ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

苦行の力

2021年09月29日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(Billecocq)神父様の説教  
苦行の力
2021年06月24日  洗者聖ヨハネの誕生
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、本日は典礼上も稀なことに、ある聖人の、洗者聖ヨハネの地上での誕生を祝います。普通は聖人を祝う時、その亡くなった日であり、つまり天国に生まれた日を祝います。つまり聖人の超自然上の誕生、もはや失わない永遠の栄光を得た日、聖寵に生まれた日を祝うのです。

地上に誕生した日を祝うのは、三人だけです。ご存じのように、イエズス・キリストのご降誕、9月8日聖母マリアの誕生と本日の洗者聖ヨハネの誕生です。これは特別なことです。イエズス・キリストは原罪を負っていないわけで、聖母マリアは原罪から守られたわけで、洗者聖ヨハネは母の胎内にいた時、(キリストによって)原罪を清められたわけです。



ですから、洗者聖ヨハネは誕生した時、もはや原罪という汚点はなかったので、教会は聖ヨハネを祝うのです。もちろん、洗者聖ヨハネは誕生した時からこの上なく聖徳に満ちているので、我らの目から見て無比に見えるかもしれませんが、洗者聖ヨハネは我々にとって模範となり、倣うべき模範です。で、現代、実際に実践すべき模範です。

本日の福音書にも話されていますが、ミサ聖祭の最期の福音書、いわゆる福音書の「序」においても示されています。
「Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Joannes.」(ヨハネ、1,6)「天主から使わされた一人の人がいた、その名をヨハネといった。」
「Hic venit in testimonium perhiberet de lumine, ut omnes crederent per illum.」(ヨハネ、1,7)「彼は證明のために来た、光について證明し、またすべての人が、彼によって信ずるためであった。」光とは真理です。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、このように我々は聖ヨハネに倣うべきです。聖ヨハネはつまり、メシアを知らなかった世における光でした。あるいはメシアを確認することのできなかった世の中の光でした。聖ヨハネは具体的に、イエズスを指さして「彼は天主の羊である」と宣言しました。言いかえると「彼は救い主であり、また生贄ひいては犠牲者であり、贖罪によって天主の御赦しを得しめて、人々のために天国の門を開け給うメシアだよ」という意味です。

要するに、洗者聖ヨハネはメシアとなる我らの主、イエズス・キリストを具体的に指さしてくれました。我らの主は歴史の最後に私たちを裁くために再臨しますが、我々も聖ヨハネのようにイエズス・キリストを指し示さなければなりません。聖ヨハネと違って身をふるって指をさすことはできないものの、精神的にいくらでもできて、やるべきです。

このように洗者聖ヨハネに倣いましょう。つまり、彼に続いて、我々も光の證明者となるべきです。彼に続いて、現代の暗闇の内に生きている我々は光について證明しなければなりません。そして具体的にどうすればよいでしょうか?洗者聖ヨハネと同じやり方ですればよいのです。つまり、言葉を通じて、それから行為を通じて。

言葉をもって、洗者聖ヨハネは悔い改めの洗礼を宣言していました。そうすることによって、メシアの到来の準備をすると教えていました。また、きっと、洗者聖ヨハネは聖書の知識も高くて、ユダヤ人たちはメシアが来たら誰であるかを知ることができるように教えていたのです。



私たちも言葉をもって、常に周りの人々にイエズス・キリストについて話せるようにすべきです。イエズス・キリストへの我々の愛を示さなければなりません。我らも光について證明しなければなりません。ですから、イエズス・キリストを知っていることを示しましょう。そうすることによって、我々はイエズス・キリストを愛していることも示されるでしょう。

このように、知らない人々のために、道を探している人々のために、迷っている人々のために、彼らにイエズス・キリストのことを喋ってあげなければならない、イエズス・キリストについて示さなければならないわけです。そして、そうすることによって、少しずつ彼らもイエズス・キリストへの愛に導かれるように。これは洗者聖ヨハネに倣うための第一の方法です。

第二の方法は実践をつうじてです。ある諺がいうように、「言葉によって感動するが、行為によって心に届いて捉えられる」。このように、洗者聖ヨハネに倣うためには、光について証明するだけではなく、イエズス・キリストの光によって満たされて輝かなければならないわけです。我らの主、イエズス・キリストの光によって、我々の行為は輝かならなければなりません。

さらにいうと、具体的に二つの種類の行為を特に洗者聖ヨハネが実践したのは、慎みと苦行です。このような実際の行為によって我々の周りにいる迷っている人々を啓蒙する、照らしていくわけです。つつしみと苦行という聖徳は近代人がもはや忘れたわけです。というのも、近代になって、人間を天主にしているからです。あるいは、人間を天主にしなくても、少なくとも天主との対等な存在であるとされています。



このように、天主様に対してもはや我々は責任がないかのような誤解を信じ込んでいる時代となりました。まさに、傲慢という罪に他ならなくて、広くこの世に浸透してきています。そして傲慢の罪こそはその他の多くの罪を産んでいきます。その源泉です。

洗者聖ヨハネはイエズスを指し示した時、言いました。「私はその履物の紐を解く値打ちもない」(ヨハネ、1,27)と言ったとおりです。また、「彼は栄え、私は引き去らねばならぬ」(ヨハネ、3,30)と洗者聖ヨハネはいいました。洗者聖ヨハネの謙遜さはそのような言葉で要約されています。我らも、あえて言えば、イエズス・キリストの内に自分の身を隠すことによって、我々が透明になるかのようにイエズス・キリストは透けて見えるように努力しましょう。

慎み深くして、謙遜でいられるということは、我らにとって、自分の本来の身分、つまり被創造物に値する相応しい地位のままで生きていくということです。信徒にとって、謙遜に生きるということは、常に天主の内に生きることであって、また天主なしに何もできないことをいつも思い出すことです。このような想いで生きていけたら謙遜に居られます。我らにとって天主は全てであることをよく知り、思い起こし、自分だけでは何でもない、惨めなぞんざいであることを常に知り、生きていけたら、はじめて本当に謙遜を実践していくようになります。



そして、このように生きていくと、自然に無意識にも周りの人々はその謙遜さをみて心にふれることとなります。謙遜というのは、天主の前に自分を引き下げて、へりくだるのですが、地上では力となっていきます。もしかしたら、皆様も経験したかもしれません。友達あるいは同僚からの何らかの言葉で分かったかもしれません。いわゆる、謙遜を実践することによって、天主は自分自身の代わりになっていくかのように、輝かしい力が溢れていきます。全能なる天主はつつましい人々のためにこそ助け給うのです。

そして、洗者聖ヨハネに倣うための二つ目の聖徳は苦行です。言うまでもないのですが、洗者聖ヨハネはこの上なく苦行を行った聖人です。福音書はその苦行の姿を強調しています。ですから、洗者聖ヨハネに我らも苦行を成せるように願いましょう。苦行の内に生きていられるように願いましょう。

現代は快楽の世界となっています。豪楽、娯楽、享楽、快楽主義、物質主義の世界となって、この世は感情、五感、感覚を満たすために邁進していて、溺れているのです。瞬間に容易に何でも手に入れるといって、自己犠牲ができなくなっている世となっています。物事を見捨てることができなくなる世となっています。我らはこの世と反対すべきで、これと全く逆の世界を示さなければなりません。



我らの苦行の実践によって、この世と戦うために、自己犠牲して、自制できて、快楽を見捨てて断つように。そしてこのような抑制と自己犠牲においてこそ幸せになっていくことを證明しましょう。というのも、地上のことを見捨ててれば見捨てるほど、天主を享受していけますので、どんどん幸せになっていきます。また、この世の物事を見捨てて悲しみを感じれば感じるほど、天主はその報いとして喜びを与え給うのです。

このように、苦行をすればするほど、確たる喜びになっていきます。というのも、苦行という時、この世の何らかを見捨てるという負の側面がありますが、同時に、正の側面もあります。正の側面は地上の物事の拘束から解放される分、天主は我々の霊魂においてより完全に居を構え給うことになります。そして、そうすることによって、天主の喜びと平和の内に生きていかれます。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々も真理について証明しましょう。我らの主、イエズス・キリストの証言者、証明者となりましょう。洗者聖ヨハネのように、イエズス・キリストへの道を示していきましょう。ご聖体への道を示していきましょう。そしてその道の目的地は天国です。

また聖母マリアに願いましょう。毅然とした態度でいられるように、また善いタイミング善い言葉を言えるように聖母マリアに祈りましょう。また、謙遜と苦行が実践できるように謙遜の皇后である聖母マリアに祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


選ばれた巌、選ばれた器

2021年09月23日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
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クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様の説教  
選ばれた巌(いわお)、選ばれた器(うつわ)
2020年07月04日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、今朝、聖ペトロと聖パウロの記念ミサを祝うことになっております。殉教死を遂げられたこの二人の大使徒を黙想しましょう。二人とも超自然の友情の絆によって密接に結ばれていて一致していました。典礼においても聖ペトロと聖パウロはいつも一緒に祝われている所以です。
自分の命をお捧げして、投げることによって、二人はカトリック教会の二つの柱となりました。

まず、聖ペトロから。最初はシモンという名でしたが、イエズスは彼を呼び求められたとき、つまり召命の時に、彼を改名されました。ヘブライ語の「ケファス」となりますが巌という意味です。はい、このようにペトロは巌となりまして、地獄の門は勝利しないだろうという巌となりました。ゲネサレ湖にあるベツサイダの村に生まれました。彼の兄弟なるアンドレとヨハネとともに、イエズスの最初の弟子に数えられています。

魚の奇跡的な漁を経て、人々の霊的な漁をするようにイエズスによって呼び求められました。そして、我らの主、イエズス・キリストが制定しておられた教会の礎として聖ペトロを選び給いました。イエズスはご自分の全部の群において、聖ペトロに権威上も権限上も優位性を与え給いました。地上において天主の御子の目に見える代理人として、至上の牧者としてイエズスはペトロを親任なさいました。

それから、ペトロはいつもイエズスの傍にいまして、イエズスによっていつも特別に扱われてその優位性を強調しておられます。ヤイロの娘を蘇らせる時あるいは御変容の時などの時に強調されますし、イエズスのご苦悶の際、ゲッセマネ園の時にもペトロはいます。聖ペトロは激烈な性格の持ち主であった分、言葉においても行いにおいても性急によく軽率な行動をしました。また、主を三度も否認されたのはそののち、慎みの教訓となりました。救い主のご昇天の後、聖寵によって強められて変貌した聖ペトロは真理の番人となり、真理の兵士となり、実践と命の威信のある教会の頭となりました。先ほどの朗読にあったように、ペトロは「地上でつなぐものはすべて天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれる」(マテオ、18,18)。


聖ペトロはまた、聖霊降臨後の最初のお説教を述べ、最初の異教徒の洗礼を授けます。百人隊長コルネリウスです。7年間ほど、アンティオキアで布教して、そのあと、司教座をローマへ移しました。当時、ローマは異教世界の都でした。ローマでのペトロの司教活動は25年間続きました。42年から67年までです。在位の間、熱心な信仰を示し、不動の望徳に溢れ、天主と霊魂のために激烈な愛徳を実践されました。というのも、聖ペトロは燃えるような熱心に溢れていたからです。不正、誤謬、罪に対しても燃えるように激烈に踏ん張り、戦っていました。また同時に隣人たちの精神上と身体上の苦しみをこの上なく憐れんでいることでも有名でした。また、試練を受けていた時、聖ペトロはいつも静謐にして喜ばしい心でいられました。天主の御栄光のために、人となり給う天主、イエズスの御血によって贖われた霊魂たちのために何の苦しみをも惜しまなかった聖ペトロです。

そして、ネロ皇帝が始めた激しい迫害の時が来ました。このおかげで大勢の殉教者が輩出していきました。そしてこれらの殉教者の内に一番貴い生贄は聖ペトロと聖パウロの大使徒たちでした。二人とも67年6月29日、同じ日に死刑執行されました。その前、数か月ほど、カンピドリオのマメルティヌスの牢獄で過ごされました。テベル川の向こうで主に倣って同じく磔刑で殺されました。ただし、慎み深い弟子は最期の願いとして、執行人に十字架を逆さまにするように頼んで、このように殉教死を遂げられました。これほど大弟子でありながら、教皇である聖ペトロの慎み深さを知りましょう。



また、聖ペトロも新約聖書において二つの書簡を残されました。キリシタン圏の人々宛の最初の司教教書なのです。聖ペトロのお墓は一番古い教会となっていまして、ローマにある聖ペトロ大聖堂の丸天井には次の言葉が書かれています。「汝はペトロなり、この岩の上にわれ、わが教会を建てん」。

聖パウロは最初、サウロと呼ばれています。イエズス・キリストのご降誕の二三年前ぐらい、貿易で盛んだったタルススという町に生まれました。親はユダヤ人でした。早くからエルサレムへ行き、当時、一番評判のあったガマリエルというラビの下に学びました。
パウロはひよわで、持病もあったのですが、霊魂は精神は燃えていたのです。激烈でした。並外れの精力がありました。剛毅とした態度でありながら、非常に柔和でした。立派で聡明な方でした。

それから回心してから、イエズス・キリストのために激烈な愛によって燃えていました。選ばれた器なる聖パウロはみ摂理によって準備されて異教徒の回心のために遣わされました。なぜなら、聖パウロはユダヤ人に生まれてユダヤ人の教育を受けながら、生まれた町によってまた言語によってギリシア人であり、そしてローマ市民でした。要するに、ちょうど、三つの文化の交差点にいる稀な人物でした。そのためにもそのようにみ摂理は聖パウロを用意されました。

エルサレムで迫害が始まった時、ユダヤ民の伝統を厳守していたサウロは天主の教会に対する熱狂ぶりで注目されました。というのも、熱心だったサウロはキリシタンを迫害したリーダーのひとりでした。最初の殉教者、助祭ステファノの投石死においても深くかかわっており、かれはその迫害を起した重要な人物でした。


地上におけるイエズスに一度もあったことなかったサウロはダマスへ赴く途中、聖寵の奇跡によって、イエズスはご出現されて、サウロは回心しました。アナニアから洗礼を授かってからそのあとの使命に向けて心構えしました。その時、イエズスからの偉大な啓示を頂きました。聖パウロは人々から福音やイエズスの教えを貰うことはありませんでした。イエズス・キリストご自身のご啓示から直接に教えられたのです。

ダマスへ帰って宣教活動に励んだ結果、現地のユダヤ人たちは彼の死を謀りました。死から逃れるには逃亡するしかなかったのです。聖パウロの人生は使徒活動上、多くの立派な犠牲、働きと苦しみに溢れて、我々のための偉大な模範であります。世界四方まで海陸で、五回の巡回の旅を行いました。20年以上にわたるキリストの真理のための立派な宣教師でした。おおよそ30ケ国を訪れました。小アジア、欧州などなどを巡歴して、40以上の町においてキリシタンの集団を設立して、組織化して、強化しました。


聖パウロのすべての旅行は絶えない働きを尽くし、イエズスのためにずっと多くの危険に晒して、苦しみを受けて、迫害を受けました。鞭打ち、投獄、殴打、海上の遭難、裏切りなどでした。また常に諸教会の世話による多くの心配事と悩み事もありました。聖パウロもこれらを書簡において書かれます。しかしながら、この多くの未練を受けても、いつも忍耐強く、つねに喜びに満ちて毅然とした態度で応じました。というのも、我らの主のための愛のために、兄弟たちへの愛のために、聖パウロは苦しんで何の苦労を惜しまなかったからです。牢番の人々ですら聖パウロによって回心されたり、三階から落ちて死んだ若い男を蘇らせたりしたのです。

宣教のための旅は罪と暗闇の支配からできるだけ多くの国々と人々を解放するための作戦でした。真理、聖徳の実践などのイエズス・キリストの王国のためにできるだけ多くの霊魂をしろしめした(統治した、征服した)のです。
聖パウロの言葉、そしてその書簡はミサの時よく読まれてはいますが、司牧上も教義上も美しくて立派です。聖パウロは救い主の聖寵とイエズス・キリストのみ名を多くの異教の国々へ齎(もたら)していきました。

異教徒の使徒と呼ばれた聖パウロは言います。「しかし天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント人への第一の手紙)。これは、大使徒の人生を要約する言葉です。
何の功績のないサウロ、キリシタンを迫害して、それによってイエズスを迫害していたサウロを天主は呼び求めたのです。聖パウロは聖寵の呼びかけに応じたのです。そして、召命に応じてその使命を果たすために、彼が持っていた能力、力を尽くして、尽きるまで踏ん張り続けました。

聖パウロの使徒活動は67年、ローマで最期を迎えました。聖ペトロと一緒にマメルティヌスの牢獄で九か月の投獄を経て死刑執行されました。聖伝によると、二人の使徒は死刑の場に連行された時、ラテン門のところで二人は分けられて、それぞれの執行場へ連行されました。というのも、聖パウロは「ローマ市民」としての特権で、剣によって斬刑に処されました。そのように栄光の冠を得ました。首が斬られた時、首は三度も跳ねました。そして、首が跳ねた地面の三か所には水が湧きました。今のローマにある、三つの湧き水聖パウロ教会ではいまだに、湧き水が流れています。




永遠なる町、ローマは二人の大使徒の遺体を預かる最大の恩恵を頂きました。そして同じ日に聖パウロと聖ペトロを祝います。この祝日に合わせて、聖務日課書において、教皇聖レオの教えは記載されています。このように述べました。

「ローマよ!偉大なるこの二人の御方はあなた、ローマのために福音の輝かしい光を照らしてくれた!ローマよ、あなたは誤謬の大主だった。誤謬を教えていたのに、二人の大使徒のお陰で、真理の弟子、真理の奉仕者となった。ローマは確かにあらゆる誤謬、すべての国のあらゆる神々などの奴隷となっていた。ローマの神々にはどんどん、多くの国々の神々を入れていって。そして、このように、多くの神々を入れてくれていたので、人々はローマについて高く評価していて、平和を好み、寛大な国だと思い込んでいた。」

聖レオの以上の言葉を聞いて、現代になってかなり思い起させることがあります。というのも、現代、教会内にまで潜り込んでしてしまったとんでもない誤謬が思い起こされるからです。つまり、すべての宗教は平等である、同じ価値があるとする誤謬です。このような偽りのエキュメニズムはすべての宗教を肯定して、つまり悪魔によって作られた偽りの宗教を肯定するなんて、異教のローマに戻ったかのようではないでしょうか。



聖パウロと聖パウロをはじめ、全時代のすべての殉教者たちは「キリシタン」という名を宣言して、我らの主、イエズスの弟子だと言っていたから迫害を受けました。そして、福音を告白して、宣言して、偽りの宗教の信徒たちはどんどん回心していきました。偽りの宗教に浸かっていた人々はどんどんイエズス・キリストのみ名を認めて、回心していった分、イエズスのみ名を拒んでいた人々は逆にイエズスに対する憎しみに溢れて、「キリシタン」という名は嫌悪の対象となっていきました。

聖ペトロと聖パウロは偉大な使徒にして、聖人でした。十字架上に死なれ、死者の内より蘇られたイエズス・キリストのみ名を通じてしか人々は救いを得られないということを知っていたので、全人生、休まずに踏ん張り続けました。彼等は絶えまなく宣言していました。

「我々は唯一なる天主を仰ぎます。我らの主、イエズス・キリストです。天に行って救われたいと思うなら、イエズス・キリストに回心しなければなりません。我々が救われるために、天下には我らの主イエズスのみ名以外にありません」



殉教者となった使徒たちはこのように宣教していました
いまだに我々の教訓と模範になります。
聖ペトロと聖パウロが、我々の信仰、望徳、愛徳を常にかきたててくださいますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いとも聖なる童貞マリアの御取り次ぎについて

2021年09月20日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ランポン(Rampon)助祭によるお説教をご紹介します。
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ランポン(Rampon)助祭の説教 
2021年07月02日  
いとも聖なる童貞マリアの御取り次ぎについて
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

主任司祭様、愛する兄弟の皆様、本日、童貞聖マリアのご訪問をお祝いします。そのちょっと前、御告げの日に、聖ガブリエルは聖母マリアに救い主に母になることを告げられました。聖霊の奇跡によって(無原罪の)御宿りになると告げられました。また、その際、聖ガブリエル大天使は従姉エリザベートが老人にして子を宿されたとも告げられました。これももう一つの奇跡でした。というのも、エリザベートは子をもうけるためには年を取りすぎていたからです。



しかしながら、老人になっても妊娠するというような奇跡は新しいことではなくて、旧約聖書において何度かありました。天主様は不毛な女、あるいは年配の女性に子を与えることがありました。そのたび、子には特別な運命が与えられて、天主様の特別な使命を与えられておりました。このように、善き天主は旧約聖書の時代から、聖母マリアのおなかに天主様ご自身である幼きイエズス、救い主の奇跡的な御宿りの準備として備えておられて、救い主が来る時に皆がそれに認識できるようにされています。

聖母マリアは被創造物の中で一番清くて従順でしたので、天使に伝えられた御告げに従って従姉を手伝うためにエリザベートのところまで行きます。そして、エリザベートの家に到着します。本日の祝日を記念する玄義はエリザベートと聖母マリアの出会いであります。「エリザベートに挨拶した。エリザベートがその挨拶を聞くと、子が体内で躍った。」(ルカ、1、40-41)
これを感じてエリザベートはマリアが主の母であることを知り、マリアが天主の御母であることを告げるのです。

このように、御告げの玄義とご訪問の玄義の間には類似性があります。御告げの時、天使を通じて、天使を派遣して聖母マリアに天主様はこの世に来給うことを告げられます。


そして、ご訪問の時、エリザベート、それから洗礼者聖ヨハネひいてはある意味ですべての人々にも(聖ヨハネは人々に救い主の到来を準備する先駆者となっていくから)、聖母マリアは天使から受けた大事なお告げを伝えていきます。
このようにして、御告げの玄義はすこしずつ、段階を追って伝えられていきます。天主様から仲介者として、天使、それから聖母マリア、それから聖ヨハネとなります。
特に、天主様は聖母マリアを御托身の玄義を知らせるために特に選ばれた仲介者であるとして、聖母マリアを「御取り次ぎ者」と称されています。

これから、「御取り次ぎ者」、取りなし手、仲介者というのはなんであるか、聖母マリアは聖寵の御取り次ぎ者になっているという意味はどういうことかをちょっとご紹介していきたいと思います。

「取り次ぎの者」はラテン語の「Medius」に由来して、つまり二人の間にある人だという意味です。ラテン語の意味は二つの端の間の中央にあることを意味します。取り次ぎ者になるために二つの条件があります。二人の間にいる者として、一人より低くて、もう一人より高い者でなければなりません。それから、取り次ぎの者は「仲介者」としての使命を果たす、つまり何らかの形で仲介者に値する働きを行います。



この意味で、教会はいつも、イエズス・キリストこそがこの上ない取り次ぎの者であると思い起こし続けました。というのも、我らの主、イエズス・キリストは真の人であり、真の天主であるからです。真の人としては、イエズスは天主より低いわけです。このように、聖ヨハネの福音書において、イエズスは仰せになります。「父は私より偉大なお方である」(ヨハネ、14,28)。しかしながら、同時に、イエズスは真の天主であるとして、すべての人々よりも偉いわけです。つまり、イエズス・キリストはいわゆる位格結合という玄義により、真の人、真の天主であるわけです。

また、イエズス・キリストは天主様と人類との間の仲介者の働きをこの上なく果たされました。これは十字架上にかけられて、御取り次ぎの行為である生贄として捧げられ給うたおかげで、イエズス・キリストこそがこの上なく御取り次ぎ者であるというのです。
このように、聖パウロが言うように、「Unus Mediator」、取り次ぎ者は唯一であるということです。すなわち、イエズス・キリストです。


しかしながら、童貞聖マリアも取り次ぎ者なのです。なぜなら、まず、天主の御母だからです。ですから、天主より低い存在でありながら、天主様に最も近くて、御母として、一番偉い天使よりもどの被創造物よりも天主に近いわけです。そして、聖母マリアはすべての人々より偉いわけです。なぜなら、聖母マリアは(天主の生命である)聖寵を完全にお持ちであるからであって、すべての天使や人々の聖寵よりも、聖母マリアは聖寵に満ちているからです。

また、聖母マリアは御取り次ぎの特別な働きを果たされました。つまり、聖母マリアによって、聖母マリアを通じて御托身は実現されたということで、また十字架の生贄の際にも、聖母マリアは十字架の下にいて、御子を生贄としてお捧げすることに同意しました。
ですから聖母マリアも天主と人間の間の取り次ぎ者です。が、御子が御取り次ぎ者であることとちょっと違う意味での取り次ぎ者になります。聖母マリアは第二次の取り次ぎ者となります。

さて、聖母マリアの御取り次ぎの性格を見ていきましょう。そうすることによって、我々はどれほど聖母マリアの御取り次ぎを必要にしているかが思い起こされるように。

第一に、聖母マリアは御子の到来の準備を行います。現代も、我々の霊魂におけるイエズスの到来、我々の霊魂はイエズスを迎え入れるように、聖母マリアはその準備のために手伝ってくださいます。イエズスに行くために霊魂は皆、必ず聖母マリアを通じなければなりません。
第二に、聖母マリアは贖罪のある意味での会計係であるかのようです。つまり、我々に与えられるご贖罪の宝、言いかえると人生の間に我々が頂く多くの恩恵、聖寵は必ず聖母マリアの御取り次ぎによってしか得られないのです。この意味で、聖母マリアの御取り次ぎはさらにイエズス・キリストの唯一なる御取り次ぎを綺麗にさせます。



天主様は聖母マリアがいなかったとしても、聖寵をもちろん与えられるのですが、天主様はあえてそうしないで、普段なら、聖母マリアを通じてしか天主の生命を頂かないことにされたのです。

さらにいうと、他のすべての聖人のとりなしに比べても、聖母マリアの御取り次ぎは勝っています。優れています。
ある聖人は天主様にお願いする時、贖罪によって得られた実りを地上に人々に当てられるようにお願いします。
そこで、聖母マリアはご贖罪の玄義の実現の際、直接に参加された方であり、あえていえば、聖母マリアは贖罪によって得られた実りへの所有権を持つかのようです。このように、カナの場面に起る奇跡で現れる通りに、聖母マリアは天主の下に単純にお願いするのではなくて、何がしてほしいかを聖母マリアは御子に示されて、御子は御母の依頼に答え給うのです。あえていえば、聖母マリアは御子に対して拒めないほどの「要請」という権限を持ちます。

ですから、我々の救霊のために必要となるすべての恩恵を聖母マリアは我々の代わりになって御子から得られる御方です。天主様の子になるための洗礼から得られる聖寵もそうですし、また天主を裏切って侮辱した時、つまり大罪を犯した時に、天主様の赦しを得て、その仲直りをするために告解に与ることからくる聖寵もそうですし、また、忍耐力など他にも完徳になるために必要なすべてのあらゆるの聖寵も聖母マリアが御取り次ぎをされることで、はじめて、イエズス様からのこれらの恩恵を我らの代わりに得られるわけです。

このように、11世紀の聖ベルナルドは聖母マリアについて「首」というイメージで示されます。教会という神秘体においての首だと比喩します。この神秘体はイエズス・キリストの神秘体であるとして、その頭はイエズス・キリストご自身であり、肢体は我々信徒たちであり、頭からの命、つまり聖寵を頂くために、首なる聖母マリアを通らなければならないと聖ベルナルドは説明する通りです。

ですから、我々は地上にいる間の旅の間、つまりこの人生に頂いたすべての恩恵、聖寵は一つも残らず、聖母マリアを通じてなされたということが言い切れるのです。言いかえると、イエズス・キリストは我々に恩恵を与えるように、いつも聖母マリアは私たちのそばに取り次いでくださっているのです。

このように、御告げの日に聖母マリアの御取り次ぎはなぜあったか、ご訪問の日に、ご体内において聖ヨハネは喜びに満ちてなぜ躍ったか、聖エリザベートは聖母マリアが天主の御母であることをなぜ告白したかというと、聖母マリアが傍にいらっしゃったからです。

ですから、我々も常にいつも聖母マリアは我々の傍にいられるように、我々の心に居られるように努力しましょう。祈りましょう。そうするために、一番早くて簡単な方法はロザリオです。ファチマでご出現された時も、聖母マリアはどれほどロザリオは重要であるか、祈るべきかを思い起こさせてくださいました。またロザリオを祈ることは簡単です。時間の余裕がないわけがないのです。一連ずつでも、一日中に何度も分けてでも祈ったら、すぐ5連になるのです。ですから、ぜひともぜひともロザリオを祈ることによって、いつもつねに聖母マリアは我々の人生とともにおられて、御子イエズス・キリストまで導いてくださるように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン</font>

カトリックが「埋葬」を絶対に大切にしている理由

2021年09月15日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております


クロゾンヌ神父様(B. MARTIN de CLAUSONNE)の説教
「カトリックが埋葬を絶対に大切にしている理由とは?」
2020年11月15日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、毎年11月の間、我々の死者を偲(しの)び、彼等のために祈るように公教会は我々に勧めています。11月1日、諸聖人の祝日の際、凱旋の教会(注・天にいる霊魂たち)に属するもろもろの聖人を崇めた翌日、11月2日、我々、戦闘の教会に属する信徒たち(注・天国という目的地を目指し、旅している最中、この世に生きている洗礼者たち)が、この度は、潔めの教会(注・煉獄にいる霊魂)に属する霊魂たちのために祈っていきます。これは諸聖人の通功のお陰で効果のある祈り合いとなります。そのため、11月2日、神父たちは特別に死者のために、煉獄にいる霊魂たちが永眠(天国)に入るために、三回のミサを捧げることになっています(注・普段、一人の神父は一日一回のミサを捧げることになっています。)

11月2日、三つのミサを捧げる伝統を見ると、カトリック教会は自分が持っている至上の宝石であるミサ、つまり我らの主イエズス・キリストの生贄の再現をどれほど評価するのか尊敬するのか、そして煉獄の霊魂たちの解放と浄化のためにどれほど効果のある生贄になるのかが窺(うかが)えます。また、11月2日、墓地を訪ねると贖宥もついていること、また聖遺物の祝いもあることから見ても、カトリック教会はどれほど死者を大切にしているのか、身体を大切にしているのかがわかります。

これらの多くの素晴らしい祭りと典礼をみると、カトリック教会はどれほど死者の身体を大切にしているかがわかります。カトリックの葬式に参列したことのある方はさらにわかると思います。その際、司祭は遺体を祝福します。また、司祭は遺体に香をたてます。また、遺体は丁寧に埋葬されるように司祭は気を使っています。

死者の体を埋葬するのは、身体のための憐みの施しの一つだとされています。ノルマンディー地方では少なくなっていますが昔から「シャリトン(愛徳者)」という人々がいまして、彼等の役割は死者の死体を埋葬することにありました。そして、シャリトンたちは教会では内陣に座れる特権を持っています(注・内陣に入れるのは本来ならば聖職者だけです)。



最初の諸世紀のキリスト教徒たちは激しい迫害を受けていましたが、命を危険に晒(さら)してまで、殉教者たちの遺体を大切に保護していました。背教者ユリアヌスの時代では、キリスト教徒たちは洗者聖ヨハネの遺体を保っていました。イエズス・キリストの生前の時、ヘロデヤ王は洗者ヨハネを処刑してその頭だけを取って、遺体は保たれたからです。しかしながら、洗者聖ヨハネの聖遺物の周りに多くの奇跡が起きたがゆえに、皇帝、背教者ユリアヌスが聖人の聖遺物の解体と分散を命じたほどです。それでも奇跡はまだあったので、皇帝は聖遺物を焼けと命じざるを得ませんでした。幸いなことに、数人の修道士はいくつかの骨を何とかして取り出してエルサレムまで運んでいきました。

以上のような例でも見られるように、死者の遺体と聖人の遺体を救うために一体なぜ命を危険に晒してまでカトリックは常にやってきた(葬ってきた)のでしょうか?身体は霊魂の道具だからです。霊魂の聖化のために必要不可欠の道具で、その聖化を霊魂の救いを助けるからです。
聖霊の神殿である身体、我らの主イエズス・キリストの恩寵によって聖化された身体、洗礼と他の秘蹟によって聖化された身体、聖霊と御聖体の現存によって聖化された身体、イエズス・キリストの御血によって贖罪された身体を必ず崇拝するように、カトリック教会は最初から命じているのです。

思い出しましょう。ミサ聖祭の時、お香は本来ならば天主に向けてしか捧げないのですが、ミサ聖祭の時、信徒たちに向けてお香をささげます。なぜでしょうか?それは、我らは聖霊の神殿であるからです。ご聖体を預かる神殿になるからです。
同じように、殉教者をはじめ、聖人の聖遺物も崇拝されています。なぜでしょうか?聖人の体を通じて聖霊が行った物事のためです。

また、カトリック教会ではミサ聖祭を捧げるには殉教者の聖遺物を安置している聖壇が必要です。カタコンベ(地下墓地)のキリシタンたちを記念にするためです。というのも、最初からカトリック信徒たちは殉教者の墓の上でミサ聖祭を捧げていたからです。

聖遺物にたいするカトリックの崇拝は永遠の命に対する信仰、また身体の蘇りに対する信仰をも示しています。世の終わりに、身体がよみがえる後に、つまり霊魂はもう一度自分の身体と一致してから、救われた人々たちはその栄光なる身体のよみがえった分、その栄光は、いや増されていきます。一方、永劫に処刑された人々にとって、身体の蘇りはより深い苦しみと痛みを意味しています。
復活祭の前夜祭の時、その典礼には、我々がイエズス・キリストとともに死に、またイエズス・キリストと一緒に復活していく部分があります。これはカトリックの信仰です。



しかしながら、残念ながら、最近では火葬することが流行ってきました。それはけしからんことです。イエズス・キリストご自身は自分の死体には埋葬をお望みになりました。また、我々のためにもイエズス・キリストは埋葬をお望みになっています。思い出しましょう。三人の博士は幼きイエズスの下に参った時、埋葬に向けて死体を保存するための没薬を献上されたとおりです。また、マリア・マグダレナは埋葬用の貴重な香水を我らの主、イエズス・キリストの足の注いだ場面も象徴的です。この場面、それから来るイエズス・キリストの受難と埋葬を予告する場面です。また、復活の日の朝、安息日で遅れてしまった死体の保存の作業を終わらせるために、聖なる女性たちは聖なる遺体の世話を完成させるためにイエズス・キリストの御墓に赴(おもむ)いたのも埋葬の貴重さが示されています。火葬は論外です。

ですから、カトリック教会においては、イエズス・キリストが教会を制定なさった当初から、1960年代のパウロ六世まで絶えたことのない伝統で、死体を埋葬し続けてきました。また、カトリック教会はどこでもいつも火葬と激しく戦いました。異教の慣習である火葬は多くの場合、魔法に類似する儀礼も多くて、カトリックの信仰と相いれないのです。教皇、レオン13世は、1886年に、火葬の流行りを受けて、「自分のために火葬を望んだことのある信徒で、死ぬ前にその望みを撤退しなかった場合、葬式を行うことは厳禁で、カトリック教会の埋葬は厳禁されている」という規定を発しました。

また数年後、1892年、カトリックの司祭たちに、自分の葬式のために火葬を望んでいるカトリック信徒には、最期の秘蹟を預けてはならないという規定も発されました。また、その場合、このような信徒のために命日のミサをも死者のミサをも捧げてはいけないことも命じられました。それほど火葬というのは深刻なことであることを示しています。

1917年に編纂された教会法典において以上の規定が織り込まれました。それによると、「自分の遺体を火葬にするような遺言あるいは遺志のあった信徒がいたら、教会の墓地においての葬式と埋葬を拒むべきである」と規定されています。これはカトリック教会の法律です。それだけではなく、火葬の意思があってそしてその火葬は実現された場合、その死者の遺言書を実行するのは違法だと規定されるほどです。ですから、聖伝に忠実な司祭たちは自分の遺体を火葬するように命じた信徒のために死者のミサを捧げないことになります。愛する信徒たちの皆さま、それを心得てください。

さて、なぜ以上のような厳しい規定があるでしょうか?その理由は次の通りです。カトリック教会を敵にしているフリーメイソンは身体の蘇りを信じないのですが、昔からフリーメイソンは火葬を全力で推進してきたからです。なぜでしょうか?火葬することによって、世の終わりに蘇っていく聖霊の神殿である身体に対して払うべき尊敬を具体的な形で否定する儀式としてフリーメイソンは推奨していました。

典礼や儀式の外形を変えることによって、これらの邪道な儀式を行えば行うほど、これを行う信徒の信仰の中身を少しずつ歪曲し、その中身を変質することができることをフリーメイソンがよく知っているから、このような火葬を勧めてきました。また、火葬だけではなく、他のことについてもこのやり方ですが、信じるべき信条と実際に具体的に実践していることとの間に乖離を勧めることによって、信仰を変えていけることは彼等がよく知っていることです。信仰に背く実践をやる挙句に、結局、実践に沿った主体的な変質した信仰になっていきますので気を付けましょう。

我々は信仰通りに実践していくべきです。祈りと典礼のやり方を変えてしまったら信じる中身も変わってしまうのです。第二ヴァチカン公会議による典礼改革のせいで、新しいミサのせいで、現代でも起きている悲劇的な現象で証明されています。火葬も一緒です。

カトリック信仰に従う通りに死者を埋葬することを止めて、フリーメイソン的な信仰に沿って火葬を行うことはカトリック信仰の喪失と新しい宗教に少しずつつながっていきますので気を付けましょう。現代ではことに確認できる残念な現象でしょう。死に対する過剰な恐れの一般化は天主によって照らされた我々の目的地である永遠の命の忘却の結果であります。現代ではカトリック欧州の昔と比べたら、違う宗教が流行っています。残念ながら。

カトリックの埋葬式の典礼を見ていくと、どれほど死者の身体が尊敬されていることがわかります。埋葬式の典礼はこの世の死が決定的な絶対的な壊滅を意味しないことを示しています。西洋語の「墓地(シムティエール)」の言語はギリシャ語ですが、「寝室」という意味になるのも象徴的です。つまり、墓地は霊魂が休んでいる場所というニュアンスがあります。永眠というか、確かに普通の眠りではないでしょうが、新しい命を待つ眠りなのです。土にまかれた種と、死体は似ています。

聖パウロがコリントの信徒への手紙において(15:42-44)書いている通りです。「死者の復活もそうである。体は朽ちるものとしてまかれ、光栄あるものによみがえり、弱いものとしてまかれ、強いものによみがえり、動物的な体としてまかれ、霊の体によみがえる。」と聖パウロはいいます。

火葬の場合、以上の聖パウロの考え方を具体的に否定します。埋葬される死体はまかれる種になれなくて、火葬を採用するせいで、このような象徴を変えることによって、精神に影響を及ぼし、死後の命の否定へ誘導し唆(そそのか)す具体的な儀礼です。ですから、火葬はだめです。というのも、焼かれた死体は焼ける種と似ています。もはや、この焼かれた種は新しい命を産むことはできません。焼かれたから、希望もなく、綺麗な植物になる期待も奪われます。灰にさせられた死体をみてもはや期待することはありません。



死体の火葬は、死の壊滅は決定的であるかのように示しています。永遠の命はないかのように示しています。その結果、永遠の命のない人間、輪廻転生に拘束される人間は灰に過ぎなくて、全宇宙の他の物事と変わらないで単なる灰に過ぎないかのように示されている火葬です。この死体は絶対的になくなったかのように、もはやその身体を取り戻すことはないかのように示される火葬です。

また、死者は生きている人々の心の中にしか存続しないかのように、死後の具体的な命、よみがえりがないかのように暗に唆(そそのか)す火葬なのです。また、人間は物質に囚われるかのように、死後になった、「全宇宙」にも「涅槃(ねはん)」にも「母なる大自然」に戻ってその大総体において溶けるかのように示される火葬です。

なんか、最近の流行りで、「バイオ」の葬式があるらしくて、自然に体を朽ちらせていくような大自然に戻るかのような邪道の葬式もあるそうです。まあ、火葬もバイオ葬式も同じ結果ですね。以上のすべてはカトリック信仰に背く信念と迷信です。

また、カトリック信仰ではもう一つ思い出しましょう。そもそも、「死」というのは罪に対する罰であるということです。「人よ、おぼえよ、汝はちりであって、また、ちりにかえるであろう」(灰の水曜日の典礼より)。天主こそはすべてを司ることを忘れてはいけません。ですから、我々は原罪を負って、死という罰を受けざるを得ません。必ず。ですから、この罰を積極的に受け入れて従っていきましょう。で、カトリックの埋葬を行うことによって、天主のみ旨のままに埋葬することになりますので、その分、死という罰に対する償いも済まされます。

ですから、埋葬は大事です。はい、人々は自分の身体が「ちりにかえる」ということを知って苦しんでいます。埋葬したら、このような気持ちになっていきます。一方、火葬を命じる死者の場合、天主のみ旨に従うことがなくて、天主がお望みになる通りにするのではなく、自分勝手に決めてしまいます。その挙句に、このような勝手にきめることによって、また火葬を行うことによって、「死ぬことによって当然の罰を受けて償う」という気持ちを忘れさせるどころか、「自分が死を支配するかのように」させて、天主の権威に従わないことにして、天主に背くことになります。大変なことです。



特に現代の世界では人間中心主義という宗教になる中、傲慢たっぷりの人間は何もかも自分が主であるかのように、支配しているかのように、「コントロール」するかのように思い込んでいます。現実においてそうではないのに。。。

現代人は生まれてもない赤ちゃんの命を奪ってもよいようにやっているし、「安楽死」という口実で、自分が死を決めるかのようにしていて、また死後にも自分の身体や葬式を好き勝手に決められる夢想を抱いています。悲しいことです。現代人は「自分の主は自分だ」と思い込んでいます。生前にも死後にもそういった態度です。愛する兄弟の皆様、なんて傲慢な態度でしょうか!

本物のカトリック信徒にとって、火葬は悪魔的な儀礼なのです。なので、死者の身体に値すべき尊敬をもって、我々の死者の身体を敬いましょう。最初からキリスト教徒たちがずっとやってきたように、我々も勇気をもって埋葬してあげましょう。また、死者の墓を大切にしてお世話して、よく墓参りに行きましょう。墓参りして祈って花束を進呈しましょう。このような愛徳の施しを行うことによって、信徳と望徳を堅く持ち続けるでしょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

本物の愛徳、またすべての愛もそうですが、かならず伴うものがあります

2021年09月10日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております


ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教 「本物の愛について」    
2021年2月14日 五旬節の主日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
書簡:コリント人への第一の手紙、13、1-13
福音:ルカ、18、31-43

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、本日の書簡を読んで驚く人もいたかもしれません。四旬節に入る前の主日である今日なので、むしろ、先週の聖パウロの長い試練、あるいは先々週の聖パウロが恐れず戦うように励ます書簡と同じような、あるいは、犠牲あるいは苦しみと痛みに関する教えを予想するのが自然であるはずなのに、本日の書簡は違います。

カトリック教会はあえて、「愛徳の称賛」と呼ばれるこの書簡を選ばれました。聖パウロはこの書簡に於いて、愛徳を称賛するのです。今日、この教えを想起させてくれるカトリック教会は無意味に選んだわけではないのです。というのも、四旬節において、愛徳がどれほど重要であるかを想起させてくれるからです。

簡単に、愛徳をよりよく理解するために、また善い四旬節を過ごすために一体なぜ愛徳が必要であるかを理解するために、三点の教訓を念頭に置きましょう。

第一点について聖パウロはしつこく繰り返して重要視していますが、つまり愛徳を抜きにしたら何の価値がないということです。言いかえると、愛徳なしのすべての物事は我々の救霊にとって無用だということです。愛徳を実践しない人は救霊のために何もできないのです。



というのも、この世には二つの次元があります。まず「自然」の次元があります。つまり生まれながらの(自然の語源的な意味である)本性次元です。我々が創造されたこの世界のすべてのことです。つまり人として生まれて、人間の特徴を持っているすべての物事という次元です。このような自然なる秩序、自然なる道理は、本性の次元、自然の次元と呼ばれています。この秩序は我々を人間たる存在にしてくれるし、また、人間らしい道を実践するために生まれたという目的を与えてくれます。

理解しやすいと思いますが、天主は以上の自然の次元には属さないのです。というのも、善き天主は人間でもなければ被創造物でもないし、身体もありません。天主は別の次元、別の秩序に属します。そしてこの秩序は我々を超越しているということから、「超自然」の次元、秩序と呼ばれています。つまり、善き天主は我々が属している秩序とは別の秩序に属しておられるということです。天主と人間の間には深い溝があり、断絶があります。

我々は人間として何かを行っている時に、現代風に言うと、「水平」な言動になるに過ぎないと言えます。要するに、人間の本性を持ってしか行えない言動です。しかしながら、天主は、我々に実践してほしい言動、また天主のために我々に実践してほしい言動を、そして天主の次元、天主の秩序で行ってほしいとお望みになっています。つまり、人間の本性の秩序ではない別の秩序の内に天主が我々に実践してほしい言動です。

しかしながら、我々の本性だけでは、天主の次元で何かを行うことは無理です。ですから、それを可能にするために、善き天主は人間の秩序を越えて、超越する賜物を我々に与え給います。それが聖寵です。聖寵によることで天主の次元で言動できます。そして、聖寵があるところは必ず愛徳もあるのです。
ですから、愛徳である聖寵を抜きに言動する者は単なる人として言動するに過ぎなくて、人間を越えない程度の言動にすぎません。この結果、超自然の次元においては何もできない人といえます。

しかしながら、聖寵によって言動を行う人は、つまり、愛徳によって働く人は超自然の次元へ高められた存在になっているので、何でもできます。
愛する兄弟の皆様、我々の四旬節には愛徳がなければ何の価値がありません。これから捧げようとする犠牲や苦行がどれほど重くてもつらくても大きくても四十日間ずっとしっかりとやったとしても、愛徳がなければ価値のない犠牲と苦行に過ぎません。

超自然の次元からみると何の価値もありません。我々の救霊のために、何の価値もありません。天国を得るために何の価値もありません。というのも本性の次元を超えない言動になりますので、超自然の次元にある天主まで届くことは不可能だからです。
ですから、これは第一の教訓です。よい四旬節を過ごすために、聖寵の状態になければなりません。言いかえると、愛徳を持たなければなりません。

第二の教訓は「愛徳とは天主への愛だ」ということです。天主はご自分自身を愛し給うように、我々も天主を愛するということは愛徳です。愛徳は天主がわれわれの霊魂において流し給う賜物ですが、このおかげで超自然の次元の内に生きられるようになるのです。天主は愛徳を霊魂に注ぎ給うことによってそうしてくださるのです。

そして、愛徳を与え給う時、われわれの霊魂に対し、何をなされておられるでしょうか?天主は自分自身を愛すると同じように、我々も天主を愛することができる能力を与え給うということです。我々の本性だけでは、天主を愛することができないのですが、天主は我々に愛徳を与え給うことによって、我々が天主を愛することが出来るようにしてくださるということです。

要するに、第二の教訓は「天主のためにこそ四旬節を過ごすのだ」ということです。天主の愛のためにやるわけです。他に目的がありません。つまり、個人的なメリットのためでもなければ、何かの現世欲に沿ったことのためでもないのです。

四旬節を過ごす第一の理由は天主の威光が侮辱されたからです。もちろん、われわれは罪人であるゆえに四旬節をすごすことになりますが、それは一番大事なことではありません。四旬節を過ごすそもそもの理由は我々の側にあるのではなく、天主側にあるのであって、天主は天主であるからこそ四旬節を過ごすのです。つまり、最優先に行うべきなのは、侮辱された天主の光栄、天主の栄誉のために戦うことにあります。罪によって棄損された正義を正して全うすることにあります。

ですから、天主のために苦行と悔い改めを行いましょう。というのも、天主は我々の主であるからです。また我々の存在理由は天主です。天主は天主のためにだけ我々を創造し給うたからです。罪を悔い改めます。なぜですか?罪によって罪人になってしまうからではなく、罪によって天主から外されているからです。また罪は天主の威光を侮辱するからこそ我々は罪を改悛します。

子が親の言うことを聞かない時、あるいは生意気な態度を取る時、子が自覚しなくてもこのような行動のせいで自分自身を傷づけているわけです。それはそうですが、子はあえて言えばこのように「子たる資格」を失い、堕落するのですが、それ以前に深刻なことがあります。子は親を傷つけるわけです。また、子に対する親の権威を傷つけるのです。

罪も同じようなことです。つまり、罪は我々を傷つけるのですが、それ以前、それよりも、天主を侮辱するのです。そして、罪は天主を侮辱するからこそ、罪は我々をも傷つけるわけです。ですから、四旬節の目的は以上の侮辱を払い、つまり覆(くつがえ)した秩序を取り戻し、乱れた関係をとり戻し、不正の行為を正すことにあります。一言で言うと、正義を全うして、そのために罪を償うのです。天主に対する不正行為である罪を償うためです。

要するに、天主のためにこそ苦行と犠牲をして、罪を償うわけです。確かに、罪はかなりの秩序転覆です。革命です。罪によって、天主に仕えることを止めて、自分自身に仕えることにして、いわゆる「楽々」となり、気のままに振舞ってしまうということです。この意味で、独立することです。罪には必ずある種の傲慢さとわがまま(エゴイズム)が潜んでいます。



ですから、四旬節の一つの目的はこの転覆された秩序を取り戻して、我々の人生を整頓・整理することにあります。これはまさに善徳を実践することの意味です。つまり、天主を元のあるべき位置に戻して、つまり上におられることを自覚して、天主のためにすべてを整えるということです。また、天主を愛することを習うという意味でもあります。

そして、そうすることによって、天主がお望みになる通りに、我々は自分自身を愛することができるようになります。つまり、自愛はいいのですが、自分自身のために愛するわけにはいけません。ほら、我々は価値のない存在ですから。天主が人間についてお望みになっている通りの者として自愛しなければならないということです。

言いかえると、天主の養子として自分を愛するのです。そして、我々カトリック信徒は天主の養子となっているわけです。洗礼の聖寵と愛徳によって養子となりました。この意味で、四旬節は天主を愛するための修行です。また、天主の内においてこそ、自分自身を愛するための修行なのです。つまり、我々における天主的な物事を愛するということです。我々において、天主に従っているすべて、天主へ秩序づけられているすべてを愛するということです。

これは第二の教訓です。四旬節は何よりも天主のためにあります。そして、本物の愛徳は天主への愛です。いと愛する兄弟の皆様、現代では「愛」といわれるとき、かなり堕落して、侮辱された形で使われて、愚かにも間違った意味で使われることが多いです。天主への愛をわざと忘れて、隣人への愛であるのみと印象付けられて、そして多くの場合は、「自然愛」に過ぎないことにされています。もはや(本来の)愛徳でなくなっているわけです。

最後の教訓は一番大事な教訓であるかもしれません。聖パウロは立派に愛徳について称賛していますが、愛徳は本質的に犠牲を含んでいます。言いかえると、愛徳を実践したら必ず犠牲も払わなければなりません。また、本来ならば、本当の犠牲を捧げる時、愛徳も伴われているのです。繰り返しになりますが、愛徳は我々から天主への愛なのです。いや、より厳密に言うと、天主がご自分自身を愛しておられると同じように天主を愛させてくれるために、天主がわれわれの霊魂に愛を注ぎ給うのが愛徳です。

聖トマス・アクイナスの言葉を借りれば、愛徳は友人の愛なのです。つまり、天主は我々を愛し給い、また我々に天主を愛させてくれるのです。つまり、天主は我々を愛し給うがゆえに、天主がご自分自身を愛すると同じように、我々も天主を愛することができるようにしてくれます。友人の間の愛は相互の愛で、相手の善を望む愛という意味ですが、要するに友人の愛になると、愛している相手の善を望むのです。つまり、自分自身の善を望むのではなくて友人の善を望むとき、友人の愛なのです。

愛徳を実践する時、我々が聖人になることを望むのではなくて、天主の栄光を何よりも望むのです。そして、天主の栄光を望むゆえに、ついでに我々が聖人になることを望むことになります。この順番は大事です。愛徳において順番があります。愛徳の実践は天主の善のために天主を愛するということです。そして天主の善はこの世で天主の栄光なのです。

要するに、愛徳のお陰で、天主のためにだけ天主を愛するということです。友人の愛、あるいは善良の愛と呼ばれるこのような愛徳によって、我々は自分自身を天主に捧げるのです。奉献するのです。そして、自分を捧げる愛というのは、自分を捨てる、自分を犠牲にする、自分を断念する愛です。天主の愛のため。献身すること、奉献すること、自分を捧げることは自分を捨てることを意味します。

本物の愛徳、またすべての愛もそうですが、かならず自己犠牲を伴うのです。自己犠牲というのは自分を犠牲にして捨てるということです。
ですから、愛徳を実践することは、本質的に犠牲を捧げることを含んでいます。



そして、愛なる天主が御托身された目的は、肉体になり給うた目的は、ご自身の犠牲を行うためだけです。まさに愛の業です。この世にご降誕なさった天主は最初から犠牲を捧げるためでした。そして、最初の奇跡の時、カナの結婚式の際、使徒たちに向けてイエズス・キリストが教える時、犠牲を指す「私の時」について話されています。

本日の福音においても、イエズス・キリストは使徒に来るご自分の犠牲について話されています。そのためにこそ天主はこの世に到来されたわけです。天主は愛そのものであるからです。「救済」は天主の愛から生じるのです。
要するに、愛徳と犠牲は外せない存在なのです。表裏一体の関係にあります。

ですから、聖パウロはいくつかのことを教えてくれます。書簡の最初の部分において、愛徳のない言動は価値がないといっています。そして、我々の愛徳に価値があるためには、犠牲も欠かせないものだということです。本物の愛徳は犠牲なしには存在しません。犠牲あっての愛徳です。

「愛がなければ益するところがない。愛は寛容で、情けあつく、愛は妬まず、誇らず、高ぶらず」をはじめて、聖パウロは愛徳について語ります。このように愛徳を実践するためには、犠牲を捧げることを必要とします。ですから、愛徳は本当に非常に大事です。我々は本当に天主を愛したら、天主のために自分を犠牲にする事を惜しまないのです。天主を愛さないのなら、自分を犠牲にする事はないでしょう。

また、もしも、われわれがまだ天主を愛するに足りないのなら、自分をどんどん犠牲するように努力することによって、天主への愛を練習することになります。単純なことです。

要するに、よい四旬節を過ごすためには、愛徳が非常に重要です。ですから、愛徳を大切にして、この四旬節が天主への愛に満ちた四十日間になるように。天主のための犠牲の四十日間になるように。我らの主、イエズス・キリストに向けた四旬節になるように。

まさに福音に示される通りです。イエズスが通りかかると、盲人は「何事ですか」と尋ねますが、イエズスだと知った瞬間、盲人はすぐ、「イエズス、私を憐みください」といいました。イエズスが通りかかることが聞こえたからです。天主のみ名において、盲人は天主の御憐みを乞うわけです。
ですから、罪を一度も犯したことのない、ずっと愛徳の内に生きておられて、愛徳を信じ続けた、いとも聖なる童貞マリアに祈りましょう。四旬節における愛徳の位置と貴重さをより深く理解するように希いましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

司祭は真理を教え、態度を通じて真理を証明しなければならない|司祭職とは「真理」を証明し、「憐れみ」を実践することだから

2021年09月06日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教 「司祭職と自由」    
2021年07月04日  
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する神父様、いと愛する兄弟の皆様、クリスマス、ご降誕の祝日、我らの主は肉体になり給うことを祝う際、典礼を通じて教会は繰り返し詩編第84篇の一句を詠わせていただくのです。次のように歌います。
「真理と慈悲が出合い、正義と平和が互いに口づけした」

新しい司祭が叙階されると代わりのキリストが造られているかのようです。この地上に代わりのもう一人のキリストが現れてきます。我らの主、イエズス・キリストの僕(しもべ)なる司祭はメシアの働きをつづけることに尽くします。要するに、司祭はこの世で、「真理と慈悲が出合った」ことを示されています。いと愛する神父様、司祭職の使命はそこにあってこの使命を果たすように主から命じられています。
司祭職とは具体的な日常の働きを通じて真理と慈悲が常に出会うように尽くし努めることにあります。

というのも司祭職とは何よりも真理を中心にした働きだからです。皆様、六年間もの間、神学校では多くの科目を勉強してきたと思います。教義、道徳、聖書、教訓に溢れる教会の歴史、教会法、または教義上の真理を支える哲学などを勉強してまいりました。皆様、司祭になっても勉強は終わらないのです。死ぬまで司祭は勉強し続ける義務があるからです。

しかしながら、勉強よりも、得られた真理を輝かせていただかなければなりません。真理に溢れて真理で輝かしくいられるように。神父は真理のための人です。現代ではなおさらのことです。我らの主、イエズス・キリストはご自分自身を指して、「私は真理である」と仰せになった上、真理を証明するために生まれたと言っておられます。代わりのキリストとしての司祭、ここにいる神父様も真理を証明することになります。まず司祭の態度とその振舞いを通じて真理を証明することですが、また、ことに、何を行うか、何を教えるかによって真理を証明することになります。

というのも、司祭は真理を教えていくべきです。つまり善き知らせ(福音)を教えていきます。福音書では我らの主が約束しておられたように、真理によって自由になれるということです。「あなたは真理を知り、真理はあなたたちを自由な者とするだろう」(ヨハネ、8,32)と仰せになりました。ですから、司祭は真理を教えることによって自由を教えるわけです。天主様の子たらんとする自由です。我らの救いという善き知らせが齎(もたら)してくれる自由です。つまり罪への隷属から解放してくれる自由です。



要するに、司祭は真理を教えていくのですが、御托身という真理、贖罪という真理、他の真理を教えて、天主の子の自由をも教えていきます。
ですから、イエズス・キリストのことを教えていくこととなります。また、イエズス・キリストを完全に徹底的に教えていくということです。つまり、イエズス・キリストをありのままに彼を教えていくということで、真の人としても真の天主としても教えていくということです。

本日の福音の朗読で聞いたように、聖ペトロは我らの主、イエズス・キリストが天主であることを告白し宣言されました。この宣言の後、イエズスは聖ペトロを教会の頭として任じられました。
聖ペトロに倣って、イエズスの使命をつづける司祭は特にイエズスが真の天主であることを強調して教えていくべきです。というのも、現代ではイエズス・キリストが天主であることは貶(おとし)められており、真理は侮辱されており、軽視されているのです。イエズスが真の天主であることを軽視し、イエズスの人間性だけを過剰に強調して、いわゆる「人間の尊重」ばかりが見られます。

ですから、神父様、真の天主である故に我々を救えたという真理を教えていかなければなりません。そして、この素晴らしく輝かしい真理を教えていくと同時に、霊魂たちに向けて、我々、人間の現状、人間の現実を教えていかなければなりません。つまり、我々は罪人であること、真理を繰り返し確認して教えていかなればなりません。

はい、皆、一人の例外もなく、罪人であるからです。司祭にせよ信徒にせよ、皆、必ず罪人であるわけです。原罪の内に生まれてしまったわけです。確かに、洗礼を受けて、我らの霊魂は原罪が清められたのですが、それでも我々の中には傷は必ず残っています。人々によって多少大小深浅があるかもしれませんが、傷は残っています。そして、これらの傷を明らかにして、定義して区別して、信徒たちにどんな傷があるのかを教えてさしあげなければなりません。



それは、罪人である故に、救われるために我々の回心が必要であることを示されることになります。また、我々の犠牲も必要であるという真理を示すためです。確かに、このような真理はつらいですが、真理は真理で、このようなつらい真理こそは我々を解放してくれています。というのも、我々は犠牲を捧げることによって、罪の状態から脱出することになりますが、犠牲によって、つまり、罪から解放されていくからです。

また、真理を教えていくということは、裏を返せば、誤謬に対して戦っていくということを意味します。この世において誤謬は蔓延(はびこ)っているし、人々は都合のよいことだけを聞きたいわけですから、聖パウロが言うように、「みことばを宣教せよ。よい折があろうとなかろうと繰り返し論じ、反駁し、とがめ、すべての知識と寛容をもって勧めよ。」(ティモテオへの第二の手紙、4、2)

真理を宣教することは基本ですが、それに欠かせないこととして、誤謬を否認することです。そして、現代において特に危険になるのは、「将来はよくなるぞ」というようなこの世の誘惑に耳を傾けないように努めることが重要です。また、間違ったことを宣言している人々がいるということを明らかに訴えることも簡単なことではありません。場合によって異端者がいればいるよと素直に言うのは簡単ではありません。

しかしながら、司祭としてこのような心配してはいけません。素直に真理を語り、誤謬に反駁していきます。「リベラル、自由主義者」になってはいけません。これは現代の最もなる危険であるので、リベラルにならないように、リベラルにならないための聖徳を特に聖母マリアに願いましょう。というのも、聖母マリアは一度もためらうこともなく、言い逃れをされたこともなかったからです。ですから、毎日毎日、聖母マリアにより頼んで、言い逃れしないように、ためらうことがないように聖徳をあたえくださいと懇願しましょう。また、真理に対して徹底的に忠実でいられるように、つまり、諸世紀にわたって引き継がれてきた真理の聖伝の継承に忠実でいられるように。

要するに、真理の美しさによって信徒たちの霊魂を照らすだけではなく、誤謬をはっきりと否認することによって信徒たちの霊魂を守ることも重要です。神父様は叙階式の記念のために選ばれた絵は真理のための働きをよく示されています。
「私は世の光である」(ヨハネ、8,12)と選ばれたのです。はい、その通りです。イエズスはこの世の光であって、真理を教えて、誤謬を退けるために、我らの知性をも啓蒙して照らしたまうのです。要するに、信仰についての真理を教えていくべきです。

そして、真理の上に、司祭職を果たす働きは何よりも慈悲、憐みの働きです。現代のように狂気の沙汰になっているこの世において、自然徳の慈悲は言うまでもないが、神父様、これから多くの霊魂と出会うことになりますが、その内、悲しみに溺れる霊魂、落胆している霊魂、絶望に陥れている霊魂と出会うことはよくあるでしょう。このように、司祭としてこれらの霊魂を起こすべきです。希望、勇気、喜びを与えて、また剛毅、そして戦いに挑む歓喜などを与えていかなければなりません。これは憐みが命じる働きです。現代においてこそ特に欠かせない働きです。というのも、現代の社会も残念ながら一般的な教会ですら、霊魂を上へ高まるように励まなくなったどころか、現代の社会は霊魂たちを地獄へ落としていくばかりです。

はい、神父様、憐みをぐれぐれも実践してください。すでに、告解の秘跡を授けることによってこの働きを始められたかと思います。
現代に置かれている霊魂たち、我々の信徒たちはいつもいつも罪に落ちるように多くの誘惑に攻撃されているのが現状です。都会はなおさらでしょうが、田舎でもどこでも社会というか、この世は美しい霊魂、良き霊魂をどうしても罪へ落とそうとしているのです。

そして、我々の可愛そうな信徒たちはこの世の悲惨事を見ながら、それに抵抗するために、司祭が授ける秘跡と典礼だけが拠り所となって助けとなっていくわけです。典礼と秘蹟によって、これらの霊魂の励みになり、引き立てられ、立ちなおるのです。
ですから、絶望が普及している現代である分、厳しくするよりも、憐み深くていられるようにしましょう。ですから、神父様たち、霊魂と出会って、いつもいつも憐み深くていてください。先週の福音で仰せになったようにイエズス・キリストに倣って行きましょう。「私はこの人々を哀れに思う。空腹のままに帰らせるに忍びぬ。途中で倒れてしまうかもしれない」(マテオ、15,32)

ですから、神父様たちよ、与えられた信徒たちを憐み、彼らの転びや落ちを憐れんでください。彼らの悲惨事を憐み、彼らを慰め、助けて引き立てるのです。同時に、罪と戦うことを怠らないでください。憐み、慈悲の聖徳というのは、絶対に罪への妥協、あるいは許可ではありません。その逆です。本物の慈悲は悲惨事を助けるということで、罪をなくすことによって、惨めな人を楽にさせるわけです。ですから、信徒たちの霊魂とともに、踏ん張って罪と戦ってください。

また、憐みと慈悲の実践は同僚たちにたいして実践するように言っておきましょう。司祭兄弟会なので、兄弟とみなしてともに生きていくことになります。また兄弟のようにお互いに選びあっていないものの、お互いに愛徳を実践していかなければならないのです。これから、いくつかの仕事に任命されたりして、場合によって上司としても任命されることになりかもしれません。すべての任命において、同僚へのもっともなる憐みで振舞いなさい。殊に、年配の同僚へはなおさらのことです。年配の方々は長年にわたって司祭職を果たすために全力を尽くし何も惜しまなかったからです。また、いつの時代のことでもあるのですが、現代においてこそ、長年にわたっての忠実な働きによる、絶えずに諸前線で戦い続けなければならないことから生じる疲労もたまっているでしょう。

最後に、司祭職を果たす時、慈悲と真理は出会うでしょうが、ことに十字架上の下に入る時にこそ、真理と慈悲は出会うということです。はい、司祭職に勤しむ時、真理のために尽くす時も慈悲のために尽くす時も、それを果たすための力は、我らの主、イエズス・キリストの十字架においてこそ得ていくわけです。ことに、毎日、お捧げするミサ聖祭においてです。

ある聖歌で、十字架は雄弁者の説教壇であるよと歌っているように、ミサ聖祭はまさに雄弁者の説教壇です。そして、全力を尽くして何も惜しまないで厳守している聖伝ミサこそは雄弁者の説教壇です。ですから、保障します。迷っていた多くの霊魂ははじめてミサ聖祭と典礼と接触して、回心して避難所に戻ったら、あなたたちにいうでしょう。この典礼こそ、ラテン語ができていないのにラテン語であっても、このミサはどれほどいろいろなことを語ってくれるか、慰めてくれるか、齎(もたら)してくれるか、天主の偉大さ、栄光などを示してくれるか、我々への主の憐みを示してくれるかは、信徒たちによってよく言われています。

十字架即ちミサ聖祭は雄弁者の説教壇です。つまり、司祭の使徒職の中心はミサ聖祭です。他のすべての働きと信徒たちのために行っていく物事は、ミサ聖祭から自然に湧いてくるまでです。また、ミサ聖祭と同じように、十字架こそは生命の源なのです。ですから、この命の源の水を信徒たちに分かち合っていき、憐みを与えていくことです。

また、カトリック信徒の生活の輝きは聖体拝領にあるということを深く理解して、信徒たちに理解してもらうように努めなさい。また、とくに現代において、聖体拝領によってこそ霊魂はどれほど強化されること。聖体拝領は真の人、真の天主であるイエズス・キリストご自身を霊魂に与えられる素晴らしいことです。つまり、我々、この世の旅人であるのですが、イエズス・キリストは聖体拝領によって、我々の案内の人になってくださって、我々を慰めるために、癒すために、我々の道連れになってくださいます。
また、エンマウスの弟子たちのように、「Mane Domine, Mane nobiscum」「私たちとともに泊りください」とよく誓願するように信徒たちと一緒によく祈るようにならってください。

十字架こそは天主を要約します。十字架こそ、天主の愛を要約します。また、叙階式の記念絵にある「私は世の光だ」と十字架は非常によく示しているのです。
神父様、イエズスに従って、イエズスに倣って、イエズスに続いて、あなたもこの世の光になっていくことです。真理を証明して、真理を教えていくことによって世の光になるのです。また、人々のために憐みを実践していくことによって、希望を与えて、その火を霊魂にあたえることによっても世の光になっていくことです。光とは温まるものです。十字架とミサ聖祭によって、あなたがた神父様、信徒たちの霊魂を温めるのです。天主の愛徳によって霊魂は温まるのです。

司祭職はどれほど立派な使命であるかな!偉大な使命であるかな!我々の主、イエズス・キリストはこのような偉大な司祭職を果たすように我々を呼び求めたので喜びましょう。真理と慈悲の使命であり、またイエズスに従って祭壇に、司祭と犠牲者になっていく使命です。

聖母マリアに祈りましょう。特に、み摂理的にも、本教会で特に崇拝している聖職者たちの聖母に祈りましょう。司祭職の使命にずっとずっと忠実であり続けるように。また、何があってもどれほど混乱しても、いつもいつも熱心でいられるように。解放してくれる真理への熱心。救ってくれる憐みへの熱心。我々を永遠に活かしてくれる十字架のへの熱心。アーメン。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

怒りと赦し|怒りの三つの程度、三種類の刑罰

2021年09月01日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております


クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様の説教「怒りと赦し」
2020年06月27日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
「兄弟を怒る人は審判を受けるだろう、また兄弟に向かって愚者(おろかもの)よという人は、衆議所に渡されるだろう、また気狂者よという人は、ゲヘンナの火を受けるだろう。」(マテオ、5,20-24)

いと愛する兄弟の皆様、福音書のこの教えは過剰に厳しいに見えるかもしれません。というのも、絶対に怒らない人は一体いるだろうかということで、永遠の劫罰が避けられないのではないかというような疑問を持つ人がいるかもしれません。

我らの主イエズス・キリストは悪を根絶するためにこのように教えられます。悪の種自体をなくすように教えられています。つまり愛徳を壊す悪、切りのない、終わらない敵愾心を産む悪、イエズスの神秘体の構成員たちを対立させる悪、天主が愛しておられる平和を遠ざける悪、サタンのための道を開ける悪、サタンの力を増やす悪を根絶するために教えられています。ですから、悪魔の力を破壊するために、愛徳の凱旋のために、我らの主イエズス・キリストは本日の福音書にある掟を制定されたわけです。

ご覧のように、福音書には怒りの三つの程度に合わせて、三種類の刑罰が規定されています。

第一の程度は、怒りという激情に同意しているものの、一応心の内に抑えられている時です。苛立ちの僅(わず)かな動きのような、何かの予想外の不愉快あるいは失敗に溢(あふ)れる不機嫌のような時です。つまり、思いの罪であり、あるいは隣人に対する恨みの思い、または隣人に悪いことが起きるように願う思い、あるいは隣人がなにか失敗している時の喜び、あるいは逆に隣人が成功している時、悲しむ思いというような思いの罪です。また、復讐の計画を心の内に企てて満足するような思いの罪です。

ここで注意していただきたい点があります。我らの主はあらゆる怒りを断罪しているわけではありません。兄弟に対する怒りを断罪しているのです。我らの主は明らかに仰せになって、兄弟という言葉と使われておられます。言いかえると隣人に対する怒りを断罪しておられるのです。いと愛する兄弟の皆様、これは重要です。罪源である怒り、悪徳である怒りを、この世にある多くの罪に対する正当な憤怒と混同してはいけません。

悪自体に対して憤怒するということは怒りの罪にならなくて、単なる判断です。さらにいうと、もしも憎むべきことにたいして憤怒しなければ、我らの徳はもはや徳でなくなって、むしろ怠惰さ、卑怯さになるだけです。聖アウグスティヌスはこのとても重要な区別について明解にしてくれます。「兄弟が犯した罪に対して怒る人は兄弟に対して怒るのではない。」そこに大事な区別があります。



要するに、愛する兄弟が犯した罪に対して怒ることは批判すべきことではないどころか、善いことです。善を愛しているゆえに、聖なる愛徳の実践を愛しているゆえに、隣人を愛しているゆえに、隣人は罪を糺(ただ)して改善するための怒りなら、悪い怒りではないのです。

逆に自尊心が傷つけられたから怒るのなら、激情に負けて冷静でなくなるのなら、不正にも卑(いや)しくも怒るのなら、必ず罪になるのです。

ですから、このように善き怒りもあります。正当な落ち着いた怒りもあります。このような聖なる怒りは相手を追い詰めようとするのではなく、逆に相手を和らげようとするのです。聖なる憤怒です。ですから、隣人を本当に愛する時に、愛する人が罪を犯すことに対して怒らないでいられないのです。

またこの世に蔓延(はびこ)るスキャンダル、悪徳、悪行の前に、天主様を侮辱する物事の前に怒らないでいられないのです。このような怒りは高貴な怒りとなります。このような怒りは兄弟に対して怒るのではなく、兄弟のために怒る時の怒りです。聖アウグスティヌスがいうように、つまり罪を打つ怒りでありながら、罪人を助ける怒りです。また、相手を治そうとして、解放してあげようとする怒りであります。いわゆる医者のように、死にかけている病者を治療しようとするとき、病者が痛くて医者を罵っても医者が平気にいられるようなことです。

しかしながら、いと愛する兄弟の皆様、もちろん、兄弟を糺(ただ)すことは非常にデリケートなことであって、簡単なことではないことは言うまでもありません。そうするために、権威、忍耐さ、ある種の静謐(せいひつ)な心境を必要としています。ですから、もしも兄弟を糺(ただ)さざるを得ない場合が出たら、恐れ多くて、何らかの恨み、復讐の思いは絶対に入ってこないようにくれぐれも警戒しながら、熱心に兄弟を糺(ただ)すしかないのです。

怒りの第二の程度とは、怒りの激情のあまりに、心の中に留まることができなくて、「言葉」で怒りを表す時です。それほど意味を成さない言葉になるかもしれないが、とにかく相手を傷つける言葉を発する時です。喧嘩する時の文句、わめきなどです。もちろん、このような場合になると、思いにとどまった罪よりも深刻な罪となります。福音書にあるように、「愚者(おろかもの)」よという人は、衆議所に渡されるだろう」と。

辛辣になった熱心さ、悪だけを齎(もたら)す気難しさなどです。福音書にある「Raca」という言葉は軽蔑的な表現なのです。ある種の罵言だと言いましょう。あるいは冷やかしのような言葉です。つまり、非常に深刻な罵りでもないという感じですが、侮辱する気持ちを表すことなのです。いわゆる、つい言い出された言葉で、それほど罪深いことでもないように見ると思われるかもしれませんが、善き天主は我々が完成者になるようにお望みで、どれほどの僅かな罪の根絶ですら求めておられます。

いつも、我々はお互いに敬意を払いながら、敬意のしるしを与えながら降り舞うようにと天主は我々に命じておられます。そうすると、より深刻な混乱にならないために事前にこのような混乱を防ぐためでもあります。ですから、このような怒りにならないために、何か言いたいときに、何かやりたいときに、必ず前もって随分に考えておく習慣を身につけるのがよいと思われます。そうすると、激情が発生してもわれわれは動じないように修行するということです。

第三の怒りの程度ははっきりとした間違いのない侮辱の行為です。福音書には、「気狂者よという人は、ゲヘンナの火を受けるだろう」とありますね。いわゆる、単なるついに言い出した憤怒の言葉よりも深刻な罵りです。キリシタンに対してこのような罵りを発することはなお更に深刻な罪となります。というのも、洗礼を受けた者は天主の養子になった分、さらに天主に対する深刻な侮辱の行為になるからです。

また、いわゆる恨みの念に同意して、嫌悪感になってしまうような怒りです。このようになると、天主の前に死に値する罪となります。つまり大罪です。福音書によると「ゲヘンナの火を受ける」罰になりうる罪です。
ちなみに、ゲヘンナとはヒンノムの子供の谷という場所でした。この場所はモロク神へ捧げられた子供たちの生贄によって冒涜された場所で呪われた場所です。また、そのあと、エルサレムのゴミ捨て場となって、蛆(うじ)が蔓延(はびこ)っていた場所でした。そういったような場所だったので、転じて、地獄を指すために使われた言葉となりました。
つまり、死体を貪(むさぼ)る蛆(うじ)が永遠に死なない地獄、燃やす火が永遠に消えない場所である地獄です。深刻な怒りという罪を犯す人々のために用意されている地獄です。

聖ヨハネも書簡においてこのように書きます。「私たちが死から命に移ったのは、兄弟を愛するからであって、愛さない人は死の中に留まっていることを私たちは知っている。兄弟を憎む者は人殺しであって、人殺しはその中に永遠の命をとどめていないことをあなたたちは知っている。」(ヨハネの第一の手紙、3,14-15)

この言葉によって本日の福音書にある我らの主の言葉は確認されています。
たとえてみるとこのように怒る者は蜂(はち)であるかのようです。追いかける人の身体に針を刺していく蜂が針を失うとともに命をも失います。
このように、死をもたらす怒りに陥れる人は自分の心に悪魔に避難所を与えるのです。そして悪魔は実際にあった侮辱の行為を過剰に大げさに見せかけて、感情と精神を煽り、理性と判断力を濁らせるのです。そして、怒りによって盲目となった人はどういった罪を犯しているかもどういった危険に自分をされているかも見えなくなります。

また、このような怒りの結果、喧嘩、暴言、中傷、誹謗、冒涜、呪詛、祟り、戦争、分離などが生まれるわけです。このような怒りは不正行為を招いて、また妬(ねた)みの気持ちを増やして、また悪意を持った行動、復讐、殺人などを齎(もたら)すのです。
時には、この怒りは天主までを直接に対象にして、軽率にも天主に対する文句、非難、不公平などをいうのです。

このような怒りを治すために天主への愛を基(もとい)にしている愛徳の実践によってしか治療できないのです。

つまり、我らは皆、天におられる同じ父の養子になる資格を持っている人々であることを常に思い起こすことが重要です。また洗礼者なら、同じ神秘体の一員であり、同じ永遠の命のために選ばれた者であるということについて思い起こし、隣人への愛徳を実践するということです。ですから、このようなことを知り、つまり全人類は救霊の対象であり、同じ永遠の命のために造られた者であるなどの真理は、嫌悪感と相容(あいい)れないわけです。

「ゆえにもしもあなたが、祭壇に供え物を捧げるとき、兄弟から恨まれることがあると、そこで、思い出すならば、供え物を、そこ、祭壇の前にのこしおき、先ず行って兄弟と和睦し、その後に来て供え物をささげよ」(マテオ、5、24)

我らの主は「私への礼拝は中止してでも、愛徳を大切にせよ」と言わんばかりです。というのも、これは、本物の礼拝を私たちができるように助けてくださるということだからです。イエズスとその御父に値する唯一なる真の礼拝であるミサ聖祭のために、イエズスは聖なる生贄を捧げるために、我々に清く聖なる心境であるように求めておられます。というのも、愛徳の精神と恨みの気持ちに邁進(まいしん)する心と一体何か共通しているでしょうか。何もありません。

ですから、お祈りするためにも、自分の霊魂は天主のすぐ近くにいるように心の準備をすべきです。そして、恨(うら)みや侮辱(ぶじょく)の思いなどはこのような祈りに対する大なる障害です。赦免(しゃめん)、人々の罪を赦すことなどは、逆に天主にまで我々の祈りが届けるための最高の準備です。



いと愛する兄弟の皆様、最初の時代の時、天主はアベルが捧げた生贄(いけにえ)を召し給うことを見よ。正義を全うして、素直に捧げられた生贄でした。一方、天主はカインが捧げた生贄を退けられました。カインの心には兄弟、アベルに対する妬(ねた)み、憎しみがあったからです。要するに、自分の心の奉献を伴わない生贄、供え物は天主に召されないのです。我らの主は我らを彼とともに父に捧げることにしておられます。また、天主はどの供え物、犠牲よりも、我々自分自身の奉献、犠牲を求めておられます。

我らの主の生贄はまさに赦免(しゃめん)、お赦(ゆる)しの生贄です。御父の赦免を得しめるために、イエズス・キリストは自分の御血を流すことを惜(お)しまれなかったほどです。しかしながら、我らは同じ人間である隣人、つまり、天主に対して全く同等である隣人の赦免を得るために、僅(わず)かな一言ですら言わないことにするとはなんたることか。

聖壇に近づいてイエズス・キリストご聖体を拝領する前に、一旦(いったん)このようなことを考えてみましょう。心の平和がなければ、天主の平和に近づくことは一体どうやってあり得ることですしょうか。隣人の借りをチャラにしてあげられないのに、自分に対する恩があるからといって、恩を着せるような隣人をきつく扱っているのに、我々は一体どうやって天主に自分の借りへのチャラをお願いできるでしょうか。また、兄弟に対して苛立っているままであるのに、いったいどうやって御父を鎮められるでしょうか。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々はもしも、怒りによって罪を犯した場合、侮辱を受けた時、赦免してあげましょう。和睦(わぼく)しましょう。思いによって隣人を侮辱した場合、思いにおいて内面の心の祭壇の前に和睦を果たしましょう。言葉によって隣人を侮辱した場合、言葉によって和睦しましょう。そして、より重大な具体的な弊害を隣人に与えた場合、何らかの具体的な恩恵を与えて、全てを施(ほどこ)すことによって和睦しましょう。
逆に、自分は隣人の怒りの犠牲になった時、つまり、自分は侮辱された時、この場合に限ってもちろん、侮辱した者に「お赦し」を願う筋はありませんが、天主に赦しをいただきたいほど、隣人を速やかに赦しあげましょう。



イエズス・キリストは福音書において「兄弟から恨(うら)まれることがあると」とだけ仰せになって、状況は何も限定されていない言い回しです。公平に恨まれるか(自分が何らか悪いことをやったので、相手が怒って自分を侮辱して復讐した時)、不公平にも恨まれるか(自分が何もしていないのに、あるいは善いことしているのに、相手が怒って自分を侮辱して復讐する時)という両方の場合が想定されています。

それは、我々は無限に愛徳を実践するように我らの主は推奨しておられるわけです。つまり、御聖体を受けるために、私が誰かを侮辱した場合、事前に和睦する義務がもちろんあります。ところが、さらにいうと、不公平に怒られたとしても、義務にならないものの、完全に愛徳を実践するために、それでも和睦するために、隣人の動きを待たないで、自分から手を出すように勧められています。アーメン

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン