2018年12月1日(土)に開催された、「カトリック復興の会」でビルコック神父様による講話が上映されました。皆様に全文をご紹介します。
ビルコック(Billecocq)神父様に哲学の講話を聴きましょう
(続き)
では、これからより理論的にプロテスタント主義がもたらす結果を分析しましょう。
先ほどに申し上げましたが、プロテスタント主義の第一の特徴は、統一の欠如にあります。しかしながら、政治的生活の根本には統一が必要です。一国なり、一家なり、一族なり、何か統一される共同体が前提になります。例えば、政治の基礎を成す単位は、家族ですが、自分の家に対して、「うちの家」といいますね。「うちの一族」といいますね。「うち」でないと、自分が属する家として成り立ちません。なぜでしょうか。家族という基礎社会を構成する違う人々の個性を越えて、社会の構成員の統一を成す絆があるわけです。家族なら夫婦と子供の間に血縁と親縁(親しみの心)という絆はその統一を成すわけです。そういった統一は実際に自然にあります。家族の例だと、血縁という絆に基づく統一です。
プロテスタント主義は、自由解釈のせいで、不和の種を潜在的にしろ常に持っています。言い換えると、プロテスタント主義は統一をもたらすことはできなくて、不和をもたらします。まず、勿論、理論上の不和・分離(不統一)をもたらします。そうして、教義上の統一が消えたら、間もなくして政治上の統一も消えます。不和をもたらすことによって、プロテスタント主義は社会の統一を破壊します。ところで、この統一は、社会の共通の善(公共のための善)の一つであります。従って、プロテスタント主義は、少なくとも種として、社会の共通善に反するのです。つまり、平和に反するのです。平和こそは、社会の共通善の一つですから。言い換えると、プロテスタント主義は社会の目的に反するのです。
自由解釈を訴えることによって、不和をもたらすばかりではなく、結局その先に個人主義をもたらします。なぜかというと、「自由」という価値観を普及させるからです。「自由」こそは、現代において好まれています。「自由」とは、単なる「自由主義」の意味ではなく、人間の根本的な特徴としての、人間の固有の善としての「自由」という意味です。ある意味で、それらの結論は当たり前といったら当り前です。本来ならば、通常ならば、人間の一番大切となる特徴は、完全性は、知性になるはずだからです。そして、知性の完全化もその最高の特徴です。
しかし、プロテスタント主義における知性に対する極端な悲観主義は、知性が物事を知ることができるという能力を否定する悲観主義だからこそ、人間の一番尊敬すべき能力を否定して、人間を堕落しきったものとさせます。ここにおいて知性と真理における避難所が無くなったルターはどこへ避難するでしょうか。「自由」へと避難するのです。しかしながら、問題があります。「自由」と言い出しても、具体的に中身はありません。知性の場合ならば違いますね。知性を語るときに、本来ならば、必ず、真理も登場せざるを得ません。真理を知る知性ですから。要するに、他の能力にも適用できることですが、知性を特徴づけるのは、知性の固有の善である真理をもって特徴づけます。
現代では、ルター的に「自由」について語るときに、「自由」といって、それきりです。まさに、不確定なものとしての自由となります。従って、プロテスタント主義は、個人主義と共に、「絶対的な自由」をもたらすことによって、ある種の不確定主義をもたらします。
本来ならば、人間のどの能力とも同じように、人間と自由を第三者(その善)に関係づけるべきところを、「自由」という能力を完全に独立させて、何によっても確定されなくしてしまうのです。つまりそれ自体の価値にしてしまい、「自由」を特徴づけるものはもうなくなります。いえ、あえて特徴づけるなら「やりたいことをやりたいだけやる」という自由だけです。でも問題は解決しません。「何が欲しいか」「ほしいモノが欲しい」というふうに、「何が」よりも「やりたい気持ち」の方が重んじられるようになります。結果として、以上のように「自由」を定義してしまうと、とどめのない悪循環になり、論理上、終わらない矛盾になります。不確定の「自由」になります。従って純粋な個人主義になります。
要するに、これで行くと人間が自分自身に閉じこもり縮(ちぢ)こまることになります。その上、自分が自分に善を与えるようになります。自由解釈の一つの結果であるこの「絶対的な自由」というものによって、どれほど人間がおのずと共通善を破壊していくかは明白でしょう。つまり、「絶対的な自由」を訴える人にとっての共通善は、もう共通善でなく、(自分の)善になってしまうのです。まさに個人主義です。社会の構成員の分裂を意味するに他なりません。共通善も分裂されました。統一を分裂させてしまったことによって、ルターは共通善に反します。この上、絶対的な価値としての自由をもたらすことによって、社会自体も分裂してしまい、それぞれの個人が、自分の善を自分に置かせてしまうわけです。
近代では、こういった発想は、特に実存哲学に濃く見られます。近世の実在主義は結局、無神論になってしまいました。実に、これこそ、面白い帰結です。プロテスタント主義とルター主義は、無神論の萌芽を含むのです。後で触れますが、なぜ、無神論に繋がるかというと、プロテスタント主義は権威者をすべて拒絶するからです。それでは、天主、カトリック教会、聖伝の権威の代わりに置かれるのは、もう人間になってしまうからです。だから、プロテスタント主義において、無神論の種が既にあります。
前回に詳しく触れたのですが、以上を見ると、ルター主義がなぜ根本的に自然主義と密接に繋がっているか明らかになります。自然主義をはじめ、ルネサンス期の諸哲学理論との関係が深いのです。要するに、人間中心主義(ヒューマニズム)です。
さて、「絶対的な自由」に戻ると、実存主義においてそれは見いだせます。実存主義という理論において、人間はある種の自発的な存在となり、自分を自分自身で自らを構造する、と言います。従って、人間は自分自身こそが自分の目的で、自分の善になります。サルトルを読んでみると明白です。そういえば、彼の著書『実存主義、一種のヒューマニズム』の題を見るだけで自明です。人間中心主義になってしまい、その上に、個人主義にもなっています。
その個人主義の内容ですが、個人が自分を作り出すことになるけれども、何も誰にも依存しないで、独立に自分を作るべきだという論調になります。他の人の目線に依存すべきではない、と。何の権威も受け入れない、何の共同体の権威をも受け入れない、と。その個人は、独りぼっちなのです。人間はこの世にほうり投げ出されている感じです。実存主義の哲学者の有名なる「ダザイン(現存在)」の概念は将にこれを示します。その中に、だれにも依存してはいけない、と。依存してしまったら、自分の自由を失うからです。サルトルの「他人こそは地獄だ」の有名なセリフは、その意味で言っているのです。つまり、地獄なのは、他人と一緒に生きるのではなく、「他人の目線に依存することが地獄だ」という意味です。
結局のところ、以上のことは何を意味するでしょうか。「自由」を絶対なこととして捉えることを意味します。しかしながら、「自由」を絶対なこととして捉えることは、非常識にすぎません。「自由」というのは、絶対ではありませんから。もしも「自由」が絶対なことなら、「自由」をもって特徴づけられる人間も、絶対なことになってしまうわけです。ちなみに、近代家たちは、まさにこの結論にいたりますが。で、人間は絶対になってしまい、つまり、天主の代わりに、人間が天主となってしまうのです。
そういえば、ある哲学者が、へーゲルだったか、シェリングだったか、フィヒテだったか、今は思い出しませんが、御覧の通りに、その辺りの思想家です。ドイツ人でありながら、同時になかなかのプロテスタント主義者だといった人々です。ところで、そのうちの一人が、自分の講座が終わった時だと思いますが、授業が終わったら「次回の講話では、私が神を創造して見せます」といったという典型的な逸話があります(笑)。いや、正にこれではないでしょうか。絶対としての自由の立場だったら、人間が独りぼっちで、自分だけが自分を造るわけだから、自分が自分の運命の主だとしているから、もう天主に創造されたとか、天主に依存しているとか、それらはなくなるからです。しかも、その理論だと、逆に、人間が天主を創造して、人間の自分に天主が依存するようになってしまうのです。全く本末転倒です。従って、それで行くのなら、人間が天主を創造する全能なる力を持っているので、天主を創造するのも、天主を破滅させるのも、人間の勝手次第になってしまいます。
もう一度言っておきますが、自由解釈ということの結果は以上のようになります。ルターの理論において、まだ種に過ぎないことは確かです。が、その種があって、すべての基礎があって、発展していったら、「絶対の自由」になっていきます。かなり早いペースで、「自由・平等・博愛」に至ってしまいます。20世紀ではないんです。もう18世紀の早い段階でもうそこまで行っています。
ルターの後に、2世紀もう経っただけのところです。そういえば、教皇ピオ6世だったと思いますが、ある教皇は「フランス革命はプロテスタント主義の一つの結果だ」といっておられたほどです。まさにそうなんです。「自由」が叫ばれる限り、プロテスタント主義の遺産物になります。
以上の実存主義は、別の名前で、20世紀初頭にも知られていたことを加えておきましょう。現代は聞き慣れなくなった呼称ですが、人格主義(ペルソナ主義)という理論です。要するに、人格主義の基礎理論はこうなります。
人格の尊厳は、共通善の代わりに置かれるという理論です。エマネル・ムニエ(Emmanuel Mounier)によって設立された理論です。その後継者はジャック・マリタン(Jacques Maritain)です。それでは、人格主義の根本的な意味はなんでしょうか。これは人格を共通善よりも上に置く理論です。本来ならば、健全な政治理論の場合では、人間が共通善のために順序だてられています。そこで、共通善のために励んで働くのです。そして、共通善のために働くことによって、自分を豊かにするわけで、自分を完全化させます。言ってみると、共通善が人間の善を完全化させると言えます。去年か一昨年かの講演でそれについてお話ししました。
しかしながら、人格主義などでは逆になります。共通善は人間の人格に従うようになってしまいます。つまり、人格が、個人が絶対なことになってしまいます。定義を思い出しましょう。相対なるものは、何かに依存している時に相対だと言います。絶対なるものは、何ものにも依存しない時に絶対だと言います。依存関係はなくなったという時に絶対だと言います。まさに絶対を定義するのはこれですね。あるモノが、絶対になるというと、そのモノが依存する他のモノが一切ないという意味です。ところで、人格主義という理論は、人間の人格を絶対なこととして捉える説です。別の言い方になりますが、また自由を絶対なこととして捉える説に他なりません。人間の尊厳といった表現は、毎日のように聞こえて普及しています。人間の尊厳から出発して、良心の自由、他人への尊厳(無差別)というところに至ります。言い換えると、共通善は廃止されてしまいます。
ちょっと想像してみてください。ある子が、悪戯(いたずら)して、父に叱られるとしましょう。悪戯というか、家族の共通善に反する行為を犯してしまったので、父に罰せられるとしましょう。簡単に言うと、「家の精神」に反した行為を犯したと言ったほうが分かりやすいかもしれません。そこで、その子が「私の人格の尊厳はどうなるのか」と言い出すと想像してください。?☆#!* 当然です。子どもの権利でしょう。人間の権利に続いて、子どもの権利でしょう。これから間もなく、動物の権利にもなるでしょうし、続いて、植物の権利もでてくるでしょう。なんと滑稽なでしょうか。
最後に、以上のこういった絶対な自由の裏に、何かあるかというと、すべての権威への拒絶です。ここでは、政治上の権威のことです。プロテスタント主義の理論からの直接な結果です。念頭においていていただきたいことなのですが、西洋史では、少なくともヨーロッパでは、権威に反乱する理論として、プロテスタント主義は初めて出てきた理論です。勿論、中世期においての混乱とか、争いとかありました。しかしながら、ずっと権威を尊敬する前提だったのです。また、教皇と皇帝の間の軋轢はありました。が、権威に対する尊敬はずっと絶えることなくあったわけです。皇帝も教皇もその権威が無視された事実があったとしても、それぞれの権威は権威としてしっかり認められて尊敬されていたというのも揺るがない事実なのです。
プロテスタント主義は、純粋な単なる権威への拒絶です。権威者をすべて捨てて、従うべき権威を無くす理論です。「権威」を許すことが残っているとしたら、調整者としての権威だけになります。ところが、従うべき権威だとか、最高なる公のため人々に何かを課すべき権威だとかなどは、否定されているのです。
(これは)重大な問題です。なぜかというと、権威を拒絶してしまったら、不和をまき散らすことになりますから。ルターがそうしてしまった通りです。その上に、政治上もまた同じ結果になります。不和の蔓延です。現代を見ると明白でしょう。自由を唱えれば唱えるほど、不和をまき散らすことになります。それで、不和が深く蔓延してしまったらどうなるでしょうか。否が応でもある権威者に譲るしかありません。人間は不和を嫌いますから。だからどうするかというと、やむを得ず、ある権威を求めるようになります。ところが、やむを得ないということで求めざるを得ないのですが、理論の原理として権威を拒絶しているので、正当ではない権威になってしまいます。そこで、その正当のない権威が成り立つためには、暴力を振るっての専制となるしかありません。ホッブスがレヴィアタンと言う名前を付けたのはそこから来るわけです。そこで、国家は暴君になってしまいます。
こうしてかなり逆説的な状況を生みます。ところで、誤謬の特徴は、矛盾となっていることを共存させる逆説ということにこそあります。つまり、権威を拒絶しますが、人間というのは自然体としては権威抜きに生きられない自然体という事実があるので、ある権威が登場せざるを得ません。ところが、自然的にも理性の上でもいかなる権威も阻まれてしまっている理論の原理に成り立っているので、力ずくで正当性を手に入れるしかないことになってしまいます。
「正しいモノを強いモノで無くした人間は、強いモノを正しいモノとしてしまった」(パスカル)。誰の出典だったか忘れました。有名なのに。まさにその通りです。というのも、理性と知性で整理される正義は、皆が従うべき正義として居続けらなくなってしまっているからです。
ルターの置いた理性と知性に対する悲観主義という種からこの否定が来ています。そこで、正義が優位に立てなくなったところで、強制を採用するしかなくなります。そこで、戦争が起きます。ところで、力づくに無理矢理に自分を押し付ける専制というのは、何れ覆されるしかありません。というのも、理性への悲観主義と軽蔑から来て、つまり理性抜きに力づくで自分を立てようとする権力の特徴は、必ず皆に嫌われるようになります。皆、理性と合理性を求めるからです。言い換えると、人間はおのずと常識的な存在であるので、理性に合わないと落ち着きません。人間はすべてを理解する能力がないとしても、部分的にでも啓蒙されてほしい事実に変わりがないのです。
要約してみましょう。統一の不在。権威の拒絶。自由。自由解釈。人格主義。個人主義。結局、個人個人が何とかして一緒に共存できるために、全体を調整するためにある種の権威を自らを立てるが、専制にならないようにしよう、できるなら全く専制無しにしよう、とする。これは、民主主義に他なりません。まさに、民主主義です。この意味で、民主主義はルター主義の政治上の結果の一つです。「自由、平等」です。博愛はあまり旨くいきません。彼らは望んでいるのですけれど。
「自由、平等、博愛」。言ってみると、かなり逆説的でしょう。「自由」を絶対のものとして置いてしまった限りでは、平等も博愛も無理になります。まさに、こういった三つの価値観を原則として置いてしまうと、間違いなく、人間は「人間に対して狼」になるしかありません。要約してみると、プロテスタント主義の一つの政治上の結果は、民主主義です。
もう一つの面白い結果があると思います。正直に申し上げると、最近の「地の塩」という月刊誌に載ったBousquet氏による記事のものです。「プロテスタント主義と資本主義」を題にする記事です。驚くべきでないことでしょう。事実、プロテスタント主義と唯物論は密接的に繋がっているからです。その関係のあり方を見ると面白いと思います。
ルターが信仰を失ったのは確かなことです。前回にご紹介したと思いますが、ルターの天国についての発言があります。いわゆる「結婚」した修道女と一緒に歩く場面です。
修道女は天国について話し出します。ルターが「天国はもう私たちにとって届かないところだ。もう手遅れだ。」という感じの答えをします。修道女がこう応じます。「私たちはそれぞれの修道会に帰って、正しい生活を送ってみたらどうでしょうか。」ルターが、「いや、無駄だ」と答えてしまう典型的な場面です。
つまり、ルターは信仰を失います。信仰を失ったら、望徳をも失ってしまいます。そして、周知のように、愛徳をも失います。悲しいことに当然と言ったら当然ですけど。信仰を失うことによって、恩寵を失って、超自然の秩序をも失います。
私たちの主はこう仰せになります。これは政治上以上に、神学上の帰結になりますが、面白いことに、超自然の秩序は自然の秩序を破壊することは一切ありません。「人は二人の主人に仕えることはできぬ」 とイエズス・キリストが仰せになります。続いて、「一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人を疎んずるかである」 と。
これは一つの真理で、当たり前の真理ですが、超自然上の真理でもあります。そこで、私たちの主はこの真理を私たちに啓示します。勿論、間違っていないし、私たちの主によって啓示されたことでもあって、なおさらのことです。ところで、それより面白いことがあります。「人は二人の主人に仕えることはできぬ」と仰せになるときに、その二人の主人を明白に指してくださるわけです。つまり天主とマンモン(富・黄金)との二人の主人です。
ここで、「人間は二つのことに引き付けられているよ」と私たちの主が仰せになります。超自然の人間の目的(これが天主です)に引き付けられるか。それとも、超自然の人間の目的ではなく、物質的なモノの方に引き付けられます。要するに、金(カネ)です。その理由は、お金が力をもたらすからです。購買力であり、所有力であり、何でもです。お金というのは、勿論、最高の財産ではないのですが、一番多くの物を手に入れられる財産は確かにお金なのです。金持ちになっても、豊かになっているとは限りません。ただ、金持ちになると、多くの富を手に入れるということです。単なるお金を沢山持っている者は、実際に多くの財産を持っていません。購買したときに、何かを所有したときに、完全な形で豊かになっていきます。つまり、金というのは、多くの物を所有できる力(道具)なのです。勿論、物質的な物を所有することの。「私はこれらの国々を皆あなたにやろう」。これは、私たちの主に対してなされた、荒れ野での最後のサタンによる誘いです。「サタン、退け〈神なる主を礼拝し、ただ天主にだけ使えねばならぬ〉」 。まさに、天主とマンモンとの間の選択です。天主を礼拝しなければ、残念ながらマンモン(黄金)を礼拝するようになってしまう、と。
要するに、どれほど絶対な自由を望もうとしても、個人主義と無神論で徹底しようとしても、結局のところに、人間は天主のしもべでなかったら、他の何かの奴隷になってしまうだけです。絶対的な自由や、絶対としての人間がすべてのモノの主になる人間なんて、実際の世界では存在しないのです。どちらかです。一方で、天主のしもべになるという方法で立派になるのか、それとも、もう一方の、黄金にでも耽ってその奴隷になるのかどちからかです。とにかく、「私が自分自身の主である」というのは、決して現実にあり得ないことで、実際に存在しないことです。自分が自分自身の主であることに意味があるのなら、天主が私自身の主であってのことでかありません。つまり、人間の本性には、抵抗できないそもそもの衝動(傾向)があるからなのです。それは何かに仕えるという衝動です。なぜかというと、本質的に、人間が相対的な存在だからです。本質的に、何かに依存(従属)していることが人間の特徴です。これは揺るぎない事実です。自分を絶対なものとどれほど訴えようとしても、実際においてずっと何かに依存しているわけです。ここで、天主に依存しなければ、この世の富に依存してしまうのです。
プロテスタント主義は、天主ではなく地上の富を選ぶという種(たね)を含みます。そこで、ルターが福音的勧告を廃止します、それらを特に憎むのです。福音的勧告を、です。福音的勧告というのは、修道士の立てる誓願に要約されています。宗教生活の完徳への志を象徴する誓願なのです。つまり、福音的勧告というのは、貞潔の誓願、清貧の誓願と従順の誓願からなります。
貞潔の誓願をすることによって、肉身に関連する快楽を断念します。
清貧の誓願によって、この世の財産を断念します。
そして、従順の誓願によって、自分の持っている一番大切な専有物なる自分自身の意志を断念します。
ルターはこれらの福音的勧告が大嫌いでした。修道士の誓願についてのルターの諸文書は最も酷いものです。また、ルターが自分の誓った誓願を捨てて、どのように悲しむべき状態で人生を送ってきたかは周知の通りです。
貞潔の誓願を捨てて、ルターは感覚の快楽に耽ってしまうのです。ある種の唯物論が見られます、少なくとも、肉身的唯物論です。
清貧の誓願を拒絶してしまうことによって、ルターが暗にこの世の財産に従属してしまいます。
従順の誓願をぶっ壊そうとすることによって、ルターがすべての権威を拒絶してしまうわけです。
まさに、一貫性があります。ルターの革命が、ある種の悪循環を起こして、ある種の悲惨なる絡繰りを動かしてしまいました。簡潔に言うと、やはり、革命そのものです。総てを変えたからです。ルターが修道士として誓った誓願への反逆において、これには唯物論の種が含まれています。権威はなくされ、この世の財産への従属、また、残念ながら、肉欲への従属があります。
そういえば、ルターのデスマスクが恐ろしいそうです。子供に見せてはいけないほどに恐ろしいそうです。酷い話でしょう。時々、死者の顔を見たら、穏やかだなあと言う時があります。一方、そうは言えない死者の顔もあります。良き天主の代わりに、私たちが裁くことはもちろん一切できないのですが。とはいえ、目の前に見ていることなら、判断できるだけはできますね。
続いて、ルターが修道士の誓願を拒絶するとともに、修道生活自体を否定します。それから、当然ながら残念なことに、聖職者たる生活をも否定してしまいます。聖職者たる生活を、また修道生活をも特徴づけることは一体何でしょうか。
より根本的に言うと、すべての霊的生活をも特徴づけることですが、それは観想です。つまり、キリスト教信者の精神を特徴づけるのは、また天国での霊魂を特徴づけるのは、観想です。ところで天国にはキリスト教信者だけがいます。というか、カトリックしかいません。それは、確かなことです。その天国の特徴は、天主の観想に他なりません。この地上での「聖徳の生活」を特徴づけるのは、そしてこれは「一番主(おも)たる共通善」でもありますが、真理の観想に他なりません。
それで、観想を拒絶してしまったルターが、本来ならば観想と相関的な関係にある行動にだけに耽ってしまいます。一般的に、観想と行動を対立の関係で捉われることが多いですね。本来ならば、両方は繋げるべきです。二年前に共通善についてご紹介したときに、詳しく説明しました。
行動というのは、観想に従属すべきことです。また「作ること」と「行うこと」と「観想すること」の三つのことは、お互いにどうやって関係していて、従属・秩序を整えるかご紹介しました。
また、知性にしても、最高の知性の作用である観想というのは、行動中の至上の行動であるということをもご紹介しました。しかも、天下のすべての諸々の善は観想という秩序に従うべきだということをも見ました。
もう一度繰り返しますが、観想を拒絶してしまったルターは、共通善の本来の目的を否定するようになります。共通善の本来の目的は真理の観想ですから。しかしながら、同時に、ルターが行動へ夢中になり、徹底的に行動に耽ってしまいます。一言でいうと、活動的生活に耽ってしまいます。言い換えると、唯物論へ耽ってしまうことになります。いいですか。
そういえば、教皇レオ十三世によって破門された一つの理論は、「アメリカ主義」と呼ばれています。教皇レオ十三世によって破門された「アメリカ主義」とは一体何でしょうか。この理論は、いわゆる「消極的な徳」を軽蔑して捨てるという理論です。つまり、この説によるとね、これらの「消極的な徳」などは、生産性がないので、無駄だとされて、何にも役立たないとされています。例えば、謙遜の徳や従順の徳や貞潔の徳や清貧の徳などは、「消極的な徳」とレッテル付けられています。他には、柔和の徳や忍耐の徳や寛容の徳などなどもあります。要するに、「小徳」といわれる聖徳ですが、決して小さくない徳で、大事な徳です。かなり実践しづらい徳ですが、「消極的な徳」と呼ばれる理由は、「活動的な生活」に帰属しないからです。
そこで、あるアメリカ人たちは、「活動的な生活」を重んじた挙句に、「消極的な徳」を否定しました。教皇レオ十三世がその「活動主義」を破門しました。いわゆる「消極的な徳」より「活動的な徳」を優位に見なすこの誤謬を破門しました。これも、ルター主義の一つの結果といえます。アメリカで生まれたのも象徴的ですね。アメリカでは、プロテスタント主義がカトリックより主流になっているから、そこに生まれやすい誤謬だったのです。そこで、アメリカ主義という誤謬の破門の意味は、「活動的な生活」或いは「物質主義」に耽っていくということを戒めることです。したがってプロテスタント主義において、労働と生産は肝心なことになっています。面白いことに、ルターもカルヴァンもそれらについて一言も触れていないのに、後の諸世紀のプロテスタントの発展に連れて、もともとあったこの種が成長していき、労働と生産は人間の人生にとって中心になっていくのです。
プロテスタント主義が「豊かさは神の恩恵の証だ」というほどです。「豊かさは神の恩恵の証だよ」と。カルヴァン主義の帰結でもあります。一体なぜでしょうか。
一方で、これを義化の問題からその因果関係を説明することができます。プロテスタント主義なら、もう人間の内は義化されなくなります。外から、覆われて、仮面だけのような「義認」になりますから。従って、これだと、神が誰を救うか、誰を地獄に投げるか、神意のままで決まることになります。プロテスタント主義における救霊予定説の問題です。カトリック信徒の救霊予定の理解と完全に反対しているのです。
カトリックなら、一人も欠かずにすべての人間は天国に行くように呼び出されています。十字架上の御死去は、「Qui propter nos homines et propter nostram salutem descendit de caelis」「主は、我ら人間のために、我らの救いのために、天から下り給うた」と。つまり、限られた人数の救霊のためのではなく、すべての人々の救霊のために、ということです。これは、カトリックによる救霊予定です。要するに、天主は、つまり私たちの主は、一人も欠かずすべての人々の救霊のために、出来るすべてのことを尽くし給うたのです。つまり、すべての人間は天国に行くように呼び出されています。
プロテスタントなら、神の自由意志で、ある人を救うならば、他の人を地獄に送る神意の決定があるとされています。ところが、人間は確信を必要としています。
カトリックである私たちなら、確信があります。というのも、私たちのために天主様は死に給うたという確信を持っているからです。そこで、十字架上のイエズス・キリストは、私のために死に給うたという確信がある限り、私たちの主に従う限りに、もう救われています。これこそは揺るぎない確信で、カトリックにとっての大喜びなのです。要するに、カトリック信徒は、すべての人間のために死に給うたから自分のためにも私たちの主が死に給うたことを知っているので、もしも私が自分自身をイエズス・キリストに適わしめるのなら、確実に救われる大喜びの内に生きていられます。
プロテスタント信徒なら、救われるかどうかわからないままです。総ての人間が天国に呼び出されている教義が廃止されたからです。プロテスタントなら、神は少ないある人々を救うだけですから。そこで、理性の位置をどれほどに否定したとしても、人間はどうしても確信抜きにはいられないなので、プロテスタント信徒でさえも確信を求めます。ということで、一体どこに確信を求めに行くでしょうか。救われた証として、物質的な豊かさにおいて求めるわけです。従って、プロテスタント主義の裏には、資本主義との密接的な関係があります。物質的な豊かさと財産の保有が、絶対的な目的になるという理論です。そうなんです。
以上に見たように、プロテスタント主義が民主主義と資本主義と関係を持っていることを見ただけでも、なかなか面白いでしょう。そこで、プロテスタント主義には、人間の本性に対する有害的な種がどれほど含まれているのか 結局かなり明白になるでしょう。
(続く)
プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)ビルコック(Billecocq)神父による哲学の講話
プロテスタントの教えとその政治的な結果について(後編)
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では、これからより理論的にプロテスタント主義がもたらす結果を分析しましょう。
先ほどに申し上げましたが、プロテスタント主義の第一の特徴は、統一の欠如にあります。しかしながら、政治的生活の根本には統一が必要です。一国なり、一家なり、一族なり、何か統一される共同体が前提になります。例えば、政治の基礎を成す単位は、家族ですが、自分の家に対して、「うちの家」といいますね。「うちの一族」といいますね。「うち」でないと、自分が属する家として成り立ちません。なぜでしょうか。家族という基礎社会を構成する違う人々の個性を越えて、社会の構成員の統一を成す絆があるわけです。家族なら夫婦と子供の間に血縁と親縁(親しみの心)という絆はその統一を成すわけです。そういった統一は実際に自然にあります。家族の例だと、血縁という絆に基づく統一です。
プロテスタント主義は、自由解釈のせいで、不和の種を潜在的にしろ常に持っています。言い換えると、プロテスタント主義は統一をもたらすことはできなくて、不和をもたらします。まず、勿論、理論上の不和・分離(不統一)をもたらします。そうして、教義上の統一が消えたら、間もなくして政治上の統一も消えます。不和をもたらすことによって、プロテスタント主義は社会の統一を破壊します。ところで、この統一は、社会の共通の善(公共のための善)の一つであります。従って、プロテスタント主義は、少なくとも種として、社会の共通善に反するのです。つまり、平和に反するのです。平和こそは、社会の共通善の一つですから。言い換えると、プロテスタント主義は社会の目的に反するのです。
自由解釈を訴えることによって、不和をもたらすばかりではなく、結局その先に個人主義をもたらします。なぜかというと、「自由」という価値観を普及させるからです。「自由」こそは、現代において好まれています。「自由」とは、単なる「自由主義」の意味ではなく、人間の根本的な特徴としての、人間の固有の善としての「自由」という意味です。ある意味で、それらの結論は当たり前といったら当り前です。本来ならば、通常ならば、人間の一番大切となる特徴は、完全性は、知性になるはずだからです。そして、知性の完全化もその最高の特徴です。
しかし、プロテスタント主義における知性に対する極端な悲観主義は、知性が物事を知ることができるという能力を否定する悲観主義だからこそ、人間の一番尊敬すべき能力を否定して、人間を堕落しきったものとさせます。ここにおいて知性と真理における避難所が無くなったルターはどこへ避難するでしょうか。「自由」へと避難するのです。しかしながら、問題があります。「自由」と言い出しても、具体的に中身はありません。知性の場合ならば違いますね。知性を語るときに、本来ならば、必ず、真理も登場せざるを得ません。真理を知る知性ですから。要するに、他の能力にも適用できることですが、知性を特徴づけるのは、知性の固有の善である真理をもって特徴づけます。
現代では、ルター的に「自由」について語るときに、「自由」といって、それきりです。まさに、不確定なものとしての自由となります。従って、プロテスタント主義は、個人主義と共に、「絶対的な自由」をもたらすことによって、ある種の不確定主義をもたらします。
本来ならば、人間のどの能力とも同じように、人間と自由を第三者(その善)に関係づけるべきところを、「自由」という能力を完全に独立させて、何によっても確定されなくしてしまうのです。つまりそれ自体の価値にしてしまい、「自由」を特徴づけるものはもうなくなります。いえ、あえて特徴づけるなら「やりたいことをやりたいだけやる」という自由だけです。でも問題は解決しません。「何が欲しいか」「ほしいモノが欲しい」というふうに、「何が」よりも「やりたい気持ち」の方が重んじられるようになります。結果として、以上のように「自由」を定義してしまうと、とどめのない悪循環になり、論理上、終わらない矛盾になります。不確定の「自由」になります。従って純粋な個人主義になります。
要するに、これで行くと人間が自分自身に閉じこもり縮(ちぢ)こまることになります。その上、自分が自分に善を与えるようになります。自由解釈の一つの結果であるこの「絶対的な自由」というものによって、どれほど人間がおのずと共通善を破壊していくかは明白でしょう。つまり、「絶対的な自由」を訴える人にとっての共通善は、もう共通善でなく、(自分の)善になってしまうのです。まさに個人主義です。社会の構成員の分裂を意味するに他なりません。共通善も分裂されました。統一を分裂させてしまったことによって、ルターは共通善に反します。この上、絶対的な価値としての自由をもたらすことによって、社会自体も分裂してしまい、それぞれの個人が、自分の善を自分に置かせてしまうわけです。
近代では、こういった発想は、特に実存哲学に濃く見られます。近世の実在主義は結局、無神論になってしまいました。実に、これこそ、面白い帰結です。プロテスタント主義とルター主義は、無神論の萌芽を含むのです。後で触れますが、なぜ、無神論に繋がるかというと、プロテスタント主義は権威者をすべて拒絶するからです。それでは、天主、カトリック教会、聖伝の権威の代わりに置かれるのは、もう人間になってしまうからです。だから、プロテスタント主義において、無神論の種が既にあります。
前回に詳しく触れたのですが、以上を見ると、ルター主義がなぜ根本的に自然主義と密接に繋がっているか明らかになります。自然主義をはじめ、ルネサンス期の諸哲学理論との関係が深いのです。要するに、人間中心主義(ヒューマニズム)です。
さて、「絶対的な自由」に戻ると、実存主義においてそれは見いだせます。実存主義という理論において、人間はある種の自発的な存在となり、自分を自分自身で自らを構造する、と言います。従って、人間は自分自身こそが自分の目的で、自分の善になります。サルトルを読んでみると明白です。そういえば、彼の著書『実存主義、一種のヒューマニズム』の題を見るだけで自明です。人間中心主義になってしまい、その上に、個人主義にもなっています。
その個人主義の内容ですが、個人が自分を作り出すことになるけれども、何も誰にも依存しないで、独立に自分を作るべきだという論調になります。他の人の目線に依存すべきではない、と。何の権威も受け入れない、何の共同体の権威をも受け入れない、と。その個人は、独りぼっちなのです。人間はこの世にほうり投げ出されている感じです。実存主義の哲学者の有名なる「ダザイン(現存在)」の概念は将にこれを示します。その中に、だれにも依存してはいけない、と。依存してしまったら、自分の自由を失うからです。サルトルの「他人こそは地獄だ」の有名なセリフは、その意味で言っているのです。つまり、地獄なのは、他人と一緒に生きるのではなく、「他人の目線に依存することが地獄だ」という意味です。
結局のところ、以上のことは何を意味するでしょうか。「自由」を絶対なこととして捉えることを意味します。しかしながら、「自由」を絶対なこととして捉えることは、非常識にすぎません。「自由」というのは、絶対ではありませんから。もしも「自由」が絶対なことなら、「自由」をもって特徴づけられる人間も、絶対なことになってしまうわけです。ちなみに、近代家たちは、まさにこの結論にいたりますが。で、人間は絶対になってしまい、つまり、天主の代わりに、人間が天主となってしまうのです。
そういえば、ある哲学者が、へーゲルだったか、シェリングだったか、フィヒテだったか、今は思い出しませんが、御覧の通りに、その辺りの思想家です。ドイツ人でありながら、同時になかなかのプロテスタント主義者だといった人々です。ところで、そのうちの一人が、自分の講座が終わった時だと思いますが、授業が終わったら「次回の講話では、私が神を創造して見せます」といったという典型的な逸話があります(笑)。いや、正にこれではないでしょうか。絶対としての自由の立場だったら、人間が独りぼっちで、自分だけが自分を造るわけだから、自分が自分の運命の主だとしているから、もう天主に創造されたとか、天主に依存しているとか、それらはなくなるからです。しかも、その理論だと、逆に、人間が天主を創造して、人間の自分に天主が依存するようになってしまうのです。全く本末転倒です。従って、それで行くのなら、人間が天主を創造する全能なる力を持っているので、天主を創造するのも、天主を破滅させるのも、人間の勝手次第になってしまいます。
もう一度言っておきますが、自由解釈ということの結果は以上のようになります。ルターの理論において、まだ種に過ぎないことは確かです。が、その種があって、すべての基礎があって、発展していったら、「絶対の自由」になっていきます。かなり早いペースで、「自由・平等・博愛」に至ってしまいます。20世紀ではないんです。もう18世紀の早い段階でもうそこまで行っています。
ルターの後に、2世紀もう経っただけのところです。そういえば、教皇ピオ6世だったと思いますが、ある教皇は「フランス革命はプロテスタント主義の一つの結果だ」といっておられたほどです。まさにそうなんです。「自由」が叫ばれる限り、プロテスタント主義の遺産物になります。
以上の実存主義は、別の名前で、20世紀初頭にも知られていたことを加えておきましょう。現代は聞き慣れなくなった呼称ですが、人格主義(ペルソナ主義)という理論です。要するに、人格主義の基礎理論はこうなります。
人格の尊厳は、共通善の代わりに置かれるという理論です。エマネル・ムニエ(Emmanuel Mounier)によって設立された理論です。その後継者はジャック・マリタン(Jacques Maritain)です。それでは、人格主義の根本的な意味はなんでしょうか。これは人格を共通善よりも上に置く理論です。本来ならば、健全な政治理論の場合では、人間が共通善のために順序だてられています。そこで、共通善のために励んで働くのです。そして、共通善のために働くことによって、自分を豊かにするわけで、自分を完全化させます。言ってみると、共通善が人間の善を完全化させると言えます。去年か一昨年かの講演でそれについてお話ししました。
しかしながら、人格主義などでは逆になります。共通善は人間の人格に従うようになってしまいます。つまり、人格が、個人が絶対なことになってしまいます。定義を思い出しましょう。相対なるものは、何かに依存している時に相対だと言います。絶対なるものは、何ものにも依存しない時に絶対だと言います。依存関係はなくなったという時に絶対だと言います。まさに絶対を定義するのはこれですね。あるモノが、絶対になるというと、そのモノが依存する他のモノが一切ないという意味です。ところで、人格主義という理論は、人間の人格を絶対なこととして捉える説です。別の言い方になりますが、また自由を絶対なこととして捉える説に他なりません。人間の尊厳といった表現は、毎日のように聞こえて普及しています。人間の尊厳から出発して、良心の自由、他人への尊厳(無差別)というところに至ります。言い換えると、共通善は廃止されてしまいます。
ちょっと想像してみてください。ある子が、悪戯(いたずら)して、父に叱られるとしましょう。悪戯というか、家族の共通善に反する行為を犯してしまったので、父に罰せられるとしましょう。簡単に言うと、「家の精神」に反した行為を犯したと言ったほうが分かりやすいかもしれません。そこで、その子が「私の人格の尊厳はどうなるのか」と言い出すと想像してください。?☆#!* 当然です。子どもの権利でしょう。人間の権利に続いて、子どもの権利でしょう。これから間もなく、動物の権利にもなるでしょうし、続いて、植物の権利もでてくるでしょう。なんと滑稽なでしょうか。
最後に、以上のこういった絶対な自由の裏に、何かあるかというと、すべての権威への拒絶です。ここでは、政治上の権威のことです。プロテスタント主義の理論からの直接な結果です。念頭においていていただきたいことなのですが、西洋史では、少なくともヨーロッパでは、権威に反乱する理論として、プロテスタント主義は初めて出てきた理論です。勿論、中世期においての混乱とか、争いとかありました。しかしながら、ずっと権威を尊敬する前提だったのです。また、教皇と皇帝の間の軋轢はありました。が、権威に対する尊敬はずっと絶えることなくあったわけです。皇帝も教皇もその権威が無視された事実があったとしても、それぞれの権威は権威としてしっかり認められて尊敬されていたというのも揺るがない事実なのです。
プロテスタント主義は、純粋な単なる権威への拒絶です。権威者をすべて捨てて、従うべき権威を無くす理論です。「権威」を許すことが残っているとしたら、調整者としての権威だけになります。ところが、従うべき権威だとか、最高なる公のため人々に何かを課すべき権威だとかなどは、否定されているのです。
(これは)重大な問題です。なぜかというと、権威を拒絶してしまったら、不和をまき散らすことになりますから。ルターがそうしてしまった通りです。その上に、政治上もまた同じ結果になります。不和の蔓延です。現代を見ると明白でしょう。自由を唱えれば唱えるほど、不和をまき散らすことになります。それで、不和が深く蔓延してしまったらどうなるでしょうか。否が応でもある権威者に譲るしかありません。人間は不和を嫌いますから。だからどうするかというと、やむを得ず、ある権威を求めるようになります。ところが、やむを得ないということで求めざるを得ないのですが、理論の原理として権威を拒絶しているので、正当ではない権威になってしまいます。そこで、その正当のない権威が成り立つためには、暴力を振るっての専制となるしかありません。ホッブスがレヴィアタンと言う名前を付けたのはそこから来るわけです。そこで、国家は暴君になってしまいます。
こうしてかなり逆説的な状況を生みます。ところで、誤謬の特徴は、矛盾となっていることを共存させる逆説ということにこそあります。つまり、権威を拒絶しますが、人間というのは自然体としては権威抜きに生きられない自然体という事実があるので、ある権威が登場せざるを得ません。ところが、自然的にも理性の上でもいかなる権威も阻まれてしまっている理論の原理に成り立っているので、力ずくで正当性を手に入れるしかないことになってしまいます。
「正しいモノを強いモノで無くした人間は、強いモノを正しいモノとしてしまった」(パスカル)。誰の出典だったか忘れました。有名なのに。まさにその通りです。というのも、理性と知性で整理される正義は、皆が従うべき正義として居続けらなくなってしまっているからです。
ルターの置いた理性と知性に対する悲観主義という種からこの否定が来ています。そこで、正義が優位に立てなくなったところで、強制を採用するしかなくなります。そこで、戦争が起きます。ところで、力づくに無理矢理に自分を押し付ける専制というのは、何れ覆されるしかありません。というのも、理性への悲観主義と軽蔑から来て、つまり理性抜きに力づくで自分を立てようとする権力の特徴は、必ず皆に嫌われるようになります。皆、理性と合理性を求めるからです。言い換えると、人間はおのずと常識的な存在であるので、理性に合わないと落ち着きません。人間はすべてを理解する能力がないとしても、部分的にでも啓蒙されてほしい事実に変わりがないのです。
要約してみましょう。統一の不在。権威の拒絶。自由。自由解釈。人格主義。個人主義。結局、個人個人が何とかして一緒に共存できるために、全体を調整するためにある種の権威を自らを立てるが、専制にならないようにしよう、できるなら全く専制無しにしよう、とする。これは、民主主義に他なりません。まさに、民主主義です。この意味で、民主主義はルター主義の政治上の結果の一つです。「自由、平等」です。博愛はあまり旨くいきません。彼らは望んでいるのですけれど。
「自由、平等、博愛」。言ってみると、かなり逆説的でしょう。「自由」を絶対のものとして置いてしまった限りでは、平等も博愛も無理になります。まさに、こういった三つの価値観を原則として置いてしまうと、間違いなく、人間は「人間に対して狼」になるしかありません。要約してみると、プロテスタント主義の一つの政治上の結果は、民主主義です。
もう一つの面白い結果があると思います。正直に申し上げると、最近の「地の塩」という月刊誌に載ったBousquet氏による記事のものです。「プロテスタント主義と資本主義」を題にする記事です。驚くべきでないことでしょう。事実、プロテスタント主義と唯物論は密接的に繋がっているからです。その関係のあり方を見ると面白いと思います。
ルターが信仰を失ったのは確かなことです。前回にご紹介したと思いますが、ルターの天国についての発言があります。いわゆる「結婚」した修道女と一緒に歩く場面です。
修道女は天国について話し出します。ルターが「天国はもう私たちにとって届かないところだ。もう手遅れだ。」という感じの答えをします。修道女がこう応じます。「私たちはそれぞれの修道会に帰って、正しい生活を送ってみたらどうでしょうか。」ルターが、「いや、無駄だ」と答えてしまう典型的な場面です。
つまり、ルターは信仰を失います。信仰を失ったら、望徳をも失ってしまいます。そして、周知のように、愛徳をも失います。悲しいことに当然と言ったら当然ですけど。信仰を失うことによって、恩寵を失って、超自然の秩序をも失います。
私たちの主はこう仰せになります。これは政治上以上に、神学上の帰結になりますが、面白いことに、超自然の秩序は自然の秩序を破壊することは一切ありません。「人は二人の主人に仕えることはできぬ」 とイエズス・キリストが仰せになります。続いて、「一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人を疎んずるかである」 と。
これは一つの真理で、当たり前の真理ですが、超自然上の真理でもあります。そこで、私たちの主はこの真理を私たちに啓示します。勿論、間違っていないし、私たちの主によって啓示されたことでもあって、なおさらのことです。ところで、それより面白いことがあります。「人は二人の主人に仕えることはできぬ」と仰せになるときに、その二人の主人を明白に指してくださるわけです。つまり天主とマンモン(富・黄金)との二人の主人です。
ここで、「人間は二つのことに引き付けられているよ」と私たちの主が仰せになります。超自然の人間の目的(これが天主です)に引き付けられるか。それとも、超自然の人間の目的ではなく、物質的なモノの方に引き付けられます。要するに、金(カネ)です。その理由は、お金が力をもたらすからです。購買力であり、所有力であり、何でもです。お金というのは、勿論、最高の財産ではないのですが、一番多くの物を手に入れられる財産は確かにお金なのです。金持ちになっても、豊かになっているとは限りません。ただ、金持ちになると、多くの富を手に入れるということです。単なるお金を沢山持っている者は、実際に多くの財産を持っていません。購買したときに、何かを所有したときに、完全な形で豊かになっていきます。つまり、金というのは、多くの物を所有できる力(道具)なのです。勿論、物質的な物を所有することの。「私はこれらの国々を皆あなたにやろう」。これは、私たちの主に対してなされた、荒れ野での最後のサタンによる誘いです。「サタン、退け〈神なる主を礼拝し、ただ天主にだけ使えねばならぬ〉」 。まさに、天主とマンモンとの間の選択です。天主を礼拝しなければ、残念ながらマンモン(黄金)を礼拝するようになってしまう、と。
要するに、どれほど絶対な自由を望もうとしても、個人主義と無神論で徹底しようとしても、結局のところに、人間は天主のしもべでなかったら、他の何かの奴隷になってしまうだけです。絶対的な自由や、絶対としての人間がすべてのモノの主になる人間なんて、実際の世界では存在しないのです。どちらかです。一方で、天主のしもべになるという方法で立派になるのか、それとも、もう一方の、黄金にでも耽ってその奴隷になるのかどちからかです。とにかく、「私が自分自身の主である」というのは、決して現実にあり得ないことで、実際に存在しないことです。自分が自分自身の主であることに意味があるのなら、天主が私自身の主であってのことでかありません。つまり、人間の本性には、抵抗できないそもそもの衝動(傾向)があるからなのです。それは何かに仕えるという衝動です。なぜかというと、本質的に、人間が相対的な存在だからです。本質的に、何かに依存(従属)していることが人間の特徴です。これは揺るぎない事実です。自分を絶対なものとどれほど訴えようとしても、実際においてずっと何かに依存しているわけです。ここで、天主に依存しなければ、この世の富に依存してしまうのです。
プロテスタント主義は、天主ではなく地上の富を選ぶという種(たね)を含みます。そこで、ルターが福音的勧告を廃止します、それらを特に憎むのです。福音的勧告を、です。福音的勧告というのは、修道士の立てる誓願に要約されています。宗教生活の完徳への志を象徴する誓願なのです。つまり、福音的勧告というのは、貞潔の誓願、清貧の誓願と従順の誓願からなります。
貞潔の誓願をすることによって、肉身に関連する快楽を断念します。
清貧の誓願によって、この世の財産を断念します。
そして、従順の誓願によって、自分の持っている一番大切な専有物なる自分自身の意志を断念します。
ルターはこれらの福音的勧告が大嫌いでした。修道士の誓願についてのルターの諸文書は最も酷いものです。また、ルターが自分の誓った誓願を捨てて、どのように悲しむべき状態で人生を送ってきたかは周知の通りです。
貞潔の誓願を捨てて、ルターは感覚の快楽に耽ってしまうのです。ある種の唯物論が見られます、少なくとも、肉身的唯物論です。
清貧の誓願を拒絶してしまうことによって、ルターが暗にこの世の財産に従属してしまいます。
従順の誓願をぶっ壊そうとすることによって、ルターがすべての権威を拒絶してしまうわけです。
まさに、一貫性があります。ルターの革命が、ある種の悪循環を起こして、ある種の悲惨なる絡繰りを動かしてしまいました。簡潔に言うと、やはり、革命そのものです。総てを変えたからです。ルターが修道士として誓った誓願への反逆において、これには唯物論の種が含まれています。権威はなくされ、この世の財産への従属、また、残念ながら、肉欲への従属があります。
そういえば、ルターのデスマスクが恐ろしいそうです。子供に見せてはいけないほどに恐ろしいそうです。酷い話でしょう。時々、死者の顔を見たら、穏やかだなあと言う時があります。一方、そうは言えない死者の顔もあります。良き天主の代わりに、私たちが裁くことはもちろん一切できないのですが。とはいえ、目の前に見ていることなら、判断できるだけはできますね。
続いて、ルターが修道士の誓願を拒絶するとともに、修道生活自体を否定します。それから、当然ながら残念なことに、聖職者たる生活をも否定してしまいます。聖職者たる生活を、また修道生活をも特徴づけることは一体何でしょうか。
より根本的に言うと、すべての霊的生活をも特徴づけることですが、それは観想です。つまり、キリスト教信者の精神を特徴づけるのは、また天国での霊魂を特徴づけるのは、観想です。ところで天国にはキリスト教信者だけがいます。というか、カトリックしかいません。それは、確かなことです。その天国の特徴は、天主の観想に他なりません。この地上での「聖徳の生活」を特徴づけるのは、そしてこれは「一番主(おも)たる共通善」でもありますが、真理の観想に他なりません。
それで、観想を拒絶してしまったルターが、本来ならば観想と相関的な関係にある行動にだけに耽ってしまいます。一般的に、観想と行動を対立の関係で捉われることが多いですね。本来ならば、両方は繋げるべきです。二年前に共通善についてご紹介したときに、詳しく説明しました。
行動というのは、観想に従属すべきことです。また「作ること」と「行うこと」と「観想すること」の三つのことは、お互いにどうやって関係していて、従属・秩序を整えるかご紹介しました。
また、知性にしても、最高の知性の作用である観想というのは、行動中の至上の行動であるということをもご紹介しました。しかも、天下のすべての諸々の善は観想という秩序に従うべきだということをも見ました。
もう一度繰り返しますが、観想を拒絶してしまったルターは、共通善の本来の目的を否定するようになります。共通善の本来の目的は真理の観想ですから。しかしながら、同時に、ルターが行動へ夢中になり、徹底的に行動に耽ってしまいます。一言でいうと、活動的生活に耽ってしまいます。言い換えると、唯物論へ耽ってしまうことになります。いいですか。
そういえば、教皇レオ十三世によって破門された一つの理論は、「アメリカ主義」と呼ばれています。教皇レオ十三世によって破門された「アメリカ主義」とは一体何でしょうか。この理論は、いわゆる「消極的な徳」を軽蔑して捨てるという理論です。つまり、この説によるとね、これらの「消極的な徳」などは、生産性がないので、無駄だとされて、何にも役立たないとされています。例えば、謙遜の徳や従順の徳や貞潔の徳や清貧の徳などは、「消極的な徳」とレッテル付けられています。他には、柔和の徳や忍耐の徳や寛容の徳などなどもあります。要するに、「小徳」といわれる聖徳ですが、決して小さくない徳で、大事な徳です。かなり実践しづらい徳ですが、「消極的な徳」と呼ばれる理由は、「活動的な生活」に帰属しないからです。
そこで、あるアメリカ人たちは、「活動的な生活」を重んじた挙句に、「消極的な徳」を否定しました。教皇レオ十三世がその「活動主義」を破門しました。いわゆる「消極的な徳」より「活動的な徳」を優位に見なすこの誤謬を破門しました。これも、ルター主義の一つの結果といえます。アメリカで生まれたのも象徴的ですね。アメリカでは、プロテスタント主義がカトリックより主流になっているから、そこに生まれやすい誤謬だったのです。そこで、アメリカ主義という誤謬の破門の意味は、「活動的な生活」或いは「物質主義」に耽っていくということを戒めることです。したがってプロテスタント主義において、労働と生産は肝心なことになっています。面白いことに、ルターもカルヴァンもそれらについて一言も触れていないのに、後の諸世紀のプロテスタントの発展に連れて、もともとあったこの種が成長していき、労働と生産は人間の人生にとって中心になっていくのです。
プロテスタント主義が「豊かさは神の恩恵の証だ」というほどです。「豊かさは神の恩恵の証だよ」と。カルヴァン主義の帰結でもあります。一体なぜでしょうか。
一方で、これを義化の問題からその因果関係を説明することができます。プロテスタント主義なら、もう人間の内は義化されなくなります。外から、覆われて、仮面だけのような「義認」になりますから。従って、これだと、神が誰を救うか、誰を地獄に投げるか、神意のままで決まることになります。プロテスタント主義における救霊予定説の問題です。カトリック信徒の救霊予定の理解と完全に反対しているのです。
カトリックなら、一人も欠かずにすべての人間は天国に行くように呼び出されています。十字架上の御死去は、「Qui propter nos homines et propter nostram salutem descendit de caelis」「主は、我ら人間のために、我らの救いのために、天から下り給うた」と。つまり、限られた人数の救霊のためのではなく、すべての人々の救霊のために、ということです。これは、カトリックによる救霊予定です。要するに、天主は、つまり私たちの主は、一人も欠かずすべての人々の救霊のために、出来るすべてのことを尽くし給うたのです。つまり、すべての人間は天国に行くように呼び出されています。
プロテスタントなら、神の自由意志で、ある人を救うならば、他の人を地獄に送る神意の決定があるとされています。ところが、人間は確信を必要としています。
カトリックである私たちなら、確信があります。というのも、私たちのために天主様は死に給うたという確信を持っているからです。そこで、十字架上のイエズス・キリストは、私のために死に給うたという確信がある限り、私たちの主に従う限りに、もう救われています。これこそは揺るぎない確信で、カトリックにとっての大喜びなのです。要するに、カトリック信徒は、すべての人間のために死に給うたから自分のためにも私たちの主が死に給うたことを知っているので、もしも私が自分自身をイエズス・キリストに適わしめるのなら、確実に救われる大喜びの内に生きていられます。
プロテスタント信徒なら、救われるかどうかわからないままです。総ての人間が天国に呼び出されている教義が廃止されたからです。プロテスタントなら、神は少ないある人々を救うだけですから。そこで、理性の位置をどれほどに否定したとしても、人間はどうしても確信抜きにはいられないなので、プロテスタント信徒でさえも確信を求めます。ということで、一体どこに確信を求めに行くでしょうか。救われた証として、物質的な豊かさにおいて求めるわけです。従って、プロテスタント主義の裏には、資本主義との密接的な関係があります。物質的な豊かさと財産の保有が、絶対的な目的になるという理論です。そうなんです。
以上に見たように、プロテスタント主義が民主主義と資本主義と関係を持っていることを見ただけでも、なかなか面白いでしょう。そこで、プロテスタント主義には、人間の本性に対する有害的な種がどれほど含まれているのか 結局かなり明白になるでしょう。
(続く)