生活スタイルの多くが、コロナ禍前に戻りつつありますが、茶道の作法については、いまだに大きな制限がついています。濃茶の回し飲みが、稽古や茶会では解禁されておらず、ひとり一服ずつのお茶を点てる「各服点て」が原則となっているのです。こんなことがいつまで続くのだろうと稽古の席で話しながら、もう3年半が経ってしまいました。
いまかりに本来の作法を再開すると、正客は次客、三客の三人分のお茶の入った器を持って、その重さに驚くことでしょう。そして器の深さに改めて気がつくのではないでしょうか。たっぷりのお茶を入れて覗き込み、口に運んで初めて、器の深さは実感することができるように思います。
濃茶の醍醐味は、覗き込むように深い器に入れた、両手のひらに重さの伝わるお茶を、手渡しながら分かち合うということでした。
利休の時代に始まった回し飲みの作法は、カトリックにおける「聖体拝領」の儀式の影響かもしれないという説も、こうしてみると説得力があるように思います。差し出された「深く」「重い」ものを「分かち合う」ということにおいて。
毎週楽しみにしている若松英輔さんのコラム『言葉のちから』(日経8.19)に、力量と器について論じているのを読んで、改めてそんなことを考えました。若松さんが若い頃、吉本隆明と何度か話し合う機会を持ったとき、吉本がしばしば口にして印象に残った言葉として「力量」があります。
それは訓練や学習を積むことでは獲得することのできない、その人が、その人の仕方でしか発することのできないエネルギーのようなものと若松さんは理解しました。そして力量という言葉と同じニュアンスを含むものとして「器量」や「器が大きい」という語を挙げます。そして器について、次のように語ります。
人間が成熟していくとき、「器」と呼びたくなる何かを内に蔵さなくてはならないらしい。
ここでいう「器」は、鉄製の頑丈なものでなく、乱暴に扱えば欠けてしまう繊細なもので、皿のように平たいものでなく、深みをもったものでもあるのだろう。私たちはそこに、ほかの人の目には見えないところで流した汗や涙を蓄える。それがいつしか清水となって私たちの内界を浄化し、育むのではないだろうか。
戦国時代に始まり、現在に至ってもなお、表現しがたい熱情をもって一個の茶碗を求める者たちがいる。動機や理由、目的もさまざまであることは歴史が証明しているが、なかに美しい茶碗の訪れを、己れの成熟した心の顕現であると捉えた人たちがいたことも事実である。
成熟した器の持つ「深さ」と、そこに蓄えられるものの「重さ」について、ここで触れられています。
私はここに、その器に蓄えられたものを分かち合うことを、「器量」の重要な要素として加えたいと思います。気前のよさや鷹揚さといったものに通じる、大人(たいじん)の風格です。そして、コロナ禍で見失われたもので、見過ごすことのできないもののひとつとして「分かち合う」ことがあると思います。
その人の器に「深さ」と「重さ」があって、その器を「分かち合う」ことができるというのは、その器の深さや重さについて、まわりの人が思いを馳せてしまうということではないでしょうか。濃茶の回し飲みはまだ先のことかもしれませんが、すぐ側の人の器に思いを馳せることは、もう解禁だと思います。