少し前のNHK「クローズアップ現代」に桑田佳祐が登場し、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を自作の訳詞で歌っていました。桑子アナのハモリも話題になった放送です。
そのなかで桑田は、「答えは風に吹かれている」という詩の意味が、若いころと今とでは違ってきていると語っていました。昔は「答えはおのおのの心のなかにある」という風に理解していたものが、「答えなんてどこにもない」と解するようになった、と。
どれだけ多くの死者が出れば
あまりにも多くの人が死んでしまったと
気が付くの?
この歌詞のあとに続く言葉が「答えは風に吹かれている」であって、これが60年代のプロテストソングならば、おのおのの心情に対する呼びかけであったのでしょう。しかし、現在の状況からは「答えなんてどこにもない」と感じるのが自然なのかもしれません。
ボブ・ディラン自身は1962年に歌詞が掲載された雑誌「シング・アウト!」に、次のようにコメントしています。
この歌についちゃ、あまり言えることはないけど、ただ答えは風の中で吹かれているということだ。答えは本にも載ってないし、映画やテレビや討論会を見ても分からない。風の中にあるんだ、しかも風に吹かれちまっている。ヒップな奴らは「ここに答えがある」だの何だの言ってるが、俺は信用しねえ。俺にとっちゃ風にのっていて、しかも紙切れみたいに、いつかは地上に降りてこなきゃならない。でも、折角降りてきても、誰も拾って読もうとしないから、誰にも見られず理解されず、また飛んでいっちまう。(Wikipedia「風に吹かれて」)
21歳のディランにとって、答えは風にのっていて、いずれは地上に降りてくるけれども、そのときには誰にも理解されない、そういうものでした。つまり、風に吹かれて漂っているときにこそ、答えは命を宿し、地上に降りるやたちまち色褪せるようなものだったと思います。
そうだとすると、「答え」は「問い」と同じスタイルで返されるものではなく、風のような厳しい現実に揉まれている間だけ、答えでありうるとも理解することができるのではないでしょうか。
ボブ・ディランは先のコメントに続けて次のように言います。
世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ。俺はまだ21歳だが、そういう大人が大勢いすぎることがわかっちまった。
「答え」はおのおのの心の中に、あらかじめ準備されているものでもなく、また探そうとして見つかるものでもない。「間違っているものを見て、目を背けない」という姿勢のなかで、その都度見えてくるものなのではないか。
桑田佳祐の「”同級生”と平和を歌う」というアクションも、その意味では立派な「答え」だと思います。