今日のお茶席の掛軸には、可愛らしい蛤のお雛様の画に、讃として大徳寺大綱和尚の「雛の宵」という遺詠が添えられていました。和尚は表千家吸江斎や裏千家玄々斎とも親しく、和歌や茶道の嗜みも豊かであったと伝えられます。
三千歳の桃の盃とりどりに いずこも今日は仙人の宿
歌の大意は次のようなものです。
雛祭りの宵、家々で雛の宴が始まっている。三千年の長寿を与えると伝えられる桃を模った盃が酌み交わされ、いずれの家でも仙人になったような心持ちだろう。
「三千歳の桃(みちとせのもも)」とは漢の武帝が西王母という仙女からもらったという、三千年に一度花が咲き実を結ぶ不老長寿の桃を指します。めずらしく、そしてめでたいもののたとえとして使われます。
拾遺和歌集には次のような歌もあります。
みちとせに なるてふももの ことしより 花咲く春に あひにけるかな
三千年に一度花が咲いて実を結ぶという不老長寿の桃が、まさに花咲こうとする春にめぐりあったのだ、と詠っています。長く厳しい冬をようやく乗り越えた喜びをあらわすのみならず、どこか異世界へいざなう道具立てとして「桃」が使われています。
冒頭の大綱和尚の歌も、雛の宴の浮き立つような気分と同時に、あたり一面に魔法をかけられたような不思議な雰囲気を醸しだしています。
イザナギが鬼となって追いかけてくるイザナミに桃の実を三個投げつけて追い返す話や、桃太郎が鬼退治をする話など、古来より桃には「邪気」を追い払う絶大な力があると伝えられています。
玄侑宗久さんは、この邪気を払う力は、桃の「無邪気」にこそあるのだと語ります。
たとえば道元禅師は、悟りの世界を次のように詠みました。
春風にほころびにけり桃の花 枝葉に残る疑いもなし
玄侑さんによると、ここには疑うことを知らない桃の無邪気さが表れています。
春風にさらされたならば、吹き飛ばされてしまう、などと考えることもなく桃の花は無邪気にそこに咲いて、ひたすらに匂い立っています。邪気に対して邪気で対抗するのではなく、無邪気こそが強い春風に対しても揺るがない姿勢なのです。
いままで張りつめていた緊張をにわかに和ませ、魔法のように雰囲気を変える力が、桃にはあって、その不思議な力を寿ぐのが「桃の節句」である。そう考えると、冒頭の大綱禅師の遺詠は、茶席に限らず、人の世はかくあれという祈りの言葉にも聞こえてきます。
天真爛漫とは根本的に異なるようで、
無邪気と天真爛漫の使い分けに気づく大切さを
ある心理学のワークショップで話題にされたことがありましたね。
筆者様の言葉の香りはなぜか懐かしい記憶を吹かせてくれますね。