永田和宏の著書『地の体力』(新潮新書)に、あるホスピスで余命半年と宣告されたご主人を介護している奥さんの話が紹介されています。
その患者に解熱剤を処方するけれども、なかなか効かない。24時間つきっきりの奥さんは、看護師になぜ効かないのかを問いただします。看護師が丁寧に説明すると一応納得するけれど、翌日同じ質問を繰り返すので、ナースステーションでは「クレーマー」として問題になりかけていました。
そんな時、あるベテランの医師がやってきて、奥さんに面会しました。奥さんは同じように医師にくってかかりましたが、医師は説明をしません。そのかわり、たったひと言「奥さん、辛いねえ」と言ったのだそうです。
奥さんはそのひと言でわっと泣き崩れ、翌日からは二度とその質問をしなかったのだそうです。
その人は、きちんとした説明を求めていたのではなく、なぜ自分の家族だけがこんな目に遭うのかという不条理を訴えたかったのです。
家族が病気になったときに、自分に原因があるのではないかなどと考えます。健康に十分に配慮してあげていなかったとか、そういう合理的な理由ではなく、例えば最近の引越しがよくなかったのではないかなどという、荒唐無稽な因果関係などを引き摺り出したりするのです。
それは、どうして自分の家族がこんな辛い思いをするのかという不条理を、説明可能な世界に押し込めようとする「あがき」なのだと思います。「あがき」は次から次へと新しい説明を求めて、鎮まることがありません。
永田和宏と妻河野裕子、そしてその家族が、河野裕子の闘病とその死に向かい合って記した『家族の歌』(産経新聞出版)を再読して、永田和宏の次の文章から、しばらく目が離せませんでした。
テレビなどで、伴侶の病気を「共に背負う」という言い方をするが、私にはよくわからない。病人の無念さ、寂しさを当人と同じように担うなんて、到底できないと思う。河野が泣いて泣いて、私の知らないところで繰り返し泣きながら、今の自分の状況に折り合いをつけてきたのはよく知っている。そんな時にも、何もしてやれなかった。苦しみや悲しみを、一緒に分かち持ったなどとは、とても言えない。
いま私の心のすべてを占めているのは、河野の病状である。その不安や怖れは当人以上のものかもしれないと思う。しかしそれは、じつは、河野を失い、一人残される〈私のその後〉への不安だと気づいて、愕然とする。(前掲書 40-41頁)
どんなきれいな説明でも、この一文には敵わないと思います。肩に手を置いて「辛いねえ」と言ってもらっているように感じました。