お茶の稽古場の床の間に額紫陽花が飾られていました。
この季節に飾られることの多い花菖蒲が超然としたイメージなのに対し、紫陽花には親しみやすさとたくましさがあります。
紫陽花を英語にすると“hydrangea”となって、これは「水の器」を意味するのだそうです。
点前のときに水を汲む「水指」を連想させる言葉です。5月から半年間続く「風炉」の点前では、水指が正客の近くに寄せられるので、英語に訳してもこの時期の茶花にふさわしい花の名だと思いました。
これから梅雨の時期に入ると茶掛けには「雨奇晴好(うきせいこう)」などが使われます。出典は蘇軾の詩で、湖の風景を、「晴れてまさに好く」「雨もまた奇なり」と称えたものです。奇なりとは、珍しいという意味よりも、すぐれているというニュアンスで詠まれたのだと聞きました。
敢えて意訳すれば、晴れても素晴らしいが、雨が降るとより趣がある、となるのでしょうか。
話が飛んで申しわけないのですが、先日のインタビューで大谷翔平が「技術さえあれば、どんなメンタルでも打てる」と答えたのには、驚きました。技術が秀でているのは自他ともに認めるところでしょうが、技術がすべてをカバーするというだけの意味ではないとも思います。並外れたメンタルコントロールへの自信がなければ、このような言葉は出てこないと思うからです。
大谷が愛読する中村天風の言葉に「意気阻喪しそうになったら、そうなった原因を解消することよりも、まず意気阻喪しそうになる己の弱さを叩き直せ」といった趣旨のものがあります。しかし、そうやって理解しようとしても、言葉の強さの源泉が理解できないでいました。
そう思っていたところに、ふと「雨奇晴好」の言葉が浮かんできました。
どんなことが起こったとしても自分の生は輝かしい、いや、輝かしいものにするのだという、揺るぎない力がそこに貫かれているのではないか。そう理解すると、少しだけコメントの意味に近づけたような気がします。スポーツ力学や心理学に分化する以前の「リベラル・アーツ」の知恵の言葉だと受け取ることで、腑に落ちるような感じがするのです。
紫陽花が「水の器」と呼ばれるのは、一般的な花よりも気孔の数が多く、多くの水を必要としているからなのだそうです。紫陽花が、多雨の時期に合わせて、みずからの姿を変えてきたのかと思うと、ここにも命の限りない強さを感じます。