心理学者の河合隼雄さんがよく用いた言葉に「アイデンティティ」があります。河合さんはこの言葉を便利なツールとして使うのではなく、この言葉をとば口として思考を触発するため、あるいは、この言葉ではどうしてもとらえきれない余白のようなものに感覚を研ぎ澄ますために、敢えてこのあいまいな言葉を使っていたように思います。
個人としての私を生かすということと、社会のなかで承認されるということの二つがうまく折り合いがついてアイデンティティが確立するのだとすると、「老人のアイデンティティ」はどうなるのか。河合さんが問題にしたことのひとつです。
歳をとって仕事をリタイアし、それほど社会と関係しなくなり、友人も死んでいって、子や孫たちとも疎遠に過ごしているお年寄りにとって、アイデンティティを語るきっかけさえなくなってしまいます。
アイデンティティを職業や、家族や、地域社会との支えあいのなかで考えることは大事なことだけれども、それらは全てなくなってしまう可能性があるものです。これはお年寄りだけに言えることではないでしょう。
東日本大震災ではまさにそのようなことが現実に起こりました。震災後6年たって地域社会が復活する見込みすらない集落の様子も報道でとりあげられています。
要するに、アイデンティティといって納得しているようでも、それは宙に浮いているのと同じなのです。
私を「私」たらしめているのは何なのか、何が私を支えていると考えれば、腑に落ちるように納得できるのか。河合さんは安易に答えを出してはくれませんが、考えるためのヒントを与えてくれます。
講演やインタヴューをまとめた『私が語り伝えたかったこと』(河出文庫)で、河合さんは柳田国男の著作のなかの面白い話を紹介しています。
柳田国男の『先祖の話』のなかに、「自分はそのうちにご先祖様になるんだ」と語っている老人が登場します。そのひとはすでにご先祖様とつながっていて、自分もそのうちご先祖様になると言いながら生きているその様子を、柳田国男は感動して見ているのです。
その老人にとって、職業などはアイデンティを支えておらず、いずれご先祖様の一員になるという一念がアイデンティティになっています。
河合さんは、柳田国男が研究の対象とした古い話や古い民具が、実のところわれわれのアイデンティティを支えていて、その収斂していったものが「ご先祖様」なのではないかと考えます。そうすると日本人はご先祖様とどうやってつながってきたのだろうかという問いにつながっていきます。
河合さんの語るところを離れて、柳田国男の著作に注目してみます。
『先祖の話』が書かれたのは、昭和20年の4月から5月にかけてで、ちょうど東京大空襲の時期と重なります。死者を祀る人々もまた、累々と続く死者の列に加わることを、柳田自身が痛烈に感じていた時期であり、その経験が『先祖の話』を書かせたとも言えます。
抽象的な「ご先祖様像」を思いえがいて、ご先祖様とのつながりを頭の中で組み立てたのではなく、生きているこちらの方が死者の列にリアルにつながる経験のすえに、「ご先祖様」という言葉に結晶していったと考えるべきではないでしょうか。
現在のわれわれにとって、死者につながる身近な経験として、東日本大震災があります。
岩手県大槌町の「風の電話」には、震災で死に別れたひとと話をするために、今でも多くの人々が訪れているのだそうです。亡くなったひととのつながりで、ようやく支えられるアイデンティティというとき、思い浮かべるすがたのうちのひとつです。
周期的な大規模災害にさらされるということは、そのつど死者の列がわれわれの前に具体的に立ち現れるということでもあります。死者とリアルにつながる経験があって、はじめてそれによって支えられている感覚も息づくのだと思います。
河合隼雄さんが今日生きていて、東日本大震災後のアイデンティティをどう語っただろうか、『私が語り伝えたかったこと』を読んで、そう考えました。