前回、親の子に対する眼差しを、円の内と外との関係にたとえて、愚考を重ねました。そこで思い出した話があります。
道元禅師は『典座教訓』という書物の中に、修行僧が食事を作る際の心構えとして大切なものとして、「喜心、老心、大心」の三心を挙げています。玄侑宗久さんが、著書(『中途半端もありがたい』東京書籍)のなかで、これをわかりやすく解説していて、もてなしの心について大いに考えさせられたことがあります。
道元は、もてなしにあたり、人は三つの心を持たなければいけないと語ります。ひとつめが「喜心」であり、もてなす側の喜ぶ心です。二つめが「老心」で、親が子どもを慈悲深く見つめる心のことを指します。三つめが「大心」であり、これは三心の要石のような重要な心です。
「大心」とは、春の鳥の声を聞いて心躍る気持ちがあっても、沢まで出ていって喜びを発散させたりはしない、秋の景色に寂しさを感じても、心の中まで寂しくなりはしない。そういう一歩退いて全体を眺める大きな心を指します。
ひとつ覚えのように、同じ道具立てを持ち出してきて恐縮なのですが、丸い円のなかにいて、子どものように心を開くのが「喜心」、円の外にいて、子を慈しむように見つめるのが「老心」だととらえ直して見ると、それは幸せな一枚の絵のように映ります。
しかし「喜心」は放っておくと、もてなしの喜びに耽溺してしまうことになりかねません。「老心」は相手を愛おしむあまりに疲弊してしまうことにも通じてしまいます。事実、ホスピタリティを目指して、消耗しきっているひとをわたしは何人も見てきました。
それでは「大心」とは何かというと、喜ぶ自分、人を慈しむ自分をも、どこかで突き放してみることで、幸せの絵のなかに「浸りきらない」構えではないかと思います。
そこで、その「大心」をもって人に接するようにするためにはどうすればよいのか。「老心」や「喜心」を何度も繰り返し経験して、言い換えればいろいろなタイプの親や子になってみることで、「あるべきホスピタリティ」というものへの執着から離れることが、ひとつの手段ではないかと考えます。
境界線の円のたとえで言うと、それが外部に通じる回路であるならば、その回路は常に更新されるべきものなのだ、という教えではないかと考えました。これもまた、ひとつ覚えの由無しごとではあります。