犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

胸の温気

2023-07-22 17:00:53 | 日記

批評家の若松英輔さんが、料理研究家の辰巳芳子さんから、ぜひ話しておきたいことがあると言って料理に招かれたときのことを書いています。今日(7.22)の日経朝刊(言葉のちから 辰巳芳子さんとの対話と『二宮翁夜話』)に載っていました。

辰巳さんは心のこもった料理を供したあと「私はずっと、何を食べるべきかではなく、食べるとは何かを考えているの」と言ったのだそうです。若松さんは、その一言に衝撃を受け、そのときの余韻を今も感じることができると書いています。
「食べるとは何か」という問いは、食材や調理方法についての情報によってではなく、その人が生きて、経験をし、そのうえで語ることによってのみ解答しうる問いです。そして、何を知っているかではなく、その問いを前にしてどう生きたかが問われるような世界を、生きているのだろうかと若松さんは自問するのだそうです。
そのうえで、そのような問いの世界を誠実に生きた先人として二宮尊徳そして『二宮翁夜話』に見出します。

四書五経のような古典は、ある人にとっては「水」となるが、多くの場合「氷」のようになっている。つまり、そのままではふれることもできないだけでなく、生の潤いになることはない。 古典には注釈書、解説書があるが、そうしたものも「氷」に連なる氷柱のようなもので、世を潤すに十分な「水」をもたらさない。「氷となった経書を世の中の用に立てるには、胸の中の温気(うんき=暖かみ)をもってよく解かしてもとの水として用いなければ世の潤いにならない。それが尊徳の読法だった。さらに彼は「解かすべき温気が胸中になく」、解釈することに終始して 「氷のままで用いて水の用をなすと思うのは愚かの至り」(『二宮翁夜話』 児玉幸多訳)であるとも述べている。

若松英輔さんがここで述べることについては、実のところ私自身、骨身に染みて感じることがあります。
私の仕事は相続がらみの案件が多く、たとえばご主人の亡くなった後の、奥さんの取得分をどの程度にすれば、第一次相続、第二次相続の合計税負担を少なくできるか、などは瞬時に計算することができます。ここに平均余命で使うであろう財産の統計数値を加味すれば、より数値を正確なものにすることができます。もうこんなことを何十年もやっているので、誰よりも手慣れたものという自負もありました。

ところが昨年、妻が病気をして本当に心細い思いをしたときに、得意げに繰り返してきたこの作業が、全部嘘っぱちに思えてきたのです。やがて来る別れに向けて、一年一年をどうやって輝かせよう、そういう祈りを抜きにして何が分かろうか。そんな祈りを、震える思いで抱いたことのない者に、どうして得意げな顔つきが許されよう。心の底からそう思いました。
提示した数字そのものに誤りはなかったとしても、傲慢不遜な態度が滲み出ていて、「氷のようなもの」であったかも知れないと、恐ろしくもなりました。

知ったこと、経験したことでも、ひとたび「胸の温気」で暖めることで、他者と分かち合うことができるのだ、と若松さんは結んでいます。私としても経験を経て悟り切ったような境地ではないのですが、「胸の温気」で暖めるためには、辰巳芳子さんが「食べるとは何か」と問うたような問いを、自らに向け続けることが必要なのだと、改めて思うのです。

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