驚異なのだ、とも。
先ほどのホームレスの話に戻ると、ホームレスの「顔」は突然に私の前に現れて、どのような理屈もその顔の出現に先回りすることはできません。なぜなら、その顔に不意に呼び止められるときから、倫理的な感覚は発動し始めるからです。
受け入れるにせよ、拒絶するにせよ、そこから出発することしか許されないという意味で、それは大いなる驚きに違いありません。
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