犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

見えない季節

2016-12-19 00:28:22 | 日記

内容が硬く、装丁も地味なために、本来の読者層である中高校生からは敬遠されがちな岩波ジュニア新書シリーズですが、手にとってみるとその分かりやすさとともに水準の高さに驚かされ、時を忘れて思わず読みふけってしまいます。
そのうちのひとつ『詩のこころを読む』(茨木のり子著 岩波ジュニア新書)には、珠玉の詩たちがわかりやすい解釈とともに、光り輝いています。
そのなかで、しばらく立ち止まらざるを得なかった詩がこれです。

見えない季節 牟礼慶子

できるなら
日々のくらしを 土の中のくらさに
似せてはいけないでしょうか
地上は今
ひどく形而上学的な季節
花も紅葉もぬぎすてた
風景の枯淡をよしとする思想もありますが
ともあれ くらい土の中では
やがて来る華麗な祝祭のために
数かぎりないものたちが生きているのです
その上人間の知恵は
触れればくずれるチューリップの青い芽を
まだ見えないうちにさえ
春だとも未来だともよぶことができるのです

茨木のり子さんは、この詩を青春の真っ只中にある苦しみに、重ねています。
冒頭三行は「つぶやきとも悲鳴とも忍耐ともつかない内的独白をかかえて、苦闘する」さまを表しています。

これに続く「地上は今/ひどく形而上学的な季節/花も紅葉もぬぎすてた/風景の枯淡をよしとする思想もありますが」のあたりは、『新古今和歌集』藤原定家の次の歌を踏まえているのだそうです。

み渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ

枯淡をよしとする定家の歌には、瞬間的に想起させた花や紅葉の彩りが、直ちに「不在」となるレトリックによって物寂しい世界を演出する旨さがありますが、やや理に勝ちすぎるところがあるかもしれません。
これに対して、おなじく「侘しさ」を詠んだ藤原家隆の次の歌はちがう趣きを漂わせています。

花をのみ まつらん人にやまざとの ゆきまの草の 春をみせばや

千宗屋さんが『茶 利休と今をつなぐ』(新潮新書)で述べていることですが、定家の「枯淡をよしとする」侘びの姿が、利休の師 武野紹鷗のそれであるのに対し、藤原家隆の境地は利休の侘びの姿を表しているのだそうです。定家の歌が、瞬間にイメージさせた花や紅葉が「不在」であることによって侘びを引き出すのに対し、家隆の歌は、今あるもの・ことから無限にイメージを膨らませて行く、能動的な侘びを醸し出します。そして、後者こそが利休のものだ、というのです。
真っ白な雪に埋もれた清新な世界にも、万物が生い育っていく春があり、その春を待ち焦がれる人の心にはもう既に春は始まっている。そう詠む家隆の歌は、前掲詩の後段にそのままつながります。

「ともあれ くらい土の中では/やがて来る華麗な祝祭のために/数かぎりないものたちが生きているのです/その上人間の知恵は/触れればくずれるチューリップの青い芽を/まだ見えないうちにさえ/春だとも未来だともよぶことができるのです」
茨木さんは解説のなかで「もっと豊穣なもの、たわわな色彩、躍動的なものを準備し用意しているものへの期待をあらわにしています」と述べています。詩の中段が紹鷗の思弁的、内省的な世界であるとすると、後段にいたって、利休の「能動的な美」の世界へ移行するのです。

ここで、注目したいのは、美に対する姿勢や、侘びのあり方の図式的な対比ではなく、「できるなら/日々のくらしを 土の中のくらさに/似せてはいけないでしょうか」で始まる、つぶやきとも悲鳴ともつかない独白から、一気に描ききられていることです。
理屈による救いではなく、苦悶の底にいても腹から湧き上がるような歓びはきっと生まれる。こんなに真っ暗な今だけれども、せめてこう考えることはできないだろうか、と。
後段の躍動的なくだりは、祈りのすえにたどり着くような境地にも見えてきます。

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