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キリスト教と法華仏教(8)に寄せて:【国体文化】掲載記事への返答―本当のキリスト教を理解するために―

2021年06月10日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
キリスト教と法華仏教(8)に寄せて 
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

キリスト教と法華仏教(8)に寄せて

ご丁寧に山川説を紹介してくださり、ここに感謝の意を表したい。
本稿において、手短かに、三位一体に関するもう一つの「おさらい」を簡単にさせていただくとともに前もって質問もさせていただきたく思う。

聖書の和訳問題
福音書を直接引用していただけたことはとても良かったと思う。今後の考察のよすがにもなると思うからである。そのさい注意しなければならないと巷間よく言われるのは、どの和訳を使うかという問題である。相澤先生は共同訳を利用されたかと思うが(それは一番正式に見える和訳なので自然な選択ではあるが)、この共同訳には多くの問題があると指摘されている。

というのは、プロテスタント主義と妥協した形で、カトリックの本来の教義を曖昧にさせたり、時には否定したりすらする明らかな誤訳も多々あるからである。例えば、「地獄」ではなく「黄泉」としたり、「天主」ではなく「神」としたり、「イエズス(ラテン語により近い)」ではなく「イエス(日本語訳では歴史上にプロテスタント系)」としたりなどがあげられる。そのほか、敬語などの問題や論考に出てくる「悟らせる」という翻訳も疑問である。

本来ならば福音書を含む新約聖書はラテン語とギリシャ語で書かれている原文を参考にしながら、和訳を見るのがいいが、それには無理があるのは承知している。個人的には講談社のバルバロ訳をよく使っている。注も多くて、歴史背景や翻訳に当たる補足説明も付属しているので便利であるからである。また、典礼用の和訳よりも読みやすいうえに、プロテスタントのいう「無礼」にもならないからである。

ご質問
相澤先生の論を毎回読んで、山川説を継承していることがわかった。それで山川博の著作を紐解いたのだが、参考文献のリストが見えなかった。そこで、どういった文献にもとづき、聖書を説いているか、あるいはキリスト教について判断しているのかを知りたいと思った。ユニテリアンの問題なども出てくるが(無論、その極端説は否定されているかと思う)、しかしながら、こういった立場はかなりドイツ系あるいはアメリカ系のプロテスタント内部での議論と相まって書かれたのであろうか。山川先生はキリストの実在を肯定して(それを否定することは学問上に無理であるので最もなことだが)、また三位一体に特に注目されている。これは興味深いことである。というのは、どういった著書から三位一体を理解したのか?邪説も入っているので、カトリック系のものは少ないだろうと感じたが、実際のところはどうだろうか?

というのも、相澤先生の仏教に関する解説を読んで深く感じたのは「仏教」といっても、無数に宗派はあって統一性は歴史上一度もなかった。この点はプロテスタント諸派と似てはいる。ただし、大きな違いはカトリックという正当な存在に類する存在は仏教においては過去存在していないことも興味深かった。

加えて、本体一仏教?においてですら、汎仏教的な性格が濃厚で、「本尊」もバラバラであることにも驚いた。
つまり、ありていにいうと、明治維新になってから、西洋との接触によって起きた日本における諸宗派の危機を乗り越えるために、西洋にあったキリスト教を比定させることにより、日本の諸宗派を再編成する試みであったと思ってならないのである。つまり歴史も浅い上に、それぞれの「説」に依存しながら、それぞれが当時西洋において流行だった「定説」(しかしながらドイツ系は強くて、反カトリック的なところが濃厚であるという)を受け入れつつも、その実、キリスト教の全体像も、歴史過程もよく把握できていなかったように思われる。それは当時の学者たちに責任をすべてかぶせるのは適当ではなかろう。なぜなら、当時西洋の第一次史料をみることができなかったし、歴史上かなり革命的な近代的な思考を展開していたドイツ系の学派の強い影響があったからである。

三位一体の再度のおさらい
カトリック教会はイエズス・キリストの復活後に制定された。キリストはご自分の教えを弟子に託して、それを守り、布教していくように命じた。相澤先生も引用する有名な一句である。
「私には天と地のいっさいの権威が与えられている。行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ、28,18-20)

ここで二点について注意を頂きたい。正統なるカトリック教会は以上の一句にも見られるように、また他にも多々出るように、イエズスによって制定されて、正式に「イエズスの教えを預かった」ことである。聖ペトロが教皇になることも、司教たちが存在すること、つまりこの位階制が存在することも、ミサをはじめそれぞれの秘跡なども、また霊的な生活のための基本的な戒律なども、すべてイエズスご自身の御言に由来する。いわゆる「統一させる」ためにとか、「利益を得るために」ということではなかった。これを示すのは、使徒全員が殉教死を遂げたこと(福音作成者のヨハネも一応迫害を受けて、殉教死の寸前に奇跡的に救われた結果、自然死を遂げた)や、少なくとも4世紀まではキリスト教(ひいてカトリック)徒になるのは殉教死切符だったということからも明らかである。ローマをはじめ、それぞれの部族も含めて、貴族層から奴隷まで、かなり多くの違う人々は回心していったという事実がある。


それはさておいても、三位一体はやはり事後にできた「説」ではなくて、もともと聖書の中にあったからこそ、三位一体という教義は早い段階で明記されたのである。また、使徒たちはそれをよく知っていて、キリストの本質に関する異端説が出始めると、カトリック教会は最初から徹底的に戦った。そうしても何の利益がなかったのにもかかわらずである。いや、逆に権力者たちの多くはアリウス主義者あるいは他の三位一体を否定する異端説を提唱していたことから考えると、三位一体を守るのはむしろ「自殺行為」に近かったと言えるだろう。

また、このような人間の理性が理解できない三位一体という玄義になぜそれほど執着したのだろうか?これこそ信仰を抜きにして理解不能である。異端説も出たのはむしろ驚かないことであろう。三位一体はまったく人間の発想ではなく、まさに天主のみが啓示できるような理解不能な教義なので、天主の天啓を無視した人間の理性にとってよりわかりやすい何らかの説として思いついたのがそもそもの異端説の端緒にあったということは想像に難くないだろう。

ここでいいたいのは三位一体を信じよということではない。信じるためには、本人の意志の行為が必要であり、つまり自由意志を利用して、イエズス・キリストに信用しようと決意することにあるので、最終的に本人次第である。ここで強調したいのは、三位一体は単なる説ではなく、構造でもなく、全聖書に最初から織り込まれている根本的な教義でありながら、イエズス・キリストが到来して初めてこの教義があるということを知らされたということである。というのも、単なる人間の能力では理解できない、なつかない教義なので、イエズスや旧約聖書の長い準備がなければ、このような真理を言われてもだれも気付かなかったからである。

さて、では簡単に聖書における三位一体を語るところを見ていこう(主な文書に限って。)
まず、以上の一句に戻ると、「聖父と聖子と聖霊の名によって」という文章に三位一体は現れている。残念ながら、和訳ではそのニュアンスを正確に反映できない。というのも、単数形と複数形との区別が日本語にはないからだ。原文では、「聖父と聖子と聖霊」という三つの複数の名詞があるのに、「名」は単数形である。つまり文法上愚かな誤りであるが、それは誤りではなくてわざとそういう風に書いているのである。


福音書だけではない。創世記からもこのようなことが見てとれるのである。創世記の最初の一句に「神々は天と地をつくられた」という一句がある。普通の翻訳では「神々」ではなく「神」となる。しかしながら、Elohim(神々)という言葉はもともと複数形でありながら、造られたという動詞は単数形となり、文法上に誤っていることになる。しかし、これも誤りではなく、あえて三位一体を表しているのである。すなわち、唯一なる神でありながら、神の内に一つだけではないということである(他に、創世記、1,25-26。創世記、3,22)。あとはヨハネ、20,29(またヨハネ、14,16)などにもある。あるいは詩編109,1-3やイザヤ、6,3でも一般的に取り上げられている。

ちなみに、ヨハネの福音書は他の福音書と違うように見えるのは、起筆の時期と目的の違いからくる。つまり、一番若かった使徒であるヨハネは晩年になって、他の三つの福音はすでに書かれていたが、異端説が出始めて、それを未然に防ぐために、聖霊などの指示もあって、他の福音書においては書かれていないイエズス・キリストの御言や行為を記しておくようにしたのである。初代教皇であり、イエズス・キリストの使徒であり、聖マルコの福音書の基である聖ペトロの書簡もそれを明記する(ペトロの第一の手紙、1,2)。
そして、現代まで、カトリック教会はこの教義を絶えまなく、正式に、公会議、教皇の教書なりを通して、ずっと繰り返し断言していったのである。

結論からいうと、キリスト教において「敷衍(ふえん)」することはなかった。最初からすでにカトリック教会は成り立っていて、そのあとの作業はいわゆる二次的なものに過ぎず、攻撃されたら教義をさらに明確にしたり、典礼を強化したりするものだったが、根本的な部分は全く変わっていない。聖人たちの人生を見ても、場所と時間こそどれほど違っていても、皆、同じ宗教であることがよくわかる。

結びに代えて
山川先生は三位一体こそがキリスト教の重要な教義であることに気づいておられ、慧眼といえる。また、このようなところにカトリックの普遍性があることに気づいておられ、それを日蓮仏教へ移植しようとしたという風に見えている。問題は形式的に構造だけを移植したところでは全然成り立たず、イエズス・キリストの生命を引き継がない限りは同じ実を結ぶことはできないのである。だからこそ、イエズス・キリストその人を受け入れない限り、「世界宗教」などにはならないという。
この意味でも、イエズスを通じなければ、救いはないと確信する。

日本らしさはグローバリズムによって完全に食い込まれないようにすべきで、日本の固有性を守りながら、本物の普遍性を持つカトリックへ帰依するしかないのではないのか?
また、明治維新より、アジア主義にもみられるような普遍主義(普遍性)と特有性(日本主義でも)の間にあって多くの先人たちが悩んだと見ている。これは西洋にある「普遍性」をどうにかして移植しようとすることから来た悩みだったかもしれないが、問題は本物の、破壊的ではない普遍性は唯一にカトリックにおいて、イエズスにおいてあるのみだということに理解が至っていなかったことにあるものと思われる。
そうではない俗にいう普遍性では固有の伝統文化を否定し、果ては誤った普遍性による全体主義にも陥ることになるのではないだろうか?


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