白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック神父様(G.Billecocq)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
G.Billecocq神父の説教
2022年8月14日
霊は同じである(コリント人への第一の手紙、12、2―11)
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる兄弟の皆さま、本日の書簡において、聖パウロは「カリスマ」と呼ばれる賜物をリストアップしてあります。天主より無償に与えられているもろもろの恩寵をさしますが、これらの賜物は隣人の善と教化のために与えられる賜物なのです。
しかしながら、このような恩寵のリストを記しながら、聖パウロは一つの重要な真理を述べています。「霊的な賜物は異なるが霊は同じである。」「これらすべては唯一の同じ霊がおこなうことである」と。
カトリック教会は一つの「社会」であるという真理は聖パウロが思い起こさせてくれます。カトリック教会は我らの主イエズス・キリストによって制定された社会です。これは信条です。つまり啓示されて、信じるべき信条であって、これを信じなければ異端者になるということです。言いかえると、カトリック教会はイエズス・キリストによって制定された社会であることを信じない信徒は異端者となり、つまり信仰を失ったということになります。
教会は社会になっているのですが、なぜでしょうか。答えは単純です。聖寵とは我々の本性(人間性)を基にしているからです。そして、人間の本性には人間が社会的な存在であることがあります。
要するに、人は必ず社会において生きています。生まれながら社会の内に生きています。人間の特徴ですし、自然なことです。否応なしにも、人なら、必ず家族という社会の内に生まれ、その世話と成長のために必要としています。そして、人の成長、完成化も社会の内に行われています。生きるためにも(食衣住)善く生きるためにも(道徳を実践して一人前の人になる)、社会を必要としていて、社会のお陰で生きるためにも善く生きるためにも必要とすることを得られます。
言いかえると、アリストテレスの言葉を借りると、本性次元の真理になりますが、「社会で生きることのできない者は動物であるか天使であるか」と言います。要するに、人間は社会的な動物なのです。
我々の本性をも創造し給うたゆえに我々の社会的な本性という現実を誰よりも知っておられるので、我らの主イエズス・キリストは救いの船なる教会を制定なさった時、社会として制定なさいました。
このように人間は生まれながら社会的な存在なので、この本性に相応しい制度を制定し給い、よく育まれた本性はさらに超自然の次元において聖寵の命の成長も社会を必要としています。
このように、人は同類抜きに生きていけないわけです。聖パウロは書簡においてこのような単純な真理をも示してくれます。各人は異なる賜物があります。皆、異なって、皆の強み、性格、能力が異なるお陰で、お互いに助け合って社会的な生活を営むのです。人は人なので、同類抜きに生きていけない現実です。
真の人なるイエズス・キリストですら、この現実を経験することになさいました。我らの主、イエズス・キリストはこの世に来給い、使徒たちからなる共同体の内に生きておられました。このように、社会的な生活をイエズス・キリストはあえて経験することになさいました。このように、社会における生活による悩み、苦労と困難などをも経験しておられました。
はい、社会に生きていて苦労、悩みと困難もありますが、本来の秩序が乱れた罪の弊害によるものですが、我々の本性に刻まれる「人間の社会性」なので、人間にとって人間の成長と完全化のために必要不可欠な事柄だと忘れてはいけません。
カトリック教会は社会です。このように、キリスト教徒なら、いわゆる単に人間としてだけ社会で生きなければならないのではなく、キリスト教徒としても教会という社会で生きなければならないということです。
以上のような事実より発生する帰結は何でしょうか。カトリック教会の実際な営みについて何が見えるでしょうか。自然社会と同じように、超自然社会なる教会においても、各位はみんな、異なる賜物を以て、お互いに奉仕しあうことによって成り立つということです。
自然社会には皆、異なる仕事などをすることによって、お互いに助け合って補い合って、一定の調和ができるようになって、「社会」として成り立つわけです。超自然の社会においても一緒です。
親愛なる兄弟の皆様、超自然の社会においても賜物は各位に不平等に与えられています。社会の善のために、それぞれ皆、異なる賜物があります。ある人は敬虔徳の賜物があったり、ある人は涙の賜物があったり、またいろいろ与えられたりします。聖人の人生を見ていくと、聖人も霊的な賜物をもったりします。そして、各聖人には異なる賜物があります。時代のニーズとその使命次第に賜物は与えられています。これらの賜物は隣人のためにあるわけです。
いとも親愛なる兄弟野皆様、この真理は重要です。異なる賜物は隣人のためにあるわけです。我々はキリスト教徒としても社会的な存在です。霊的な賜物は隣人のためにあって、奉仕しあうためにあり、お互いに助け合うためにあります。
ガラツィア人への手紙において、聖パウロは以上の真理をよく述べてくれます。毎日の日課聖務で祈ります。
「Alter alterius onera portate(互いに重荷を負え)」(ガラツィア人への手紙、6,2)つづいて「et sic adimplebitis legem Christi(そうすれば、あなたたちはキリストの法をまっとうできる。)」ですから、超自然の社会の内によく生きていきましょう。
親愛なる兄弟の皆さま、よくある話ですが、我々の内にも時々、にらみ合うことがあるでしょう。妬みの念で見るか、苦々しい目でみるか。それはなくても、ほぼずっとあるのは、自分にない、隣人にある欠点を見出す破壊的な目線はよくあるでしょう。
このように、誰にも隣人を評価する、裁く傾向があるでしょう。要するに、隣人の欠点、弱みを見て、消極的に隣人を見比べる傾向が時にあるでしょう。
親愛なる兄弟の皆さま、欠点よりも隣人の強み、長所、美点を見ることにしましょう。超自然の長所も含めて。隣人の短所に止まらないでおきましょう。隣人の霊魂に天主より付与された善を見ることにしましょう。これが重要です。所詮、隣人の長所は隣人の長所であるというよりも、天主が付与し給った賜物であり、皆に奉仕するための賜物であると知りましょう。
言いかえると、皆一人一人は何らかの形で隣人のために奉仕することがあります。しかしながら同時に、裏を返せば、どの隣人でも私のためにもたらしてくれる超自然な善があるということです。
このように、超自然の生命で生きていくなら、隣人と一緒に生活していく義務があり、隣人を愛する義務があります。また隣人にある賜物をも評価して、これらの賜物による善を享受して、自分が持っている賜物を隣人のために使う義務があります。
我々は義侠の騎士ではありません。また、我々は破門を宣言する者でもありません。特に隣人がカトリックなら、あっさり破門のような発言をすることも見られますが、それはよくありません。
親愛なる兄弟の皆様、カトリック教会では超自然の次元で、お互いに奉仕しあう義務があるので、「個人主義」というようなものはありません。
有名な諺でご存知だと思いますが、「独りで救われることもなければ、独りで地獄へ落とされることもない」と言います。確かにそうなのです。
「独りで救われることもなければ、独りで地獄へ落とされることもない」
カトリック宗教は個人事業ではありません。隣人に対して無関心で個人だけ、自分だけの救いを考慮するような宗教ではありません。個人主義的なこのような宗教はプロテスタントが齎した要素です。教会の位階制を否定したことによって、プロテスタント主義がはじめて純粋な個人主義、個人至上主義をもたらしました。(近代の始まりでもあります。)
言いかえると、プロテスタント信徒は天主と個人との一対一だけの関係となり、隣人は排除されます。隣人への愛徳の施しが中断されて、また秘跡を通じて司祭職が齎す恩寵をも拒むプロテスタントの態度で、その結果、霊魂へ恩寵の注入は拒まれます。超自然上の人間社会性は否定されます。
だから、秘蹟は社会的な儀礼であるので、プロテスタントになると、秘蹟は否定されるのが必然です。司祭などの必要も人間の社会性から生じるので、超自然上の人間社会性が否定されて、司祭職も位階制も否定されるのが必然です。ミサ聖祭もこの上なく社会的な(古典的な意味での)政治的な儀礼なので、プロテスタントになると、それが否定されます。プロテスタントになると、天主との一対一の関係への一切の介入、奉仕、助けは排除されます。
このようにプロテスタントは宗教上に個人主義という毒を入れましたが、時間に連れてこの個人主義は政治社会、世俗社会へ広まって、現代に至って全社会は個人主義という癌にかかっています。
残念ながらもカトリック教会ですら、この病にかかりました。「近代主義」と呼ばれる誤謬によってです。近代主義の誤謬は悪狡いわけです。なぜなら、カトリック教会の位階制自体は正面から否定されていません。つまりカトリック教会が社会であること自体は否定されていません。それは教義を正面から否定するようなことであるので、すぐ異端になったでしょう。
近代主義の誤謬はいわゆるカトリック教会という社会の目的を敢えて変えることによって有害です。本来ならば、カトリック教会の目的は霊的な共通善のために存在するのですが、近代主義が言っているのは、共通善のためではなく、個人個人のために、個性のためにだけあると言います。
位階制などは、指導者などは、個人の前に去らなければならないという空気になって、本来社会秩序を逆さまにされています。本末転倒です。民」が支配していて、「民」の下に指導者たちがいるかのような「逆さまになったピラミッド」となります。
親愛なる兄弟の皆様、本日の書簡を真に受け入れて、我々宛に書かれたとして受け止めましょう。つまり、この書簡に語られている事実をよく認識して受け止めて、教会内を含めて社会的な生活を営む必要をよくしりましょう。そして実践しましょう。
ミサ聖祭に与るのも、小教区に属するのも、自分自身のためだけではありません。お互いに奉仕し合うためでもあります。要するに皆全員は同じ霊の指導の下に、同じ信仰の下に、同じ天主の下に、それぞれ異なる賜物があってこそ成り立つのです。このように我々の教会、小教区、カトリック的な社会の豊かさがあります。みんな、同じだったら何もできません。
そして、このような豊かさをこの世にも齎す義務があります。聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
G.Billecocq神父の説教
2022年8月14日
霊は同じである(コリント人への第一の手紙、12、2―11)
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる兄弟の皆さま、本日の書簡において、聖パウロは「カリスマ」と呼ばれる賜物をリストアップしてあります。天主より無償に与えられているもろもろの恩寵をさしますが、これらの賜物は隣人の善と教化のために与えられる賜物なのです。
しかしながら、このような恩寵のリストを記しながら、聖パウロは一つの重要な真理を述べています。「霊的な賜物は異なるが霊は同じである。」「これらすべては唯一の同じ霊がおこなうことである」と。
カトリック教会は一つの「社会」であるという真理は聖パウロが思い起こさせてくれます。カトリック教会は我らの主イエズス・キリストによって制定された社会です。これは信条です。つまり啓示されて、信じるべき信条であって、これを信じなければ異端者になるということです。言いかえると、カトリック教会はイエズス・キリストによって制定された社会であることを信じない信徒は異端者となり、つまり信仰を失ったということになります。
教会は社会になっているのですが、なぜでしょうか。答えは単純です。聖寵とは我々の本性(人間性)を基にしているからです。そして、人間の本性には人間が社会的な存在であることがあります。
要するに、人は必ず社会において生きています。生まれながら社会の内に生きています。人間の特徴ですし、自然なことです。否応なしにも、人なら、必ず家族という社会の内に生まれ、その世話と成長のために必要としています。そして、人の成長、完成化も社会の内に行われています。生きるためにも(食衣住)善く生きるためにも(道徳を実践して一人前の人になる)、社会を必要としていて、社会のお陰で生きるためにも善く生きるためにも必要とすることを得られます。
言いかえると、アリストテレスの言葉を借りると、本性次元の真理になりますが、「社会で生きることのできない者は動物であるか天使であるか」と言います。要するに、人間は社会的な動物なのです。
我々の本性をも創造し給うたゆえに我々の社会的な本性という現実を誰よりも知っておられるので、我らの主イエズス・キリストは救いの船なる教会を制定なさった時、社会として制定なさいました。
このように人間は生まれながら社会的な存在なので、この本性に相応しい制度を制定し給い、よく育まれた本性はさらに超自然の次元において聖寵の命の成長も社会を必要としています。
このように、人は同類抜きに生きていけないわけです。聖パウロは書簡においてこのような単純な真理をも示してくれます。各人は異なる賜物があります。皆、異なって、皆の強み、性格、能力が異なるお陰で、お互いに助け合って社会的な生活を営むのです。人は人なので、同類抜きに生きていけない現実です。
真の人なるイエズス・キリストですら、この現実を経験することになさいました。我らの主、イエズス・キリストはこの世に来給い、使徒たちからなる共同体の内に生きておられました。このように、社会的な生活をイエズス・キリストはあえて経験することになさいました。このように、社会における生活による悩み、苦労と困難などをも経験しておられました。
はい、社会に生きていて苦労、悩みと困難もありますが、本来の秩序が乱れた罪の弊害によるものですが、我々の本性に刻まれる「人間の社会性」なので、人間にとって人間の成長と完全化のために必要不可欠な事柄だと忘れてはいけません。
カトリック教会は社会です。このように、キリスト教徒なら、いわゆる単に人間としてだけ社会で生きなければならないのではなく、キリスト教徒としても教会という社会で生きなければならないということです。
以上のような事実より発生する帰結は何でしょうか。カトリック教会の実際な営みについて何が見えるでしょうか。自然社会と同じように、超自然社会なる教会においても、各位はみんな、異なる賜物を以て、お互いに奉仕しあうことによって成り立つということです。
自然社会には皆、異なる仕事などをすることによって、お互いに助け合って補い合って、一定の調和ができるようになって、「社会」として成り立つわけです。超自然の社会においても一緒です。
親愛なる兄弟の皆様、超自然の社会においても賜物は各位に不平等に与えられています。社会の善のために、それぞれ皆、異なる賜物があります。ある人は敬虔徳の賜物があったり、ある人は涙の賜物があったり、またいろいろ与えられたりします。聖人の人生を見ていくと、聖人も霊的な賜物をもったりします。そして、各聖人には異なる賜物があります。時代のニーズとその使命次第に賜物は与えられています。これらの賜物は隣人のためにあるわけです。
いとも親愛なる兄弟野皆様、この真理は重要です。異なる賜物は隣人のためにあるわけです。我々はキリスト教徒としても社会的な存在です。霊的な賜物は隣人のためにあって、奉仕しあうためにあり、お互いに助け合うためにあります。
ガラツィア人への手紙において、聖パウロは以上の真理をよく述べてくれます。毎日の日課聖務で祈ります。
「Alter alterius onera portate(互いに重荷を負え)」(ガラツィア人への手紙、6,2)つづいて「et sic adimplebitis legem Christi(そうすれば、あなたたちはキリストの法をまっとうできる。)」ですから、超自然の社会の内によく生きていきましょう。
親愛なる兄弟の皆さま、よくある話ですが、我々の内にも時々、にらみ合うことがあるでしょう。妬みの念で見るか、苦々しい目でみるか。それはなくても、ほぼずっとあるのは、自分にない、隣人にある欠点を見出す破壊的な目線はよくあるでしょう。
このように、誰にも隣人を評価する、裁く傾向があるでしょう。要するに、隣人の欠点、弱みを見て、消極的に隣人を見比べる傾向が時にあるでしょう。
親愛なる兄弟の皆さま、欠点よりも隣人の強み、長所、美点を見ることにしましょう。超自然の長所も含めて。隣人の短所に止まらないでおきましょう。隣人の霊魂に天主より付与された善を見ることにしましょう。これが重要です。所詮、隣人の長所は隣人の長所であるというよりも、天主が付与し給った賜物であり、皆に奉仕するための賜物であると知りましょう。
言いかえると、皆一人一人は何らかの形で隣人のために奉仕することがあります。しかしながら同時に、裏を返せば、どの隣人でも私のためにもたらしてくれる超自然な善があるということです。
このように、超自然の生命で生きていくなら、隣人と一緒に生活していく義務があり、隣人を愛する義務があります。また隣人にある賜物をも評価して、これらの賜物による善を享受して、自分が持っている賜物を隣人のために使う義務があります。
我々は義侠の騎士ではありません。また、我々は破門を宣言する者でもありません。特に隣人がカトリックなら、あっさり破門のような発言をすることも見られますが、それはよくありません。
親愛なる兄弟の皆様、カトリック教会では超自然の次元で、お互いに奉仕しあう義務があるので、「個人主義」というようなものはありません。
有名な諺でご存知だと思いますが、「独りで救われることもなければ、独りで地獄へ落とされることもない」と言います。確かにそうなのです。
「独りで救われることもなければ、独りで地獄へ落とされることもない」
カトリック宗教は個人事業ではありません。隣人に対して無関心で個人だけ、自分だけの救いを考慮するような宗教ではありません。個人主義的なこのような宗教はプロテスタントが齎した要素です。教会の位階制を否定したことによって、プロテスタント主義がはじめて純粋な個人主義、個人至上主義をもたらしました。(近代の始まりでもあります。)
言いかえると、プロテスタント信徒は天主と個人との一対一だけの関係となり、隣人は排除されます。隣人への愛徳の施しが中断されて、また秘跡を通じて司祭職が齎す恩寵をも拒むプロテスタントの態度で、その結果、霊魂へ恩寵の注入は拒まれます。超自然上の人間社会性は否定されます。
だから、秘蹟は社会的な儀礼であるので、プロテスタントになると、秘蹟は否定されるのが必然です。司祭などの必要も人間の社会性から生じるので、超自然上の人間社会性が否定されて、司祭職も位階制も否定されるのが必然です。ミサ聖祭もこの上なく社会的な(古典的な意味での)政治的な儀礼なので、プロテスタントになると、それが否定されます。プロテスタントになると、天主との一対一の関係への一切の介入、奉仕、助けは排除されます。
このようにプロテスタントは宗教上に個人主義という毒を入れましたが、時間に連れてこの個人主義は政治社会、世俗社会へ広まって、現代に至って全社会は個人主義という癌にかかっています。
残念ながらもカトリック教会ですら、この病にかかりました。「近代主義」と呼ばれる誤謬によってです。近代主義の誤謬は悪狡いわけです。なぜなら、カトリック教会の位階制自体は正面から否定されていません。つまりカトリック教会が社会であること自体は否定されていません。それは教義を正面から否定するようなことであるので、すぐ異端になったでしょう。
近代主義の誤謬はいわゆるカトリック教会という社会の目的を敢えて変えることによって有害です。本来ならば、カトリック教会の目的は霊的な共通善のために存在するのですが、近代主義が言っているのは、共通善のためではなく、個人個人のために、個性のためにだけあると言います。
位階制などは、指導者などは、個人の前に去らなければならないという空気になって、本来社会秩序を逆さまにされています。本末転倒です。民」が支配していて、「民」の下に指導者たちがいるかのような「逆さまになったピラミッド」となります。
親愛なる兄弟の皆様、本日の書簡を真に受け入れて、我々宛に書かれたとして受け止めましょう。つまり、この書簡に語られている事実をよく認識して受け止めて、教会内を含めて社会的な生活を営む必要をよくしりましょう。そして実践しましょう。
ミサ聖祭に与るのも、小教区に属するのも、自分自身のためだけではありません。お互いに奉仕し合うためでもあります。要するに皆全員は同じ霊の指導の下に、同じ信仰の下に、同じ天主の下に、それぞれ異なる賜物があってこそ成り立つのです。このように我々の教会、小教区、カトリック的な社会の豊かさがあります。みんな、同じだったら何もできません。
そして、このような豊かさをこの世にも齎す義務があります。聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン