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プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?【全文】その2

2018年12月31日 | カトリック
2018年12月1日(土)に開催された、「カトリック復興の会」でビルコック神父様による講話が上映されました。皆様に全文をご紹介します。

プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)ビルコック(Billecocq)神父による哲学の講話



プロテスタントの教えとその政治的な結果について(後編)



ビルコック(Billecocq)神父様に哲学の講話を聴きましょう

(続き)
では、これからより理論的にプロテスタント主義がもたらす結果を分析しましょう。

先ほどに申し上げましたが、プロテスタント主義の第一の特徴は、統一の欠如にあります。しかしながら、政治的生活の根本には統一が必要です。一国なり、一家なり、一族なり、何か統一される共同体が前提になります。例えば、政治の基礎を成す単位は、家族ですが、自分の家に対して、「うちの家」といいますね。「うちの一族」といいますね。「うち」でないと、自分が属する家として成り立ちません。なぜでしょうか。家族という基礎社会を構成する違う人々の個性を越えて、社会の構成員の統一を成す絆があるわけです。家族なら夫婦と子供の間に血縁と親縁(親しみの心)という絆はその統一を成すわけです。そういった統一は実際に自然にあります。家族の例だと、血縁という絆に基づく統一です。

プロテスタント主義は、自由解釈のせいで、不和の種を潜在的にしろ常に持っています。言い換えると、プロテスタント主義は統一をもたらすことはできなくて、不和をもたらします。まず、勿論、理論上の不和・分離(不統一)をもたらします。そうして、教義上の統一が消えたら、間もなくして政治上の統一も消えます。不和をもたらすことによって、プロテスタント主義は社会の統一を破壊します。ところで、この統一は、社会の共通の善(公共のための善)の一つであります。従って、プロテスタント主義は、少なくとも種として、社会の共通善に反するのです。つまり、平和に反するのです。平和こそは、社会の共通善の一つですから。言い換えると、プロテスタント主義は社会の目的に反するのです。

自由解釈を訴えることによって、不和をもたらすばかりではなく、結局その先に個人主義をもたらします。なぜかというと、「自由」という価値観を普及させるからです。「自由」こそは、現代において好まれています。「自由」とは、単なる「自由主義」の意味ではなく、人間の根本的な特徴としての、人間の固有の善としての「自由」という意味です。ある意味で、それらの結論は当たり前といったら当り前です。本来ならば、通常ならば、人間の一番大切となる特徴は、完全性は、知性になるはずだからです。そして、知性の完全化もその最高の特徴です。

しかし、プロテスタント主義における知性に対する極端な悲観主義は、知性が物事を知ることができるという能力を否定する悲観主義だからこそ、人間の一番尊敬すべき能力を否定して、人間を堕落しきったものとさせます。ここにおいて知性と真理における避難所が無くなったルターはどこへ避難するでしょうか。「自由」へと避難するのです。しかしながら、問題があります。「自由」と言い出しても、具体的に中身はありません。知性の場合ならば違いますね。知性を語るときに、本来ならば、必ず、真理も登場せざるを得ません。真理を知る知性ですから。要するに、他の能力にも適用できることですが、知性を特徴づけるのは、知性の固有の善である真理をもって特徴づけます。

現代では、ルター的に「自由」について語るときに、「自由」といって、それきりです。まさに、不確定なものとしての自由となります。従って、プロテスタント主義は、個人主義と共に、「絶対的な自由」をもたらすことによって、ある種の不確定主義をもたらします。

本来ならば、人間のどの能力とも同じように、人間と自由を第三者(その善)に関係づけるべきところを、「自由」という能力を完全に独立させて、何によっても確定されなくしてしまうのです。つまりそれ自体の価値にしてしまい、「自由」を特徴づけるものはもうなくなります。いえ、あえて特徴づけるなら「やりたいことをやりたいだけやる」という自由だけです。でも問題は解決しません。「何が欲しいか」「ほしいモノが欲しい」というふうに、「何が」よりも「やりたい気持ち」の方が重んじられるようになります。結果として、以上のように「自由」を定義してしまうと、とどめのない悪循環になり、論理上、終わらない矛盾になります。不確定の「自由」になります。従って純粋な個人主義になります。

要するに、これで行くと人間が自分自身に閉じこもり縮(ちぢ)こまることになります。その上、自分が自分に善を与えるようになります。自由解釈の一つの結果であるこの「絶対的な自由」というものによって、どれほど人間がおのずと共通善を破壊していくかは明白でしょう。つまり、「絶対的な自由」を訴える人にとっての共通善は、もう共通善でなく、(自分の)善になってしまうのですまさに個人主義です。社会の構成員の分裂を意味するに他なりません。共通善も分裂されました。統一を分裂させてしまったことによって、ルターは共通善に反します。この上、絶対的な価値としての自由をもたらすことによって、社会自体も分裂してしまい、それぞれの個人が、自分の善を自分に置かせてしまうわけです。

近代では、こういった発想は、特に実存哲学に濃く見られます。近世の実在主義は結局、無神論になってしまいました。実に、これこそ、面白い帰結です。プロテスタント主義とルター主義は、無神論の萌芽を含むのです。後で触れますが、なぜ、無神論に繋がるかというと、プロテスタント主義は権威者をすべて拒絶するからです。それでは、天主、カトリック教会、聖伝の権威の代わりに置かれるのは、もう人間になってしまうからです。だから、プロテスタント主義において、無神論の種が既にあります。


前回に詳しく触れたのですが、以上を見ると、ルター主義がなぜ根本的に自然主義と密接に繋がっているか明らかになります。自然主義をはじめ、ルネサンス期の諸哲学理論との関係が深いのです。要するに、人間中心主義(ヒューマニズム)です。

さて、「絶対的な自由」に戻ると、実存主義においてそれは見いだせます。実存主義という理論において、人間はある種の自発的な存在となり、自分を自分自身で自らを構造する、と言います。従って、人間は自分自身こそが自分の目的で、自分の善になります。サルトルを読んでみると明白です。そういえば、彼の著書『実存主義、一種のヒューマニズム』の題を見るだけで自明です。人間中心主義になってしまい、その上に、個人主義にもなっています。

その個人主義の内容ですが、個人が自分を作り出すことになるけれども、何も誰にも依存しないで、独立に自分を作るべきだという論調になります。他の人の目線に依存すべきではない、と。何の権威も受け入れない、何の共同体の権威をも受け入れない、と。その個人は、独りぼっちなのです。人間はこの世にほうり投げ出されている感じです。実存主義の哲学者の有名なる「ダザイン(現存在)」の概念は将にこれを示します。その中に、だれにも依存してはいけない、と。依存してしまったら、自分の自由を失うからです。サルトルの「他人こそは地獄だ」の有名なセリフは、その意味で言っているのです。つまり、地獄なのは、他人と一緒に生きるのではなく、「他人の目線に依存することが地獄だ」という意味です。

結局のところ、以上のことは何を意味するでしょうか。「自由」を絶対なこととして捉えることを意味します。しかしながら、「自由」を絶対なこととして捉えることは、非常識にすぎません。「自由」というのは、絶対ではありませんから。もしも「自由」が絶対なことなら、「自由」をもって特徴づけられる人間も、絶対なことになってしまうわけです。ちなみに、近代家たちは、まさにこの結論にいたりますが。で、人間は絶対になってしまい、つまり、天主の代わりに、人間が天主となってしまうのです。

そういえば、ある哲学者が、へーゲルだったか、シェリングだったか、フィヒテだったか、今は思い出しませんが、御覧の通りに、その辺りの思想家です。ドイツ人でありながら、同時になかなかのプロテスタント主義者だといった人々です。ところで、そのうちの一人が、自分の講座が終わった時だと思いますが、授業が終わったら「次回の講話では、私が神を創造して見せます」といったという典型的な逸話があります(笑)。いや、正にこれではないでしょうか。絶対としての自由の立場だったら、人間が独りぼっちで、自分だけが自分を造るわけだから、自分が自分の運命の主だとしているから、もう天主に創造されたとか、天主に依存しているとか、それらはなくなるからです。しかも、その理論だと、逆に、人間が天主を創造して、人間の自分に天主が依存するようになってしまうのです。全く本末転倒です。従って、それで行くのなら、人間が天主を創造する全能なる力を持っているので、天主を創造するのも、天主を破滅させるのも、人間の勝手次第になってしまいます。

もう一度言っておきますが、自由解釈ということの結果は以上のようになります。ルターの理論において、まだ種に過ぎないことは確かです。が、その種があって、すべての基礎があって、発展していったら、「絶対の自由」になっていきます。かなり早いペースで、「自由・平等・博愛」に至ってしまいます。20世紀ではないんです。もう18世紀の早い段階でもうそこまで行っています。

ルターの後に、2世紀もう経っただけのところです。そういえば、教皇ピオ6世だったと思いますが、ある教皇は「フランス革命はプロテスタント主義の一つの結果だ」といっておられたほどです。まさにそうなんです。「自由」が叫ばれる限り、プロテスタント主義の遺産物になります。

以上の実存主義は、別の名前で、20世紀初頭にも知られていたことを加えておきましょう。現代は聞き慣れなくなった呼称ですが、人格主義(ペルソナ主義)という理論です。要するに、人格主義の基礎理論はこうなります。

人格の尊厳は、共通善の代わりに置かれるという理論です。エマネル・ムニエ(Emmanuel Mounier)によって設立された理論です。その後継者はジャック・マリタン(Jacques Maritain)です。それでは、人格主義の根本的な意味はなんでしょうか。これは人格を共通善よりも上に置く理論です。本来ならば、健全な政治理論の場合では、人間が共通善のために順序だてられています。そこで、共通善のために励んで働くのです。そして、共通善のために働くことによって、自分を豊かにするわけで、自分を完全化させます。言ってみると、共通善が人間の善を完全化させると言えます。去年か一昨年かの講演でそれについてお話ししました。

しかしながら、人格主義などでは逆になります。共通善は人間の人格に従うようになってしまいます。つまり、人格が、個人が絶対なことになってしまいます。定義を思い出しましょう。相対なるものは、何かに依存している時に相対だと言います。絶対なるものは、何ものにも依存しない時に絶対だと言います。依存関係はなくなったという時に絶対だと言います。まさに絶対を定義するのはこれですね。あるモノが、絶対になるというと、そのモノが依存する他のモノが一切ないという意味です。ところで、人格主義という理論は、人間の人格を絶対なこととして捉える説です。別の言い方になりますが、また自由を絶対なこととして捉える説に他なりません。人間の尊厳といった表現は、毎日のように聞こえて普及しています。人間の尊厳から出発して、良心の自由、他人への尊厳(無差別)というところに至ります。言い換えると、共通善は廃止されてしまいます。

ちょっと想像してみてください。ある子が、悪戯(いたずら)して、父に叱られるとしましょう。悪戯というか、家族の共通善に反する行為を犯してしまったので、父に罰せられるとしましょう。簡単に言うと、「家の精神」に反した行為を犯したと言ったほうが分かりやすいかもしれません。そこで、その子が「私の人格の尊厳はどうなるのか」と言い出すと想像してください。?☆#!* 当然です。子どもの権利でしょう。人間の権利に続いて、子どもの権利でしょう。これから間もなく、動物の権利にもなるでしょうし、続いて、植物の権利もでてくるでしょう。なんと滑稽なでしょうか。

最後に、以上のこういった絶対な自由の裏に、何かあるかというと、すべての権威への拒絶です。ここでは、政治上の権威のことです。プロテスタント主義の理論からの直接な結果です。念頭においていていただきたいことなのですが、西洋史では、少なくともヨーロッパでは、権威に反乱する理論として、プロテスタント主義は初めて出てきた理論です。勿論、中世期においての混乱とか、争いとかありました。しかしながら、ずっと権威を尊敬する前提だったのです。また、教皇と皇帝の間の軋轢はありました。が、権威に対する尊敬はずっと絶えることなくあったわけです。皇帝も教皇もその権威が無視された事実があったとしても、それぞれの権威は権威としてしっかり認められて尊敬されていたというのも揺るがない事実なのです。

プロテスタント主義は、純粋な単なる権威への拒絶です。権威者をすべて捨てて、従うべき権威を無くす理論です。「権威」を許すことが残っているとしたら、調整者としての権威だけになります。ところが、従うべき権威だとか、最高なる公のため人々に何かを課すべき権威だとかなどは、否定されているのです。

(これは)重大な問題です。なぜかというと、権威を拒絶してしまったら、不和をまき散らすことになりますから。ルターがそうしてしまった通りです。その上に、政治上もまた同じ結果になります。不和の蔓延です。現代を見ると明白でしょう。自由を唱えれば唱えるほど、不和をまき散らすことになります。それで、不和が深く蔓延してしまったらどうなるでしょうか。否が応でもある権威者に譲るしかありません。人間は不和を嫌いますから。だからどうするかというと、やむを得ず、ある権威を求めるようになります。ところが、やむを得ないということで求めざるを得ないのですが、理論の原理として権威を拒絶しているので、正当ではない権威になってしまいます。そこで、その正当のない権威が成り立つためには、暴力を振るっての専制となるしかありません。ホッブスがレヴィアタンと言う名前を付けたのはそこから来るわけです。そこで、国家は暴君になってしまいます。

こうしてかなり逆説的な状況を生みます。ところで、誤謬の特徴は、矛盾となっていることを共存させる逆説ということにこそあります。つまり、権威を拒絶しますが、人間というのは自然体としては権威抜きに生きられない自然体という事実があるので、ある権威が登場せざるを得ません。ところが、自然的にも理性の上でもいかなる権威も阻まれてしまっている理論の原理に成り立っているので、力ずくで正当性を手に入れるしかないことになってしまいます。

「正しいモノを強いモノで無くした人間は、強いモノを正しいモノとしてしまった」(パスカル)。誰の出典だったか忘れました。有名なのに。まさにその通りです。というのも、理性と知性で整理される正義は、皆が従うべき正義として居続けらなくなってしまっているからです。

ルターの置いた理性と知性に対する悲観主義という種からこの否定が来ています。そこで、正義が優位に立てなくなったところで、強制を採用するしかなくなります。そこで、戦争が起きます。ところで、力づくに無理矢理に自分を押し付ける専制というのは、何れ覆されるしかありません。というのも、理性への悲観主義と軽蔑から来て、つまり理性抜きに力づくで自分を立てようとする権力の特徴は、必ず皆に嫌われるようになります。皆、理性と合理性を求めるからです。言い換えると、人間はおのずと常識的な存在であるので、理性に合わないと落ち着きません。人間はすべてを理解する能力がないとしても、部分的にでも啓蒙されてほしい事実に変わりがないのです。

要約してみましょう。統一の不在。権威の拒絶。自由。自由解釈。人格主義。個人主義。結局、個人個人が何とかして一緒に共存できるために、全体を調整するためにある種の権威を自らを立てるが、専制にならないようにしよう、できるなら全く専制無しにしよう、とする。これは、民主主義に他なりません。まさに、民主主義です。この意味で、民主主義はルター主義の政治上の結果の一つです。「自由、平等」です。博愛はあまり旨くいきません。彼らは望んでいるのですけれど。

「自由、平等、博愛」。言ってみると、かなり逆説的でしょう。「自由」を絶対のものとして置いてしまった限りでは、平等も博愛も無理になります。まさに、こういった三つの価値観を原則として置いてしまうと、間違いなく、人間は「人間に対して狼」になるしかありません。要約してみると、プロテスタント主義の一つの政治上の結果は、民主主義です

もう一つの面白い結果があると思います。正直に申し上げると、最近の「地の塩」という月刊誌に載ったBousquet氏による記事のものです。「プロテスタント主義と資本主義」を題にする記事です。驚くべきでないことでしょう。事実、プロテスタント主義と唯物論は密接的に繋がっているからです。その関係のあり方を見ると面白いと思います。

ルターが信仰を失ったのは確かなことです。前回にご紹介したと思いますが、ルターの天国についての発言があります。いわゆる「結婚」した修道女と一緒に歩く場面です。

修道女は天国について話し出します。ルターが「天国はもう私たちにとって届かないところだ。もう手遅れだ。」という感じの答えをします。修道女がこう応じます。「私たちはそれぞれの修道会に帰って、正しい生活を送ってみたらどうでしょうか。」ルターが、「いや、無駄だ」と答えてしまう典型的な場面です。

つまり、ルターは信仰を失います。信仰を失ったら、望徳をも失ってしまいます。そして、周知のように、愛徳をも失います。悲しいことに当然と言ったら当然ですけど。信仰を失うことによって、恩寵を失って、超自然の秩序をも失います。

私たちの主はこう仰せになります。これは政治上以上に、神学上の帰結になりますが、面白いことに、超自然の秩序は自然の秩序を破壊することは一切ありません。「人は二人の主人に仕えることはできぬ」 とイエズス・キリストが仰せになります。続いて、「一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人を疎んずるかである」 と。

これは一つの真理で、当たり前の真理ですが、超自然上の真理でもあります。そこで、私たちの主はこの真理を私たちに啓示します。勿論、間違っていないし、私たちの主によって啓示されたことでもあって、なおさらのことです。ところで、それより面白いことがあります。「人は二人の主人に仕えることはできぬ」と仰せになるときに、その二人の主人を明白に指してくださるわけです。つまり天主とマンモン(富・黄金)との二人の主人です。

ここで、「人間は二つのことに引き付けられているよ」と私たちの主が仰せになります。超自然の人間の目的(これが天主です)に引き付けられるか。それとも、超自然の人間の目的ではなく、物質的なモノの方に引き付けられます。要するに、金(カネ)です。その理由は、お金が力をもたらすからです。購買力であり、所有力であり、何でもです。お金というのは、勿論、最高の財産ではないのですが、一番多くの物を手に入れられる財産は確かにお金なのです。金持ちになっても、豊かになっているとは限りません。ただ、金持ちになると、多くの富を手に入れるということです。単なるお金を沢山持っている者は、実際に多くの財産を持っていません。購買したときに、何かを所有したときに、完全な形で豊かになっていきます。つまり、金というのは、多くの物を所有できる力(道具)なのです。勿論、物質的な物を所有することの。「私はこれらの国々を皆あなたにやろう」。これは、私たちの主に対してなされた、荒れ野での最後のサタンによる誘いです。「サタン、退け〈神なる主を礼拝し、ただ天主にだけ使えねばならぬ〉」 。まさに、天主とマンモンとの間の選択です。天主を礼拝しなければ、残念ながらマンモン(黄金)を礼拝するようになってしまう、と。

要するに、どれほど絶対な自由を望もうとしても、個人主義と無神論で徹底しようとしても、結局のところに、人間は天主のしもべでなかったら、他の何かの奴隷になってしまうだけです。絶対的な自由や、絶対としての人間がすべてのモノの主になる人間なんて、実際の世界では存在しないのです。どちらかです。一方で、天主のしもべになるという方法で立派になるのか、それとも、もう一方の、黄金にでも耽ってその奴隷になるのかどちからかです。とにかく、「私が自分自身の主である」というのは、決して現実にあり得ないことで、実際に存在しないことです。自分が自分自身の主であることに意味があるのなら、天主が私自身の主であってのことでかありません。つまり、人間の本性には、抵抗できないそもそもの衝動(傾向)があるからなのです。それは何かに仕えるという衝動です。なぜかというと、本質的に、人間が相対的な存在だからです。本質的に、何かに依存(従属)していることが人間の特徴です。これは揺るぎない事実です。自分を絶対なものとどれほど訴えようとしても、実際においてずっと何かに依存しているわけです。ここで、天主に依存しなければ、この世の富に依存してしまうのです。

プロテスタント主義は、天主ではなく地上の富を選ぶという種(たね)を含みます。そこで、ルターが福音的勧告を廃止します、それらを特に憎むのです。福音的勧告を、です。福音的勧告というのは、修道士の立てる誓願に要約されています。宗教生活の完徳への志を象徴する誓願なのです。つまり、福音的勧告というのは、貞潔の誓願、清貧の誓願と従順の誓願からなります。

貞潔の誓願をすることによって、肉身に関連する快楽を断念します。
清貧の誓願によって、この世の財産を断念します。
そして、従順の誓願によって、自分の持っている一番大切な専有物なる自分自身の意志を断念します。

ルターはこれらの福音的勧告が大嫌いでした。修道士の誓願についてのルターの諸文書は最も酷いものです。また、ルターが自分の誓った誓願を捨てて、どのように悲しむべき状態で人生を送ってきたかは周知の通りです。

貞潔の誓願を捨てて、ルターは感覚の快楽に耽ってしまうのです。ある種の唯物論が見られます、少なくとも、肉身的唯物論です。
清貧の誓願を拒絶してしまうことによって、ルターが暗にこの世の財産に従属してしまいます。
従順の誓願をぶっ壊そうとすることによって、ルターがすべての権威を拒絶してしまうわけです。

まさに、一貫性があります。ルターの革命が、ある種の悪循環を起こして、ある種の悲惨なる絡繰りを動かしてしまいました。簡潔に言うと、やはり、革命そのものです。総てを変えたからです。ルターが修道士として誓った誓願への反逆において、これには唯物論の種が含まれています。権威はなくされ、この世の財産への従属、また、残念ながら、肉欲への従属があります。

そういえば、ルターのデスマスクが恐ろしいそうです。子供に見せてはいけないほどに恐ろしいそうです。酷い話でしょう。時々、死者の顔を見たら、穏やかだなあと言う時があります。一方、そうは言えない死者の顔もあります。良き天主の代わりに、私たちが裁くことはもちろん一切できないのですが。とはいえ、目の前に見ていることなら、判断できるだけはできますね。

続いて、ルターが修道士の誓願を拒絶するとともに、修道生活自体を否定します。それから、当然ながら残念なことに、聖職者たる生活をも否定してしまいます。聖職者たる生活を、また修道生活をも特徴づけることは一体何でしょうか。

より根本的に言うと、すべての霊的生活をも特徴づけることですが、それは観想です。つまり、キリスト教信者の精神を特徴づけるのは、また天国での霊魂を特徴づけるのは、観想です。ところで天国にはキリスト教信者だけがいます。というか、カトリックしかいません。それは、確かなことです。その天国の特徴は、天主の観想に他なりません。この地上での「聖徳の生活」を特徴づけるのは、そしてこれは「一番主(おも)たる共通善」でもありますが、真理の観想に他なりません。

それで、観想を拒絶してしまったルターが、本来ならば観想と相関的な関係にある行動にだけに耽ってしまいます。一般的に、観想と行動を対立の関係で捉われることが多いですね。本来ならば、両方は繋げるべきです。二年前に共通善についてご紹介したときに、詳しく説明しました。

行動というのは、観想に従属すべきことです。また「作ること」と「行うこと」と「観想すること」の三つのことは、お互いにどうやって関係していて、従属・秩序を整えるかご紹介しました。

また、知性にしても、最高の知性の作用である観想というのは、行動中の至上の行動であるということをもご紹介しました。しかも、天下のすべての諸々の善は観想という秩序に従うべきだということをも見ました。

もう一度繰り返しますが、観想を拒絶してしまったルターは、共通善の本来の目的を否定するようになります。共通善の本来の目的は真理の観想ですから。しかしながら、同時に、ルターが行動へ夢中になり、徹底的に行動に耽ってしまいます。一言でいうと、活動的生活に耽ってしまいます。言い換えると、唯物論へ耽ってしまうことになります。いいですか。


そういえば、教皇レオ十三世によって破門された一つの理論は、「アメリカ主義」と呼ばれています。教皇レオ十三世によって破門された「アメリカ主義」とは一体何でしょうか。この理論は、いわゆる「消極的な徳」を軽蔑して捨てるという理論です。つまり、この説によるとね、これらの「消極的な徳」などは、生産性がないので、無駄だとされて、何にも役立たないとされています。例えば、謙遜の徳や従順の徳や貞潔の徳や清貧の徳などは、「消極的な徳」とレッテル付けられています。他には、柔和の徳や忍耐の徳や寛容の徳などなどもあります。要するに、「小徳」といわれる聖徳ですが、決して小さくない徳で、大事な徳です。かなり実践しづらい徳ですが、「消極的な徳」と呼ばれる理由は、「活動的な生活」に帰属しないからです。

そこで、あるアメリカ人たちは、「活動的な生活」を重んじた挙句に、「消極的な徳」を否定しました。教皇レオ十三世がその「活動主義」を破門しました。いわゆる「消極的な徳」より「活動的な徳」を優位に見なすこの誤謬を破門しました。これも、ルター主義の一つの結果といえます。アメリカで生まれたのも象徴的ですね。アメリカでは、プロテスタント主義がカトリックより主流になっているから、そこに生まれやすい誤謬だったのです。そこで、アメリカ主義という誤謬の破門の意味は、「活動的な生活」或いは「物質主義」に耽っていくということを戒めることです。したがってプロテスタント主義において、労働と生産は肝心なことになっています。面白いことに、ルターもカルヴァンもそれらについて一言も触れていないのに、後の諸世紀のプロテスタントの発展に連れて、もともとあったこの種が成長していき、労働と生産は人間の人生にとって中心になっていくのです。

プロテスタント主義が「豊かさは神の恩恵の証だ」というほどです。「豊かさは神の恩恵の証だよ」と。カルヴァン主義の帰結でもあります。一体なぜでしょうか。

一方で、これを義化の問題からその因果関係を説明することができます。プロテスタント主義なら、もう人間の内は義化されなくなります。外から、覆われて、仮面だけのような「義認」になりますから。従って、これだと、神が誰を救うか、誰を地獄に投げるか、神意のままで決まることになります。プロテスタント主義における救霊予定説の問題です。カトリック信徒の救霊予定の理解と完全に反対しているのです。

カトリックなら、一人も欠かずにすべての人間は天国に行くように呼び出されています。十字架上の御死去は、「Qui propter nos homines et propter nostram salutem descendit de caelis」「主は、我ら人間のために、我らの救いのために、天から下り給うた」と。つまり、限られた人数の救霊のためのではなく、すべての人々の救霊のために、ということです。これは、カトリックによる救霊予定です。要するに、天主は、つまり私たちの主は、一人も欠かずすべての人々の救霊のために、出来るすべてのことを尽くし給うたのです。つまり、すべての人間は天国に行くように呼び出されています。

プロテスタントなら、神の自由意志で、ある人を救うならば、他の人を地獄に送る神意の決定があるとされています。ところが、人間は確信を必要としています。

カトリックである私たちなら、確信があります。というのも、私たちのために天主様は死に給うたという確信を持っているからです。そこで、十字架上のイエズス・キリストは、私のために死に給うたという確信がある限り、私たちの主に従う限りに、もう救われています。これこそは揺るぎない確信で、カトリックにとっての大喜びなのです。要するに、カトリック信徒は、すべての人間のために死に給うたから自分のためにも私たちの主が死に給うたことを知っているので、もしも私が自分自身をイエズス・キリストに適わしめるのなら、確実に救われる大喜びの内に生きていられます

プロテスタント信徒なら、救われるかどうかわからないままです。総ての人間が天国に呼び出されている教義が廃止されたからです。プロテスタントなら、神は少ないある人々を救うだけですから。そこで、理性の位置をどれほどに否定したとしても、人間はどうしても確信抜きにはいられないなので、プロテスタント信徒でさえも確信を求めます。ということで、一体どこに確信を求めに行くでしょうか。救われた証として、物質的な豊かさにおいて求めるわけです。従って、プロテスタント主義の裏には、資本主義との密接的な関係があります。物質的な豊かさと財産の保有が、絶対的な目的になるという理論です。そうなんです。

以上に見たように、プロテスタント主義が民主主義と資本主義と関係を持っていることを見ただけでも、なかなか面白いでしょう。そこで、プロテスタント主義には、人間の本性に対する有害的な種がどれほど含まれているのか 結局かなり明白になるでしょう。

(続く)

プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?【全文】その1

2018年12月30日 | カトリック
2018年12月1日(土)に開催された、「カトリック復興の会」でビルコック神父様による講話が上映されました。皆様に全文をご紹介します。

プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)ビルコック(Billecocq)神父による哲学の講話



プロテスタントの教えとその政治的な結果について(後編)



ビルコック(Billecocq)神父様に哲学の講話を聴きましょう

さて、三回にわたって、フリーメーソンについてご紹介した上に、前回はプロテスタント主義について話しました。厳密に言うと、プロテスタント主義の理論をご紹介しました。

今回は、簡潔な形になりますが、プロテスタント主義の理論は、政治の次元でどういった結果を起こすかについて触れたいと思います。つまり、政治と関係があるかどうか、です。確かに、ご紹介したとおりに、プロテスタント主義とは、先ず異端に他なりません。信仰に反する異端です。プロテスタントという異端は、発生してからほぼ直ぐに破門されました。カトリック教会が、プロテスタント主義を破門するにはそれほど時間はかかりませんでした。

プロテスタント主義は異端です。異端というのは、知識上の誤謬で、信仰に反する誤謬です。異端は思弁的な教義であるとも言えます。ところで、この理論と政治との間に関係はあるでしょうか。もしもあるのなら、こういった関係は具体的にどうなるのでしょうか。それから、実際に、政治におけるプロテスタント主義の帰結はなんでしょうか。今晩の課題として、以上の質問に答えてみたいと思っております。

結論から言うと、先ず、その理論と政治の間に強い関係があること、現代において私たちの経験しているこの世は、まさにプロテスタント主義から来る必然的な帰結に他ならないこととの二つを今晩、証明していきたいと思います。

さて、先ず、本番に入る前に、前回に見たプロテスタント主義の教義を簡潔に改めて要約してみましょう。
簡潔に整理してプロテスタント主義を要約すると、三つの視点から説明できます。

第一点、当時のカトリック教会では、改革の必要があった事実。この事実は、疑う余地がありません。ある人々は、カトリック教会において乱れがあったからといって、それでルターやプロテスタント主義を正当化しようとします。確かに、乱れなどはありました。でも、それは驚くことでもなく、人間の本性は傷つけられているので、乱れは今でも出てきているし、いつまでも出てくるわけです。つまり、確かに当時のカトリック教会では乱れがあった。が、あったとはいえ、それでプロテスタント主義の弊を弁解するわけにはいけません。少なくとも、この第一点は、当時の事情というか、当時の環境であり、その空気の内に、プロテスタント主義が生まれたことは確かです。

一般的に言われるのが、ルターはこういった乱れに対して応じようとしたのだ、とされています。しかし、残念ながら、彼は悪い答えを出してしまいました。なぜ悪い答えだったかというと、二つの理由があります。

第一の理由は、これは第二の視点になりますが、つまりルターからの視点で、また、ルターの思考では、どう応じたのかという所にあります。

当時のカトリック教会にあった乱れに対して、なぜルターが悪い答えを出したかというと、まず、彼の養成に問題がありました。前回に見たとおりに、第一に、ルターは唯名論という教えを受けました。唯名論という説は覚えていらっしゃるでしょうか。唯名論という説は、名前があっても、その名前は本当の意味を成さないよ、という理論です。人間は個別の物を知っているかもしれないが、個別の経験に基づいて、抽象化して、普遍的なモノを知るということはできない、という説です。簡潔に要約していますが、問題の核心というと、こうなります。つまり、ルターの唯名論は、理性への根本的な軽蔑にほかなりません。

こういった養成を受けたルターですが、唯名論の上に、アウグスティヌス主義という教えの影響の下にもいました。アウグスティヌス主義というのは、アウグスティヌスの理論の間違った解釈、間違った理解で、歪曲されたものです。アウグスティヌス主義は、前回の紹介をまとめると、人間の本性への根本的な悲観主義に他なりません。したがって、ルター主義の中枢には、ある種の悲観主義があるわけです。

唯名論から来る悲観主義は、理性に対する悲観主義になります。理性は、実際に何かを知ることはできないことになるからです。アウグスティヌス主義の場合は、人間の本性に対する悲観主義になります。思い出しましょう。ルターにとって、人間の本性は、傷つけられているどころか、完全に堕落した本性で、真っ暗で、「もうダメだ!」という感じです。これは大事な要素です。以上は、ルターの養成から来た彼の思考によるプロテスタント主義です。

ルターについて語るときに、忘れてはいけない側面があります。彼の傲慢です。もちろん、色々、彼の小心や彼の臆病な性格についていろいろ語られましたが、その上に、ルターの傲慢心の非常さを絶対に忘れてはいけません。ルターの伝記作者の一人によると、「ルターは対立が起きるのなら、心を打ち砕かれるよりも、却って刺激される」というほどです。まさにそうなんです。もし、ルターが本当にためらっていたのだったら、言い出すことに関して心配なことが本当にあったのだったら、本当に、細心だったのなら、当時のカトリック教会とそれらの権威に従ったら良かったことでしょう。当時の教皇が何人かの一番有識な枢機卿や神学者をルターの許へ送ってどれほど彼の説得に努力したかは、周知のことでしょう。特にカイェタン(Cajetan)枢機卿まで送って、ルターに正気を取り戻させようとしました。しかしながら、ルターは拒絶しました。彼には、深い傲慢心があったからです。
以上は、ルターという視点から見たプロテスタント主義です。

続いて、第三点は、プロテスタント主義の理論から見た視点です。言い換えると、ルターを越えて、プロテスタント主義として、宗派を問わずに、一般的に見られる共通点です。義化に関する問題です。つまり、プロテスタント主義によると、霊魂における天主からの直接の作用はもうなくなります。天主の恩寵が霊魂を覆うに過ぎなくなります。覆ったとしても、人間は汚いままです。要するに、プロテスタント主義での義化というのは、悲観主義を隠すだけにすぎません。あえて言えば、「人間の悪さを、人間の悪質を、人間の汚いドン底を隠す天主」にしてしまったのです。つまり、プロテスタントでは、天主が、義化を通じて人間を覆うかもしれないが、人間を変えることはないと言います。つまり、何があっても、何も変わらないのです。要するに、プロテスタントの宗派を問わずに、必ずその底には人間に対する悲観主義があるというわけです。そして、神学上のすべての問題は、プロテスタントの義化に集中しますが、悲観主義という問題は残ります。その誤った義化は問題は解決せずに、隠すだけです。

例えてみましょう。人間をボロボロの壁とします。そこにピカピカな紙を張り付けるだけでは、壁はボロボロのままです。これはプロテスタント主義の義認です。ちなみに、カトリックなら、義化(悔悛の秘跡)は、壁を綺麗にする(清める)わけです。ですからプロテスタントは義化ではなく「義認」と言いますが、義認とは壁にある欠陥を隠すのですが、その壊れているところを直さないわけです。ルターにとっての義化とは以上のようです。従って、天主の恩寵はもう私たちには働かなくなるという結果になります。天主の恩寵は人間を覆うものの、人間において、もう作用しないので効果がないということになってしまいます。

宗派を問わずに、プロテスタントにあるもう一つの共通点というと、「義認」の理論の他に、自由解釈ということがあります。プロテスタントといった時に、直ぐに自由解釈が念頭に浮かびます。自由解釈というのは、結局、皆それぞれの好みで、聖書を解釈できるということです。従って、しいて言うと、プロテスタントの宗派の数は、プロテスタントの信徒の人数ほどにあると言えます。実際に、多くの違うセクトにあちこちグループで集まるのは確かですが、やっぱり非常に多いんです。少なくとも、自由解釈というのは、カトリック教会の解釈を否定して、個人の解釈を重んじる主義になります。

前回に見たプロテスタント主義の理論を要約してみると、最後の第三点はこうなります。信仰の問題です。まさに、ルターにおける信仰の問題です。

ここにも、悲観主義が底流にあります。ルターにとって、理性は物事を一切知ることができないと言っているわけです。逆に、カトリック信徒にとっての信仰というと、理性による行為です信仰は知性による行為なのです。当然ながら、信徳によって昇華される行為であるかもしれませんが、一先ずに、信仰というのは本当の意味での知性による行為です。信仰が理性の行為だというのは、天主に啓示された真理に従おうという意図的な理性の行為ということです。

しかしながら、ルターにとっての信仰は違います。理性への軽蔑のせいで、その悲観主義のせいで、信仰は、もう積極的な肯定でなくなり、知性による行為でなくなります。その代わりに、信仰は一種の信頼だけになります。言い換えると、ある客観的な対象に積極的に従おうとする行為ではなくなります。逆に、信仰は主体による行為になってしまい、その主体によってこそ価値づけられています。この違いはわかりますか。大事です。

カトリック信徒にとっての信仰の価値は、「私がやっていること」というのではなくて、「肯定する客観的な対象」にあるわけです。つまり、同意する真理にこそその価値があります。要するに、ある真理が不動にそこにあって、それを見たので積極的にその真理に従おうとするのです。これこそが、信仰なのです。カトリック信仰というのは、恩寵に動かされるのはもちろんのことですが、その上に、天主によって示された真理への知性による積極的な同意に他なりません。

ルターにとっては、ずっと底流に悲観主義があるせいで、外にある客観的な真理への同意でなく、内面的な個人的な信頼になってしまいます。要するに、この信仰は、純粋な主体的な行為になってしまいます。もう、客観的な対象によってその価値が決まるというのではなく、その行為を成す主体によって信仰の価値が決まってしまいます。信頼にすぎません。
以上は、前回の見たことの要約です。


さて、それぞれの問題をより理解するために、二つの言葉で要約してみましょう。先ず、独立精神なのです。それから、二つ目ですが、結局、独立精神から来る結果で、主観主義に他なりません。

第一、独立精神です。なぜでしょうか。ルターは、カトリック教会、聖伝の諸権威を拒絶します。聖書の解釈においてこれが明白です。教父たちの言ったことを軽蔑したり、カトリック教会の言っていることを軽蔑したり、教皇様の言っていることを軽蔑したりするわけです。ルターの教皇に対する言葉が、どれほど罵倒的であるか周知の通りです。プロテスタントは、要するに、権威の拒絶に他なりません。宗教上のすべての権威の拒絶なのです。
従って、カトリック教会への拒絶にもなります。独立精神の先に、少なくとも宗教上にいうと、より酷いことがあります。つまり現実への拒絶です。ルターはもう目の前にある現実、客観的な対象、つまり物事への同意を否定したので、ルターは自分自身にしか同意していません。

自分が実行する行為に同意するのです。この意味で、プロテスタント主義を特徴づける二つ目の言葉は、主観主義です。プロテスタントの理論の底流にあるのは、また、プロテスタントの理論の結果を特徴づけるのは、主体です。というのも、何かを実行している主体を重んじるところこそ、プロテスタントの理論の大きな特徴だからです。「我」の世界ですね。個人の世界です。ルターの理論の結果をちゃんと理解する為に、独立精神という特徴を念頭に置くべきです。

もちろん、ルターは「世界や国々を変えて見せるぞ」といったような政治家として、自分を全く思っていませんでした。ルターの意図は、最初はそこにありませんでした。間違いなく。だからといって、その意図はなかったからといって、その誤った理論の結果は私たちの目の前に今あることは変わりません。ルターがこういった結果を望まなかったからといって、それらの結果が存在しないわけではありません。ルターは自分の理論を立てました。それで、これから見ていきたいのは、その理論に沿って展開し、発展してみたら、どういった結果・帰結が生じるのかというところです。ルターは種を撒きました。自分で、個人的に、種の実った果物を予想できたとは限りません。しかしながら、予想できなかったとしても、第一にその結果はそれでも存在します。第二に、それでも(それ等は)ルターの撒かれた種に由来するということです。

因みに、留意していただきたいことがあります。17世紀と18世紀の政治学上の大人物はいずれもプロテスタント信徒であることは、興味深いです。信じられないことでしょう。16世紀以降に、新政治学を設立する大理論家、いや教条主義者の内に、幾つかの名が浮かんできます。イギリス人が多くいます。例えば、ホッブスです。またロックです。それから、フランス人ですが、あるいはスイス人として考えてもいいけど、ルソーです。ルソーはカトリック信徒だったりプロテスタント信徒だったり、どちらの宗教上の権威の下にもあまり落ち着かなかったみたいです。要するに、やっぱり独立精神そのものに立った人物です。この意味でプロテスタントの精神はルソーに強く底流しています。

特にホッブスにおいてプロテスタント理論が強くあります。御存じだと思いますが、ホッブスによる主な著作は1551年に出版されたレヴァイアサンです。レヴァイアサンというのは、力強い醜い怪獣の名前で、旧約聖書に登場する海獣です。特にヨブの書に登場します。

ホッブスの政治理論の基礎は、よく知られている文章に要約されています。「万人は万人に対して狼」と。つまり、ホッブスの政治理論の中枢にあるのは、人間には本質的な悪質、悪意があるということになります。プロテスタントの底流にある人間の本性の堕落という悲観主義とまさに一致します。「万人は万人に対して狼」。人間同士では争うだけだ、と。そこから出発して、社会契約の発想に繋がります。つまり、人々は一人の長を選んで、政治上の課題を運営するために、全能の国家を設立します。全能の国家というのは、簡単にいうとこのレヴィアサンなのです。不浄なる強力なる海獣としての国家になります。ある種の独裁主義になります。その全能のお陰で、人間同士の無数の争いを解決するという説なのです。とはいえ、ホッブスの理論の基礎には、社会ではなく、一人ぼっちの個人がいるわけです。ところが、悪質なる個人なのであって、それはプロテスタントの悲観主義から来ます。

ロックは、1667年に「寛容論」を出します。「寛容」とは、面白いことで、注目してください。寛容の話の前提には、人々はバラバラで、統合無しで、統一無しで、なんとか共存させようという前提があります。要するに、それぞれの派閥の間に、一つが優位にならないようにするのが「寛容策」の目的です。当然ながら、本来の、本当の意味での「寛容」が勿論存在しますが、これと違います。ロックなどの近代的な「寛容」、こういった「寛容論」になってしまうと、真理を相対化して、真理の優位を無くすという前提がみられます。要するに、方針づける、方向付ける真理はもうありません。ここにこそ、ルターにおける理性に対する悲観主義を見いだせます。

最後にルソーです。『三人の改革者』という本において、ルソーを指して「自然の聖人 saint de la nature」とジャック・マリタン(Maritain)が名付けます。ルソーにとって、人間の本性は善いのですが、社会によって堕落させられているとしています。以前の見方との逆になりますね。人間は悪質ではないと。しかしながら、結果として、以前と変わりません。社会による堕落のせいで、人間は悪質になってしまうので。それで、人間なら、唯一の良い対策は、個人として生きていくということになります。ここでは、ルターに見られる個人主義を見出せます。これから出発して、社会生活の全般を壊すことになります。

以上の三人だけを挙げてみても、プロテスタント主義の理論がどうやって浸透していくのかが感じられます。雄蕊(おしべ)のように、花粉を空気に飛び散らしていくような感じで、どんどん新しい流派を生んでいきます。政治流派を含めて。

レヴィアサンから引用したホッブスの文章が手元にありますので、読み上げます。
「以上によって明らかなことは、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力が無いあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある。」 その後に、「万人は万人に対して狼」というのが登場します。それから、社会契約をする必要があると訴えるところです。まあ、次の課題に移りましょう。



プロテスタント主義の政治に対する知識上の結果を分析するまえに、歴史を見ると面白いでしょう。つまり、プロテスタント主義の歴史を見るだけで、政治上のその結果は見えてきますから。プロテスタント主義が起きて、どういうふうに社会へ影響を与えたか、社会に関係したか、その歴史を見る価値があります。

プロテスタントというものを、理論として扱う前に、理論的に議論する前に、先ず事実上、どうなったかを見ておきましょう。例えば、プロテスタントが有力になったのは、平和的な手段で出来たことなのでしょうか。皆様はもう答えを知っておられると思いますけど。勿論、宗教戦争です。

神聖帝国で、ルターがどれほど激しい混乱を起こしたか周知の通りです。農民の一揆とかです。ルターが幾つかの一揆を煽ったし、幾つか煽らなかったところもありますが、幾つかの反乱を煽ったことも確かです。また、諸地方の決定的な分離も起きました。諸侯の間の不和も起きました。所謂、有名な「cujus regio, ejus religio」があります。「ある領地には、その領地の宗教」です。人々は、その領主の宗教と同じ宗教でなければならないという発想です。従って、宗教というのは、恣意的なモノになってしまった上に、領主に依存するようになってしまいました。後でまた触れますが、宗教が政治的権威に依存するようになってしまいました。

それから、当時は継続的な戦争状態となったのです。フランスでは、どれほどの多くの戦争をプロテスタントが起こしたか周知の通りです。竜騎兵平定やサン・バルテルミの虐殺は有名ですけど、宗教戦争については専門家に参照していただきたいと思います。研究上の専門家に、です。一般的に教科書で言われることではなくて、です。真面目にそれらの歴史課題を研究した専門家によると、プロテスタントによる非行や挑発は明白だと通説になっています。もしも、それらの専門書を読んでも、納得いかないのなら、北ヨーロッパの国々の歴史を見たら良いでしょう。名前をちょっと思い出せませんが、そうそう、スカンジナビアの国々で、特にノルウェーとかです。そこでは、剣をもって、どうやってプロテスタントの支配が出来たかという歴史が見られるので、だれでも納得すると思います。印象に残ります。プロテスタントの宗派の支配を無理やりに押し付けたために、数千人の死者がでたほどです。

要するに、歴史の事実を見るだけでは、プロテスタント主義と政治的生活の間に、何かうまくいかないということが既に見てとれます。事実だけですが、政治的生活上に、プロテスタント主義は平和をもたらしたのではありません。事実上、不和と戦争をもたらしたのです。前にも見たように、プロテスタント主義には、底流に不和の種を持っているのです。それで、不和と分離を実際にもたらしてしまったのです。

(続く)

天主の完全性 【公教要理】第四講

2018年12月27日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第四講  天主の完全性



前回、天主とは何かを説明しました。また、天主の存在は何であるかを考えてみることによって、天主とは何かをご紹介しました。つまり、「アセイタス・自立存在性」といった、自分自身によってだけ存在しているのは、天主であると紹介しました。

今回、天主をより深く把握するために、天主をよく見つめるために、天主の属性をご紹介したいと思います。たとえてみたら、ダイヤモンドを手に取って、回しながら、これの様々な面をよく見つめた結果、これを描写する試みと言った感じになります。

当然ながら、私たちを遥かに超越する天主であるから、天主は何であるかを説明することは、簡単ではありません。実は、人間にとって、天主を語るために、また、天主の属性を見つけるために、二つの方法があります。

第一の方法は、天主から、すべての欠陥を除いてみるという方法です。更に、天主は完全であります。天主は第一の存在です。天主という存在こそ、他のすべての存在の源泉であります。したがって、天主はすべての完全性を持ちます。
しかしながら、把握しがたい存在なので、天主を考えるには、先ず、欠陥を除く方法を採用します。
~(動画に表記される文字)

天主の諸属性
1. 何でないか(否定性)
 i. 単一性
 ii. 不変性
 iii. 永遠性
 iv. 無量性(普遍性)

2. 最高度にどのようであるか(最高肯定性)
 i. 智慧
 ii. 意志


この方法で見つかる属性は「否定性」と呼ばれています。言い換えると、天主について語りますが、否定性とはある欠陥を持たないという属性です。

第二の方法は、私たちの周りに確認できる天主の完全性を語りますが、天主の完全性ですから、完璧な完全性として語るわけです。言い換えると、私たちの周りに、確認できる完全性を、天主に相応しく、超越した完全性をもって、天主の属性になるという方法です。「最高肯定性」と呼ばれている属性です。


1. 否定性
 i.単一性
 ii.不変性
 iii.永遠性
 iv.無量性(普遍性)



さて、否定性からですね。まず、天主は何からも複合されていないという完全性があります。複合されるということは、欠陥なので、天主の属性として除きます。

 i.単一性
前回に見たとおりに、天主には体がありません。私たちと違って、天主は何からも複合されていません。
天主は腐敗できません。これを言葉で表すために、天主は単一だと説明します。天主には、部分はありません。物体と違って、天主には、天主から分け得る部分はありません。天主は純粋な霊だからこそ、単一です。さらにいうと、天主は限りなく単一でありますので、これから天主の様々な面を描写したところに、究極的に、そのすべてが一緒です。天主において、天主のすべては同じ天主ですから。

天主をよりよく理解するために、人間は分解して分析しようとせざるをえません。天主に関して、当然ながら、かかる分解などは存在しません。天主においては、天主のすべては同一です。
天主は絶対に完全です。限りなく完全です。
つまり、天主は絶対に単一です。天主においては、僅かな複合の一つもありません。

それに対して、どの被創造物であっても、究極的に言うと、少なくとも、存在(ある)と本質との複合から成っています。言い換えると、私を規定する私の本質があることと、その本質が「ある」こととの複合が被創造の特徴です。存在と本質からなります。私は本質(何であるか)を持ち、そして、この本質が存在して(有って)はじめて、私となります。
天主には、この複合はありません。なぜかというと、天主においては、天主の存在理由は、天主の本質(何であるか)は、完全に天主の存在(有る)と一致しているからです。

あえて言ってみると、天主の本質は、存在するということにこそあるのです。ですから、本質と存在との基礎なる複合でさえ、天主にはありません。確かに、底知れぬ玄義です。私たちを限りなく超える玄義です。でも、驚くべきことでしょうか。勿論、驚くことではありません。天主は、宇宙を超えてまします。ですから、宇宙を超えてましましたら、私たちを超越するのは、当たり前です。

天主を、人間が理解できる存在にしたり、被創造物にしたりしたところに、もう、その途端に、天主の話でなくなります。
それは、当然のことで、天主を完全に理解でき、説明できたら、人間を天主の主(あるじ)にしてしまうことだからです。
つまり、もう天主でなくなります。だからこそ、人間を越えて、不可解な存在であることは、驚くべきではありません。

天主を完全に理解しようとする人々は、結局、第一、天主が何か全く分からなくなるは勿論、それより、第二、彼らが天主だと思い込んでいるモノ(自分の考えによる神とか理想)に対して、自分自身をこのモノの「天主」としてしまいます。その物の上に、自分を主と置くからです。
しかしながら、前述したように、無理なことです。私たちの存在には、理由があり、私たちを越える理由なのです。その理由は天主です。天主は単一です。

 ii.不変性
天主の第二の属性は、不変性と呼ばれている属性です。
天主には、変化はありません。天主には、変わりはありません。なぜでしょうか。変化とは、新しい完全性を取得することを意味するからです。天主が、変化できるとしたら、天主が何かの新しい完全性を取得するということになりますね。つまり、改善可能となってしまいます。

というのは、天主でなくなるか、また天主ではなかったかどちらかですね。でも、天主が改善可能だとしたら、一体どうやって創造できたでしょうか。また、すべての完全性を持たないままに、持たない完全性を与えることはできません。したがって、天主は不変です。言い換えると、天主には、何の変化もありません

聖書には天主曰く、「エゴ・デウス・エト・ノン・ムトル」。「我は、天主なり、我は変化せず」と天主がおっしゃっています。それで、変化とは欠陥ですから、どの変化をも天主の属性から取り除きます。

 iii.永遠性
天主の第三の否定性なる属性は、永遠性です。天主は永遠です。
人間なりに、永遠を理解するために、おそらく一番分かりやすくいってみると、永遠というのは、始まりもなかったし、終わりもいつもまでないということです。とは言ったところで、具体的に言うとなんであるか、よく分かりませんね。まさに、否定形でいうしかないのです。

始まりも終わりもないとは永遠ということを描写します。
より正確にいってみると、天主においては、如何なる連続・継起もありません。こういうふうに言ってみると、より分かりやすいでしょう。
なぜ連続が起きるかと言ったら、動きがあるときです。時間があるところに、動きもあります。
私たちも良く感じている現象ですけど、体を休めるときに、時間が止まることを感じることもありますね。
こういった経験を通じて、運動に対して、時間の相対性と不安定性を、諸感覚を通じて、ある意味で、感じ得ますね。
さらに、時間を測定するというときも典型的です。惑星の運行に基づくに他ならないからです。
例えば、太陽を回る地球の運行にほかなりません。また、地球の周りを動く月の運行によっても測定します。
さらに言うと、時間の源泉には、何があるでしょうか。動きですね
動きといったら、連続が起きて、それで時間も出来ています。

しかしながら、天主において、動きも運行もありません。動きは欠陥なので、また、天主は完全ですから、天主の属性として、それを除きました。
つまり、天主において、動きはないということは、天主が、自分自身を完全に動かないという意味です。
これこそが、永遠と呼びます。
完全に全体的に動かないので、僅かな変化もなくましますので、まさに、不動の今に常にまします。
如何なる「次」もない永遠の今にましますのです。

天主は部分がなくましまし、全部である所以であります。これが永遠というものです。
完全性であり、完全なる不動であるけれども、人間から見ると、連続がない事、始まりも終わりもない事という意味になります。
天主は、天主の全部であり、古くから常に天主の全部だったし、また世々に至るまで、天主の全部であり、それ以外ではないということです。ですから、天主は永遠であると言います。

 iv.無量性(普遍性)
続いて、天主の属性として、第四の否定性は、無量性(普遍性)という属性があります。
天主は無限です。天主には体がありませんから、広さとしての無量ではありません。
というのも、天主において、測定できる量などは、そもそもありません。天主は無限だというのは、天主の本質と天主の御力によって、どこにもまします、つまり普遍である、という意味です。

ところで、広さをもって、ある所にあるといった物体のような存在ではありません。
あらゆるところに物体的にましますというのなら、汎神論になります。
しかしながら、天主は物体ではありません。天主はどこもましますが、というのは、霊が存在する様式のように、天主がましますわけです。
というのも、働きによってこそ、霊は存在します。それで、天主は、あらゆる物事へ働きかけ給う存在だからこそ、
あらゆる物事にましますということです。

また今度説明しますけど、現在において、すべての物事が今、存在しているという事実が、天主がすべての物事に常にましますお陰で、すべての物事をあらしめ続けているからです。
あるモノが存在する時に、そのモノに天主が働きになって有らしめるからこそ、存在し得るのです。
天主の本質と御力によって、そのモノが有るのです。
これも、人間を超える玄義です。

聖アウグスティヌス曰く、「私が、私において常に居るけれど、それより遥かに親密に天主が私において常にましまし給う」。
私たちの主も、天主の属性を明白に語ります。「天主こそ心の奥底と腸を究めるもの」という言葉があります。
言い換えると、天主は私より私を知っているという意味です。天主は、天主自分自身において完全にましますからです。

とはいっても、天主は私たちではありません。同じく、私たちも天主ではありません。
人間は変わるし、時間の中に生きているし、動いているし、複合物であるからです。私たちは天主でありません。
それでも、天主が、私たちにおいて、私たちの存在を私たちに与え続けるために、常にまします
無量(普遍)なる存在です。



それから、最高肯定性という属性をみておきましょう。今日、二つだけを簡単にあげておきましょう。

天主は、第一に、至上の智慧であります。第二に、至上の意志であります。

 i. 智慧
天主は智慧そのものです。自分によってのみ、自分を知っている存在です
これは、アリストテレスが天主について説明していたところです。自分によってだけ、自分を知っている存在。
というのも、この認識だけで、完全なる幸せを得るに足りるからです。天主は天主を完全に知っています。
天主は無比の智慧であるから、すべての真理がそこにあります

したがって、天下にある地上のすべての真理は、第一の真理に依存していると言えます。
前述したように、天下にあるすべての存在が、完全なる存在に依存しているように、また同じく、すべての智慧、すべての真理は、天主と呼ばれている至上かつ唯一の真理に依存しています

だからこそ、私たちの天主である主が、「我は真理なり」というのです。
「我は真理なり」と主が言うときに、「私は至上の智慧である」という意味です。
天主にとって、真理と智慧は一致していることを理解しなければなりません。

人間なら、違いますね。人間は智慧をもってこそ、真理を取得するわけですから。
人間には、区別されるものが三つありますね。
第一、人間の外にある真理
第二、人間の中にある智慧。能力とも才能とも呼ばれるものです。
そして、第三に、人間が真理を智慧によって取得する働きもあります。
「知っている」こと。「ある真理を知っている」、つまり、真理を取得します。

要するに、人間には、智慧という能力目の前にある知りたい真理、そして、真理を取得する働きがあります。

天主には、一つしかありません。智慧だけです。
この智慧は、そのまま、同時に、自分の真理でもあり、自分の真理を取得する働きでもあります。
天主において、能力と真理と知る働きとは一致して、その区別はありません

天主は、自分自身の存在だからこそ、完全に不動だからこそ、天主にとって、何かを知ることも、自己を知ることも、全く一つです。
さらに言うと、天主は自己を新たに知ることはできないわけで、実際にもう完全に自己を知っているのです。
天主には、自己を完全に知らないことは不可能です。それで、天主は自己を完全に知っています。
そのことから、すべてのモノを完全に知っていることになります。

どの真理も、天主という真理に依存している限りにおいて、真理だといいますから。
したがって、すべての真理は、天主にあります。至上の智慧です。
また、たとえてみると、数理には「数理による諸結論が既にその数理にある」というのと似たような感じです。
同じく、至上の真理なる天主も、すべての真理が天主にあります。

 ii. 意志
また同じく、天主は至上の意志です。
人間なら、区別されますね。求めるという能力と、求められる何かと、求める何かに一致する働きと、これら三つの区別をします。

ちなみに、この働きは、常に「愛」という働きです。「愛する」というのは、ある善を欲求して求めるという意味ですから。
要するに、人間なら、三つに区別されます。何かを望む主体。そして、その何かを求めて手に入れようとされる対象。
その何かを愛して、これと一致したいという働き。要するに、能力があります。意志です。
求めている対象があります。その対象を取得して、それと一致する働きがあります
愛と呼ばれる働きです。

天主なら、智慧と同じく、かかる区別はありません。
天主は、天主を求めています。天主の対象は天主自身です。
天主は完全であるので、求めること自体、それが、愛なる働きでもあります。意志と一緒です。

聖ヨハネ曰く「天主は愛なり」。これほど良い天主の定義はありません。天主は至上の愛であることを示すからです。
しかも、地上のすべての愛、つまりどの意志の働きは、至上の愛に依存しています

繰り返しますが、意志の働きは愛とよばれるからです。
天主は至上の意志であります。つまり、天主は至上の愛であります。
言い換えると、天主は至上の一致と至上の交りであります。これも玄義ですが、天主の陽性なる属性です。
智慧意志

プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?【まとめ】

2018年12月17日 | カトリック
2018年12月1日(土)に開催された、「カトリック復興の会」でビルコック神父様による講話が上映されました。皆様にレジュメ(まとめ)をご紹介します。

プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)ビルコック(Billecocq)神父による哲学の講話



プロテスタントの教えとその政治的な結果について(後編)

●プロテスタントの教えが信仰に反する”異端”であることについて
1- 知識上の誤謬である。
2- 信仰上の誤謬である。
3- 思弁的な教義にすぎない。
 *誤謬による帰結の特徴は、矛盾となっていることを共存させる逆説ということである。
 *過ちは真理の全体の一部しか強調しない挙句に、真理に反する。

●この講話における二つの質問
1- プロテスタントの教えと政治との間に関係はあるのか。
   もしもあるのなら、こういった関係は具体的にどういうものか。
2- 実際に、政治におけるプロテスタントの教えの結果とは何か。

●結論として言えること
1- プロテスタントの教えと政治の間にはっきりした強い関係がある
2- 今現在、私たちの経験しているこの世は、プロテスタントの教えから来る必然的な結果である。
3- 近代的政治理論のすべてはプロテスタントの諸原理に基づく。中世期と近代以前の政治理論と反対する。

●前編の講話で話したプロテスタントの教えの要約
1- 当時のカトリック教会内での乱れという空気の中で、このプロテスタントが生まれたのは確か。
  これらの乱れを回復すべきだったものの、ルターによる運動は直すのではなく、壊す行為だった。
 (また、この乱れというのは、人間が持つ原罪によって傷つけられている本性の故であるので、驚くことでもなく憤慨すべきことでもない。
この乱れは、キリストへの回心秘跡の授与教義の再確認戒律の厳格な実行を再認識することによってしか解決できない。
しかしルターはそれらの立て直しの手段を壊した。)

2- ルター個人の思考と性質における問題点(ルネサンス期が覆われた誤謬めいた知識空気の影響)
  A- 理性への根本的な軽蔑と悲観主義(養成時に”唯名論”という誤謬の影響を受けた)
  B- 人間の本性への根本的な悲観主義(及び アウグスティヌス主義という誤謬の影響を受けた)
  C- 深い傲慢心(当時の教皇使節からの説得を拒絶して権威に逆らった。真理を求めたのではなく、傲慢で動いていた)

3- プロテスタントの教えの問題点
  A- 義化の問題
   天主の恩寵の作用を否定して、霊魂の清めを受けられないと主張する。
   カトリックは「義化」という。プロテスタントは「義認」と言う。
   恩寵は霊魂に注がれて清められて聖寵の状態となる 
   たとえると、ボロボロの壁(霊魂)に天主がピカピカの紙を張り付ける(義認)と理解するのがプロテスタント主義。
   ボロボロの壁(霊魂)を直接にきれいにする(義化)と主張するのがカトリック。
  B- 自由解釈の問題
   教会の解釈・権威・聖伝を否定して 個人の自由な解釈を重んじる

4- 信仰の問題
  A- カトリックにおける信仰は、啓示された天主と真理への積極的同意であり、客観的な真理への理性と知性による同意である。  
  B- ルターにとって 信仰は内面的で個人的な信頼で、客観的な真理と切り離された主観的な行為に過ぎないいわゆる「感傷的な」「感覚主義」にもつながる。


(ここまでは 前回の要約)以降は、「神学上の誤謬が、どうやって政治の誤謬へ展開していくか」検討します。
 ある理論の種が(ルターの場合は悪い種が)必ず発展して、善し悪しが実ってくるのです。

●プロテスタントの教えから導かれる、独立精神とそれから由来する「主観主義」に関すること
1- 独立精神(自由解釈から来る)とは、カトリック教会、聖伝の諸権威への拒絶
  (聖書の解釈・教父たちの言ったことへの軽蔑・カトリック教会の言っていることへの軽蔑・教皇の言っていることへの軽蔑・・)
   権威を徹底的に拒絶すること。宗教上のすべての権威を拒絶すること。宗教上のすべての権威を拒絶すること。

2- ルターが意図せずともルターの理論から展開して発展した結果が政治的にもこの世界を変えた。
   誤謬が誤謬で、何れかその結果がでてくる。

●プロテスタントの教えがどうやって浸透していったか、その具体的な検証
1- ホッブス  1551年 『レヴァイアサン』「万人は万人に対して狼」、人間個人は基本的に悪く、対立して戦い合う。
         人間の本性への悲観主義
2- ロック    1667年 『寛容論』何が真理であるか知り得ないとし、真理のもつ優位性を認めない。
         さまざまな意見と誤謬の共存を計る理論。
3- ルソー   人間は自然のままのほうが善だったが、社会が人間を悪しき者したと主張する。結局、人間は悪い。
4- 雄蕊(おしべ)のように花粉を飛び散らすように、どんどん新しい流派を生んでいった。

●歴史から見るプロテスタントの教えの社会への影響
1- 宗教が政治的権威に依存するようになった。特に北欧では、平和的な手段ではなく、武力で無理やり
   人々に押しつけて広げていった。プロテスタントは戦争を好んだ。

2- 中世には、争いとかあったが、無視されたとしても侮辱されたとしても権威は権威としてずっと認められていた。
   しかしプロテスタント主義は、権威を権威として否定する。

●理論的なプロテスタントの教えのもたらす結果の分析。共通善に反する理論
1- 権威を否定し、統一の崩壊が生じる。(政治生活の根本には統一が必要。一致は根本的な共通善)
2- 自由解釈のせいで、不和の種を潜在的に含み持つ。分離と対立をもたらす。
3- 社会の一致を破壊した。(社会の共通善に反する。平和に反する。社会の目的に反する)。

●プロテスタントの教えが、自由解釈を訴えることで、個人主義をもたらしたこと
1- 近代的な「自由」という価値観を普及させた。
2- 知性の真理を知ることによる完成を否定した挙句に、客観的な真理を求めなくなって、絶対な自由という価値観に逃避した。
3- この自由には中身がなく、純粋な個人主義をもたらした。
4- この個人主義・絶対的自由を訴えることで、社会の共通善は破壊され始めた

●さらに実存主義・実存哲学・無神論へと向かう
1- ルターの教えはルネッサンス期の諸哲学理論の人間中心主義と深く関係している。
  これは無神論に繋がっている。(悲惨なのは、天主が存在することに変わりがないということ)
2- サルトル(近代の人間はこの絶対的自由という結論へと向かっていった。)
3- へーゲル、シェリング、フィヒテなど。 
4- フランス革命「自由・平等・博愛」(教皇ピオ6世の言葉「フランス革命はプロテスタント主義の一つの結果だ」)
5- 人格主義(ペルソナ主義) 共通善の代わりに人格の尊厳が置かれるという理論。
   エマネル・ムニエ。その後継者はジャック・マリタン。

●政治上におけるすべての権威を拒絶して、民主主義が生まれること
1- 個人主義や主観主義の挙句に、社会はバラバラになって戦争状況になる。権威を否定してしまった結果に過ぎない。
   しかしながら、人間は秩序と統一と平和という共通善を必要としているので、必然的に権威をも求めだす。
   ただし、プロテスタント主義が原理において、権威を拒絶するので、権威とは「必要悪」である。
   政府は、専制主義・全体主義によって社会の乱れを鎮める。が、しかし、権威とは不正なものなので、対立構造が終わらない。

2- 統一の不在と権威の拒絶の中、個人個人が何とかして一緒に共存できるために、全体を調整するために
  ある種の権威として自らを立てるが、専制にならないようにしよう、できるなら全く専制無しにしようとする。
  これが、民主主義という制度になった。

●プロテスタントの教えと資本主義と唯物論は密接なつながりがあることについて
1- 天主ではなく地上の富を選ぶという種(たね)を含む。その理由は、プロテスタントの教えにおける誤った救済予定説
   *カトリックの救済予定説によると、人間はすべて救いに招かれている。
   イエズス・キリストが自分の死をもって、霊魂の救済のために出来る
   すべてのことをなさった。従って、救われるために、イエズス・キリストに適うかどうかということで、私たちの協力次第。
   *ところが、プロテスタント主義の救済予定説によると、生まれつき救われない人が定められている。
   が、誰が救われないのか、誰も分からない。しかし、人間に確信が要るので、物質 的な富において自分が救済されるだろうという
   確信を求めようとする。資本主義・物質主義に繋がる。また、道徳相対化の原因になる(何をやっても救われるかどうか決まっているから)。
   また、死者に対しても、生きる者に対しても祈りの必要性を無くす(救済はすでに決まっているので)。カトリックの真逆となる。

2- 元修道士だったルターは、修道生活の三つの誓願(貞潔・清貧・従順の三つ。福音的勧告と呼ばれる)を否定した。
   早い段階で、ルターが祈りの生活を送れなくなる。(自分で明かすところ)

3- ルターは、修道生活・霊的生活・観想生活を否定し、活動的生活と唯物論となった。また、秘跡を否定
   超自然生活を否定聖職生活を否定

4- 「アメリカ主義」とは、活動的生活・目に見える結果を重視することにより、
   「消極的な徳」(謙遜・従順・貞潔・清貧・柔和・忍耐など)目立たない聖徳を否定する。
   レオ十三世は、この活動主義を破門した。祈りを忘れた現代人の忙しい落ち着かない生活の背景には、この「活動主義」がある。

5- このプロテスタントの教えの影響下、労働と生産が人間の人生にとって中心になった。

6- プロテスタントの教えは、救いの確証を「物質的な豊かさ」に求めた。
   物質的豊かさと財産の保有は、生きる上での絶対的な目的となってしまう。
   霊的生活を否定して、仕事を絶対な自己実現にしてしまった。(上の1も参照)

7- 資本主義政治へと導かれる。 

8- 新しいミサの典礼には「労働の実りであるこのパンを捧げる」という祈りがある。
  (新しいミサ とプロテスタント主義の関係)


●カトリック教会へのプロテスタントの教えの影響と侵入
1- カトリック教会の聖職者と言えども社会生活のなかでは社会に蔓延したこのプロテスタントの思想や政治経済などに触れざるを得なかった。

2- 第二バチカン公会議において招待した大勢のプロテスタントの代表者の意見と考えが、
   私的な会話や歓談や茶飲み話や個人的会話などを通して
   大きく影響を与えた。非公式な集まりが多くあり、最も大事な「ミサの改定」にもプロテスタントの代表者が関わる
   ということが起きてしまった。

3- (神学者や高位聖職者・教皇でさえ、その学生時代にプロテスタントの教えの影響を受けた思想を学んでしまっているという
   教育環境により)、カトリック聖職者の思考の中にプロテスタントの教えが少しずつ染みてくるようになった。

4- 君主制なるカトリック教会が、ある種の権威を廃止した団体主義という誤謬によって壊されてしまった。
   それにより民主主義の誤謬や平等という概念と共にカトリック教会の定義が侵されるようになった。
   宗教の自由良心の尊厳人権の尊厳などの考えが内部にまではいり込んだ。
   真理の優位性を訴える力が少なくなって誤謬を断ち切る力も完全になくなっている

5- 天主に従属する秩序ある宗教ではなく、人間中心主義の宗教へと変えられた傾向がある。

●そのような影響に対する、カトリック教会がこれまでにとった対策
1- トレントの公会議で 教義において秩序を回復して、真理なる天主の優位性を再確認した。
   トレントの公会議での諸文書と公教要理によって、教会の内部への影響を食い止めた

2- 第一バチカン公会議では カトリック教会の権威を再確認した。
    「絶対なる自由」に対して、人間の独立に対して、権威と秩序を再断言した。

3- 第二バチカン公会議では、人間中心主義と全ての相対化への対策をとるための
   準備資料を用意して臨んだはずが最初の段階でそれらはゴミ箱に捨てられた
   招待していたプロテスタントの代表者による会議への関与を大幅に許してしまい、
   結果的にプロテスタントの教えが教会内に突入する道を正式に開く羽目になった。


★結論として、最初にルターが蒔いたこの種は教義上の異端であり、事実ではないものだったが
雄蕊(おしべ)のように、花粉をまき散らすようにして、どんどん社会全般・思想全般にわたり
大革命を起し、個人主義・自由主義と唯物論のみならず、専制主義、民主主義と資本主義などたくさんの新しい政治流派を生み出してしまった。

  

天主とは何でしょう? 【公教要理】第三講

2018年12月15日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第三講  天主とは何であるか



天主とは何でしょう?

天主は存在する。これを信じ、同時に知っているということは、前回に見た通りです。次の問いは、天主は何であるか、です。この問いは、かなり難題で、微妙です。というのも、天主とは宇宙の上の存在ですから、私たちを限りなく超える存在だからです。

それでは、天主はなんでしょうか。
公教要理によると、この問いへの答えはこうです。
天主は純粋な霊である。
限りなく完全である。
創造者である。
あらゆる物事を司る者である。


天主は純粋な霊です。この「霊」とは、要するに、天主には体がないという意味に他なりません。
天主は、無形です。天主は、非物質的な実体です。天主には構成可能な物体を持たないのです。霊です。天主は、私たちとは違って、体がないので、私たちには天主が目に見えず、嗅覚することも、触ることも、味覚することもできません。人間の感覚が、天主を把握することができないのです。
しかしながら、感覚で天主を捉えることができないからといって、天主が存在しないのではありません。

根拠はこうです。天主の作品は常に私たちの目の前にあって、それを私たちは見ています。天主の作品のおかげで、私たちは天主の存在を知ります。画を見る人が、その画に必ず画家がいると知っていると同じように、大自然を観賞する人は、大自然の制作者がいることを知っています。

ところで、画を見ても、その画家が見えるとは限りません。聞こえないし、もしかしたら既に死んでいるかもしれません。しかし、それでも、作品が残っています。制作者が見えなくても、聞こえなくても、触れなくても、彼が存在することを、作品が残っているおかげで、当然知っているわけです。そうでなければ、無理です。少なくとも、画の制作者が存在したことを知ります。

天主に関しても、同じです。ただし、違いがあります。それは天主が存在したとは言えないということです。天主が、今でも存在し続けているということです。また別の機会にお話ししますが、もし天主が、今、もう存在していなかったのなら、天主が必然な者でなくなるので、天主でなくなるわけです。それなら、前回の証明が成り立たない、少なくても悪循環で、エビが自分の尾を噛むようなことになってしまいます。
言い換えると、天主が存在する証拠は、宇宙がまだ存在しているからです。天主が、すべてのモノの存在を維持するからです
しかしながら、天主は霊ですから、目に見えない。
~~

因みに、天主は霊だからこそ死ねない存在なのです。人間は死ぬべき存在です。死の原因は、人間が体を持っているからです。体が、構成物なので、分解して、もとに戻っていくからです。その分解が、人間が呼ぶ「死」です。物理的なすべてのモノには、分解への傾向が必ずあります。そのような分解は、必ず衰退です。
しかしながら、天主はすべてのモノを司る存在ですから、天主には衰退がありません。したがって、霊である天主は物体ではないと言えます。天主は、物体ではなく、物質でない。物質を持つよりも、物質を持たない方が、より完全な状態です。物質を持たなかいからこそ、人間より天主が完全なのです。体を持つからこそ、人間は不完全なのです。
しかしながら、体を持たないからと言って、天主が存在しないことはありません。人間は、目で理性を見たことはないし、意志を見たこともありません。意志を見た人がいるでしょうか?生命を見たと言える人がいるでしょうか?いませんね。これらの事実が見えることはありません。非物理的なわけですから。でも、理性・意志・生命などが存在することはどうしてもみんな知っています
たとえば、人間同士が話し合って、理解し合うこと自体は、理性がある証拠となるでしょう。でも、理性とは、どこにあるのでしょうか。
医者が、手術して、頭を開けるときに、理性を見ているでしょうか。当然、見たことはありません。しかし、それでも、理性はあります。
外科医が手術する時に、患者の意志を見ているでしょうか。見たことはないのです。しかし、それでも誰も知っていることです。意志がそこにあると。実際に存在するが、非物質的なのです。

人間が概念や理念を扱うことは言うまでもありません。それでも、体が、時々理念や概念を妨げることも皆が経験しています。それで、時に、考えようと思っても、難しい時があります。まさに、体によってこそ、ある種の不完全さがもたらされている証拠になります。人間の非物質的部分への妨げという不完全さです。
それに対して、天主は完全ですから、あらゆるものの上にましますので、すべての物事の創造者で、司り主ですから、純粋な霊と言えます。
天主には体がない。それは、天主の完全さです。
より旨く言ってみるとすると、天主には体がないだけではなく、天主とは、天主ご自身にとって、自らの「ある(存在)」なのです。これは、前回に説明したところです。

天主が、自分自身にとっての自らの必然的な存在です。天主とは、存在そのものです
しかも、天主自身が、モーセの前に現れて、こう言いました。モーセが「天主の御名が聞かれたら、何と答えればよいでしょうか」と天主に聞き出してみると、天主がこう答えました。「我は、有りて在るものである。」
不思議な言葉ですけど、この言葉を通じて、天主が自分自身にとっての存在であることをおしゃっている。言い換えると、自分自身の自らの存在理由であると。



~~

天主は、自分自身自らによってしか存在しない。天主が、天主の自らの存在です。これは、天主の本質なのです。天主は、この上なく、存在そのものです。「天主という本体の中に、天主という基体の内に、すべてのモノが存在する」のではないのです。汎神論ではない。つまり、皆、天主の内に存在して、天主の一部であるような存在ではない。それなら、一種の汎神論になってしまう。いずれにせよ、人間は、自分が天主の一部であるという認識は、そもそも、感じない。しかも、もし、私たちが天主の一部であったら、天主が不完全となってしまう。つまり、私たちが、天主の一部であるか、天主からの流出であるなら、天主が不完全になってしまう。というのも、もしもそうだったら、天主が、被創造物に必然的に繋がっているということになってしまう。要するに、天主の必然性の全部が、天主にはないということになってしまう。つまり、天主には何か欠けるところがあって、ある不完全さを持つことになってします。
いや、天主が自分自身の存在の自らの理由です。存在そのものです。確かに、すべてのモノが、天主という存在によってこそ、存在しているわけです。しかしながら、すべてのモノが、存在たる天主によってこそあるにせよ、天主ではないし、天主にはなりえない。

天主が、自分自身にとって、自ら存在理由であるということを表す言葉があります。ラテン語から派生した言葉です。典型的な神学用語ですが、「アセイタス(自立存在性)」といいます。アセイタスとは、ラテン語の ”a se” に由来して、「自分によって」という意味です。天主は、自分によってのみ存在する、ということです。

人間は、自分によって存在していないのです。私たちの周りにあるモノで、自分によって存在しているモノは一つもない私たちの存在は、他者から頂いているわけです。
これをラテン語で「ab alio アブ・アリオ」と言います。他者から私たちが来ている。他者から、私たちが存在を引き継いでいる。過去にも現在にも、私たちが、存在において依存している。私たちが、自分自身の存在を司る主ではない。否応なし、人間の存在は、現に他者に依存するのです。

しかし、天主は違います。天主は、自分自身の第一と必然的な原因ですから、自分自身によってしか存在を受けていない。「ア・セ」として、存在する。つまり、自分によってのみ存在する。それで、ラテン語で、「アセイタス(自立存在性)」という造語で、この事実を指し示します。典型的な神学用語です。天主が、自分自身の中に、自分自身の存在理由を持つことをいう。また、「アセイタス」という言葉が、天主を表現するために、中心概念となってくると言えます。
「アセイタス」、つまり、天主は、自分に寄ってのみ存在する。自立存在性です。天主の本質は、有りて在るということです。したがって、存在を与えることは、天主に属するのです。

「天主が存在する」ことは証明できる 【公教要理】第二講

2018年12月11日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第二講  「天主は存在する」は証明できる



神は存在する!

私たちの使徒信経の第一命題には、「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」とあります。

非常に短いこの文書の中に、多くの真理が織り込まれています。
第一、 天主の存在という真理。
第二、天主の本性と属性という真理。
第三、天主の本質的な内奥の心なる三位一体という真理。
第四、 総てを創造した天主が全能であるという真理。

「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じます」

一先ず、天主とは一体、どういうものでしょうか。カトリックでは天地の創造主を他の神々と区別するために「天主」と呼んでいます。

天主は霊である。
永遠である。
限りなく完全である。
創造者である。
総ての物事を司る者である。

非常の定義を説明する前に、一先ず問うべき課題があります。
天主は実際に存在するのか、です。
もし天主が存在しなければ、なおさら天主を語ることはそもそもないからです。
その場合には、夢想について語るに過ぎないことになるわけです。

従って、第一に問うべき課題は、天主が実際に存在するかどうか、です。
この質問に対して、存在すると答えざるを得ません。
天主が存在する。これを我々が信じる、しかしながら同時に、知ると言えます。
まず、天主が私たちに御自分を啓示したからこそ、その存在を信じるのです。
一方、天主の存在を証明できるので、その存在を知ります。

緻密極まりないことですが、この信条があります。「天主の存在を理性によって証明できることを信じるべきであります」と。

天主の存在を信じる理由は、天主自身が言ったから信じる聖書の証言に基づく
しかしながら、同時に、天主の存在は、人間の理性と知性によって証明できる事実でもあります。

天主の存在に関する証拠の種類は、一般的に、五つあります
それぞれの難易度も推考度もまちまちです。しかし、皆、同じ事実確認から出発する。つまり、我々の周りにあるすべての物が存在するという事実からです。

あるモノが存在する。それで、存在しているモノがあっても、しばらく実在してから、無くなる。ある日には存在していなかったモノが、他のある日に存在している。
我々一人一人に関しても、言えることですが、自分が自分の存在の主(あるじ)ではない。何故ならある日、自分が存在していないからです。
自分が存在していなかったときがあると、一体どうやって自分が自分の存在の主になれるのでしょうか。
それに、いつか自分が無くなるわけだから、一体どうやって自分が自分の存在の主だと言えるでしょうか。
我々の存在は、儚(はかな)いものに過ぎず、我々がその存在の主であるのではありません。

同じように、周りの物事についても言えるのです。特に、腐敗していく物理的な物については、なおさらです。
腐敗するものは、非常に儚(はかな)い存在です。かかる存在を「偶然」の存在といいます。
偶然とは、あるモノが存在しているが、別に存在しなくても良いという意味です。そのモノ自体が、いつまでも存在する必然性を持たないのです。

偶然なるモノの反対が、必然なるモノと言います。
偶然なるモノが存在している。しかし、存在しなくてもよいモノだ。たとえば、我々が生まれなかったとしても、世界は変わらない。
必然なるモノが存在している。しかし、存在しないことはできない存在。

これを見てわかるように、偶然なるモノが、それ自体として存在する必然性を持たないわけだから、必然なるモノによってしか存在できないとしなければなりません。
また、言い換えてみましょう。偶然なるモノは、そのもの自体によって存在理由がないのですから、自分で自分の存在を与えることはできないことになります。したがって、その存在を与えるどこかの必然なる存在が必要となります。

もしかしたら、こう言われるかもしれません。別の偶然のモノによってこそ、ある偶然のモノの存在を与えると。しかしながら、もう一つの偶然なるモノが、どこから存在を受けているか。もう一つの偶然なるモノから受けるのだと。
しかしながら、限りなくその連鎖を続けることはできません。無意味でしょう。あらゆるものが、偶然なモノだとしたら、あらゆるモノが、ある日に存在しなくてもよかったということになります。それなら、なぜ、現在に存在しているモノは存在しているのでしょうか。あらゆるモノが、存在しなくてもよかったモノだったのに。

存在には、原因がなければなりません。さらに、この原因は、自分自身で必然でなければなりません
言い換えると、その原因によって、この原因の存在が自分自身に与えられているので、必然の存在の存在理由は、必然なる存在それ自身となります

必然なるこの存在を、天主と呼びます。
要するに、天主が自分自身によってしか存在しない原因です。自分自身においてしか、存在理由がない。
天主が、天主自身にとって自分の存在であります。つまり、天主が必然的に存在する。
言い換えると、天主だけが、存在しないことはできない存在です。これが天主です。

~~

また、他の視点からこの問題を見ることができます。宇宙を見れば見るほど、秩序があることを確認できます。当然、人間によらない秩序です。八百万の星、八百万の天体。より単純に太陽を回る惑星。間違いなく、規則正しく回る惑星。信じられないほどの数です。数百億万年から前ずっと、人間の技術を遥かに超えて挑むかのように、宇宙の秩序が確認できます。



それより、我々に近いことを挙げてみましょう。大自然において確認できます。秩序です。また、自然のそれぞれの界にある秩序。植物界でも動物界でも確認できます。生態系と呼ばれる秩序
かかる秩序を作らなかったのに、人間はこの秩序を快く享楽しています。
秩序があって、それに必要なのは、誰かがこの秩序を整えたか、ということです。世話役が必要です。何れにしても、ある知性がなければなりません。秩序をつくった知能が必要です。というのも、智慧の本質が、秩序付けることにあるからです。つまり、秩序付けるのは智慧あるものです。ひとり、智慧ある者だけが、秩序付ける能力があるからです。

要するに、宇宙の上に、いや、宇宙のかなたに、第一原理或いは、第一知性が存在します。これは、宇宙の理由と原因となる知性がなければならない、ということです。かかる知性を、天主と呼びます

~~
先ほどの見方が、我々が否定のできない目の前にある事実の確認から出発して、第一原因までさかのぼることで成り立ちます。
第一原因を天主と呼ぶのです
不敬虔なるヴォルテールでさえ、こう明かします。宇宙を指して「この大時計が常に機能していることを見て、時計製造職人がいないことを、私には考えられないことだ」と。



要するに、以上をもって、天主が存在することが証明されます。しかも、聖パウロもこういっています。「被創造世界を見ても、天主を見ないふりにしている人々には、弁解の余地はない。」

まさに、すべてが、天主の事を語っているのです。言い換えると、被創造世界において、すべてが「天主が存在する」と語るのです
例えば、芸品的な絵画展示会に行ったとしたら、作品を鑑賞する時に、どうしても、この作品の裏には、作家がいると考えざるを得ないと想定すると同じようなことです。この芸術を創造した者が存在していると。誰だろうか。この作品を描いた者は誰だろうか、と。この像を作った者が誰だろうか、と。誰もいないとお互いに答えを出すとしたら、無理があります。この作品が自発的に自分で作りあがったと誰かが言い出したら、意味をなしません。そんな事を言うなら、自分を馬鹿にしていると皆が考えるでしょう。この像物が、自発に発生したわけがありません。この絵、この作品には、職人がいなければならないからです。今使っているこの家具、このベッド、この布団、この明るい蝋燭、時間が分かるためのこの時計には、職人がいなければならないのです。
その証拠には、現代において、すべての商品が、作られた銘柄が記されていることからも明瞭です。
それでも、被創造宇宙だけが、天主の銘柄がないとは?そんなことはありません。宇宙にある秩序こそ、この銘柄で、秩序付ける者と至上知性の存在を表明しているのです。これが天主に他ならないのです。

また、他に心証上の証拠とでも呼びうる証拠があります
歴史に照らして、総ての民族が、一つも欠かさずに、天主の存在を認めたと言えます。少なくとも、至上且つ究極的な存在を認めた。皆が、天主と呼んでいる。勿論、それぞれに、天主のあり方について、まちまちでありますけど、古代を見ても、原始民族を見ても、みんな、いつも、欠かさないで、天主か神々かといった存在を認知しているのです。少なくとも、皆、至上者と宇宙を秩序付ける者なる存在を認知しています。

また、その他に自分の内面において、証拠を見つけることができます。これはまた、心証上の証拠となります。自分の内面において法が刻み込まれていることをどうしても感じるからです。自然法という法が存在します。後に、何れかまた触れますが、自然法は、われわれに、直感的に声をかけています。たとえば、子供が、両親に嘘をついたときに、直感的に悪い事だったことを自然に知っています。
総ての人間が、直感的に無罪なる人を殺すのは、ひどいことだと知っています。自然法は人間の本能にあるかのようです。
それでは、自然法がどこから来るのでしょうか?自然法の主なる至上立法者からこなければなりません。この至上立法者のことを、天主と呼びます。

要するに、天主は存在します。天主は宇宙の第一原因です。宇宙の至上知性です。それによって、宇宙のすべてが、善たる天主に向けて秩序付けられて善です。これが天主です。

私たちは天主が存在することを信じます。「全能なる天主を信じる」のです。しかしながら、人間の理性に従って、天主が存在することをも知ってもいるのです。

Credo(クレド)信経 とは? 【公教要理】第一講

2018年12月07日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第一講  Credo(信経)とは?



Credoについて

公教要理の第一部は、信じるべき諸真理がその内容です。
私たちの主と公教会の教え方が大変上手であるとは、よく言われたことです。
信じるべき真理は、数えきれないほど多いのですが、覚えやすくするために、信経(シンボル)というものにまとめられ、要約されました。
シンボルという言葉は、ギリシャ語で「合い言葉」という意味です。

要するに、すべての信じるべき真理が、シンボルに要約されていますが、このシンボルの始めの一言をとって、「Credo(クレド)」と呼びます

「Credo」はラテン語で、「私は信じる」という意味です。「私は信じる」とは、何という意味でしょうか。

「信じる」とは、自分の理性が、積極的にある真理に同意するという意味です。同意すると言っても、この真理が自明だからとかというのではありません。自分の理性の力だけで証明出来て、この真理を知っているからでもありません。この場合は科学といいます。それは信仰ではありません。知っているが、信じていないからです。

要するに「信じる」とは、自分の理性が、ある真理に同意しますが、誰かの証言のおかげで、信じるわけです。つまり、「信じる」というのは、第三者の証言を信頼するということです。この第三者が、真理を語るが故に、彼に頼らなければ、彼を通じなければ、真理を完全に知り、受け入れることができないからです。

例えば、一般生活だったら、幼い子供が、まさに自分の父母を信じるわけです。幼い子供にして、自分ですべてを知ることが出来ません。
その能力も備わっていないし、理性もまだまだ成長していないし。だから、両親の証言に頼らなければなりません。
母が子供に向けて「こうだよ、ああだよ」といったら、子供はそれ信じます。言ってくれたから、とそれだけで信じますが、その上に、子供が、母が自分を騙さないことを知っているから信じ得るわけです。母が自分の子を愛しているから、子供にとって真理や彼の善をいうまでです。だから、子供が自分の母を信じます。
勿論、成長していくにつれて、理性も成長するおかげで、自分で知ることもできるようになります。そこで母の証言がなくても、知りうるようになります。

カトリックの真理の場合、証言は、天主自身から来ます天主が、御自らを啓示したのです。天主が、御自らを語ります。天主が、御自らの内的な生活を語ります。人間に向けて啓示します。旧約聖書において、教父や預言者の声を通して啓示しました。さらに新約聖書において、天主の御子我らの主イエズス・キリストの声で啓示しました。

このような証言に基づいて、天主が至上真理であることがわかります。というのも、天主が、間違うこともありえないし、私たちを騙すこともないからです。もし、そうでなければ、天主は天主ではないことになるからです。

ですから、多くの証言に基づいて、天主が至上真理であることが分かります。それが、私たちが天主のおっしゃることを信じる所以です。つまり、信仰を持つ理由です。天主が言ってくださったから信じる、これが、信仰です。

真理を語ってくださる天主が、更に、御助けを与えてくださるお陰で、教えられている真理を積極的に同意できるようになります。これが「信仰する」です。

「信じる」という意味は、以上のようなものです。「ある真理を、意志に動かされる知性によって積極的に同意したもので、天主のおっしゃった証言による同意ですが、天主が間違うこともないし騙すこともないからこそ、天主の言葉に信頼することができる」というのが「信じる」ということです。

このCredo(信経)の中に、信ずるべきすべての真理、真理の要約が織り込まれています。信じるべき真理だからこそ、つまり、間違うことがない騙しえない天主が、啓示してくださった真理だからこそ、その真理に同意しなければなりません

要するに、それらの真理が、Credoにまとめられていますが、これを信経と言います。つまり信ずべき真理の要約です。

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簡単に言うと、信経は、三つあります。

第一は、使徒信経と呼ばれています。普段に、いつも唱えている信経です。
第二の信経は、ニケア・コンスタンティノープル信経ですが、ニケア・コンスタンティノープルという二つの公会議によりので、この名になっています。
第三の信経は、通称、聖アタナシオの信経と呼ばれるものです。実際に、おそらく聖アタナシオより、すこし後世に出来上がったと思われますが、三位一体を中心に展開されています。三位一体という教義を中心にしています。


この入門講座のためには、因みにどの公教要理でもそうですけど、第一のCredoに限って紹介していきます。というのも、第一の信経が、一番完全にまとまったCredoである上に、一番分かりやすいからです。使徒信経と呼ばれるものです。


使徒信経というのは、12の信条、12の命題からなっています。
言い換えると12の要点からなっています。同意すべき12要点なのです。

使徒は、私たちの主イエズス・キリストのこの地上で生活している間に選ばれた12人のことです。与えられた使命は、世々に至るまで、イエズスの教えを説教し続け、イエズスの事業を続けることにあります。
つまり、12人の使徒は、イエズスからいただいた教えを私たちに伝え、それを使徒信経という要約版の中に伝えたのです。

使徒信経は次の12要点からなっています。

第一、われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、
第二、またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト、
第三、すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、
第四、ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、
第五、古聖所(こせいしょ)に降りて(くだりて)三日目に死者のうちよりよみがえり、第第六、天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し、
第七、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う(きたりたもう)主を信じ奉る。
第八、われは聖霊、
第九、聖なる公教会、諸聖人の通功、
第十、罪の赦し、
第十一、肉身のよみがえり、
第十二、終りなき命を信じ奉る。アーメン。


カトリック信徒が、この使徒信経を知っているのなら、信じるべきすべての真理を知っていることになります。したがって、これから、使徒信経を要点ずつに徹底的に紹介していきます。
なるべく、要点ごとに、すべての諸真理を簡潔に説明していきたいと思います。


人間がたどり着くべき目的地とその手段をご存知ですか? 【公教要理】初めに

2018年12月04日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの
ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理入門講座の紹介

公教要理-初めに le catechisme présentation



公教要理

Media PressInfoに依頼されて、短い連続講座という形で、簡単にカトリックの教義を説明します。いわゆる公教要理です。
今年、8-10分程度の講座で、短いながら、ちゃんと身に着けるべきキリスト教の教義の中身をご紹介していきたいと思います。

一先ず、カトリックの教義というのは、何を指すでしょうか。
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カトリックの教義というのは、私たちの主イエズス・キリストが教えてくださった教義です。その教義は、私たちの救いへの道を示すためにあります。
人間にたどり着くべき目的地があります。この目的地とは天主から与えられました。これは創造者の命を分かち合うという目的地です。
ところで、この目的地に到達する、つまり救いに達するために、天主から諸手段が与えられました。
これらの手段の間に、第一にあるのが、カトリック教義です。

カトリック教義というのは、特に主(おも)にイエズス・キリストによって天啓されたすべての真理のまとめであります。救いを得るために、人間が知るべき教義なのです。

このカトリックの教義は、公教要理という教えの中にまとめられています。
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公教要理とは、単純に、カトリック教義の要約です。
公教要理を知っているというのは、カトリック教義の要約を知っているということです。
つまり、簡潔でありながら、カトリック教義の全体の要点を知ることです。

これから、連続講座ということで、公教要理講座を行います。ですから、簡潔にカトリック教義の要点をご紹介していきます。


公教要理は、三部に分けられています。
第一部は、救いを得るために、信じるべき真理からなっています。
第二部は、救いを得るために、行うべき物事からなっています。
  理性をもって、信じるだけでは足りないので、その上に、信仰と意志をもって、聖徳の内に、振舞わなければなりません。
  これが、第二部です。
第三部は、カトリック信徒のために、天主に与えてくださる御助けからなっています。
  カトリック信徒とは、洗礼を受け、カトリック信仰を公言する者といいます。
  カトリック信徒に与えられている御助けですが、真理を信仰し、実践できるように備わっています。

以上、三部があります。
第一部が、信じるべき真理で、信経に収まっています。第二部が、実践すべき働きで、十戒に収まっています。第三部が、この十戒を信仰と実践できるために、天主に与えてくださった御助けで、秘跡と呼ばれています。

つまり、第一部は、Credoで、信仰第二部は、十戒で、行動第三部は、秘跡で、天主による助けです。


以上の三部が、福音書において、私たちの主が自分について発言する次の言葉に当たります
「我は、真理であり、道であり、命である。」


「我は真理である」というのは、天主から何を信じるべきか教えられていることです。
「我は道である」というのは、天主から何を行うべきか教えられていることです。
「我は命である」というのは、天主から、善を行う手段が与えられていることです。

公教要理のすべてが、この三部にまとめられています。次回から、詳しくご紹介していきたいと思います。