河合隼雄の思想のキーワードのひとつに「たましい」があります。漢字で書く「魂」とは注意深く区別された、実体もない、時間、空間によっても定位できないけれども、その働きを確かに体験するものを、そう呼ぶのです。
若松英輔の新聞連載「言葉のちから」(日経朝刊7.29)に次のような河合隼雄の文章が載っていて、しばらくこの言葉について考えさせられました。
ユングのところによく治療を受けに来たと言われる、社会的に成功し、物質的には何の不足もないのに、生きてゆく気力がまったく無くなったような人たち これはたましいとの接触を失った人と考えてみてはどうであろうか。
とても難しい問題ですが、これは決して抽象的な空論ではありません。同じ悩みを抱えている人は私の周りにたくさんいて、私もまた無縁ではない切実な問題です。実はこのくだりを読んでいて、ぞっとする思いがしました。
河合隼雄は別のところ(『出会いの不思議』)でこんなことも言っています。背の高すぎる人は高すぎることを気に病み、低すぎる人も同様で、平均的な人は目立たないのを残念がっている。統計や平均値がすべての人を悩ませているのだが、仮に「たましい」というものを立ててみると、平均病とは縁が切れるのではないかと。
そしてこんなことも書いています。心理療法をやっていて「わかった」と思うときが最も危険で、「わからない」という窓を常に開けておく必要がある。多くの場合、その窓から解決が訪れるのだと(『物語とたましい』参照)。
我々は他人との比較で基準を設け、それより上だとか下だとか言って一喜一憂しているし、その基準でもって「わかった」つもりでいて、そのことが問題の解決から遠ざけています。河合隼雄は、人間が勝手に設けた基準で自分自身を測ろうとして、どうしてもこぼれ落ちてしまうものを「たましい」と呼んだのだと思います。
河合はこんなことも言っています。人間がたましいをもっている、というよりは、「たましい」のなかに人間が存在している という方が適切だ、と。
そうだとすると、「たましい」をとらえることなど、我々には不可能で、「わからない」という窓を開けておくことで、「たましい」の声を聴くことしかできないのでしょう。
もっと具体的に考えてみます。たとえば、自分の限界を超えるような挑戦をしたり、とんでもない無茶振りをされたりして、通常のものさしでは測れない事態に遭遇したとき、人は否応なく「たましい」に触れるのではないでしょうか。そのとき「わからない」という窓は大きく開かれていると思うのです。