床の間に「松無古今色」(松に古今の色無し)の掛け軸をかけ正月を迎えました。
松には古葉、若葉の入れ替わりはあっても、季節を通じてその翠を保ち、年月を経ても変わることはありません。変わらぬ松の翠を、変わらぬ家族の安寧、親しいひととの変わらぬ交誼などと重ね合わせて、将来に想いを馳せるのです。
しかしながら、この語は対句をもって表現されます。
竹有上下節
松無古今色
(竹に上下の節あり、松に古今の色無し)
上句の「上下の節」とは、普通、儒教的な礼節のことを指していると言われます。そして、上下の区別のような世の中を成り立たせるための約束事がありながら、そうやって立ち上がる竹という命の節の上下に差別はなく、松の変わらぬ翠のような生命を輝かせているのだ、というように解釈されます。
そのように解しても十分に含蓄のある言葉ですが、竹の節を礼節ととらえるのではなく、「人生の節目」ととらえる玄侑宗久さんの解釈が、私は好きです。
自分にとっての大きな節目。たとえば親の死。自分の入院。大切な人との別れなど。そんな人生上の節目は、成長途上にどうしても必要な試練と思える。そういった節があるからこそ柔軟に曲がれるわけだし、しかもそこからしか枝は生えない。哀しく辛いとき節ができるほどに悩み苦しめばこそ、新しい枝がそこから生えるのではないだろうか。
(中略)
風も、別れも、あるいは自らの病気も誰かとの死別も、全て「希望」と共に受け容れることで佳いご縁になるのではないか。
因果律だけでは理解できない突然の出来事も、そうして受け容れる人こそ君子なのであり、そこにこそ涼しい風が吹き渡るのではないだろうか。(『禅語遊心』ちくま文庫 110頁)
自分の思いとは無関係に人は行動するもので、こんな間尺に合わない話はないという出来事に人生は満ちています。不慮の事故による大切な人との別れなど、どうしたって納得できないことでしょう。いずれ誰かがどこかで辻褄を合わせてくれることなど決してない、どうしようもない不条理に満ちているのが人生です。
それでも、そういうことを全て含めて「希望」と共に受け容れることができるのならば、人生の景色は変わって見えるはずです。
そうして見た松の古木は、深い翠をたたえており、わたしはこうして希望とともに生きていると語りかけてくるのです。
そこまで考えて、こんな話を思い出しました。
アウシュヴィッツから奇跡的な生還を果たしたフランクル博士は、余命わずかでありながら、収容所の中で希望を失わなかった女性のことを記しています。彼女は病室の窓から見えるカスタニエンの樹が、こう話しかけてきたと述べています。
私はここにいる―私は―ここに―いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ。
諸行無常を腹の底から徹底して合点し、どんな不条理にも心折れることなく、そうして深い翠をたたえていたい。年頭にあたりそう思います。