ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

革命家のカテキズムーネチャーエフーFatima

2017年11月18日 | ファチマ
セルゲイ・ゲンナジエヴィチ・ネチャーエフの革命家のカテキズムからの引用

カッファラ枢機卿は「天主とサタンとの最後の戦いは、婚姻と家庭に関わるものであるとシスター・ルシアが言った」と証言した。サタンは天主の創造の業を完全に破壊しようとする。殺人は、天主の似姿を破壊する反創造である。サタンは、堕胎と同性愛の嘘を進めて、創造の二つの最も重要な柱を破壊しようとする。サタンの最終の目的は、「反創造を作り上げる」こと、天主と、主の美しさと善さのしるしが消し去られている「別のものを作り上げること」だ。サタンの手先として革命家が使われる。

●革命家とは、死を宣告された者のこと。革命家には、個人的関心、事情、感情、愛着物、財産、名前もない。革命家にあるすべては、ただ一つの関心・思想・情熱、つまり革命だけ。
●革命家は、世界のすべての法律・礼儀・慣例・道徳に対する容赦のない敵であり、この世界をより確実に破壊するためだけに生きている。
革命家は、ただ一つ破壊の科学だけを願い、破壊のためにのみ、力学・物理学・化学・医学を学ぶ。目的はただ一つ、この世界のすみやかな破壊である。
●革命家にとって、革命の勝利をたすけるものすべてが道徳的であり、それを妨げるものすべてが不道徳的であり犯罪的である。
●革命家は世界にたいしても憐みはもたず、彼自身にたいする憐みも期待しない。革命家は死ぬ用意がなければならない。
●革命家にとって、革命の成功だけがただ一つの安らぎ、慰め、報酬、満足であり、家族、友情、愛情、感謝、名誉、ロマンチシズム、感傷、熱狂、誘惑は無縁である。
●革命家は、世界の容赦のない破壊をめざして、偽装し忍び込むことができる。
●革命組織は、人民の不幸、災厄を増加させ強化するようにすべての力と手段をつかい、人民が忍耐しきれず総蜂起にたたせるように仕向ける。
●あらゆる国家組織を根こそぎにし、すべての国家的伝統、制度および諸階級をなくすような革命をめざす。
●革命家の仕事は、すべてをまきこみ、いたるところで容赦することなくおこなわれるべきおそろしい破壊である。


セルゲイ・ゲンナジエヴィチ・ネチャーエフの革命家のカテキズムからの引用
С.Г.Нечаев. < Катехизис революционера >

自己自身にたいする革命家の態度

1. 革命家は死を宣告された人間である。彼は、個人的関心、事情、感情、愛着物、財産、さらに名前すらももたない。彼のうちにあるすべては、ただ一つの関心、一つの思想、ひとつの情熱、つまり革命によってしめられている。

2. 自己の存在の深いところで、ことばの上だけでなく行動において、彼は、市民的秩序や教養ある人々の世界全体と、そして、この世界のすべての法律や礼儀や一般的に認められている慣例や道徳といったものと、まったく関係を断ってしまっている。彼はこの世界にたいする容赦のない敵であり、彼がこの世界のなかで生活しつづけるとすれば、それは、この世界をより確実に破壊せんがためにほかならない。

3. 革命家はあらゆる空論を軽蔑する。彼は世間的な学問を放棄し、それを未来の世代にゆだねたのである。彼はただ一つの科学、破壊の科学を願っているだけであり、このことのために、このことのためにのみ、彼は現在、力学、物理学、化学あるいは医学を学んでいるのである。このことのために、彼は昼夜をわかつことなく、現在の社会機構のもとでの人々、性質、状況およびすべての条件について、可能なかぎりあらゆる社会層にわたって生きた学問を研究しているのである。目的はただ一つ、このよごれた機構のもっともすみやかな破壊である。

4. 彼は世論を軽蔑する。彼は現在の社会道徳につながるすべての動機や現象を軽蔑し憎悪する。彼にとって、革命の勝利をたすけるものすべてが道徳的なのであり、それを妨げるものすべてが不道徳的であり犯罪的なのである。

5. 革命家は死を宣告された人間である。彼は一般に、国家にたいしても、特権をもった教養ある人々の世界にたいしても憐みはもたず、彼自身にたいする憐みも期待しない。この両者のあいだには、公然、非公然を問わず、生死をかけて連続的な非和解的なたたかいがおこなわれている。つねに彼は死ぬ用意がなければならず、拷問に耐えうるよう自己を鍛練していなければならない。

6. 彼は自己にきびしくあるとともに、他の人々にもきびしくしなければならない。家族、友情、愛情、感謝、さらには名誉といった柔弱で女々しい感情はすべて、彼のうちでは、革命の事業をめざす唯一の冷徹な感情によって抑制されねばならない。彼にとっては、ただ一つの安らぎ、慰め、報酬、満足が、つまり革命の成功があるだけである。昼夜をわかたず彼は一つの思想、一つの目標を、つまり仮借なき破壊をいだいていなければならない。冷静にたゆむことなくこの目標の達成につとめながら、彼は、みずからが非業の死をとげる用意があるだけでなく、目標の達成を妨げるすべての者をみずからの手で殺す用意がなければならない。

7. 真の革命家には、いかなるロマンチシズム、感傷、熱狂、誘惑も無縁である。個人的憎悪や遺恨すらも無縁のものである。日常的熱情となるべき革命的熱情は、怜悧な計算をともなうものでなければならない。彼は、つねにいかなるところでも、彼の個人的性向がさししめす者ではなく、革命の一般的利益の要求する者にならねばならない。

革命の同志たちにたいする革命家の態度

8. 革命家にとって友であり愛すべき人でありうるのは、彼自身とおなじように、現実に革命家としての活動をおこなった人だけである。このような同志にたいする友情や信頼やその他の責務の程度は、すべてを破談する実際の革命事業における有用さの程度によってのみ決められるのである。

9. 革命家たちの団結についてはいうまでもない。そこに、革命の事業のすべての力があるのだから。革命にたいする同程度の理解と情熱をもった革命家の同志たちは、できるだけ、すべての大きな問題はともに研究し、一致して解決にあたらねばならない。このようにして決定された計画を実行するにあたっては、各人はなるべくみずからにたよるようにせねばならない。多くの破壊活動の実行の際には、各人は単独で事をおこない、事の成功のためには欠かせないというときにだけ、同志の忠告と援助にたよるべきである。

10. 各同志は、その手許に幾人かの二級、三級の革命家、つまりすべてを革命にささげたわけではない人々を置いていなければならない。彼はこの人々を、革命の資本全体のうちから、彼の裁量にゆだねられた部分とみなさればならない。彼は自己保有分の資本を経済的に消費し、つねにそれから最大の利益をひきだすよう努力せねばならない。彼は、自己を革命の事業が達成されるために費やされる運命にある資本だとみなしているのである。ただ、彼は、自己を、すべてをささげた同志全員の同意なしに単独で処理することはできないのである。

11. 同志が困難におちいった場合、彼を救うか否かの問題を革命家は、個人的感情からではなく、救出することが革命の事業に有益であるか否かによって決定しなければならない。それゆえ、一方ではその同志の事業にたいする有用性を、他方では救出にともなう革命勢力の損失をはかりにかけねばならない。そして、より重要なほうが決定されることになる。

社会にたいする革命家の態度

12. ことばでではなくおこないによって自己をしめした新構成員の組織への採用は全員一致で決せられねばならない。

13. 革命家は、国家的な特権階級の、いわゆる文化的な世界にはいりこみ、そこで、そのもっとも完全ですみやかな解体をのみ念じて生きてゆくのである。彼がもし、この世界のなにかを惜しむならば彼は革命家ではない。もしそんなことがあれば、彼は、この世界の状況、関係あるいはこの世界のある種の人間を抹殺するのをちゅうちょするようになるだろう。彼はありとあらゆるものを等しく憎悪すべきなのである。もし、彼がこの世界に家族、友人、愛人などの関係をもっているなら、なおさら悪いことになる。その人々が彼の手をさえぎるようなことがあるなら、彼は革命家ではない。

14. 容赦のない破壊をめざして、革命家は社会のなかで、彼自身とはまったくべつの人物を装って生活することができるし、またたびたびそうせねばならない。革命家はこの社会のいたるところに、最下層階級や中流階級のなかに、商店のなかに、教会のなかに、地主屋敷のなかに、官僚や軍人たちの世界に、文筆界に、また第三部や冬宮のなかにさえはいりこまねばならない。

15.この悪の社会全体はいくつかのカテゴリーにわけられねばならない。第一のカテゴリーは即刻処刑さるべき人々からなっている。この処刑さるべき人々のリストは、組織によって、番号のはやい者から順番に片付けられるように、革命の事業の成功にとってより有害な人物の順につくりあげられるであろう!

16. このようなリストを作成する際、上で述べた序列は、決して、その人物の個人的悪業とか、さらには、その人物によって組織や人民のなかにひきおこされた憎悪などによって確定されてぱならない。この悪業とか憎悪とかは、ある場合には利用価値があり、人民の反乱をひきおこすのをたすけることができるのである。序列の確定は、その人物の死が革命の事業にもたらしうる利益の程度にしたがってなされるべきである。それゆえ、まず第一に排除すべき人物は、革命組織にとりとくに有害であり、彼らの突然の暴力的な死が政府に最大の恐怖をあたえ、政府の聡明でエ不ルギツシュな活動家をのぞくことにより、その力をゆすぶることのできる人物である。

17. 第二のカテゴリーは、ほんの一時生かしておき、その人々の一連の残酷な行為によって人民を不可避的な反乱にいたらしめるようにさせるべき人々からなっていなければならない。

18. 第三のカテゴリーは、高い位についた畜生ども、つまり、とくに知性においてもエ不ルギーにおいてもひいでてもおらず、地位によって、富、縁故関係、影響力、勢力をもっている人物の多くをふくんでいる。これらの人々は、考えられるかぎりのやり方で搾取する必要がある。彼らをまきぞえにし、狼狽させ、なるべく彼らの暗い秘密をつかんでゆすり、彼らを自分達の奴隷にすることが必要なのである。彼らの権力、影響力、縁故関係、富、勢力は、こうして、いろいろの革命的な企図にとって無尽蔵の宝、強力なたすけとなるのである。

19. 第四のカテゴリーは、野心的な国家官僚やいろいろなニュアンスのりベラルからなる。革命家は彼らとともに、彼らの計画にそって防諜を企て、彼らに盲目的にしたがうふうをしながら、一方では、彼らをきびしく拘束し、彼らのすべての秘密をつかみ、彼らがあとへひくことができぬように彼らの評判を傷つけ、そして彼らの手で国家を混乱させることができるであろう。

20. 第五のカテゴリーは、いつも仲間うちや紙上では空疎なことばを並べたてながら実際には行動しない空論家、陰謀家、革命家からたっている。彼らはぜひとも、実際的な困難な活動におしやったり、ひっぱってゆくことが必要であり、その結果、彼らの多くは跡形もなく絶滅してゆくだろうし、わずかだが真に革命的な人々もうみだされるであろう。

21. 第六の重要なカテゴリーは女性であり、これは三つの主要な部類にわけられねばならない。第一は、おろかで、中味のない、魂のぬけたような人々であって、第三、第四のカテゴリーの男性と同様に利用することができる人々である。第二は、熱心で、献身的で有能ではあるが、われわれの味方ではない人々である。というのは、彼女らはまだ、真にものに動じない実際的な革命的理解には到達していないからである。彼女らは第五のカテゴリーの男性と同様に利用されるべきである。最後は、まったくわれわれの側の、つまり、まったく献身的で、われわれの綱領を完全にうけ入れた女性である。われわれは彼女らを、そのたすけなくしてたたかうことのできない、われわれのもっとも大切な宝だとみなさねばならない。

人民にたいする組織の態度

22. われわれの組織は、人民の、つまり肉体労働者のもっとも完全な自由と幸福以外の目標をもたない。だが、この自由とこの幸福の達成は、一切を破壊する人民革命によってのみ可能であると確信しているがゆえに、われわれの組織は、すべての力と手段でもって、結局は人民に勘忍袋の緒をきって総蜂起にたたせるであろうような不幸、災厄を増加し昂進させるよう努力するであろう。

23.われわれの組織は人民革命を、西欧流の古典的な型に規定された運動、つまり、つねに財産とか、いわゆる文明とか道徳とかいう社会秩序の伝統のまえでたちどまり、現在までいたるところで、いわゆる革命国家をつくりだそうとしながらも、一つの政治形態を打倒し他のそれにおきかえることにとどまってきた運動であるとは考えない。人民を救いうる唯一の革命は、あらゆる国家組織を根こそぎにし、ロシアにおけるすべての国家的伝統、制度および諸階級をなくすような革命である。

24. われわれの組織は、それゆえ、いかかる社会組織をも人民に上からおしつけるつもりはない。本来の社会組織は、うたがいなく、人民の運動と生活それ自体からつくりあげられるだろう。だがこれは、未来の世代の仕事である。われわれの仕事は、すべてをまきこみ、いたるところで容赦することなくおこなわれるべきおそろしい破壊なのである。

25. それゆえ、われわれは人民に接近し、なによりもまず、モスクワ国家権力がつくりあげられて以後、国家に直接間接に結びついたすべてのもの、つまり、貴族、官僚、坊主、ギルド世界、そしてクラーク(富農)、高利貸しにたいして、ことばだけでなくおこないにおいて反抗することをやめたことのない、人民のなかの活動的な分子と結びつかねばならないのである。それだけでなく、われわれは、ロシアにおける唯一の真の革命家であるあらっぽい強盗たちの世界と合体するであろう。

26. この世界を一つの、無敵の、一切を破壊してしまうような勢力に統合すること。これが、われの組織、陰謀、任務のすべてなのである。
   (一色義和訳)


Sergey Nechayev 1869
The Revolutionary Catechism


The Duties of the Revolutionary toward Himself

1. The revolutionary is a doomed man. He has no personal interests, no business affairs, no emotions, no attachments, no property, and no name. Everything in him is wholly absorbed in the single thought and the single passion for revolution.

2. The revolutionary knows that in the very depths of his being, not only in words but also in deeds, he has broken all the bonds which tie him to the social order and the civilized world with all its laws, moralities, and customs, and with all its generally accepted conventions. He is their implacable enemy, and if he continues to live with them it is only in order to destroy them more speedily.

3. The revolutionary despises all doctrines and refuses to accept the mundane sciences, leaving them for future generations. He knows only one science: the science of destruction. For this reason, but only for this reason, he will study mechanics, physics, chemistry, and perhaps medicine. But all day and all night he studies the vital science of human beings, their characteristics and circumstances, and all the phenomena of the present social order. The object is perpetually the same: the surest and quickest way of destroying the whole filthy order.

4. The revolutionary despises public opinion. He despises and hates the existing social morality in all its manifestations. For him, morality is everything which contributes to the triumph of the revolution. Immoral and criminal is everything that stands in its way.

5. The revolutionary is a dedicated man, merciless toward the State and toward the educated classes; and he can expect no mercy from them. Between him and them there exists, declared or concealed, a relentless and irreconcilable war to the death. He must accustom himself to torture.

6. Tyrannical toward himself, he must be tyrannical toward others. All the gentle and enervating sentiments of kinship, love, friendship, gratitude, and even honor, must be suppressed in him and give place to the cold and single-minded passion for revolution. For him, there exists only one pleasure, on consolation, one reward, one satisfaction – the success of the revolution. Night and day he must have but one thought, one aim – merciless destruction. Striving cold-bloodedly and indefatigably toward this end, he must be prepared to destroy himself and to destroy with his own hands everything that stands in the path of the revolution.

7. The nature of the true revolutionary excludes all sentimentality, romanticism, infatuation, and exaltation. All private hatred and revenge must also be excluded. Revolutionary passion, practiced at every moment of the day until it becomes a habit, is to be employed with cold calculation. At all times, and in all places, the revolutionary must obey not his personal impulses, but only those which serve the cause of the revolution.
The Relations of the Revolutionary toward his Comrades

8. The revolutionary can have no friendship or attachment, except for those who have proved by their actions that they, like him, are dedicated to revolution. The degree of friendship, devotion and obligation toward such a comrade is determined solely by the degree of his usefulness to the cause of total revolutionary destruction.

9. It is superfluous to speak of solidarity among revolutionaries. The whole strength of revolutionary work lies in this. Comrades who possess the same revolutionary passion and understanding should, as much as possible, deliberate all important matters together and come to unanimous conclusions. When the plan is finally decided upon, then the revolutionary must rely solely on himself. In carrying out acts of destruction, each one should act alone, never running to another for advice and assistance, except when these are necessary for the furtherance of the plan.

10. All revolutionaries should have under them second- or third-degree revolutionaries – i.e., comrades who are not completely initiated. these should be regarded as part of the common revolutionary capital placed at his disposal. This capital should, of course, be spent as economically as possible in order to derive from it the greatest possible profit. The real revolutionary should regard himself as capital consecrated to the triumph of the revolution; however, he may not personally and alone dispose of that capital without the unanimous consent of the fully initiated comrades.

11. When a comrade is in danger and the question arises whether he should be saved or not saved, the decision must not be arrived at on the basis of sentiment, but solely in the interests of the revolutionary cause. Therefore, it is necessary to weigh carefully the usefulness of the comrade against the expenditure of revolutionary forces necessary to save him, and the decision must be made accordingly.
The Relations of the Revolutionary toward Society

12. The new member, having given proof of his loyalty not by words but by deeds, can be received into the society only by the unanimous agreement of all the members.

13. The revolutionary enters the world of the State, of the privileged classes, of the so-called civilization, and he lives in this world only for the purpose of bringing about its speedy and total destruction. He is not a revolutionary if he has any sympathy for this world. He should not hesitate to destroy any position, any place, or any man in this world. He must hate everyone and everything in it with an equal hatred. All the worse for him if he has any relations with parents, friends, or lovers; he is no longer a revolutionary if he is swayed by these relationships.

14. Aiming at implacable revolution, the revolutionary may and frequently must live within society will pretending to be completely different from what he really is, for he must penetrate everywhere, into all the higher and middle-classes, into the houses of commerce, the churches, and the palaces of the aristocracy, and into the worlds of the bureaucracy and literature and the military, and also into the Third Division and the Winter Palace of the Czar.

15. This filthy social order can be split up into several categories. The first category comprises those who must be condemned to death without delay. Comrades should compile a list of those to be condemned according to the relative gravity of their crimes; and the executions should be carried out according to the prepared order.

16. When a list of those who are condemned is made, and the order of execution is prepared, no private sense of outrage should be considered, nor is it necessary to pay attention to the hatred provoked by these people among the comrades or the people. Hatred and the sense of outrage may even be useful insofar as they incite the masses to revolt. It is necessary to be guided only by the relative usefulness of these executions for the sake of revolution. Above all, those who are especially inimical to the revolutionary organization must be destroyed; their violent and sudden deaths will produce the utmost panic in the government, depriving it of its will to action by removing the cleverest and most energetic supporters.

17. The second group comprises those who will be spared for the time being in order that, by a series of monstrous acts, they may drive the people into inevitable revolt.

18. The third category consists of a great many brutes in high positions, distinguished neither by their cleverness nor their energy, while enjoying riches, influence, power, and high positions by virtue of their rank. These must be exploited in every possible way; they must be implicated and embroiled in our affairs, their dirty secrets must be ferreted out, and they must be transformed into slaves. Their power, influence, and connections, their wealth and their energy, will form an inexhaustible treasure and a precious help in all our undertakings.

19. The fourth category comprises ambitious office-holders and liberals of various shades of opinion. The revolutionary must pretend to collaborate with them, blindly following them, while at the same time, prying out their secrets until they are completely in his power. They must be so compromised that there is no way out for them, and then they can be used to create disorder in the State.

20. The fifth category consists of those doctrinaires, conspirators, and revolutionists who cut a great figure on paper or in their cliques. They must be constantly driven on to make compromising declarations: as a result, the majority of them will be destroyed, while a minority will become genuine revolutionaries.

21. The sixth category is especially important: women. They can be divided into three main groups. First, those frivolous, thoughtless, and vapid women, whom we shall use as we use the third and fourth category of men. Second, women who are ardent, capable, and devoted, but whom do not belong to us because they have not yet achieved a passionless and austere revolutionary understanding; these must be used like the men of the fifth category. Finally, there are the women who are completely on our side – i.e., those who are wholly dedicated and who have accepted our program in its entirety. We should regard these women as the most valuable or our treasures; without their help, we would never succeed.
The Attitude of the Society toward the People

22. The Society has no aim other than the complete liberation and happiness of the masses – i.e., of the people who live by manual labor. Convinced that their emancipation and the achievement of this happiness can only come about as a result of an all-destroying popular revolt, the Society will use all its resources and energy toward increasing and intensifying the evils and miseries of the people until at last their patience is exhausted and they are driven to a general uprising.

23. By a revolution, the Society does not mean an orderly revolt according to the classic western model – a revolt which always stops short of attacking the rights of property and the traditional social systems of so-called civilization and morality. Until now, such a revolution has always limited itself to the overthrow of one political form in order to replace it by another, thereby attempting to bring about a so-called revolutionary state. The only form of revolution beneficial to the people is one which destroys the entire State to the roots and exterminated all the state traditions, institutions, and classes in Russia.

24. With this end in view, the Society therefore refuses to impose any new organization from above. Any future organization will doubtless work its way through the movement and life of the people; but this is a matter for future generations to decide. Our task is terrible, total, universal, and merciless destruction.

25. Therefore, in drawing closer to the people, we must above all make common cause with those elements of the masses which, since the foundation of the state of Muscovy, have never ceased to protest, not only in words but in deeds, against everything directly or indirectly connected with the state: against the nobility, the bureaucracy, the clergy, the traders, and the parasitic kulaks. We must unite with the adventurous tribes of brigands, who are the only genuine revolutionaries in Russia.

26. To weld the people into one single unconquerable and all-destructive force – this is our aim, our conspiracy, and our task.

故糸永真一司教のカトリック時評より

2017年07月15日 | ファチマ
故糸永真一司教のカトリック時評より「ファティマの聖母とロザリオ」を引用します。



過日、“The True Story of Fatima”(本当のファティマ物語―聖母ご出現の一部始終)という96ページの小冊子がファティマ・センターから送られてきた。・・・この本を読んで、今あらためてファティマのメッセージの重要性を生々しく感じた。

ファティマにおける聖母のご出現は1917年5月13日に始まり、10月13日まで毎月1回、合計6回行われた。この不思議な出来事に対する人々の反応は賛否両論、極めて大きかったが、最後の出現の日、七色に輝く太陽の乱舞という奇跡によって出現の信憑性が証しされた。

そのうえ、教会の権威の公的な承認によってファティマにおける聖母のご出現とそのメッセージは、私的啓示の枠を超えて世界に大きな影響を及ぼすこととなった。次は前教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉である。

「19世紀と20世紀にキリストの母がその姿を現し、その声を聞かせることによって、神の民にこのロザリオという観想的な祈りの形を勧めた出来事はよく知られています。わたしは、そのことのキリスト教的生活への大きな影響と、教会の権威から与えられた重大な認可のゆえに、ルルドとファティマの出現をとくに取り上げたいと思います」(使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』7)。

教皇の言葉通り、ファティマの聖母のメイン・メッセージは「罪びとの回心と世界平和のためロザリオを唱えなさい」ということであった。・・・

ヨハネ・パウロ2世教皇は、ロザリオの祈りは「福音全体の要約」であると言います。なぜなら、ロザリオは聖母と共に果されたキリストの救いの神秘を観想しながらその実現を願う祈りだからである。そして、レオ13世の次の言葉を引用している。「ロザリオは社会を害する悪と戦うための霊的武器である」。

「毎日ロザリオを唱えなさい」と勧めるファティマの聖母は、その意向として「罪びとの回心」と「世界平和」を挙げておられる。

まず、罪びとの回心であるが、罪とは、古い伝統的な表現によれば、「神から離れて、被造物に執着すること」と定義される(ローマ1,25参照)。従って、罪びととは、神を否認する人や、認めてもこれを恐れない人であり、神の意思を無視して自己や金や権力に執着する人々のほか、戦争やテロ、さまざまな争いや分裂を引き起こす人々のことであろう。

第二次世界大戦の後、60年余りにわたって大戦争は起こっていないが、テロやテロとの戦いをはじめ、内戦や経済的な侵略・搾取など、争いや分裂は後を絶たない。それは、現在も罪や罪びとが世に満ちていることのあかしである。従って、こういう罪びとが回心して神に立ち返り、そのみ旨に従って行動するとき、世界平和はおのずから実現することになる。そういう意味で、ファティマのメッセージは今も生きている。・・・

ファティマの聖母は最後のご出現で「わたしはロザリオの聖母です」と名乗られたが、10月7日は「ロザリオの聖母」の記念日であり、10月は「ロザリオの月」とされているから、今あらためてロザリオの祈りの重要性を想起すると同時に、福音宣教の発展のためにも大いにロザリオの祈りに親しみ、これを広めたいと思う。


3人の牧童~ジャシンタについて

2017年07月11日 | ファチマ
「ファチマの聖母 2」 から、聖ジャシンタについて引用します。


ジャシンタ(1917年10月-1920年2月20日)

ジャシンタは兄のフランシスコとはかなり違った性格と気質を持っていました。兄と妹はファチマの聖母のメッセージの二つの面をそれぞれ生きる相補的な使命を摂理によって与えられたかのようでした。

フレール・ミッシェルはそのことについて次のようなことを言っています。瞑想的な魂を持っていたフランシスコはとりわけ神と聖母の悲しさに惹かれ、イエズスとマリアの苦しみに同情し、祈りによってイエズスとマリアの御心を慰めることを強く望んでいました。ジャシンタもまた優しい、愛情に溢れた心の持ち主でしたが、彼女は多くの霊魂が地獄の火の中に陥るのを見て心を痛め、できるかぎり彼らの罪の償いをし、マリアの汚れなき御心から彼らの回心の恵みを得たいと思いました。

聖母が1917年8月13日に告げられたメッセージの「祈りなさい。たくさん祈りなさい。そして罪人たちのために犠牲を捧げなさい。多くの魂が、彼らのために犠牲を捧げたり、祈ったりしてくれる人を持っていないからです」という言葉は彼女の心を捉え、彼女は聖母のこのメッセージを身をもって生きます。彼女の望みはできるかぎり多くの霊魂の救いであり、罪人の回心でした。そしてその罪人の回心のために祈りと犠牲を捧げました。

ジャシンタは6回の聖母御出現が終わった後にも、1920年2月に亡くなるまでの間、絶えず聖母の御出現を受ける恵みを神から戴いていました。1917年10月13日以降、ファチマの教区司祭フェレイラ師がその手記を完成させた1918年8月6日までのわずか10ヶ月くらいの間にも、聖母が少なくともジャシンタに3回御出現になった、とフェレイラ師はその手記の中に書いています。

シスター・ルシアの手記にはこれらのジャシンタへの聖母の御出現については何も述べていません。ルシアはその手記の中で、ジャシンタには独特の預言的な幻視があったことに触れています。それは1917年7月13日の秘密のなかで告知された出来事に関する幻視です。おそらく1917年7月13日からジャシンタがインフルエンザで病床につくまでの1918年10月の間のいつかにあった出来事です。

三人でシエスタ(お昼寝)を終えた後、ジャシンタがルシアを呼んで次のような光景が見えないかどうか訊ねます。ルシアには見えませんでした。教皇が大きな家にいて、手で顔を覆い、テーブルのところに跪いています。教皇は泣いていました。家の外には多くの人がおり、ある人々は石を投げ、他の人々は教皇を呪い、きたない言葉を使っていました。ジャシンタはこう言います。可哀想な教皇、わたしたちは教皇のためにたくさん祈らなければなりません、と。

別の日に彼らがラパ・ド・カベソという洞窟に行ったとき、ジャシンタは次のような幻視を経験しています。道に人々が溢れ、彼らは食べ物がなくて飢えて泣き叫んでいます。教皇がある教会の中で聖母マリアの汚れなき御心の前で祈っています。多くの人々が教皇と一緒に祈っています。

これらの幻視は7月13日の聖母の預言、教皇の迫害や戦争の勃発に関係しています。これらのジャシンタの幻視は聖母がこの純真で感受性の鋭い小さな魂に聖母の御心を打ち明けられたものだ、とルシアは思いました。聖母のメッセージは私的・個人的性格のものではなく、全世界に向けられた公的な性格のものでした。聖母はジャシンタに未来を明らかにされ、教皇が迫害され、嘲けられ、見捨てられる様を見せられました。ジャシンタは教皇のためにどれほど祈らなければならないかを理解しました。

1918年10月の終わりにジャシンタがインフルエンザにかかったとき彼女はそれが苦しみの始まりであることを自覚していました。彼女はすでに「十字架を通して光へ、死を通して生へ」(Per crucem ad lucem. Per mortem ad vitam)至るべきことを天使からそして聖母から教えられていました。1916年夏にアルネイロの井戸のそばで三人の子どもたちは天使から「主が与え給う苦しみを従順に受け入れ、堪え忍びなさい」と言われていました。

また1917年5月13日には聖母から「あなたがたは、神に背く罪の償いと罪人たちの回心への嘆願の行いとして、喜んであなたがた自身を神に捧げ、神があなたがたにお与えになるすべての苦しみを耐えますか」と訊かれて、ルシアは皆を代表して、「はい、喜んで」と答えています。聖母はそのときこう言われました。「それでは、あなたがたは多く苦しむことになるでしょう。しかし、神の恩寵があなたがたの慰めとなるでしょう。」この時以来、ジャシンタはどれほど多くの祈りと犠牲をアルネイロの井戸のそばで捧げたことでしょう!

ジャシンタが病状がすこしよくなったときにルシアに次のように打ち明けたことがあります。彼女と兄のフランシスコに聖母が御出現になり、「フランシスコをまもなく天国に連れてゆきます」と言われましたが、ジャシンタに「罪人をもっとたくさん回心させることを望んでいますか」と訊ねられました。ジャシンタが「はい」と答えると、聖母はたくさん苦しむために病院に行くことになる、癒されるためにではなく、主の愛のため、また罪人のためにもっと苦しむために二つの病院に行くことになる、とジャシンタに告げられました。

ジャシンタは苦しむことが多ければ多いほど、それだけ多くの霊魂を地獄の火から救うことができるということを理解していました。このようにして、ジャシンタは家族やルシアから遠く離れた病院で孤独のうちにその短い生涯を終えることになります。

ジャシンタは1918年10月の終わり以降、気分のいい数日間を除いてベッドから離れることができませんでした。気管支肺炎の後に肋膜炎が彼女に大きな苦しみを与えました。彼女は自分の苦しみについて決して愚痴を言わないようにしていました。それは一つには母親であるオリンピアに対する繊細な配慮からであり、一つにはこのおまけの犠牲を捧げるためでした。ジャシンタは母親に言わない苦しみをルシアには告げていますが、こうつけ加えています。「わたしはわが主のため、マリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いのため、教皇のためそして罪人の回心のために苦しみたいの」。

ジャシンタは誰の目から見ても愛すべき、感受性に富んだ、愛情深い心の持ち主でした。天使と聖母の御出現以来、ルシアやフランシスコとは特別な霊的関係で結ばれ、彼らとの友情は病気になって以来の彼女の最も甘美な慰めでした。ジャシンタはこの幸せの最後の源をも犠牲として捧げるために断念しようと努めていました。

1919年4月4日にフランシスコが亡くなる少し前に、ジャシンタはルシアのいる前でフランシスコにこう頼んでいます。「わたしの愛のすべてを主と聖母に捧げます。罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために主と聖母がお望みになるだけ、わたしは苦しみます、とお二人に伝えてちょうだい。」

フランシスコとの別れはジャシンタの心を引き裂きましたが、その悲しみ、苦しみを犠牲として捧げました。前にも述べましたように、病床に釘付けにされて、彼女は愛する兄の葬儀にも参加できませんでした。

1919年7月に医師の勧めで、ジャシンタはヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの聖アウグスティヌス病院に入院することになりました。このようにして聖母の預言は実現されるのです。ジャシンタは自分が癒されるためでなく、苦しむために入院するのだということを知っていました。

7月1日から8月31日までの2ヶ月間の入院生活はジャシンタには大きな苦しみを与えましたが、とりわけ彼女の苦しみを大きくしたのは孤独でした。フランシスコを失って、残るルシアにジャシンタは会いたくてたまりませんでした。アルジュストレルの村からヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムまでは15キロメールほどの距離があり、行くのは大変でした。それでも、母親のオリンピアはルシアを連れて2度ジャシンタの見舞いに行っています。このときにも、ジャシンタはルシアに大きな苦しみを罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために捧げると伝えています。

8月末に治療の結果もはかばかしくなく、またマルト家の家計も許さなくなったので、ジャシンタは退院して家に帰ります。ジャシンタは横腹の傷が化膿し、傷口がふさがりませんでした。彼女はいつも熱があり、身体は骸骨のように痩せていました。

ルシアは2年前に3人で訪れたカベソの丘へ行って、アイリスやシャクナゲの花を摘んでジャシンタの病床に持って行きます。ジャシンタは「わたしはもう二度とあそこに、そしてヴァリニョスやコヴァ・ダ・イリアにも行けないわ」と言って涙を流します。ルシアは「それが何よ。あなたは天国に行って主イエズスや聖母に会えるじゃないの」と言ってジャシンタを慰めます。ジャシンタにはもう残された時間はあまりありません。そのわずかの期間にはもっと辛い日々が待っていました。

ジャシンタがルシアに語ったところによれば、1919年12月に聖母がジャシンタに御出現になり次のように言われたとのことです。ジャシンタはリスボンの病院にもう一度入院することになる、ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たった一人病院で死ぬと。しかし、聖母はそのとき、御自分がジャシンタを天国に連れにくるから、怖がらなくてもよいとジャシンタに言われました。この聖母の預言は思いがけない仕方で実現されます。

ジャシンタの両親はヴィラ・ノヴァの病院での治療が思わしくなかったので、娘を別の病院に入院させることは無益だと考えていました。1920年1月半ば頃にリスボンの有名な医師であるリスボア博士がファチマを訪れ、フォルミガオ神父とサンタレムの神学校教授に会い、ジャシンタの治療について協力を求めました。この医師と教授の説得を受け、両親はフォルミガオ神父にも相談して、ジャシンタを首都リスボンの病院に送る決心をしました。

ファチマを永遠に去ることが決まって、ジャシンタは母親に願って最後の機会にコヴァ・ダ・イリアへ連れて行って貰いました。もちろんジャシンタは自分で歩けませんので、ロバの背に乗せられてそこへ行きました。カレイラ池についたとき、ジャシンタはロバから下りて、一人でロザリオの祈りを唱えました。彼女はチャペルに供えるために花を摘みました。チャペルでは跪いて祈りました。そして母親のオリンピアに聖母が御出現になったときの様子を語って聞かせるのでした。

ついにファチマを去る日が来ました。ジャシンタはルシアと抱き合って最後のお別れをしました。「わたしのためにたくさん祈ってね。わたしが天国に行ったらあなたのためにたくさん祈るわ。秘密を絶対漏らさないでね。イエズス様とマリアの汚れなき御心をたくさん愛してくださいね。そして罪人たちのためにたくさん犠牲を捧げてくださいね」

そう言って彼女は泣きました。母親と長兄のアントニオが付き添って行くことになりました。リスボンまで汽車に乗っての旅でした。

リスボンで彼女たちを病院に入るまでの間引き受けてくれるはずであった人が、ジャシンタのあまりにも惨めな状態を見て、引き受けることを拒みました。ジャシンタは傷口が化膿していて、いやなにおいを発していたこともありました。

何軒も家を廻って断られたあげく、最後に一軒の家に受け入れて貰い、一週間ほどそこにいて、オリンピアとアントニオはファチマへ帰りました。ジャシンタは最終的に「奇蹟の聖母」と呼ばれる孤児院に受け入れられました。

その施設の創設者マザー・ゴディーニョは最年少の幻視者の一人を自分のところに受け入れられたことをたいへん喜び、自分に与えられた名誉を誇らしく思いました。ジャシンタはその施設でミサに与り、御聖体を拝領するという思いがけない恵みを受けたことを喜びました。

リスボア博士はジャシンタを入院させて、手術をしようと思っていましたが、思いがけず母親のオリンピアの強い反対に出会いました。しかし、オリンピアも最終的には同意して、1920年2月2日にジャシンタは「奇蹟の聖母」孤児院を出て、ドナ・エステファニア病院小児病棟に入院します。

彼女は自分の最期が近いことを知っていましたが、それとは関係なしに事は進みます。彼女は孤児院にいたときのような、御聖体を礼拝したり、拝領したりできなくなりました。そのことはまさに彼女にとって一つの大きな犠牲でした。マルト家では他の子どもたちが病気にかかり、オリンピアはジャシンタを置いて帰郷しなければならなくなりました。

2月5日、ジャシンタは一人きりになりました。マザー・ゴディーニョや他の女性たちが毎日、見舞いには来てくれましたが、母親に代わることはできませんでした。このようにして、聖母の預言は実現されました。ジャシンタはこの大病院の中でたった一人で死んで行かなければなりません。

ジャシンタの手術を担当したのはカストロ・フェレイレ博士でした。「化膿した肋膜炎。左第7および第8肋骨骨炎」という診断でした。手術は2月10日に行われました。2本の肋骨が切除されました。毎日の傷の手当は耐えられないほどの苦痛を与えました。ジャシンタは聖母の御名を繰り返していました。

父親が一度見舞いに来ましたが、長く滞在できず、苦痛と孤独に悩まされているジャシンタを残して直ぐに帰りました。死の3日前、ジャシンタはマザー・ゴディーニョにこう打ち明けています。「マザー、わたしはもう痛みがありません。聖母がまた御出現になって、もうすぐわたしを連れていく、わたしはもう苦しまないでしょう、とおっしゃいました」。

リスボア博士が術後の経過のよいことを父親のマルト氏とアルヴェアゼレ男爵に手紙を書きましたが、ジャシンタは彼女の死の日時を知っていました。リスボア博士の報告によれば、2月20日金曜日の夕方6時頃、ジャシンタは気分が悪くなったから終油の秘蹟を受けたいと言いましたので、教区司祭のペレイラ・ドス・レイス博士が呼ばれました。夜8時頃に彼はジャシンタの告悔を聞きました。

ジャシンタは臨終の聖体拝領をさせてほしいと頼みましたが、レイス神父は彼女が元気そうに見えたので、その願いに同意せず、明朝御聖体を持って来てあげると言いました。ジャシンタは繰り返し、まもなく死ぬから臨終の聖体拝領をさせてほしいと願いました。結局その夜彼女は亡くなり、御聖体は拝領しないままでした。

このようにして、聖母の預言がすべて実現しました。ジャシンタはその最期に両親や友人も誰一人そばに付き添わずにたった一人で亡くなりました。彼女があれほどに望んでいたホスチアの中に現存されるイエズスをいただくという至高の慰めからも遠ざけられて最大の犠牲を捧げたのでした。

3人の牧童~フランシスコについて

2017年07月10日 | ファチマ
ファチマの聖母 2」から、聖フランシスコについて引用します。



フランシスコ(1917年10月-1919年4月4日)

フランシスコは瞑想的で優しい心の持ち主でした。彼は御出現を受けて聖母と神御自身が無限に悲しそうであると感じ、この御二人を慰めたいといつも考えていました。エフェソの信徒への手紙の中で聖パウロが「神の聖霊を悲しませてはいけません」(4,30)と言っているように、神は私たちの罪のために悲しまれるのです。

イエズスはゲッセマネで祈られたときに「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ、14,34)と言われました。イエズスの御受難を預言していると言われる詩編69ではこう言われています。「わたしが受けている嘲りを、恥を、屈辱をあなたはよくご存じです。わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ、わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見だせません。人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」(20-22)。

イエズスはパレ・ル・モニアルで聖マルガリタ・マリアに御出現になったとき、詩編のこの言葉と同じ嘆きを、棘に取り巻かれた御自分の聖心をお示しになりながら洩らされました。

フランシスコはこの神の悲しみを慰めたいと心底から思っていました。彼は妹のジャシンタといとこのルシアにかつてこう言っています。「ぼくは神様をとても愛している。だけど罪があまりにも多いので、神様はたいへん悲しんでいらっしゃる。ぼくたちはもう二度と罪を犯してはいけないんだ。」

すでに1916年にカベソにおいて天使が3人の子どもたちに御聖体のうちにおられるイエズスに対する侮辱の償いをし、イエズスを慰めるように招きました。御聖体と御血を与える前に天使は彼らにこう言いました。「恩知らずの人々によって恐ろしく侮辱されたイエズス・キリストの御身体を受け、御血を飲みなさい。彼らの罪のために償いをし、あなたがたの神を慰めなさい。」

フランシスコはこの償いと慰めが祈りと犠牲によって行われることをよく理解していました。フランシスコは一人でいることを好み、神を慰めるためによく祈りました。彼はまた食事や水を自らに制限して犠牲を捧げ、神を慰めていました。

フランシスコは神の「悲しみ」に対する感受性を持っていましたが、同時にまた病人や苦しんでいる人々に対して同情する優しい心を持っていました。彼は人から祈りを頼まれると必ず約束を守り、また彼の祈りはよく聞き入れられました。

1917年6月13日の御出現のとき、ルシアは聖母に天国に連れて行ってもらえるかどうかを訊ねていますが、聖母はそれに対して「ええ、フランシスコとジャシンタをまもなく連れて行きます」と答えておられます。このときからフランシスコとジャシンタは自分たちの生命がそれほど長くないことを知っていました。フランシスコは最後の御出現から1年半後に天国に召されるのです。聖母から天国へ連れていってもらえるという確信と神の「悲しみ」に対する特別の感受性はフランシスコの行いをよく説明します。

彼は短期間に驚くほど進歩しました。彼はある婦人から将来何になりたいか、いろいろの職業を挙げて質問されますが、そのどれをも否定してこう言っています。「そのどれにもなりたくありません。ぼくは死んで天国に行きたいのです」と。彼は「隠れたイエズス」すなわち、御聖体をしばしば訪問します。

最後の御出現からわずか1年後の1918年10月終わりにスペインに端を発したインフルエンザがヨーロッパに猛威を振るい、ポルトガルにも大流行します。8歳だったジャシンタと10歳だったフランシスコもこのインフルエンザにかかります。フランシスコもジャシンタもいったんはよくなるのですが、12月23日に再び悪化します。このとき特にフランシスコは半月も高熱が続き、動くこともできないほどになりました。そのような病状にもかかわらず、フランシスコはいつも明るく振る舞い、主イエズスを慰めるために自分の苦しみを捧げていました。

ジャシンタがルシアに語ったところによると、聖母がフランシスコとジャシンタに再び御出現になり、フランシスコをまもなく天国に連れて行くと言われたそうです。おそらく1918年のクリスマスの頃だったようです。翌1919年1月の半ば頃には2度目の回復の兆しがあり、起きあがれるほどでした。家族は喜んだのですが、フランシスコは自分の運命をすでに知っていて、「聖母がまもなく迎えにこられます」と繰り返していました。

1月の終わりか2月の初めにフランシスコは懐かしいコヴァ・ダ・イリアへ行くことができました。彼はそれがこの祝福された土地への最後の訪問であることを知っていました。

フランシスコは自分の役割がイエズスの聖心と聖母マリアの汚れなき御心を慰めることであるということをよく知っていました。彼が病床に臥していちばん残念だったことは、教会に行って御聖体の前で長い時間を過ごすことができなくなったことでした。

4月2日水曜日、フランシスコは御聖体をうけるために告解をしたいと望み、父のティ・マルトは教区司祭フェレイラ師に家に来てくれるように司祭館まで頼みに行きます。フランシスコは告解のための入念な準備をします。告解の後、遂に念願の聖体拝領をします。

1919年4月4日金曜日フランシスコは最後の日を迎えます。彼は母親を側に呼び、こう言います。「お母さん、ドアの側にあの美しい光を見てよ!」しばらくして、「もう見えないよ」。夜10時頃、彼の顔は天使のほほえみで輝き、苦しむことなく静かに息を引き取ります。

4月5日土曜日小さな葬列がフランシスコの遺体をファチマの墓地へ運びました。ルシアは涙ながらに葬列に加わりましたが、ジャシンタは病床にとどまらなければなりませんでした。このようにして、聖母の預言は成就し、ファチマの幻視者の一人が天国へ旅立ちました。フレール・ミッシェルは聖ルイ・ド・モンフォールの次の言葉がフランシスコに適用できると言っています。「人は自分自身の意志に長年従い、自分自身に頼ることによってよりも、短い時間にマリアに従い、より頼むことによってより多く進歩する」。

3人の牧童~ルシアについて

2017年07月09日 | ファチマ
「ファチマの聖母 2」から、ルシアについて引用します。



ルシア(1917年-1925年まで)

「私はジャシンタとフランシスコをまもなく連れて行くでしょう。しかし、あなたはそれよりも少し長く地上にとどまらなければなりません。イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。イエズスはこの世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます」

1917年6月13日の御出現のときに、聖母はルシアにこう言われました。定められたときにマリアの汚れなき御心と教会と世界に関するマリアのお望みのメッセンジャーとなる前にルシアが果たしておかなければならなかった仕事が二つありました。

一つは彼女が見そして聞いたすべてのことについて絶え間ない証言をすること、明瞭で説得力のある証言をすることでした。

その次ぎに、そのことを実現できるための力をつけること、-これも同じ日に聖母がルシアに望まれたことですが-「読み書きの勉強をすること」でした。聖母はルシアが天のメッセージを教会と世界に伝達することができるようになるために、勉強を望まれたのでした。「イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます」と聖母は言われたからです。

1917年10月の御出現以後、ルシアの身に起こったことを簡単に見ておこうと思います。

10月の大奇蹟以後、人々は三人の幻視者たちを追いかけては質問を試みました。彼らはそういう人々から身を隠すのに大変な労力を使っています。彼らは皆非常に謙遜でしたから、人々から褒められたり、聖人扱いされることを用心していました。ルシアは司祭たちから何度も厳しい尋問を受けています。聖母のメッセージの中でまだ明かしてはならない秘密の部分がありましたから、ルシアが尋問に対して答えられない場面が何度もありました。

ルシアは司祭たちの尋問の厳しさをいつも経験し、神と聖母にどうしたらよいか何度も祈って訴えています。司祭の中には脅迫や嘘や侮辱によってルシアから秘密を聞き出そうとする人もいました。ルシアにとって司祭と話をすることが神に捧げる最も大きな犠牲の一つであることもたびたびでした。もちろん、例外もありました。カノン・フォルミガオ神父やファウスティノ・ヤチント・フェレイラ神父などがそうです。フェレイラ神父は賢明で親切な助言者、真の霊的指導者でした。

1919年4月フランシスコの死が訪れ、ルシアは非常に悲しみ、寂しさを感じます。この悲しさはこれ以後の長い年月の間ルシアの心を貫く茨の冠であったと彼女は述べています。ジャシンタの項でものべましたが、フランシスコの死の3ヶ月後に今度はジャシンタがヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの病院に入院することになり、ルシアはまた辛い別れを経験します。ジャシンタが入院していたこの3ヶ月の間にたったの2度短い訪問をしただけでした。

ルシアには不幸が積み重なってきます。1919年7月31日に頑健であった父アントニオが肺炎で急死します。いつもルシアを理解し、ルシアの味方になってくれていた父を失ってルシアは死んだ方がよいと思うほどに悲しみました。聖母にたくさん苦しまなければならないと言われていたものの、このような悲しみが襲うとは思いもよらないことでした。しかし、ルシアはこの苦しみをマリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いとして、また教皇のため、罪人たちの回心のために捧げます。アントニオはあまり熱心な信者ではありませんでしたが、亡くなる前に神との和解である告解の秘蹟を受けていたことがせめてもの慰めでした。

1919年にはルシアの悲しみはまだ続きます。冬に母マリア・ロサが病に倒れます。心臓疾患によるひどい咳で死にそうになります。子どもたちが母の周りに集まって彼女から最後の祝福を受けました。皆泣きました。姉の一人がルシアに「あなたが巻き起こしたごたごたで母さんは悲しんで死んで行くのだわ」と言って責めます。ルシアは悲しくなって跪いて祈り、その苦しみを主に捧げました。別の二人の姉がルシアのところに来て、母の状態が絶望的だと考え、ルシアにこう頼みます。「ルシア、あなたがもし本当に聖母を見たのならば、いますぐコヴァ・ダ・イリアまで行ってお母さんを癒してくださるようマリア様にお願いして来て。」

ルシアは直ぐに出かけ、道々ロザリオを唱えながら、抜け道を通り野原を横切ってコヴァ・ダ・イリアまで急ぎました。そこで、聖母に涙ながらに母の癒しを願いました。聖母はきっと自分の祈りを聞き入れて母の健康を回復してくださるという希望に慰められてルシアは帰途につきました。

帰宅すると、母の気分は幾分よくなっていました。ルシアは聖母に願いを聞き入れてくださったら、姉たちと一緒に9日間コヴァ・ダ・イリアに行き、ロザリオを唱え、道路からウバメガシのところまで膝で歩いて行く苦行をし、9日目に9人の貧しい子どもたちを家に招いて食事を出す約束をしました。ルシアがしたこの苦行は今日でもファチマの巡礼者たちの間に見られるものです。

1920年2月20日にはリスボンの病院で聖母の預言どおりにジャシンタが一人ぽっちで亡くなりました。ルシアはリスボンへは一度も見舞いに行けませんでした。ジャシンタの遺体はヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムに葬られました。オリンピアに連れられてお墓参りに行きましたが、ルシアの悲しみはいやましに深くなりました。

フォルミガオ神父は1917年10月13日以来、子どもたちをファチマから離した方がよいと考えていました。今やルシアは13歳の思春期の少女です。神父は彼女が寄宿舎のある学校に入ることをマリア・ロサに勧めます。最初、渋っていた母も神父の説得によって承諾し、リスボンに行く決心をします。フォルミガオ神父の紹介で親切な婦人-ドーニャ・アスンサオ・アヴェラル-がルシアを経済的に援助してくれることになりました。

このようにして1920年7月7日にルシアは母と一緒にリスボンに行きました。母のマリア・ロサは悪かった腎臓の手術を医師に相談しますが、彼女には余病もあったので医師は責任を持てないと言い、結局手術をせずに、ルシアをアヴェラル女史に委ねてファチマに帰りました。ルシアはしばらくこの婦人の家にいましたが、行政当局がルシアの居所を探していることがわかり、8月6日にサンタレムのフォルミガオ神父のところにかくまわれます。

1920年7月25日にレイリア教区に新たにダ・シルヴァ司教が叙階されました。フォルミガオ神父と相談してダ・シルヴァ司教自身がポルトの近くのヴィラルにあるドロテア姉妹会の学院をルシアのために選びました。1921年6月13日、ルシアはある婦人に連れられて司教館に行き、初めてダ・シルヴァ司教に会います。司教はルシアに対してとても親切で、彼女を正当に遇してくれました。マリア・ロサとの相談もなされて、ルシアの出発は6月16日と決まりました。

ルシアは大急ぎでファチマに帰って身の回りのものを整え、懐かしい場所に別れを告げなければなりませんでした。しかし、司教との約束で、ファチマの親しい人々と別れの挨拶をすることは許されませんでした。ですから、ルシアは友人や親戚の者に一言も彼女の落ち着き先について語ることができませんでした。彼女は出発の前に、懐かしい場所、カベソ、ヴァリニョス、井戸、教区の聖堂などに別れを告げ、もう来ることはないだろうと思って胸が締め付けられました。

このようにして、ルシアは1921年6月15日にひっそりとファチマに別れを告げたのでした。翌6月16日、ルシアは朝2時に起き、母マリア・ロサとレイリアまで出かける労働者のマヌエル・コレイラと一緒に、誰にも別れを告げずに、家を出ました。彼らはコヴァ・ダ・イリアを通って行きましたので、ルシアは最後の別れをこの尊い場所に告げることができました。

シスター・ルシアの手記には書いてありませんが、彼女が後に1946年5月にファチマに巡礼したときにガランバ神父に語ったところによれば、このとき、聖母が無言のままルシアに御出現になったそうです。朝9時頃レイリアに着いたルシアと母親はレイリアの司教館に行きます。そのときに、ダ・シルヴァ司教はルシアにもう一度、これからは自分が何者であるかを人に告げてはならない、ファチマの御出現に関してもいっさい他言してはならない、という勧告をしました。

ルシアはパトロンとなるドーニャ・フィロメナ・ミランダ-この人はルシアの堅信の秘蹟の代母となった人です-とレイリアの駅からポルトの近くのヴィラルに行く汽車に乗ります。駅で母と涙の別れをしました。6月17日朝早く、ドーニャ・フィロメナはルシアをアシロ・デ・ヴィラルのドロテア会の学院へ連れて行きます。ミサに与り、聖体拝領をした後で、院長のマザー・マリア・ダス・ドーレス・マガリャエスに紹介されます。彼女はルシアに司教と同じように、身元を明かさないようにという強い勧告をします。

ルシアはこれからはマリア・ダス・ドーレスと名乗り、リスボンの近くの出身であると他人に言わなければなりません。14歳のルシアはこのようにして、世間から隠れて学院の寄宿生として勉学に励むことになりました。

1923年から1924年にかけてルシアはカルメル会入会を強く望んでいました。幼きイエズスのテレジアが列聖されたばかりのことで、多くの女性がカルメル会に惹きつけられていたときで、ルシアもそうした女性の一人でした。しかし、1917年10月13日の聖母の御出現のときに、ルシアがカルメル会の修道服を着、スカプラリオを手にした聖母を見たことも関係があるのかも知れません。ルシアはおそるおそる院長にこの希望を打ち明けますが、一言のもとに退けられます。院長の意見ではカルメル会はルシアには会則が厳格すぎる、もっと単純な会則のところを選んだ方がよいというものでした。

その後ルシアはドロテア会のシスターになる望みをマザー・マガリャエスに申し出ます。院長はまだ17歳で若すぎる、もう少し待ちなさいと言います。ルシアは沈黙と従順のうちに1年以上待ちます。18歳になったとき、院長がまだ修道女になることを考えているかと聞いたとき、ルシアはずっとそのことを考えてきた、修道女になりたいと言いました。このようにしてルシアは1925年8月24日堅信の秘蹟を受けました。そしてドロテア会入会志願者となりました。ダ・シルヴァ司教は修道会の修練院のあるトゥイへ出発する許可を喜んでルシアに与えました。

10月24日学院でのお別れの会が開かれました。このとき身元を隠していたルシアの素性が明かされました。学院の少女たちは感動と涙でルシアにさようならを言いました。

ルシアは管区長のマザー・モンファリムに伴われて、国境の近くのスペインの古い町トゥイへ向かう汽車に乗りました。このようにして少女ルシアはシスター・マリア・ルシア・デ・ヘスス・サントスになったのです。ルシアの喜びはどんなに大きかったことでしょう!



ピオ十一世は、ファチマの聖母の要求に従わず、ロシアでの迫害はますますひどくなった

2017年06月23日 | ファチマ
以下は、「マリアの汚れなき御心と霊魂の救い」からの引用です。

彼らは私の要求を顧みることを望まなかった!



ピオ十一世の教皇在位中にロシアはマリアの汚れなき御心に奉献されませんでした。また、5ヶ月の初土曜日の信心もローマによって公式に承認されませんでした。

ポンテヴェドラおよびトゥイでの御出現でルシアに明らかにされた神の御意志、すなわち5回の初土曜日の信心は修道会上長のマザー・マガリャエスや聴罪司祭のイエズス会神父ジョゼ・アパリシオ師の努力によってドロテア会の学校の生徒たちおよび父兄たちの間に急速に広まりました。

1927年12月17日シスター・ルシアは聖櫃の側でイエズスのお声を聞きます。聖母から初土曜日の信心に関してルシアが聞いたことを書きとめなさい、ということでした。

1928年9月9日に彼女はカノン・フォルミガオに会い、初土曜日の信心について話します。カノン・フォルミガオはポンテヴェドラの御出現の最初の使徒となるべき人でした。

1929年6月1日教皇使節ジョヴァンニ・ベダ・カルディナーレがトゥイの修道院にルシアに会いに行きました。

ルシアはこのとき教皇の代理者であるこの人に勇気を出して初土曜日の信心について教会の承認を求め、そのことを翌日ダ・シルヴァ司教に手紙で報告しています。司教の反応はルシアをがっかりさせるものだったようです。アパリシオ神父は1929年8月16日にトゥイにルシアを訪ねた後、ダ・シルヴァ司教にルシアが聖母のために初土曜日の信心が広められることを切に望んでいる旨手紙を書いています。

ルシアは2度目の手紙をダ・シルヴァ司教に書きますが、司教からは返事を得ることはできませんでした。司教は9月29日にアパリシオ神父に手紙を書き、こう言っています。

「初土曜日の信心はよいものです。しかし、その時はまだ来ていません。このことはそれが修道院や学院内で広められるべきでないということを意味するものではありません。」

アパリシオ神父はそのことをルシアに知らせ、12月15日ルシアはアパリシオ神父に返事を書き、その中でこの時点でもまだダ・シルヴァ司教からの返事を貰っていないことを明かしています。

1930年5月の終わり頃ルシアはゴンサルヴェス神父の命令によって次のような手紙を書きました。

「これはマリアの汚れなき御心への償いの信心およびロシアにおける迫害に関して神と私の霊魂との間に起こったと思われることです。」

「私たちのよき主は私の心の奥深くで、1925年に神御自身と聖母が、この小さな信心を通じて、マリアの汚れなき御心に背いた霊魂たちに許しをお与えになるためにお求めになったマリアの汚れなき御心に対する信心を教皇様が承認なさるように願うことを私に強く要求なさっていると思われます。聖母御自身はこの信心を実行する霊魂を、その死の時にその救いに必要なすべての恩寵でもって助けることを約束なさいました。この信心は次のことから成っています。引き続く5ヶ月の初土曜日に御聖体を拝領すること、ロザリオの祈りをすること、ロザリオの玄義を黙想しながら聖母を訪問すること、同じ目的をもって告解に行くこと。告解の秘蹟は他の日に受けることができます。」

「もし私が誤っていないならば、よき主は、もし教皇様御自身がイエズスとマリアの聖なる御心へのロシアの償いと奉献という荘厳で公的な行為をしてくださるならば、同様にまたカトリック世界のすべての司教様たちに同じことをするようにお命じになるならば、そしてもし教皇さまがこの迫害が終わったときにすでに述べました償いの信心の実行を承認し、推奨なさるならばロシアの迫害を終わらせることを約束なさいました。」

「私は思い違いをしているのではないかと大変恐れているということを申し上げます。そしてこの恐れの原因は私が主を親しく見ていなくて、ただ主の神的現存を感じたにすぎないという事実です。」

「修道院長様にこのことを申し上げることについて私が抱きました躊躇の気持ちはどこから来るのか、正確には分かりません。恐らく一部は院長様がこのすべてのことをお認めにならないかもしれない、あるいはそれは妄想、あるいは悪魔の暗示や何かそのようなことだとおっしゃるかもしれないという恐れかもしれません。」

「私はうやうやしく閣下の御手に接吻いたします。」

ゴンサルヴェス神父はルシアのこの手紙を5月29日に受け取り、それを読んでその日のうちにルシアに対して次の質問状を出しました。彼は司教や教皇に伝達するための完全に明白な文書を欲したのです。

「どうか出来る限り便箋で次の質問に答えてください。
1.土曜日の信心があなたに啓示されたのはいつ、どのように、どこでか。換言すれば、その日付(もしあなたが知っているならば)、機会、そして様式。
2.要求される条件。すなわち、この信心の成就に際して要求されることは何か。
3.利益。すくなくとも一度それを実行する人々にどのような恵みが約束されるのか。
4.聖母の悲しみのために9回あるいは7回ではなくて、なぜ5回の土曜日なのか。
5.土曜日に条件をすべて満たすことができない場合それは日曜日に満たすことができるか。例えば、田舎に住んでいる人々は遠く離れて住んでいるから、(土曜日に)そうすることができないことが非常に多い。
6.可哀想なロシアの救いに関して、あなたは何を望みまた欲するか。

このゴンサルヴェス神父の質問に対してルシアは同じ日の5月29日の夜、礼拝と償いの聖時間の時に問われた質問に答えるために必要な内的照らしを願ってそれを受けました。

数日のうちにルシアは返事を書き、ゴンサルヴェス師はそれを1930年6月12日に受け取りました。

1から3についてはルシアが1925年12月10日ポンテヴェドラで、4から6については1930年5月29日トゥイで受けた啓示です。

ゴンサルヴェス師はルシアから返事を受けた翌日6月13日にルシアのこの手紙のコピーをレイリアのダ・シルヴァ司教に送りましたが、司教はこの問題についてすでに知っており、それについて考えようとしている旨7月1日にゴンサルヴェス師に答えています。ダ・シルヴァ司教は8月28日初めてトゥイに来て、ルシアと会って話をしています。

ダ・シルヴァ司教の返事に失望したゴンサルヴェス師は別のルートで教皇ピオ十一世にルシアの手紙の内容を伝えた模様です。その時期は1930年7月から1931年8月の間だと、フレール・ミッシェルは考えています。

1929年6月13日トゥイに御出現になったときのことをルシアはこう述べています。

「聖母が私にこうおっしゃいました。『神が教皇に....世界の全司教と一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました。』ルシアはその前にこうも述べています。「私たちの主はロシアの奉献のお望みとロシアを回心させる御約束とを聖なる教会に知らせるように私にお望みになる時が来たことを私にお知らせになりました。」

神は不可能なことを決して要求なさいませんから、1929年-1931年は神の御計画を実現するに最も好都合な時期だったはずです。

最も好都合であるという理由の第一は、この時期ファチマ御出現の調査記録が教皇の下に届き、太陽のダンスや奇跡的な癒しや無数の回心によってレイリアの司教によるファチマ御出現の公式承認が為された時期であり、聖母のメッセージの重大性を教皇は知っておられたからです。

次ぎに聖心へのロシアの奉献についても、歴史的に先例がありました。
1899年6月11日教皇レオ十三世はイエズスの聖心に全世界を奉献されましたし、聖ピオ十世は毎年それを更新することを命じられました。そしてピオ十一世自身1925年にこの奉献を王たるキリストの祝日に更新すべきことを命じられました。カトリックから分離した正教の、そしてボルシェヴィキのロシアを、ロシアの政府や正教指導者が参加することなしにローマカトリックの教皇と全司教が奉献することに神学的な困難があったのでしょうか?レオ十三世は1989年5月25日回勅『聖なる年』(AnnumSacrum)の中で、全世界および全民族は異端的、分派的あるいは異教的であるとしても、イエズスの聖心に奉献されることができると説明しました。

「キリストの力は同様にまたキリスト教信仰の外部に生きているすべての人々にも及ぶ」からです。

第三に、聖マリアの汚れなき御心がイエズスの聖心と密接に結びつけられることが天の意志でした。ロシアの奉献は「イエズスとマリアのいと聖なる御心に対して」なされなければなりませんでした。この奉献を可能とし、かつ容易にする素晴らしい、摂理的な準備がすでにできていました。

かなり前から聖マリアの汚れなき御心への奉献の請願が聖座には来ていました。例えば、1900年にリヨン・フルヴィエール国民マリア会議が請願を行い、また同年デシャン師によってトゥールーズにマリア十字軍が設立されましたが、その目的はマリアの汚れなき御心への個人、家庭、小教区、司教区そして全人類の奉献を促進することでした。聖ピオ十世教皇の在位期間にはこの請願は非常に多くなりました。1917年7月13日に聖母マリアは「私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために[後に]来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう」と預言され、世界の奉献ではなくて、ただボルシェヴィキ・ロシアだけの奉献をお求めになりました。1929年6月13日に預言通り聖母はその時が来たことをルシアにお知らせになり、それを教皇に知らせ、教皇がそれを実行することを望まれたわけです。

もし教皇が聖母の要求をキリスト教世界に知らせ、実行されていたならば、全キリスト教世界の間にマリア信心の熱狂と巨大な運動が起こっていたでしょう。

最後に、ロシアの誤謬の広まりはどうだったのでしょうか。ピオ十一世が教皇座についた1922年以来、ロシアは教皇の最大関心事でした。教皇はロシア人の悲惨を少なくし、血生臭い迫害を終わらせるためにあらゆることを試みました。1922年、教皇は「世界の救世主、ロシアを救い給え!」という射祷に贖宥を与えました。しかし、1924年にはボルシェヴィキ革命がキリスト教世界の一部であるメキシコで猛威を奮い始めました。1928年ヴァチカンとソビエト政府とのすべての関係が断絶し、スターリンは以前よりもっと冷酷に迫害と虐殺を再開しました。1929年8月19日教皇はロシア人民を幼き聖テレジアの保護に委ね、贖宥のついた祈りを出しました。1929年11月、ローマ、パリ、ロンドン、プラハ、ジュネーブ等の都市でロシアが経験している迫害について人々に知らせるための会議が開かれました。

ピオ十一世はそれ以上のことを何かしなければならないということを理解されました。ピオ十一世は1930年2月2日ポンピリ枢機卿に宛てて公開書簡を書かれ、次のように述べておられます。

「ロシアの無数の人々の間で毎日繰り返され、ますます悪化している神と霊魂に対する恐るべき罪と冒涜を考えるとき私たちは深い悲しみを感じます。この聖なる普遍的、使徒的なローマ教会の多くの信徒、修道者そして寛大な聖職者たちがこれらのロシアの人々に属しています。彼らは壮烈なまでに、そして殉教するまでに信仰が深く、寛大でした。

非常に多くの冒涜と不敬の行為が新たになされ、当局によって公的に為されていることはより普遍的で荘厳な償いを要求します。今年クリスマスの聖なる日々の間に単に数百の教会が閉鎖され、多くのイコンが燃やされ、すべての労働者や学校の子どもたちが労働を強制され、日曜日が廃止されただけでなく、工場労働者は男も女も公式の棄教と神に対する憎しみの宣言に署名することを強制されました。さもないと、彼らはパンの配給切符、衣料、宿泊を取り上げらるのです。それらのものなしには、この哀れな国のすべての住民は飢えと悲惨と寒さで死ななければならないのです。他のこともいろいろありますが、昨年クリスマスの聖なる日々に、全ての都市と多くの村々で、恥ずべきカーニヴァルの見せ物が組織されました。外国の外交官たちが自らの目で見たように、首都モスクワの中心でもそうでした。彼らは聖なる祭服を着て、嘲笑しながら十字架を担い、十字架に唾を吐きながら、多くの無頼漢を乗せた戦車の行進を目撃しました。一方他の装甲車群は巨大なクリスマス・ツリーを運んでいましたが、ツリーにはカトリックとオーソドックスの司教たちを表す人形が首吊りにされていました。町の中心には他の若者たちの愚連隊が十字架に対するあらゆる種類の涜神行為を犯していました。

ですから、私たちはできる限り努力してこれらすべての涜聖行為に対する償いの行為をし、また全世界の信徒を償いをするように招きたいと思っています。それで私たちは、猊下よ、1930年3月19日、聖ヨゼフの祝日に聖ペトロ大聖堂に来て、そこで使徒の頭の墓の上で、この苦しい試練がついに終わり、人々が私たちの唯一の救い主にして解放者である主イエズス・キリストの唯一の群へできるだけ早く立ち返るように、そのように困難で苦しみに満ちた試練に会っている多くの霊魂の救いのために、また愛するロシアの人々の救済のために、イエズスの神的な聖心への犯罪的な攻撃に対する償いのミサを捧げることに決めました。聖心に赦しを願い、犠牲者たちと殺人者たちにも御憐れみを求めた後に、私たちは神の御母、聖なる汚れなきおとめマリア、その浄配、普遍教会の守護者、ロシアの特別の保護者である聖ヨゼフ、聖なる天使たち、洗礼者聖ヨハネ、聖クリゾストモス、聖キリルと聖メトディウスおよび他の多くの聖人たち、そして特に、私たちが特別にこれらの霊魂の未来を委ねた幼きイエズスの聖テレジアに嘆願します。」

ファチマ第二の秘密は世界の救いに関わる:世界平和のために「聖母の汚れなき御心に対する信心を打ち立てる必要」

2017年06月22日 | ファチマ
以下は、「マリアの汚れなき御心と霊魂の救い」からの引用です。



1917年7月13日金曜日に三人の子どもたちに地獄を見せた後聖母は次のように言われました。

-あなたがたは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。-

これは第一の秘密の結論に相当する部分です。

聖母は続いて第二の秘密を明らかにされました。第一の秘密が個人の救いに焦点を当てているのに対して、この第二の秘密は民族と教会の運命に関わって語られています。現代世界の平和が問題とされています。平和は人間が神に背くとき人間に与えられないということを聖母は告げておられます。

-私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦争は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。-

-このことを避けるために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。-........

ここで問題になっていることは、個人の霊魂の救いではなくて、民族の戦争あるいは平和、教会の自由あるいは平和です。聖母のこの第二の秘密の主題はキリスト教世界の救いだと言えるでしょう。

第二の秘密を正確に理解するためには、私たちは聖母の「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます」という言葉に常に立ち帰らなければなりません。

神の大いなる御計画はすべての霊魂によってばかりでなく、すべての民族によって聖母の汚れなき御心が愛され、称賛され、栄光を帰されることです。神はこの聖母の汚れなき御心にキリスト教世界の上に比類のない恵みの宝を注ぐことをお委ねになりました。

神が望まれたことはキリスト教世界が聖母を単に私的にだけでなく、公的に荘厳に崇敬することでした。「世界の中に聖母の汚れなき御心の信心を打ち立てること」は個人の心の中の問題にとどまるのではなくて、公的な教会の、世界の問題です。ジャシンタが入院するためにリスボンに行く前にルシアに語った次の言葉はこのことを非常によく説明しています。

「....私が天国へ行くのはそれほど先のことではないでしょう。あなたは神が聖母マリアの汚れなき御心に対する世界の信心を確立することを望んでおられるということを人々に知らせるために地上に残るでしょう。このことをあなたが言わなければならないとき、隠してはいけません。神は聖母マリアの汚れなき御心を通じて恵みを私たちにお与えになりますから、彼らがその恵みを聖母にお願いしなければならないということをすべての人に告げてください。そしてイエズスの聖心は聖母マリアの汚れなき御心がイエズスの側で崇敬されることを望んでおられるということを知らせてください。そして人々にまた平和のために聖母マリアの汚れなき御心に祈るように告げてください。なぜなら、神は平和を聖母に委ねられたからです。」


世界平和のための条件


1917年7月13日に、聖母は3人の子どもたちに平和の条件についてこう述べられました。

「世界のために平和を得、戦争を終わらせるために、ロザリオの聖母をたたえて毎日ロザリオの祈りを続けることを私は望んでいます。なぜなら、ただロザリオの聖母だけがあなたがたを助けることができるからです。」


ロザリオを毎日祈るようにという招きを聖母は御出現の度に繰り返されました。世の人々は行動しなければお祈りしても無駄である、と言いますが、聖母はまずロザリオを祈りなさいとわたしたちに勧めておられます。現在もこの聖母の招きは真実だと思います。シスター・ルシアはこのことの緊急性を絶えず強調しています。

聖母はロザリオの祈りの他に、すでに述べた「5ヶ月の初土曜日の信心」を1925年にポンテ・ヴェドラで、そして1929年に後に述べる「聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献」をトゥイで、シスター・ルシアに要求されました。

この三つの条件が神がマリアを通して世界に示された平和の条件です。「私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦争は終わるでしょう。」

1917年7月の時点で言われたこの預言は、第一次世界大戦の終結を予告したものです。すでに1914年7月に始まっていたこの戦争(オーストリア・ドイツ・トルコ・ブルガリアの同盟国側2400万とセルビア・イギリス・フランス・ロシア・イタリア・ベルギー・日本・アメリカ・中国・ルーマニアなど連合国側4300万が戦ったヨーロッパを中心とした大戦争)は丸3年経ってもまだいつ終わるかその行方がわからなかったときに、聖母はその終結を予告されたのです。

聖母がおっしゃっている平和は聖母が「平和の元后(女王)」(Regina Pacis)として世界にお与えになる「キリスト教的平和」(Pax Christiana)であって、「世が与えることが出来ない平和」(illam, quam mundus dare non potest, pacem)です。しかし、第一次世界大戦の終結(1918年11月)の後、世界の平和は長続きしませんでした。

すでに第一次大戦の最中、1917年11月7日(ロシア暦10月25日)にロシアではレーニンの率いるボルシェヴィキがケレンスキー臨時政府を倒してソヴィエト政府を樹立する共産主義の支配を始めていました。しかし、共産主義の悪が世界に拡がる前に、世界は第一次世界大戦をはるかに上回る恐るべき第二次世界大戦を経験しなければなりませんでした。

ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、日本のウルトラ・ナショナリズムという全体主義的・無神論的国家主義による世界再分割の要求貫徹のための侵略戦争という形を取ったと思います。世界の人々は聖母の忠告を無視して神に背くことを止めなかったわけです。神との平和のないところに人間の平和はあり得ないということは、現在もいっこうに変わっていないのではないでしょうか。

神の懲罰としての戦争


現代の人々は、神を信じる人も含めて、神の懲罰ということを信じたがりません。ですから、ファチマの聖母が次のように言われるとき、反発したり無視したりします。何度も引用していますが、聖母は1917年7月13日ルシアにはっきりとこう言われたのです。そしてこの預言通りのことが起こりました。

「しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです」

ピオ十一世の教皇在任期間は1922年から1939年です。1931年日本は中国侵略を開始し、日華事変を引き起こし、1933年にはヒットラーが再軍備に着手、イタリアは1935年エチオピアを侵略、1938年3月ドイツがオーストリアを併合、39年8月にポーランドに要求提出、聖母の預言通りに実質的に第二次世界大戦が開始されていました。

聖母が預言された「未知の光によって照らされる夜」は1938年1月25日の夜から26日の朝がたにかけてヨーロッパ・北アフリカの空に展開されました。それは専門家が「北極光」(aurora borealis)と呼んだ異常な輝きのことです。1938年1月26日のリヨンの新聞 Nouvelliste de Lyon はそれを次のように報じています。

「昨夜、西ヨーロッパの空を異常な大きさの北極光が波打った。それは多くの部局で大騒動を引き起こしたが、最初はそれが大火事だと信じた。.....アルプス地方全域において、多くの人々はこの不思議な光景に非常な興味をそそられた。空は非常に強烈な鮮血色の輝きを発しながら移動する一つの巨大な炉のように燃え立たせられていた。炉の縁はあたかも太陽がまさに昇ろうとしているかのように、白色であった。それは明らかに北極光であったが、しかし、グルノーブル大学理学部のペルス教授によれば、一つの例外的に巨大な北極光であった。」

『フランス天文学協会ブレティン、天文学、気象学、地球物理学月刊誌』は50ページにわたる特集でこの現象を次のように報告しています。

「例外的な美しさをもった北極光が1938年1月25日火曜日の夕方から26日水曜日の朝にかけてフランス、そしてヨーロッパのほとんどすべての国々において見ることが出来た。スイス、イギリスそして同様に西部、南西部、プロヴァンスに至る南東部地域、そしてさらに南部、イタリアやポルトガル、シシリー、ジブラルタル、そして北アフリカにおいてさえ、この現象はこれらの地域の緯度にしては例外的な強度を示した。....

天気は曇りだった。そして夕暮れ頃にはすこし霧雨になった。太陽は一日中見ることができなかった。しかし今、日没後2時間以上たって、雲がなくなり晴れた。北東、北、そして北西の地平線は、夜明けが再び一面に始まるかのように、明るくなった。実用的な目的からはそれは夜明けであった。....しかし、不思議な光をもった夜の曙である。それは北極光である。

青白い、美しい、青緑の光が北東から北西の空に展開している。徐々に上方へと空が深紅色に変わり、そして不規則的な赤い弧が現れる。紫色に染められた雲の一種が北東に圧縮し、それからあたかも一つの神秘的な息によって吹き払われたかのように、北西の方向へと移動して行く。それは積み重なり、波のようにうねり、消え、そしてまた現れる。一方、その色が真っ赤な色からだいだい色にそして黄色に変わって行く巨大な光線は星を覆いながら、天頂にまで登って行く。その光景は、消えたり現れたりしながら、光の振動で変化し、生き物のようで、心を奪うものである。....

通りではパニックが起こっている。『パリが火事だ!』地方のいくつもの村では消防隊が動員されている。....巨大な深紅の光が空いっぱいに拡がっていた。」



同じ雑誌はフランスと外国の特派員からの多くの報告を載せています。

アルプス・ピック・デュ・ミディの観測所で:
「この珍しいオーロラはピック・デュ・ミディ観測所で観測された最初のものであった。それはこの緯度としては非常に稀な現象である。....最初の印象は一つの巨大な火災のそれであった。....」

メーヌ・エ・ロワールのラ・シャペル・サン・ローで、10歳になる生徒の記録:
「昨晩は一つの大きな雲があった。それは血で染めた紙のようだった。それからその雲は大きくなった。それは大きな赤い糸の列になり、上の方へ上がって行った。その下にチョークの線のような白い糸の列が現れた。」

オワーズで、アンリ・ブラン氏:
「最初、それは巨大な地獄の気味の悪い反射だと思われた。....この現象の変則と強度に打たれて村人たちの多くは彼らの家の窓枠から幾分神経質になって観察した。....これらの赤い色の輝きが見られ、また消えた。そして後でかなり長い時間が経って再び現れた。....これらの光り輝く現象はときどき非常に空高く上がり、そして色、輝きにおいてそれらは一つの猛烈な近くの地獄の非常に生々しい反射にまったく比較され得るものであった。....この例外的な天空の光景の強烈さ、その素晴らしい輝き、その巨大な範囲、特にわれわれの地域におけるこの強度で[見られることが]非常に稀であること、一年のうちでこの季節に見られることはさらにもっと稀であることなどは、直ちに社会に教えるべき価値があるとわれわれには思われる。....」

ピカルディーで:
「5時15分に私は北北西の方向に、私が最初遠くにある地獄の結果であると考えた一つの赤熱に気づいた。....10分後に大きな紫色の点がオリオンの方へまっすぐに私たちの頭上を越えて拡がって行った。次ぎに他のもっと小さい、もっと青白い点が現れ、そして消えて行った。しばらく後に、燃える空が私たちの顔に反射した。私の側でその現象に賛嘆していた妻が、私には非現実的に思われる赤い反射の中で私に現れた。7時45分に、赤い輝きはその最高の強度に達した。ほとんど空全体が火事になっているように見えた。第二の[天にできた]ひだは素早く燃え上がった。その輝きは私が腕時計を見て時間を言うことができるほどの明るさだった。その光景は並外れていた。ニュースを求めて私の側にやって来た一人の農夫は非常に真剣に、それは世の終わりを告げていると信じた。....明らかにこの常ならぬオーロラによって頭がおかしくなった雄鳥が日の出であるかのようにときをつくり始めた!」

カーンの小神学校で:
生徒たちは寄宿舎から「大きな赤いシーツ」を見た。「そのシーツを通していくつかの星を見ることができた。」

ヴォークリューズのある証人は同じ表現を使っている:
「空に非常に大きい赤いシーツを見て私は驚いた。しばらくの間それは周辺の地域のどこかでの火事であると私には思われた。その燃える光が雲に反射していた。....私はその現象が続いている間村と周辺の地域の犬どもが吠え始めたことに気がついた。彼らは10時半頃まで吠えるのをやめなかった。」

北アフリカからの証言:
「このオーロラはチュニジアのほとんどすべての場所から見ることができた。それは、同様なものが1891年以来報告されたことがなかったから、一つの非常に稀な現象である。....一般に、それは巨大な赤い色あるいは桃色の光のように見え、多かれ少なかれ白い縞が入っていた。....非常に驚いた土地の人々はその中に神の怒りの警告を見た。ヨーロッパ人たちはそれは一つの巨大な遠くの火事であると考えた。

この現象それ自体は超自然的な奇跡ではなく、単に「一つの例外的な自然現象」に過ぎませんが、しかし、それは前もって予告されたものであり、神が世界をその罪のために罰しようとしておられる「しるし」として神によって与えられたものだと理解されるのです。現象自体が客観的に意味を持っているというのではなく、その現象に神は一つの意味をお与えになったと考えることができます。この現象の直後にシスター・ルシアは司教、カノン・ガランバ、修道会の上長、聴罪司祭たちにこの現象の超自然的、預言的な意味を説明しました。しかし、教会の司牧者たちはシスター・ルシアがこの自然現象における神の意志の意味を説明したことを無視して、信徒たちにそのことを明らかにしませんでした。「人々が神に背くことをやめ」て痛悔し、回心するようにという天の要求は聞き入れられず、世界は戦争、それも史上最大、最悪の戦争になだれ込んで行きました。

1946年にジョンゲン神父がシスター・ルシアになぜ戦争前にこのことを公表しなかったのか?と問うた時、それに対して彼女は「誰もそのことを私に求めなかったからです」と答えています。シスター・ルシアが預言者のように、完全に独立して行動することを意図して、彼女の上長の同意なしに、彼女自身の権威に基づいて秘密を明らかにするということは神の御意志ではなかったのです。神の御意志はシスター・ルシアの上長、聴罪司祭や司教たちが協力することを通して聖母マリアの秘密が世界に公表されることでした。ですから、戦争が終わってから公表された秘密の責任をシスター・ルシアに負わせることはできませんし、ましてシスター・ルシアが事が起こった後になってそれを秘密の内容としてでっちあげたというダニス神父の主張はとんでもない誤解です。

フレール・ミッシェルによれば、ファチマにおいて神が第一に目的とされたことは、人々に直接的に、そして民主的に、彼らに回心するように警告を発することではありませんでした。シスター・ルシアが自分のイニシャティヴで秘密の預言を公表したのであれば、そうだったでしょう。そうではありませんでした。神の御計画はそれとはまったく異なっていました。神はマリアの汚れなき御心への信心を通じて世界を救うことを望まれました。しかし、神はまたカトリック教会の司牧者たちがその神的な権威を用いてその信心を荘厳に確立することをも望まれたのです。シスター・ルシアが1917年に聖母から託された秘密を教会の上長たちに知らせて、彼らを通して時期が来れば世界へ、信徒たちへ公表されることを願って、自ら公表することをしなかったのは、神の御意志に忠実であった証拠です。

1941年8月31日に書かれた第三の手記においてシスター・ルシアは懲罰を告知する大いなるしるしの後に彼女が経験した不安な期待の数ヶ月について彼女の司教に思い起こさせました。

「そうであると思いますが、(この天空の現象の正確な本性に関して)神は、その正義が罪ある国々をまさに打とうとしているということを私に理解させるためにこのことを利用されました。この理由で、私は初土曜日の償いの聖体拝領とロシアの奉献をしつこく懇願し始めました。私の意図は全世界のためばかりでなく、特にヨーロッパのために憐れみと赦しを得ることでした。....

神がその無限の御憐れみにおいて、恐るべき瞬間が近づいたということを私に感じさせられたとき、猊下は、機会が提供されるときにはいつでも、私がどのようにそれを指摘する機会を捉えたかを思い起こしてくださるでしょう。」 

ところで、1904年3月30日、ポルトガルのポルトの北にある小さな村バラザルに生まれたアレクサンドリナ・マリア・ダ・コスタは1955年10月13日に亡くなるまで多くのカリスマや神秘的な恵みを受けて聖なる生活を送り、1967年1月14日ブラガで列聖調査が行われ、1973年4月14日にはその調査が成功裡に終わりました。

このアレクサンドリナに、1935年8月1日、主が御出現になって、教皇に手紙を書いて、世界をマリアの汚れなき御心に奉献するように求めなさいと次のようにおっしゃいました。「かつて私は私の聖心に人類を奉献するように求めた。今、私は私のいとも聖なる御母の汚れなき御心に人類を奉献するように求める。」

彼女の聴罪司祭のイエズス会士ピニョ神父は1936年9月11日にパチェッリ枢機卿に手紙を出しました。枢機卿は聖座にアレクサンドリナの調査を命じ、1937年にブラガの大司教にさらに彼女についての情報を提供するよう求めました。1938年6月にファチマに黙想のために集まった(この時司教たちに説教したのはピニョ神父でした)司教たちは、ダ・シルヴァ司教が教皇に聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献の願いを出してすでに1年を経過しても何の返事も貰えなかったので、今度はポルトガルの司教たちの連名で、聖マリアの汚れなき御心への世界の奉献の要求を教皇に対して送りました。ポルトガルにおけるマリアの汚れなき御心によって働かれたきわだった平和の奇跡に教皇の注意を喚起しようとしてのことでした。

教皇ピオ十一世はこのポルトガルの司教団の要求に沈黙を守りました。カレイェイラ枢機卿が1967年に証言したところによれば、レイリアの司教には戦争の7ヶ月前に戦争が切迫していること、その暴力と範囲が伝えられていました。1939年2月6日付けのシスター・ルシアの手紙には、「聖母によって予告された戦争」が切迫していること、「ポルトガル司教団によってなされたマリアの汚れなき御心への奉献のおかげで」ポルトガルには聖母の御保護が約束されていることが述べられていたようです。また、次のように書かれていたと言われています。

「主たる懲罰は霊魂たちにおける神の国を破壊しようとした国々に対する懲罰でしょう。ポルトガルも同様に罪があり、懲罰のあるものを受けるでしょう。しかし、マリアの汚れなき御心がポルトガルを護るでしょう。よき主はポルトガルが償いをなし、自らと他の国々のために祈ることを求めておられます。スペインは罰せられるべき最初の国でした。スペインはまだ終わっていないその懲罰を受けました。そして他の国々に対する懲罰の時が迫っています。神は霊魂たちにおける神の国を破壊しようと欲するすべての国々をその血において純化することを決断なさいました。にもかかわらず、神は、もし人々が祈りそして痛悔するならば、怒りを和らげ、赦しを与えると約束なさいました。」

この手紙が書かれて数日後、1939年2月10日教皇ピオ十一世は亡くなられました。

シスター・ルシアは1939年3月(あるいは5月)に、主から次のメッセージを受け取りました。

「初土曜日にマリアの汚れなき御心を讃えて償いの聖体拝領が広められらることを願い、しつこく願いなさい。私の正義の厳正さがさまざまの国々の罪を罰する時が来ている。それらのうちのあるものは絶滅させられるであろう。遂に霊魂たちにおける私の支配を破壊しようとする者たちの上に私の正義の厳格さが厳しく降るであろう。」

1939年3月19日アパリシオ神父に宛てた手紙の中でシスター・ルシアはこう述べています。

「世界の平和かそれとも世界の戦争かということは、マリアの汚れなき御心への奉献と共にこの信心の実行にかかっています。これが私がそのように大いにそして特別にそれが広められることを望んだ理由です。なぜなら、それは私たちのよき主と私たちの愛する天の御母の御意志だからです。」

それから3ヶ月後、6月20日シスター・ルシアはアパリシオ神父に次のような手紙を送りました。

「聖母は、もしこの信心が広められ、実行されるならば、戦争の懲罰を遅らせると約束なさいました。私たちはその信心を広めるために努力がなされる程度に応じて彼女が懲罰をそらされるのを見ます。しかし、私は私たちが今している以上にはすることができないということ、そして神がその怒りにおいてその憐れみの手を挙げられ、世界をこの懲罰によって荒らされるにまかせられるということを恐れています。それは以前には決してなかったそのように恐ろしい、恐ろしい懲罰でしょう。」

シスター・ルシアが以前の聴罪司祭であるアパリシオ神父に説明した同じことを、彼女はきっと司教や修道会の上長にも説明したことは疑いのないところでしょう。

しかし、時はもう遅すぎました。1939年8月22日、独ソ不可侵条約が締結され、9月1日ヒットラーはポーランドを侵略し、その2日後イギリスはフランスを誘ってドイツに宣戦布告しました。たびたびの天の警告は顧みられませんでした。ヨーロッパはこの戦争の中に自らを盲目的に投げ込みました。これは聖母が忠告なさった人類の懲罰だったのです。もう一度1917年7月13日の聖母の預言をまとめて聞きましょう。

「戦争は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。....このことを避けるために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」

実にこの戦争で4,000万人以上の人が死にました。
             

聖母の悲しみを称えるために、なぜ5回の初土曜日なのか?

2017年06月17日 | ファチマ
以下は、「マリアの汚れなき御心と霊魂の救い」からの引用です。



トゥイ:1930年5月29日-30日の啓示


シスター・ルシアはこのときトゥイの修道院にいました。

彼女の霊的指導司祭ゴンサルヴェス神父は書面でいくつかの質問を彼女にしましたが、その四つ目の質問は次のようなものでした。「聖母の悲しみを称えるために、なぜ5回の初土曜日なのですか、なぜ9回あるいは7回ではないのですか?」

その同じ夜、シスター・ルシアは主に、この質問に対する答えを願いました。この日の夜、いつものように聖時間の祈りをしているときに、この点に関して主から次の啓示を受けました。

「わが娘よ、その答えは簡単です。マリアの汚れなき御心に対して犯される5種類の罪と冒涜があります。

1.汚れなき御孕りを否定する冒涜。
2.聖母の童貞性を否定する冒涜。
3.聖母が天主の御母であることを否定する冒涜。同時に聖母が人々の御母であることを拒否する冒涜。
4.子どもたちの心の中にこの汚れなき御母に対する無関心あるいは軽蔑、あるいは憎しみをさえ植えつけることをねらう人々の冒涜。
5.聖母の御像や御影(ごえい)において聖母を直接侮辱する人々の罪。

ここに、わが娘よ、マリアの汚れなき御心がこの小さな償いの業を私に思いつかせた理由があります。」

初土曜日の信心の5つの条件と償いの意向

2017年06月16日 | ファチマ
以下は、「マリアの汚れなき御心と霊魂の救い」からの引用です。



大いなる約束と6つの条件


聖母マリアの汚れなき御心に対する信心は人間にとって最も大切な永遠の救いが成就されるか否かを決定する臨終に際しての決定的な援助を約束しています。

初土曜日の信心には5つの条件とこの5つの条件を満たす際に必要な一般的意向が要求されます。

1)5ヶ月続けて初土曜日にミサに与ること

初土曜日の信心はそれ以前からも行われていましたが、初めのうちは15ヶ月続けて行うことが一般的でした。1889年には教皇レオ13世はこの信心を実行する人に全贖宥という特権を与えました。聖ピオ10世は12ヶ月の初土曜日の信心を公式に認め、それを実行する人に全贖宥を与えています。条件は告悔、聖体拝領、教皇の意向のための祈り、でした。1912年6月13日に同じピオ10世はポンテヴェドラを予告するかのように、「神の御母、汚れなきマリアに対する信者の信心を促進し、不敬虔な人々によってマリアの御名と特権に対して犯された侮辱に対する償いをするために、初土曜日の信心に対して全贖宥を認め、これを煉獄の霊魂にも適用できるとされました。条件は告悔、聖体拝領、教皇の意向のための祈り、汚れなきおとめを称えて償いの精神で敬虔に信心を行うことでした。」1920年11月13日教皇ベネディクト15世は8ヶ月の初土曜日信心に対して新しい贖宥を与えることを認めました。このような伝統を持つマリア信心を私たち弱い人間にもっと容易なものとすることをポンテヴェドラで聖母は約束なさったのです。


2)その間毎月一度告悔の秘蹟を受けること

イエズスがルシアにお答えになったように、告悔は初土曜日当日にしなければならないわけではありません。もちろん、初土曜日になるべく近い日にすることが勧められますが、毎月1回告悔の秘蹟を受ければよいのです。


3)償いの聖体拝領をすること

償いの聖体拝領は償いの信心の中で最も重要なものです。フレール・ミッシェルはその意味と重大さを理解するためには1916年秋の天使による三人の子どもたちの聖体拝領を考えるべきだと言っています。また、パレ・ル・モニアルでの聖心によって要求された9ヶ月の初金曜日での聖体拝領との関連も考えられます。土曜日にミサに与り、聖体拝領ができない場合には、司祭の許可を得るという条件で(個人が勝手に決めてはならない)、日曜日に代えることができます。


4)毎日ロザリオの祈りを唱えること

1917年の御出現では毎回聖母は毎日ロザリオを唱えることを人々にお求めになりました。これはマリアの汚れなき御心に対して犯される侮辱に対する償いのためです。


5)ロザリオの15玄義を15分間黙想すること

ロザリオを唱えることに加えて、聖母はロザリオの15の玄義を15分間黙想することを求めておられます。これは1玄義を15分間ずつというのではなく、全部で15分間ということですから、簡単にできることです。


6)マリアの汚れなき御心の侮辱に対する償いという意向を入れること

この一般的な意向がないならば、上に挙げた5つの行いは無意味になります。聖母が示された棘に取り巻かれた汚れなき御心は罪人たちの冒涜と忘恩が棘のように聖母の御心を苦しめていることを示しています。聖母の御心を慰めるということは私たちの愛と償いの行為によって聖母の御心からそれらの棘を取る去ることを意味しています。

ポンテヴェドラで説明された5ヶ月の初土曜日の信心の理由

2017年06月15日 | ファチマ
以下は、「マリアの汚れなき御心と霊魂の救い」からの引用です。



ポンテヴェドラ:1925年12月10日(木曜日)-5ヶ月の初土曜日の信心-


ルシアはポンテヴェドラのドロテア会修道院に志願者として1925年10月25日から1926年7月20日までいました。

1925年12月10日木曜日の夕方、18歳の志願者ルシアに聖母マリアと幼子イエズスが御出現になりました。そのときの様子はルシアの証言によれば、次の通りです。

聖母が御出現になり、彼女の横に輝く雲の上に高められて幼子イエズスがいらっしゃいました。聖母はルシアの肩の上に手を置かれ、棘によって取り巻かれた彼女の御心を片方の手に持たれて、それをルシアに示されました。そのとき、幼子イエズスがこう言われました。

「あなたのいと聖なる御母の御心に同情しなさい。それは棘で覆われています。恩知らずの人々はその棘で御心をいつも突き刺しています。そしてそれらの棘を取り除くために誰一人償いの業をしません。」

次ぎに聖母がこう言われました。

「私の娘よ、私の御心を見なさい。それは棘で取り巻かれています。その棘で恩知らずの人々は冒涜と忘恩によって絶えず私の御心を突き刺しています。少なくともあなたは私を慰めるよう努めてください。そして私の名において次のことを告げ知らせてください。私は、償いをするという意向をもって引き続き5ヶ月の間初土曜日に告悔をし、御聖体を受け、ロザリオ5連を唱え、ロザリオの15の玄義を黙想しながら15分間私と共にいるすべての人に、救いのために必要なすべての恵みをもって臨終のときに助けることを約束します。」

ルシアはこの御出現とメッセージを直ぐに院長のマザー・マガリャエスに告げ、またポンテヴェドラ修道院の霊的指導司祭ドン・リノ・ガルシア神父にも報告しました。彼はルシアに後で必要になるかもしれないから、すべて書き留めておくように命じました。

ルシアはこの出来事の詳細な説明をアシロ・デ・ヴィラルから来ている霊的指導司祭、ペレイラ・ロペス師のために書きました。12月29日に院長のマザー・マガリャエスはダ・シルヴァ司教に御出現の件を報告していますが、あまり正確ではなかったようです。ペレイラ・ロペス師はルシアに返事の手紙を出しました。その中で彼は留保を表明し、質問をし、待つように勧めました。2月15日にルシアは質問に答え、出来事の詳細な説明をする手紙をロペス師に送りました。

この手紙の中でルシアはロペス師に、聖体拝領の際にイエズスに対してロペス師の手紙を読んであげ、こう申し上げた、と書いています。

「おお、私のイエズスよ、あなたの恵みによって、祈り、苦行、信頼をもって私は従順が私に許し、そしてあなたが私に霊感をお与えになるすべてのことをなそうと思います。そのほかのことはあなたが御自身でなさらなければなりません」と。

数ヶ月前に一人の子どもに出会った同じ場所で、ルシアはゴミを捨てに行った際に、またその子どもに出会います。以前に会ったときにルシアはその子に「めでたし」を一緒に唱え、「おお、天にいます私の御母よ、私にあなたの御子イエズスを与えて下さい」という祈りを教えたのでした。

この日またその子どもに会ったので、「あなたは天の御母に御子イエズスを求めましたか?」と訊ねますと、その子どもは「あなたは、天の御母があなたに求められたことを世界に明らかにしましたか?」と言いながら、光輝く子どもに変りました。それで、ルシアはその子どもがイエズスであることが分かりこう言いました。

「私のイエズス!あなたは読んでさしあげた手紙の中で私の霊的指導司祭が言われたことをご存じです。彼はこの幻視は繰り返されなければならない、私たちにそれを信じさせる事実がなければならない、そして院長様だけではこの信心を広めることはできない、と言われました。」それに対してイエズスはこう答えられました。

「院長一人だけでは何もすることができないことは確かです。しかし、私の恵みがあれば、彼女は何でもできます。あなたの霊的指導司祭があなたに許可を与えること、あなたの上長がそのことのためにこれを告知することが必要です。それが誰に明らかにされたかを人々が知らなくても、人々によって信じられるようになるためです。」

「しかし、私の霊的指導司祭はその手紙の中で、この信心はすでに世間に存在すると言われました。と申しますのは、多くの霊魂は聖母の栄光のために毎月初めの土曜日に御聖体を受け、ロザリオの15玄義を唱えていますから。」

「私の娘よ、多くの霊魂が始めていることは確かです。しかしほとんどの人は最後までやり通しません。そしてやり通す人は約束された恵みを受けるためにやり通すのです。熱心に5ヶ月の初土曜日の信心をする霊魂、あなたがたの天の御母の御心に対する償いをする霊魂は15連のロザリオを唱えるが、しかし生ぬるい、どうでもよい仕方でそうする霊魂よりもずっと私を喜ばせます。」

「私のイエズス!多くの霊魂は土曜日に告悔するのを難しいと感じています。8日以内にする告悔を有効だと認めてくださいますか?」

「初土曜日に御聖体を拝領するときに恩寵の状態にあり、そしてマリアの汚れなき御心に対する償いをする意向を持っているならば、それ以後でも告悔の秘蹟を受けることができます。」

「私のイエズス!ではこの意向を入れることを忘れた人はどうでしょうか?」

「告悔に行く最初の機会を利用して次の告悔のときにその意向を入れることができます。」

イエズスとルシアの会話はこれで終わり、イエズスはルシアの前から姿を消されました。

聖母マリアのシスター・ルシアへのトゥイ(スペイン)における1929年6月13日の御出現

2017年06月14日 | ファチマ
聖母マリアのシスター・ルシアへのトゥイ(スペイン)における1929年6月13日の御出現

「ファチマ:世界平和への唯一の道」からの抜粋

「現代世界」は奇跡一般を嘲笑し、そして実際、その諸聖人がそのように多さにおいて奇跡を行った教会の神的主張を嘲笑します。

しかしロシアの奉献はまさに1917年10月13日の太陽の奇跡でもって神が本物であることを証明なさったそのメッセージにおいて神がお命じになったことです。

われわれは1917年7月13日のメッセージの中で聖母がルチアに「私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために戻って来るでしょう」と約束なさったということを思い起こします。

その御言葉通りに、童貞聖母マリアはスペイン、トゥイにおいて1929年6月13日にルチアに再び御出現になりました。そこで、ルチア - その時にはドロテア会修道女シスター・ルチア・ドス・サントス(彼女は1948年まではカルメル会修道女とはならないでしょう) - は礼拝と償いの聖時間の間修道院の聖堂において祈っていました。カトリック教会の諸聖人への天からの御出現の記録の中でさえ、この御出現は並はずれたものでした。

われわれはシスター・ルチアに彼女自身の単純なしかしまったく劇的な言葉においてその御出現を詳しく話してもらうことにしましょう - そしてここでもまたわれわれが、教会と教皇ヨハネ・パウロ二世および教皇ベネディクト十六世を含む諸教皇が信じるに値すると宣言なさった一つの御出現を取り扱っていることを覚えておきましょう。


トゥイの幻視


「私は木曜日から金曜日まで午後11時から真夜中まで聖時間をすることを求めて私の上長たちと聴罪司祭たちから許可を得ていました。ある夜独りでいる時に私はひれ伏して天使の祈りを唱えるために聖堂の中央の聖体拝領台の前で跪きました。疲れを感じましたので、私は起きあがり、そして跪きました。そして私の両腕を十字架の形に組んでその祈りを唱え続けました。唯一の光は内陣の[聖体安置を示す]ランプから来ていました。」

「突然、一つの超自然的な光が聖堂全体を照らしました。そして祭壇の上に天井に届く光の十字架が現れました。より明るい部分に、十字架の上の方に一人の男の方の顔と腰までの身体を見ることができました。その胸のところには同様に光り輝く一羽の鳩がいました。そして十字架に釘づけにされたもう一人の男の人の身体がありました。」

「その方の胴の少し下のところに、空中に浮いて一つのカリスと一つの大きなホスチアを見ました。ホスチアの上には十字架につけられた方の顔から、そしてその方の胸にある傷から数滴の血が落ちていました。これらの[血の]滴はホスチアを伝わってカリスの中へ流れ落ちていました。十字架の右側の腕の下には聖母(その片手に汚れなき御心を持たれたファチマの聖母)がおられました...(十字架の)左側の腕の下には大きな文字が、いわば祭壇の上に流れ下る水晶のように透明な水で書かれたかのようにあり、これらの文字は『恩寵と憐れみ』という文字を形作っていました。」

「私は、私に示されたのがいとも聖なる三位一体の神秘であることを理解いたしました...」注42)

フレール・ミッシェルはこの御出現を正当に「三位一体の神の顕現」と呼びました(以下に掲げたある画家による解釈を見てください。)


[三位一体の神の顕現]


もちろん、神は文字通りの意味において、キリストがその肉において見られ得るようには、人間の目によって見られることはできませんが、この「神の顕現」は神によってその三位一体の本性の一つの視覚的な表現として認められました。太陽の奇跡についてそうであったと同じように、世界の歴史においてかつて記録されたそのような現象は何一つありません。このように、神御自身、ファチマの聖母がいとも聖なる三位一体の現前においてシスター・ルチアに話そうとされたことの並はずれた重要性をお示しになったのです。聖母はこう言われました:

「神が、この手段によってそれ(ロシア)を救うことを約束なさりながら、教皇に、世界のすべての司教たちと一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました。」注43)

神御自身このことを要求しておられます。シスター・ルチアは、まさに神そのもの、いとも聖なる三位一体の現前において、神の名において話される神御自身の御母の口からこの要求を受け取りました。シスター・ルチアは、直ちにこの神の要求を彼女の聴罪司祭ゴンサルヴェス神父に、彼との彼女の公表された文通のうちに反映されているように、伝えました。注44)

次の75年間シスター・ルチア―オウレムのフリーメーソンの市長によって投獄され恐ろしい死をもって脅迫されたけれどもファチマの真実を否定しようとしなかったその同じルチア ― は同じ証言を与えました。聖母は、神のメッセージの伝達者として、教皇と世界のすべての司教たちとによって一緒に行われるべき一つの儀式においてロシアの荘厳で公的な奉献を要求なさいました。


世界が享受するであろうものの前触れ


童貞聖母マリアが要求なさった奉献の効力をあたかも証明するかのように、神はいわば、ポルトガルにおいて一つの証明を許すことを適当と見られました。

1931年5月13日、ファチマでの最初の御出現の記念日に、そしてそのイベントのためにファチマに来た30万人の信徒たちの列席する中で、ポルトガルの司教たちは彼らの国を荘厳にマリアの汚れなき御心に奉献しました。これらの善良な司教たちは、ヨーロッパ中、特にスペインに吹き荒れていた共産主義の伝染病からその国を保護するために聖母の御保護の下にポルトガルを置きました。実際、世界の至る所へのロシアの諸々の誤謬の拡がりという童貞聖母マリアの預言は情け容赦のない正確さですでに実現されていました。

1917年の7月に、誰が - ボルシェヴィキ革命とレーニンの権力掌握の数ヶ月前に - ロシアから発する世界共産主義の出現を予見することができたでしょうか?ただ神だけがそれを予見することができたのです。神の御子によって知らされた神の御母だけが予見することができました。


三重の奇跡


この(1931年の)奉献の結果として、ポルトガルは三重の奇跡を経験しました。ここに、われわれはただ最低限の項目だけを挙げることにします。

カトリック・ルネッサンス

まず最初に、一つの壮大なカトリック・ルネッサンス、その中を生きてきた人々がそれを疑いもなく神の働きに帰したほどにそのように際だったカトリック生命の偉大な再生がありました。この時期の間、ポルトガルは司祭の召命における激烈な急増を享受しました。修道者の数は10年の間にほとんど4倍になりました。諸々の宗教的共同体も同様に増えました。キリスト教的生活の大きな刷新がありました。それはカトリック新聞社、カトリック・ラジオの発達、巡礼、霊的黙想、そして司教区および小教区の枠内に統合されたカトリック・アクションの活発な運動を含む多くの領域において示されました。

このカトリック・ルネッサンスはそのように重要なものであったので、1942年にポルトガルの司教たちは共同司牧書簡において次のように宣言しました:「25年前にその目を閉じ、そして現在その目を開いた人は誰でももはやポルトガルをそれと識別しないであろう。ファチマでの祝せられた童貞聖母マリアの御出現のつつましいそして見えない要因によって行われた変化はそのように大きいからである。実際、聖母はポルトガルを救うことを望んでおられるのだ。」注45)


政治的および社会的な改革

そこにはまた、カトリック社会諸原理と一致した政治的および社会的改革の奇跡もありました。1931年の奉献のすぐ後に一人のカトリック教徒の指導者がポルトガルにおいて権力の座につきました。カトリック反革命計画を正式に開始したアントニオ・サラザールです。彼はできる限り、そこで政府の諸法律と社会諸制度がキリストの律法、キリストの福音そしてキリストの教会と調和されている一つのカトリック的な社会秩序を創ろうと努力しました。注46)社会主義と自由主義の猛烈な反対者として、彼は「家庭の重要性を低めあるいは家庭を解体するあらゆること」に反対しました。注47)


平和の奇跡

これらの驚くべき宗教的および政治的な変化に加えて、二重の平和の奇跡がありました。ポルトガルは共産主義の恐怖から、特に隣りで荒れ狂った(1936-39年)スペイン市民戦争から守られました。そしてポルトガルはまた第二次世界大戦の荒廃からも逃れました。

スペイン市民戦争に関しては、ポルトガルの司教たちは1936年に、もし聖母がポルトガルを守ってくださるならば、彼らはマリアの汚れなき御心への国家の奉献を更新することによって彼らの感謝を表明すると誓いました。彼らの言葉に忠実に、1938年5月13日に彼らは聖母の守護に感謝して聖母の汚れなき御心へのポルトガルの奉献を更新しました。セレイェイラ枢機卿は公衆の面前でこう認められました:「ファチマの聖母が1917年に御出現になって以来...神の特別の祝福がポルトガルの地に下りました...特に、もしわれわれがわれわれの誓約以来過ぎ去った2年間を回顧するならば、神の見えざる御手がポルトガルを、戦争の災難と無神論的共産主義のライ病から免れさせて、守ってくださったことを認めないわけにはいきません。」

教皇ピオ十二世さえ、ポルトガルがスペイン市民戦争と共産主義の脅威を免れたことに驚きを表明されました。ポルトガルの人々への挨拶の中で、教皇は「そのように脅威的でそのようにあなたがたに近かった、そしてにもかかわらずそのように思いがけない仕方で避けられた赤の危険」について話されました。注48)

ポルトガルの人々はこの最初の危険を無傷のままに過ごしましたが、しかし直ちに二番目に彼らの面前ににらみつけるものがありました。第二次世界大戦が勃発しようとしていました。1917年7月13日の童貞聖母マリアの預言のなおもう一つの実現において、「ある未知の光によって照らされた一夜...」(1938年1月25-26日)に引き続く「ピオ十一世の在位の時に」戦争が始まったのでした。

1939年2月6日、宣戦布告の7ヶ月前に、シスター・ルチアは彼女の司教モンセニョール・ダ・シルヴァに手紙を書きました。彼女は彼に戦争が差し迫っていると告げました。しかしそのとき一つの奇跡的な約束について話しました。彼女は言いました:「この恐るべき戦争において、ポルトガルは司教様たちによってなされたマリアの汚れなき御心への国家の奉献のゆえに[戦争から]逃れるでしょう。」

そしてポルトガルは戦争の諸々の恐怖を免れたのです。その詳細はここで詳しく述べるには余りにも数が多すぎます。注50)さらに驚くべきことには、シスター・ルチアは1940年12月2日に、もし司教たちが彼らの国々をマリアの汚れなき御心に奉献していたならば、他の国々が受けたであろう戦争の間の特別の保護をポルトガルが受けていたということを彼に告げるために、教皇ピオ十二世に手紙を書きました。彼女はこう書きました:「教皇様、聖母はポルトガルの高位聖職者たちによるマリアの汚れなき御心へのこの国の奉献のゆえに、この戦争において私たちの国に特別の保護を約束しておられます。他の国々ももし聖母に自分たちを奉献したならば与えられたであろう諸々の恩寵の証拠としてです。」注51)

同様に、ポルトガルのセレイェイラ枢機卿はこの時期の間聖母がポルトガルのために得られた大きな恩寵をファチマの聖母に帰することを躊躇されませんでした。1942年5月13日に彼はこう言われました:「ここで25年の間に起こってきたことを表現するためにポルトガルの語彙はただ一つの言葉しか持っていません:それは奇跡という言葉です。そうです、われわれはポルトガルのすばらしい変化をいとも聖なる童貞聖母マリアの保護に負っていると確信しています。」注53)

セレイェイラ枢機卿はわれわれがここで主張していることを主張されたのです:すなわち、聖母がポルトガルのために、その国の1931年の奉献に対する天からの報酬として得られた奇跡的な諸々の祝福は、ひとたびロシアがまた聖母の汚れなき御心に適切に奉献されるならば、聖母が全世界のためになされるであろうものの前兆にしかすぎないということです。注53)枢機卿が言われたように:「ポルトガルにおいて起こったことは奇跡を宣言しています。そしてそれはマリアの汚れなき御心が世界のために準備なさったことを予示しています。注54)


平和について聖書は何と言っているか?


聖書はわれわれに人類がもはや戦争をしない時が来るであろうと告げています。旧約聖書において預言者たちはわれわれに人類が彼らの剣をすきの刃先に変えるであろうと告げています。すなわち、彼らは、ミサイル、戦車、爆弾、銃、そして生物兵器のような戦争の諸々の道具をリサイクルして、それらを食物を生産する道具に変えるであろうということです。

聖書はまたわれわれにこう告げています:獅子は子羊と共に横たわるであろう。そして子羊は傷つけられることはないであろう。子どもはその手を毒蛇の巣の中に入れるであろう。そしてその子どもは傷つけられないであろう、と。

平和は、聖トマスと聖アウグスティヌスがわれわれに告げているように、秩序の静けさです。神は、われわれが世界中あまねくこの静けさを持つであろう時が人類の歴史において来るであろうことを約束なさいました。われわれはまさに今その預言を成就しようとしています - そしてそれは神が御自分の聖なる御母を通じてファチマでわれわれにお与えになったメッセージです。われわれは今世界的な真の平和のための処方箋を持っているのです。


(42) The Whole Truth About Fatima - Volume II, pp. 463-464.
(43) Ibid.
(44) Sister Lucy’s words cited from The Whole Truth About Fatima -Volume II, pp. 462-465. See also Sister Lucy’s Memorias e Cartas da Irma Lucia, pp. 463-465.
(45) Collective Pastoral Letter for the Jubilee of the Apparitions in 1942, Fatima, merveille du XX e siècle, p. 338. Cited from The Whole Truth About Fatima -Volume II, p. 410.
(46) Salazar’s influence in the Portuguese government had been growing since 1928. He becamePresident of the Council in 1933. Later, Salazar received for his efforts the praise and blessing of PopePius XII. Pius said, “I bless him with all my heart, and I cherish the most ardent desire that he be ableto complete successfully his work of national restoration, both spiritual and material.” Cited from The Whole Truth About Fatima - Volume II, p. 412.
(47) Ibid., p. 415 (Salazar’s own words).
(48) Ibid., p.422.
(49) Ibid., p. 428.
(50) See The Whole Truth About Fatima - Volume II, pp. 369-439.
(51) Ibid., p. 428.
(52) Ibid., p. 405. Cardinal Cerejeira spoke these words during the 1942 Jubileecelebration of the Fatima apparitions.
(53) We trust the word of a Fatima believer such as CardinalCerejeira, rather than a Fatima debunker.
(54) Cardinal Cerejeira, Preface to Jacinta (1942), Obras Pastorais, Volume II, p. 333. Cf. also his homily of May 13, 1942, Fatima, merveille du XXe siècle
, p.339. Cited from The Whole Truth About Fatima - Volume II, p. 437.
(54a) cf. Sir Winston Churchill, The Second World War, Vol. 4, p. 33.
(54b) Letter of May 4, 1943, Documentos de Fatima, (Porto,1976) pp. 446-447; see also The Whole Truth About Fatima – Volume III, pp. 18-21 (letters of Sister Lucy of February 28 and May 4).

シスター・ルシアの見たトゥイの幻視:私たちの聖母に対する償いの義務

2017年06月13日 | ファチマ
6月13日は、ファチマの第2回目の御出現で聖母の汚れなき御心のヴィジョンを示された日、またトゥイでの御出現の記念日です。

ピーター・チョジノフスキー、PH.D.

以下は「トゥイの聖なるイコン」からの編集された抜粋です。

余りにもしばしばファチマは多くの信心の中の一つの信心となっています。私たちは余りにもしばしばファチマがその強烈さとその必然性を失っているということを見ます。

しかしもちろん、これは聖母の責任ではありません。これはシスター・ルチアの責任ではありません。実際、皆さんが御出現そのものをご覧になるとき、皆さんが聖母とわれらの主から私たちが受けたメッセージをご覧になるとき、まさにここトゥイにおいてさえ、そしてリアンジョにおいて、私たちはファチマの諸々の信心に付随している、初土曜日の信心に付随している、ロシアの奉献に付随している、義務のしるしがあるということを見るのです。

私は、皆さんがファチマのトピックを研究なさるとき、皆さんは私たちが単に一つの信心を扱っているのではなくて、一つの義務を扱っているのだということを見ていると、最初に強調したいと思います。私はそれをまた最後にも強調するつもりです。

私たちはシスター・ルチアが、トゥイからちょうど数マイル下ったポンテヴェドラで受けた御出現を見るとき一つの非常に深い仕方でこのことが示されているのを予見します。皆さんたちは彼女の相談相手への手紙から、彼女があの幻視が含意していることを記述しているのを見ます。

これは彼女が言っていることです - ここにポンテヴェドラでの啓示の主題があります -
われらの主は御自分のいとも聖なる御母に対してなされている諸々の罪に対して心から怒っておられる、
そしてわれらの主はそれらをもはや許容することがお出来にならない、
これらの罪のために、御子のいとも愛すべき御心に対してそのように多く苦しみを引き起こした諸々の侮辱と冒涜のために、多くの霊魂は地獄へと堕ち、そして多くの他のものは滅びる危険に曝されている。

われらの主はこの信心が実践される程度に従って、そしてマリアの汚れなき御心に対して償いをする意向をもつ程度に従って、彼らを救うと約束なさっています。

私たちはここに非常に厳しいあるものを見ます - 私たちは聖母が天の元后として、教会の御母として、神の御母として、客観的である、尊敬されなければならないある種の尊厳を持っておられるということを示しておられるわれらの主を見ます。

私たちは聖母に敬意を捧げる義務があります。私たちはそれに応じて相応しく聖母に対して行動する義務があります。私たちは聖母を元后そして御母として尊敬する義務があります。

ここで私たちは一つの義務を持っています。

その義務はここでは聖母が尊敬されるべきように聖母を尊敬しない人々に対する大きな罰の脅威によって特徴づけられています。

聖母を冒涜する人々のため、神の御母としての聖母の地位を無視する人々のため、聖母の像や画像を冒涜する人々のために、このことのすべてに対して重大な諸結果があります。われらの主は多くの者がすでに地獄に堕ちたとさえ言っておられます。聖母は多くの者が彼らがしたことのために - 彼らが犯した諸々の冒涜のために - すでに地獄に堕ちた、と言っておられます。これらは厳粛な言葉です。

直ちに私たちはそこにはファチマについての何かあるものがある、人類に実行の義務があるポンテヴェドラとトゥイでの御出現があるということを見ます。それらは何でしょうか?実行の義務あるものは何でしょうか?

確かにポンテヴェドラで私たちは聖母に対する尊敬が全人類に実行の義務あるものであるということを見出します。そして聖母はこれらの霊魂が地獄から救われることができるためには、冒涜した人々のために償いがなされなければならないと言っておられます。

1926年7月16日にシスター・ルチアがドロテア会修道女の修道服を受けるためにここトゥイで修練女見習い期間のためにポンテヴェドラを去ったとき、彼女は初金曜日に償いのこれらの信心を実践し、そしてまた他の人々にこれらの信心について話すようにという聖母によって彼女に与えられた彼女の使命を忘れませんでした。

1929年以前の数年間彼女はここトゥイにあったイエズス会の家にこれらの信心について話すことができました。彼らはそれらの信心を実践し始めました。また修道院に集まった家族の小さなグループにも話し、彼らはこれらの信心を実践し始めました。しかし彼女は再び義務のこの局面を常に知っていました。シスター・ルチアは自分がこれらの信心を広める義務を持っていることを常に知っていました。彼女はマリアの汚れなき御心に対する信心を広める義務を持っていました。

単にマリアの汚れなき御心に対する信心ばかりでなく、またシスター・ルチアは聖マルガリタ・マリアによって主張された信心、すなわち聖心に対する信心の忠実な実践者でした。



実際、1929年6月13日、それが毎週の彼女の慣行であったように、木曜日の夕刻から金曜日の夜、11時から12時までのトゥイでの幻視の夜のことでした。彼女は聖マルガリタ・マリアによって主張された聖心に対する信心を行っていたのでした。

私たちはシスター・ルチアがまさにこの町であの夜に彼女に起こったことについて一つの説明を与えているのをここに見ます。その説明は何でしょうか?

以下は彼女が言っていることです。そして私たちは皆おののきます:

「夜独りで(聖時間のために)聖堂の真ん中の聖体拝領台の前で跪き、天使の祈りをひれ伏して唱えました。疲れを感じて、立ち上がり、跪きました。そして腕を十字架の形に伸ばして祈りを続けました。唯一の光は聖櫃からの光でした。 突然ある超自然的な光が聖堂全体を照らしました。そして祭壇の上に天井まで届く一つの光の十字架が現れました。十字架の上の部分、いっそう明るい部分に一人の人のお顔と胸から上のお身体を見ることができました。その方の胸の上には同じように光り輝く一羽の鳩がいました。そして十字架に釘づけにされて、他のお方の身体がありました。その少し下に、空中にカリスと大きなホスチアがかかっており、それらの上には十字架に付けられたお方の顔とそのお胸の傷から数滴の血が滴り落ちていました。これらの血の滴はホスチアの上を流れくだり、カリスの中へ落ちていました。十字架の右側下方に、汚れなき御心をその手にされた聖母がいらっしゃいました。」

(シスター・ルチアはそれが汚れなき御心をその手にされたファチマの聖母であったと言っています - そしてここでそれは「剣の突き刺さった、あるいはバラに取り囲まれた御心ではなく、茨に取り囲まれ炎の冠のついた御心でした」と証言しています。このことは後に非常に重要なものとなるでしょう。)

それゆえ、十字架の右側下方に聖母がおられます。皆さんは聖三位一体、御父、十字架上の御子そして御父の胸のところに聖霊、の荘厳な描写を見ます。

皆さんは十字架の右側下方に聖母を見ます。そして聖母の近くにはカリスとホスチアがあります。そしてわれらの主から、十字架につけられたキリストから血の滴がホスチアの上を流れくだり、それからカリスの中へ落ちています。これがこれまでのイメージです。

これがこれまでの幻視、聖堂全体を照らしたこの光輝く幻視です。次に彼女はこう言いました:

「(十字架の)左側下方には何か大きな文字があり、あたかも祭壇の上に流れ落ちる水晶のきれいな水のようでしたが、『恩寵と憐れみ』という言葉を形作っていました。」

それゆえそれは十字架の左側から来ていました。そこには、完全に透明な洗礼の水のようにあたかもそれが水晶のきれいな水であるかのように、これらの水晶のようにきれいな『恩寵と憐れみ』という文字が流れ降っていました。



これがトゥイの幻視です。そこには現前するこの謙遜があります。シスター・ルチアはこう言っています:「私はそれが、私に示された至聖三位一体の神秘であるということ、そして私が明かすことを許されていないこの神秘についての光を受けたということを理解しました。」

それゆえそれが御出現でした。私はメッセージを論じる前にここでただ一つの点を明らかにしたいと思います。

信仰、カトリック信仰の本質的な事柄についての何という完全な描写であることでしょう。

聖三位一体からミサの聖なる犠牲に対する贖罪的な行為に至るまでの何という完全な描写であることでしょう。神が人間に信じることをお求めになったすべての事柄、神が人間になすことをお求めになったすべての事柄がその御出現のうちに現前しています。

次にシスター・ルチアは世界中を走り抜け、世界中に一つの地震を創り出すであろうメッセージを話します。シスター・ルチアはこう言います:「それから、聖母が私にこうおっしゃいました」:

「神が教皇に、この手段によって救うことを約束なさりながら、世界の全司教と一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました。」

第二の要求はこれです。それは異なっているように見えます。それはあたかも異質のものであるかのように見えます。しかし第二の要求は完全に第一の要求の一部です。それら二つの要求は相伴うものです。

第二の要求は何でしょうか?聖母はこう言っておられます:

「私に対して犯される罪のために神の正義が断罪する霊魂たちがあまりにも多いので、私は償いを求めるために来ました。この意向のためにあなた自身を犠牲にし、祈りなさい。」

それゆえ私たちは二つの要点を持っています。私たちは二つの要求を持っています。

それら二つの要求はどのように相伴うのでしょうか?ロシアの奉献となされなければならないこれらの償いの行為とはどのように相伴うのでしょうか?

そうですね、シスター・ルチアは1930年に彼女の聴罪司祭に書いた手紙の中で私たちに告げています。彼女はこう言っています。

「よき主は、もし教皇様御自身が、世界のすべての司教様方に同じことをするようにお命じになると共に、イエズスの聖心とマリアの御心に対する償いの荘厳な行為とロシアの奉献をなさるならば、ロシアの迫害を終わらせると約束なさっています。教皇様はそのときこの迫害が終結すればすでに述べた償いの信心の実践を承認し推奨するということを約束なさらなければなりません。」

それゆえ、ロシアが奉献された後、迫害が終わった後、次に教皇は償いのこの信心、つまり、五回の初土曜日、マリアの汚れなき御心に対する信心、そして罪の償いの行為としての初土曜日の信心を推奨しなければなりません。

聖母はここで断定的にこう言っておられます:「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、ある期間の平和が世界に与えられるでしょう。」

これがメッセージです。これがイメージです。これがトゥイのイコンです。

1929年6月13日トゥイでの「聖母の汚れなき御心と聖三位一体御出現」とロシアの奉献

2017年06月12日 | ファチマ
1929年6月13日、トゥイでの「聖母の汚れなき御心と聖三位一体御出現」とロシアの奉献

以下は、「マリアの汚れなき御心と霊魂の救い」からの引用です。


ロシアの誤謬と共産主義の悪

1917年の、特に7月13日の聖母の預言は世界史に深く関わっています。聖母はロシアの誤謬ということをはっきりと述べられました。聖母マリアが1917年7月13日の預言でロシアについて述べられたことは、世界平和がロシアの奉献とそれに伴うロシアの回心にかかっているということでした。ロシアの回心がなければ、世界には第一次世界大戦よりもはるかに恐ろしい戦争が起こるという預言は実現しました。戦争だけではなく、教会の迫害、教皇の苦しみ、民族の絶滅が預言されました。

第一次世界大戦がまだ終わっていない1917年、聖母の御出現が始まる3ヶ月ほど前の2月にロシアのペトログラードで反乱が起こり、皇帝ニコラス2世は3月15日退位を迫られました。

4月レーニンが密かにスイスからドイツ政府の保護の下に鉛で封印された列車に隠れてロシアに戻りました。ニューヨークのユダヤ人銀行家たちの財政援助を受けたボルシェヴィキは合計すれば32万部にもなる17の日刊紙を発行してプロパガンダを強めていました。

7月にフリーメーソンで民主主義者のケレンスキーが政権を握りますが、9月に起こった軍のコルニロフ将軍の反乱に対して、政権を渡すことを拒否してボルシェヴィキに援助を要請したことが彼の命取りになりました。ボルシェヴィキがコルニロフの軍隊に対するレジスタンスの指導権を握り、軍隊の大多数がコルニロフに従わないのを見て、コルニロフ将軍はボルシェヴィキの側につきます。

ケレンスキーは9月14日共和国樹立を宣言しますが、時すでに遅しで、セント・ベテルスブルグそしてモスクワのソヴィエトがボルシェヴィキにはせ参じます。

10月25日ボルシェヴィキは冬宮を攻撃して占領し革命は勝利しました。

この後に起こったことはまさに聖母の預言だった教会の迫害でした。1918年1月20日、教会と国家の分離、教会財産の没収、その法的諸権利の抑圧を布告する法令が出されました。ボルシェヴィキの戦闘的無神論はまず第一の敵であるキリスト教の撲滅に乗り出したわけです。

ボルシェヴィキの憎しみはしかし宗教の枠を越えて、ボルシェヴィキでないすべての者に向けられました。教会に忠実な信徒であったロマノフ王朝の最後の人々は1918年7月16日から17日にかけて、エカテリンブルグで側近の人々と共に暗殺されました。襲ったのはドイツの囚人たちだと言われていますが、実際はモスクワから送られたユダヤ人の暗殺者たちでした。

ボルシェヴィキが取ったやり方は、ソルジェニーツィンの言い方を借りれば、「ジャコバン・テロリズム」でした。フランス革命でもそうでしたが、自由、平等、友愛をスローガンにしながら、実行したのは組織的、制度的な恐怖による自由と平等の抑圧、いな圧殺でした。

1917年10月、農民たちは富裕な土地所有者から没収した土地を与えられましたが、その土地の収穫を全部供出させられたので、至る所で反乱を試みました。8月9日にレーニンは「容赦ない大衆恐怖の効果をあげる」ことに決め、この時に強制収容所を作っています。この強制収容所では秘密警察がまだ射殺していなかった政権の敵たち、すなわち、ボルシェヴィズムに反対する、あるいは反対しそうなインテリ、農民、軍人などあらゆる人たちが容赦なく消されました。

1919年11月にモスクワの総主教ティホン師はヨーロッパに向けて悲痛な訴えを出しました。「司教、司祭、修道者、修道女たちが『反革命』という曖昧な口実のもとに<ひとまとめにして>銃殺されています。残酷さに磨きをかけて彼らには秘蹟という至高の慰めが拒絶され、一方彼らの親族は彼らの遺体をキリスト教の儀式に従って埋葬することができないのです。」

1922年にメルシエ枢機卿が最初の数字を公にしました。「迫害の犠牲者の統計は恐るべきものである。1917年11月以来、兵卒26万人、将校5万4千人、土地所有者1万8千人、労働者19万2千人、農民81万5千人、司教28人、司祭1,215人が死刑にされた。....司教,司祭たちの数には、聖なる器物の没収を命じる法令に協力することを拒否したことでこの数ヶ月間に判決を受け、処刑されたまだ知られていない数の正教およびカトリックの両方の司祭たちの数をつけ加えなければならない。」

実際、1922年2月26日の法令は、聖別されたものを含む教会のすべての財産を没収しました。信徒たちはそれに反対することを試みました。次のように言われています。「3ヶ月の間に、信徒たちと軍隊の間に1,414件の流血事件が報告された。」

レーニンは政治局員全員を教育するためにこのことを利用しました。彼はこう言います。

「今は数年の間彼らがどんな種類の抵抗も考えないために教訓を与える、まさに最もよい機会だ。....われわれは反動的なブルジョワと反動的な聖職者たちの代表を出来る限り多く逮捕しなければならない。....1922年には全部で8,100人の司祭、修道者、修道女が銃殺された。」

革命はいたるところに荒廃をもたらしました。飢饉がロシアに襲いかかりました。無数の農民が革命以来殺され、移住させられて減った上に、1918,1919,1920年の3年間全収穫物を強制的に供出させられて、農民たちは赤軍と共産党員のためにだけ種を蒔き、働くことに意気阻喪しました。労働者もサボタージュを繰り返し、工場や輸送機関は散発的にしか機能しなくなりました。1921年には事態は恐るべきものとなりました。食糧、衣料、燃料がなく、病院には医薬品がなくなり医師、看護婦がいなくなりました。セント・ペテルスブルグでは多くの人々によって木造家屋が燃やされたりしました。

レーニンと共にロシアに戻ったジノヴィエフは、1918年9月にこう述べたと言われています。

「われわれは勝つであろう。ロシア人のうち、9千万人はソビエトの権力下に置かれる。残りの人間?われわれは彼らを絶滅するつもりである。」

ツァー(ロシア皇帝)の帝国は1億8千万人を擁していました。戦争と革命が人口を約1億3千万人に減らしました。それでも、ジノヴィエフの計算によればまだ4千万人多いということになります。1918年ペトログラードのソビエト公式機関には次の言葉が掲げられていました。「われわれはわれわれの心を残酷に、過酷に、容赦のないものにするであろう。われわれはこの血の海のダムを開くであろう。同情や憐れみを持つことなく、われわれはわれわれの敵を無数に殺すであろう。われわれは彼らを彼ら自身の血の中に沈めるであろう。」しかし、機関銃を用いるよりももっとすばやく、もっと静かに、手続きも要せずに、飢饉が彼らの意図を実行しました。

1924年レーニンが死んだ後、ライバルたちを倒したスターリンは1929年に決定的な権力を確立します。1925年には「戦闘的無神論者連盟」が作られ、その機関誌「ベズボジニク」は講演会を開催し、涜神的なデモをやったりしました。この連盟は特に青少年の間に無神論を広め、またより効果的に宗教に対する闘争をするために映画を見せ、博物館を作りました。

1929年4月9日の法律は迫害をさらに強める口実を与えました。これによって歴史的建造物を含む多くの教会が取り壊されました。8月27日には「連続した週」の制度が導入されましたが、これは日曜日(主日)を停止するためでした。秘密警察(KGB)は数年の間にウクライナのカトリック聖職者を全滅させました。1929年11月スターリンはコルホーズ(集団農場)制度を実施し、富農(クーラーク)の追放(dekulakization)を実行しました。富農たちは家族もろとも暖房のない貨車で数千マイルを僻遠の地であるウラル、シベリア、カザフスタンなどに送られ、多くの者が途中で死ぬか、あるいは到着すると死にました。これら追放された人々は人気のない場所すなわち森林地帯、山岳地帯、草原地帯に置き去りにされました。富農追放による農村の荒廃は1932-33年に飢饉を招き、それはその範囲とその犠牲者の数において1921-22年の飢饉よりもひどいものでした。

国家は飢饉を農民に対する市民戦争の武器として利用し、飢饉の度を強めることに貢献しさえしていました。農民たちが飢餓で死んでいるときに、政府は小麦の輸出をし続けていたのですから。

犠牲者の数を正確に知ることはできません。確実に言えることは秘密警察がスターリンに350万人のクーラークの抑圧について報告したということです。スターリン自身がチャーチルに「集団農場化の期間に1千万のクーラークに対して正義が行われた。彼らの大部分は絶滅させられ、他の者はシベリアに送られた」と得意げに語りました。

まじめな人口統計学者たちは1929-1933年の飢饉の犠牲者の数を少なくとも1千500万人と見積もっています。すぐに絶滅させられずに生き残った人々が送られたのはグーラーグ(収容所)でした。彼らは1928年の工業化5カ年計画のための無限に供給可能な原料として奴隷労働に従事させられました。以後ソビエト連邦共和国は「収容所群島」と化しました。

私たちはマルクスやレーニンの著作を研究するよりも、ボルシェヴィキ・ロシアの歴史の中に共産主義の真実の姿を見なければなりません。「木はその実によって知られる」からです。

ボルシェヴィキ革命は常にどこででも非人間性の深みに落ち込みました。そして誤謬と悪魔的な支配を拡大し、虚偽、暴力、殺人を制度的、法的に拡大しながら、真実と正義と平和の名を騙りました。

私たちはソビエト連邦の崩壊を目の当たりにしてもまだ共産主義の真の姿に幻想を抱いているところがあるかも知れません。ソビエト連邦の崩壊を単なる経済システムの破綻として理解するのは間違いです。自由経済に移行すれば、「ロシアの誤謬」が終わりを告げたと考えるのは誤解です。

共産主義は単なる経済のシステムではありません。

聖母マリアが預言された戦争、飢饉、教会の迫害は「ロシアの誤謬」の具体的な現れとして、第二次世界大戦が始まるずっと以前、1917年以来ロシアの地で実現されていたのです。しかも、この共産主義の悪はロシアの地にとどまらずに、その後全世界へと拡大されて行ったことは歴史が証明しています。



ロシアの奉献-1929年6月13日(火)トゥイの啓示-

1929年6月13日に彼女はトゥイの修道院で幻視を経験していました。それは汚れなき御心の聖母マリアを伴った聖三位一体御出現とロシアの奉献に関するイエズスの啓示でした。

1936年5月に彼女の霊的指導司祭であったゴンサルヴェス師がシスター・ルシアに自伝を書くように求めて、書かれた[オリジナルのものはルシアによって破棄されましたが、1941年4月にゴンサルヴェス師がルシアに会って再現しました]記録から、そのときの様子を知ることができます。

「ゴンサルヴェス神父様はときどき私たちの聖堂に告解を聞きにお見えになりました。私は神父様に告解をしていました。神父様に対しては落ち着きを感じることができましたので、ここに上長として3年間いらっしゃった間ずっと神父様に告解をしていました。

「この度、私たちの主はロシアの奉献のお望みとロシアを回心させる御約束とを聖なる教会に知らせるように私にお望みになる時が来たことを私にお知らせになりました。....そのお知らせは次のようにして起こりました。」

「(1929年6月13日)私は木曜日から金曜日にかけて午後11時から真夜中までの聖時間をしたいと私の上長と聴罪司祭に求めて許しを得ました。」
「夜独りで聖堂の真ん中の聖体拝領台の前で跪き、天使の祈りをひれ伏して唱えました。疲れを感じて、立ち上がり、跪きました。そして腕を十字架の形に伸ばして祈りを続けました。唯一の光は聖櫃からの光でした。」
「突然ある超自然的な光が聖堂全体を照らしました。そして祭壇の上に天井まで届く一つの光の十字架が現れました。」
「十字架の上の部分、いっそう明るい部分に一人の人のお顔と胸から上のお身体を見ることができました。」
「その方の胸の上には同じように光り輝く一羽の鳩がいました。」
「そして十字架に釘づけにされて、他のお方の身体がありました。」
「その少し下に、空中にカリスと大きなホスチアがかかっており、それらの上には十字架に付けられたお方の顔とそのお胸の傷から数滴の血が滴り落ちていました。これらの血の滴はホスチアの上を流れくだり、カリスの中へ落ちていました。」
「十字架の右側下方に、汚れなき御心をその手にされた聖母がいらっしゃいました。....[それは汚れなき御心を....その手にされたファチマの聖母でした。....その御心は剣の突き刺さった、あるいはバラに取り囲まれた御心ではなく、茨に取り囲まれ炎の冠のついた御心でした。....]」
「(十字架の)左側には何か大きな文字があり、あたかも祭壇の上に流れ落ちる水晶のきれいな水のようでしたが、『恩寵と憐れみ』という言葉を形作っていました。」
「私はそれが、私に示された至聖三位一体の神秘であるということ、そして私が明かすことを許されていないこの神秘についての光を受けたということを理解しました。」
「それから、聖母が私にこうおっしゃいました。『神が教皇に、この手段によって救うことを約束なさりながら、世界の全司教と一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました。』」
「『私に対して犯される罪のために神の正義が断罪する霊魂たちがあまりにも多いので、私は償いを求めるために来ます。この意向のためにあなた自身を犠牲にし、祈りなさい。』

「私はこのことについて私の聴罪司祭に説明しました。彼は私たちの主が為すように望んでおられることを書くように私に命じました。」

「しばらく後に、私たちの主は、内的語らいという手段によって、不満を表明されながら、次のように私におっしゃいました。『彼らは私の要求を顧みることを望まなかった!....フランスの王のように彼らは後悔し、私の要求を顧みるであろう。しかしもう遅いであろう。ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、すでにその誤謬を世界中に広めてしまっているであろう。教皇は多く苦しまなければならないであろう。』」

シスター・ルシアは1930年に同じくゴンサルヴェス師に書いた手紙の中で、少し言い回しを変えて天の要求を次のように述べています。

「よき主は、もし教皇様が御自身、同じことをするようにカトリック世界のすべての司教様に同様に命じて、イエズスとマリアの聖なる御心に対して償いとロシアの奉献の荘厳な行為をなさるならば、ロシアにおける迫害を終わらせることを約束なさっています。教皇様はそのとき、この迫害が終わるときには、すでに述べました償いの信心の実行を認め、勧めると約束なさらなければなりません。」

1917年7月13日にルシアたちが見せられた地獄は哀れな罪人たちの霊魂がが行く地獄でしたが、1929年6月13日に聖母がルシアにおっしゃりたかったことはこうではないでしょうか?

「あなたは真の共産主義グーラーグの生ける地獄に見捨てられた哀れな人々を圧倒する飢饉、戦争、迫害を見ました。」

彼らを救うために聖母は執拗にこう言われたのでしょう。「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。」1929年はすでにスターリンがグーラーグの血に染まった恐怖を最高度にまき散らしていた時期ですが、そのときに、神はルシアに教会がロシアを聖母マリアの汚れなき御心に奉献すれば、ロシアの回心を約束することを、教会に知らせるように望まれたのでした。

神の御約束は「ロシアの迫害を終わらせること」であり、「ロシアを救うこと」でした。残虐な殺戮、冷酷に計画された飢饉、諸々の迫害、秘密警察の襲撃、愚かで非人間的な集団化、これらすべてのことは神の御母、すなわちロシアの人々がそのイコンを密かに崇敬し続けたテオトコス(神の御母)、の強力な仲介によって終わらせられるべきものでした。

ソルジェニーツィンはその著『西欧の誤り』(1980年)の中で、ソビエトのイデオロギー的、軍事的膨張主義についてこう言っています。

「共産主義は、公然たる戦争によってであれ、政府転覆的ないしテロリスト的な活動によってであれ、あるいは社会構造の安定をなくさせることによってであれ、世界征服の野望を自ら断念することはできない。....共産主義それ自身からは何一つ希望され得ない。共産主義の教義とは何一つ妥協は不可能である。われわれは、全世界における共産主義の全体的な勝利か、それとも至る所でのその完全な消滅かのいずれかを予見することができる。ロシアにとって、中国にとって、そして全世界にとって唯一の救いは共産主義を拒否することのうちに存する。さもなければ、世界は破滅させられ、絶滅させられる危険を冒すのである。」

これはまさに、1917年7月13日ファチマにおける聖母の預言を思い起こさせる発言です。

「もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」

ロシアにとって、そして全世界にとっての唯一可能な救いはロシアの回心です。そしてこのロシアの回心の方法は、1929年6月13日トゥイにおいて、神の恩寵と憐れみのうちにシスター・ルシアに示されたのです。つまり、世界の全司教たちと一致した、教皇による聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献を神はお望みになりました。ロシアの奉献による神の平和の実現はこのようにして教皇様の決断にかかることになりました。

シスター・ルチアとフエンテス神父の預言的インタビュー

2017年06月09日 | ファチマ
今から丁度50年前、1957年12月26日にメキシコの司祭、フエンテス神父(Padre Augustin Fuentes)は、コインブラのカルメル会修道院にいたシスター・ルチアを訪問した。

フエンテス神父は、フランチスコとジャシンタの列福推進者(postulator)、また同時にフリーメーソンの迫害(1924-28年)のもとのメキシコ殉教者たちの列福推進者となる準備をしていた。

フエンテス神父はメキシコに戻り、1958年5月22日に聖心とガダルーペの聖母の宣教シスター会本部(Casa Madre de las Misioneras del Sagrado Corazon)で講話し、シスター・ルチアの言葉が報告され、後にこの講話の内容が公表された。

ファチマの公式文書保管者アロンソ神父(Padre Joaquin Maria Alonso)は、このインタビューの真理を検証し「正真正銘性の全ての保証とレイリアの司教認可を含めて、当然の司教認可(サンチェス大司教)の出版許可のこと)を持っている」と強調した。

フエンテス神父は、これがシスター・ルチアの「まさにその唇から」受けた内容であると断言している。アロンソ神父の公表したスペイン語原文は Veridad sobre Fatima (pp. 103-106)に掲載され、英語訳は、ライアン神父(Father Ryan)によって Fatima Findings, June 1959 誌に発表された。

それが最初にフエンテス神父によって公表されたとき、それは世界中の信徒の多くから広範な関心を呼び起こした。しかしながら、この重大なメッセージの勇敢な公表の結果として、フエンテス神父は、シスター・ルチアが1948年以来住んでいたコインブラ司教区における何人かの匿名の当局者たちからのまったくそれに値しないそして前例のない迫害を受けた。

第1と第2の秘密の本質を語りながら、シスター・ルチアはフエンテス神父に新しいテーマを語っている。聖母マリアと悪魔との決定的な闘いというテーマ、天主に捧げられた聖職者や司祭たちに対する悪魔的な攻撃の計画、償いへの呼びかけと招きを期待し待つことなく自発的に聖なる生活を送る信徒の義務、である。

聖職者達は悪魔の攻撃を受けて、罪の償いの生活・祈りの生活の重要さを疎んじるだろう。

「ローマから教皇様から全世界のために改悛への呼びかけがくると期待しないようにしましょう。その呼びかけが司教区の司教様がたから、あるいは修道会からくると期待しないようにしましょう。今は私たち一人一人が自分で自分の霊的改革を始めなければなりません。一人一人は自分の霊魂を救わなければならないばかりか、その道に天主様が置かれ給うたすべての霊魂をも救わなければなりません。」

"No esperemos que venga de Roma una llamada a la penitencia, de parte del Santo Padre, para todo el mundo: ni esperemos tampoco que venga de parte de los señores Obispos para cada una de sus diócesis: ni siquiera tampoco de parte de las Congregaciones Religiosas. No: ya nuestro Señor usó muchas veces de estos medios y el mundo no le ha hecho caso. Por eso, ahora, ahora que cada uno de nosotros comience por sí mismo su reforma espiritual: que tiene que salvar no sólo su alma, sino salvar a todas las almas que Dios ha puesto en su camino."

ファチマのシスター・ルチアは、既に1957年、教会の重大な危機を予知していた。



フエンテス神父とシスター・ルチアとの預言的インタビュー


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「昨年(1957年)12月26日に私がシスター・ルチアとした最後の会話についてあなたたちに告げることだけを私は望んでいます。私は彼女の修道院で彼女に会いました。彼女は非常に悲しんでおり、非常に青ざめそしてやつれていました。彼女は私にこう言いました。」

“Quiero contaros únicamente la última conversación que tuve con ella, que fue el 26 de diciembre del año pasado: La encontré en su convento muy triste, pálida y demacrada; y me dijo:


誰一人何の注意も払いませんでした

「神父様、聖母は、よい人も悪い人もだれもそのメッセージを重大視しないので悲しんでおられます。善人は彼らの道を続けていますが、しかし聖母のメッセージには何らの注意も払っていません。悪人は、彼らの上に実際に降りかかってくる天主の罰を見ずに、メッセージについては注意を払うことさえせずに、彼らの罪の生活を続けています。しかし、神父様、私を信じてください、天主は世界を罰しようとしておられます。そしてこの懲罰は恐るべき仕方で為されるでしょう。天からの懲罰は間近に迫っています。」

‘Padre, la Santísima Virgen está muy triste, porque nadie hace caso a Su Mensaje, ni los buenos ni los malos. Los buenos, porque prosiguen su camino de bondad; pero sin hacer caso a este Mensaje. Los malos, porque no viendo el castigo de Dios actualmente sobre ellos, a causa de sus pecados, prosiguen también su camino de maldad, sin hacer caso a este Mensaje. Pero, créame, Padre, Dios va a castigar al mundo, y lo va a castigar de una manera tremenda. El castigo del cielo es inminente.’”

秘密は明らかにされなかった

「神父様、1960年が来る前にどれだけの時間があるでしょうか?もし前もって世界が祈り償いをしないならば、それはすべての人にとって悲しいことでしょう、一人も喜ぶ人はいないでしょう。私はさらに詳しいことを言うことはできません。なぜなら、それはまだ秘密だからです。聖母マリア様の御旨によれば、ただ教皇様とファチマの司教様だけが、秘密を知ることをされています。しかし彼らは、影響を受けないように、それを知らないことを選びました。これは1960年まで秘密のままにとどまるであろう聖母のメッセージの第三の部分です。」

“¿Qué falta, Padre, para 1960; y qué sucederá entonces? Será una cosa muy triste para todos; y no una cosa alegre si antes el mundo no hace oración y penitencia. No puedo detallar más, ya que es aún secreto que, por voluntad de la Santísima Virgen, solamente pudieran saberlo tanto el Santo Padre como el señor Obispo de Fátima; pero que ambos no han querido saberlo para no influenciarse. Es la tercera parte del Mensaje de Nuestra Señora, que aún permanece secreto hasta esa fecha de 1960.”

天主の鞭、ロシア

「神父様、聖母マリア様は、私のいとこであるフランシスコとジャシンタ、そして私自身に、地上の多くの国々が(muchas naciones de la tierra)地の面から消え去るだろうと告げられたということを、皆に告げてください。聖母はもし私たちが前もってロシアの回心を勝ち取らないならば、あの哀れな国(ロシア)が世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具となるだろうと言われました。・・・」

“Dígales, Padre, que la Santísima Virgen, repetidas veces, tanto a mis primos Francisco y Jacinta, como a mí, nos dijo; Que muchas naciones de la tierra desaparecerán sobre la faz de la misma, que Rusia sería el instrumento del castigo del Cielo para todo el mundo, si antes no alcanzábamos la conversión de ese pobrecita Nación (...)”.

マリアとサタンとの間の「決定的な戦い」: 奉献された霊魂たちと司祭たちの堕落

シスター・ルチアはまた私にこう告げました。
「神父様、悪魔は聖母マリアに対して決定的な戦いを挑もうとしています。悪魔は天主を最も侮辱することが何か、また最も短期間にどうやったら最も多くの霊魂らを地獄に落とすことが出来るか知っています。だから悪魔は天主に捧げられた霊魂(=聖職者たちのこと)を勝ち取ろうと全てのことをしています。何故なら、こうすることによって悪魔は、指導者によって捨てられた信者らの霊魂たちが取り残され、いとも簡単に彼らを餌食にすることが出来るからです。」

Padre el demonio está librando una batalla decisiva con la Virgen; y como sabe qué es lo que más ofende a Dios y lo que, en menos tiempo, le hará ganar mayor número de almas, está tratando de ganar a las almas consagradas a Dios, ya que de esta manera también deja el campo de las almas al desamparo, y más fácilmente se apodera de ellas.


「聖母の汚れ無き御心とイエズスの聖心を悲しませることは、修道者、司祭の霊魂たちが堕落することです。悪魔は、自分の美しい召命の道から堕ちた修道者と司祭らが、多くの霊魂を地獄に引きずり下ろすことを知っています。・・・ 」

“Lo que aflige al Inmaculado Corazón de María y al (Sagrado) Corazón de Jesús es la caída de las almas religiosas y sacerdotales. El diablo sabe que los religiosos y sacerdotes que apostatan de su hermosa vocación arrastran numerosas almas al infierno.

「悪魔は、天主に捧げられた霊魂たちを奪いたいと望んでいます。悪魔は、彼らを腐敗させるように試みています。それは彼らが平信徒の霊魂たちを眠り込ませる子守歌を歌い、彼らが最終的に罪を痛悔しないように導くためです。悪魔は修道生活へ入ることを遅らせる暗示を与えるところまで行きさえして、あらゆる計略を採用します。このことから結果することは内的生活の不毛であり、そして平信徒の間では、諸々の快楽の断念や天主への全面的献身ということがらに関する冷淡さ(熱意の欠如)です。」

“El diablo quiere tomar posisión de las almas consagradas. El trata de corromperlas para adormecer las almas de los laicos y llevarlas así a la impenitencia final. El emplea todas las tretas, aún yendo tan lejos como sugerir la demora en el ingreso a la vida religiosa. Resultado de esto es la esterilidad de la vida interior, y entre los laicos frialdad en materia de renunciar a los placeres y su total dedicación a Dios”.

ジャシンタとフランシスコを聖化したこと

「また皆に告げてください、神父様、私のいとこのフランシスコとヤチンタは、聖母マリア様のすべての御出現において、彼らが常に聖母が非常に悲しんでおられるのを見たがゆえに、自己犠牲を行いました。聖母は私たちに決して微笑まれませんでした。私たちが聖母のうちに認めたこの悲しみ、この苦悩は私たちの霊魂を貫きました。この悲しみは天主に対する諸々の背きと罪人たちを脅かす罰によって引き起こされています。そしてそのように、私たち子どもたちは祈り、犠牲をするさまざまの方法を発明する以外に何を考えるべきか、知りませんでした。これらの子どもたちを聖化したもう一つの事柄は地獄の幻視を見ることでした。」

Dígales también, Padre, que mis primos Francisco y Jacinta se sacrificaron porque vieron siempre a la Santísima Virgen muy triste en todas sus apariciones. Nunca se sonrió con nosotros, y esa tristeza y angustia que notábamos en la Santísima Virgen, a causa de las ofensas a Dios y de los castigos que amenazaban a los pecadores, nos llegaban al alma. Lo segundo que santificó a los niños fue la visión del infierno.


ルシアの使命

「私の使命は、この世界が祈らず、償いを果たさなかったら必ず受けるであろう物質的な天罰について、この世界に指し示すことではありません。いいえ、違います。私の使命は全ての人々に、もし私たちがこのまま罪に頑なにとどまるなら、永遠に私たちの霊魂を失ってしまうというその身に迫る危険を指し示すことにあります。」

Por esto mismo Padre, no es mi misión indicarle al mundo los castigos materiales que ciertamente vendrán sobre al tierra si el mundo antes no hace oración y penitencia. No, mi misión es indicarle a todos lo inminente del peligro en que estamos de perder para siempre nuestra alma si seguimos aferrados al pecado.

回心の緊急性

シスター・ルチアは私にこうも言った。
「神父様、ローマから、教皇様の方から全世界のために改悛への呼びかけがくると期待しないようにしましょう。その呼びかけが司教区の司教様がたから、あるいは修道会からくると期待しないようにしましょう。今は私たち一人一人が自分で自分の霊的改革を始めなければなりません。一人一人は自分の霊魂を救わなければならないばかりか、その道に天主様が置かれ給うたすべての霊魂をも救わなければなりません。・・・」

Padre, no esperemos que venga de Roma una llamada a la penitencia, de parte del Santo Padre, para todo el mundo: ni esperemos tampoco que venga de parte de los señores Obispos para cada una de sus diócesis: ni siquiera tampoco de parte de las Congregaciones Religiosas. No: ya nuestro Señor usó muchas veces de estos medios y el mundo no le ha hecho caso. Por eso, ahora, ahora que cada uno de nosotros comience por sí mismo su reforma espiritual: que tiene que salvar no sólo su alma, sino salvar a todas las almas que Dios ha puesto en su camino.

「悪魔は私たちの気を散らせ、私たちから祈りに対する愛を取り去るために力の及ぶ限りあらゆることをします。私たちは一緒に救われるか、それとも一緒に地獄に落とされるか、でしょう。」


この世の最後の時

「神父様、聖母マリア様は、私たちが世の終わりの時にいると私に告げられませんでした。聖母はこのことを三つの理由で私に理解させてくださいました。」

Padre, la Santísima Virgen no me dijo que nos encontramos en los últimos tiempos del mundo, pero me lo dio a demostrar por tres motivos:


最終的な戦い

「第一の理由は、聖母が、悪魔は聖母マリアに対する一つの決定的な戦いに従事しようとしていると私に告げられたからです。そして決定的な戦いとは、そこで一方の側が勝利し、他方の側が敗北を喫する最終的な戦いです。また今からは、私たちはどちらかの側を選ばなければなりません。私たちは、天主の側に付くか、それとも悪魔の側に付くか、そのどちらかです。他のいかなる可能性もありません。」

– el primero porque me dijo que el demonio está librando una batalla decisiva con la Virgen, y una batalla decisiva es una batalla final, en donde se va a saber de qué partido es la victoria, de qué partido es la derrota. Así que ahora o somos de Dios o somos del demonio.

最後の救済策

「第二の理由は、聖母がいとこたち並びに私自身に、天主は世界に二つの最後の救済策をお与えになっていると言われたからです。これらの救済策とは、聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心に対する信心です。これらは他の救済策はないだろうということを意味する最後の二つの救済策です。」

– Lo segundo porque me dijo que dos eran los últimos remedios que Dios daba al mundo: el santo Rosario y la devoción al Inmaculado Corazón de María.


聖霊に反する罪

「第三の理由は、天主の摂理の御計画において、天主は、世界を懲罰しようとなさる前に、常に他のすべての救済策を使い尽くされるからです。ところで、天主が世界は何であれいかなる注意も払わないということを御覧になるとき、そのとき、私たちが不完全な話し方で言うように、天主は『ある虞』と共に私たちに救いの最後の手段、すなわち、御自分のいとも聖なる御母、を提供なさいます。それは『ある虞』と共にです。なぜなら、もしあなたがこの最後の手段を軽蔑し退けるならば、私たちはもはや天から許しを得ることはないでしょうから。なぜなら、私たちは福音書が聖霊に反する罪と呼ぶ一つの罪を犯したことになるでしょうから。この罪は完全な知識と同意をもって、天主が提供なさる救いを公然と拒絶することに存します。イエズス・キリストが非常に善なる御子であり、イエズスのいとも聖なる御母に背き御母を軽蔑することをお許しにならないということを思い起こしましょう。私たちは教会史の多くの世紀を通じて、われらの主イエズス・キリストが御自分の御母の栄誉をどのように常に守られたかを、御母の栄誉を攻撃した人々に下されてきた恐るべき罰によって証明された明白な証言を記録してきました。」

– Y tercero, porque siempre en los planos de la Divina Providencia, cuando Dios va a castigar al mundo, agota antes todos los demás medios, y cuando ha visto que el mundo no le ha hecho caso a ninguno de ellos, entonces, como si dijéramos a nuestro modo imperfecto de hablar, nos presenta con cierto temor el último medio de salvación, su Santísima Madre. Porque si despreciamos y rechazamos este último medio, ya no tendremos perdón del cielo, porque hemos cometido un pecado que, en el Evangelio suele llamarse pecado contra el Espíritu Santo: que consiste en rechazar abiertamente, con todo conocimiento y voluntad, la salvación que se presenta en las manos; y también porque nuestro Señor es muy buen hijo; y no permite que ofendamos y despreciemos a su Santísima Madre, teniendo como testimonio patente la historia de varios siglos de la Iglesia que con ejemplos terribles nos indica como Nuestro Señor siempre ha salido en defensa del honor de su Santísima Madre.”

祈りと犠牲、そして聖なるロザリオ

「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。
聖なるロザリオに関してシスター・ルチアはこう言いました。
「神父様、ご覧ください。私達の生きるこの最後のときに当たって聖母はロザリオを唱えることに新しい効果を与えてくださいました。たとえそれがどんなに難しくとも、この世的なあるいは、特に霊的な問題、私たち一人一人の個人的な生活上の問題、家族の問題、この世のすべての家族の問題、修道会の問題、民族の問題、国家の問題などなど私たちがこの聖なるロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。もう一度言います。それがどれほど困難であろうとも、私たちが聖なるロザリオの祈りによって解決し得ない問題はありません。ロザリオを唱えることによって私たちは自分を救い、聖化し、我らの主を慰め、多くの霊魂の救いを勝ち取るのです。ですから私たちのいとも聖なる母、マリア様の汚れ無き聖心への信心をもたなければなりません。そして聖母を仁慈・善良さ・赦しの座であると考え、天国への確かな門であると考えなければなりません。」

“Mire, Padre, la Santísima Virgen, estos últimos tiempos en que estamos viviendo, ha dado una nueva eficacia al rezo del Santo Rosario. De tal manero que ahora no hay problema, por más difícil que sea, sea temporal o sobre todo espiritual, que se refiera a la vida personal de cada uno de nosotros; o a la vida de nuestras familias sean familias del mundo o Comunidades Religiosas; o la vida de los pueblos y naciones; no hay problema, repito, por más difícil que sea, que no podamos resolver ahora con el rezo del Santo Rosario. Con el Santo Rosario nos salvaremos, nos santificaremos, consolaremos a Nuestro Señor y obtendremos la salvación de muchas almas. (Y finalmente consideremos), la devoción al Corazón Inmaculado de María, Santísima Madre, poniéndonosla como sede de la clemencia, de la bondad y el perdón; y como puerta segura para entrar al cielo.”

ファチマの太陽の奇跡

2017年05月31日 | ファチマ
「ファチマ:世界平和への唯一の道」からの抜粋

われわれは、おそらくこの奇跡について公正さを欠くとは非難ができない - 次のしかるべき理由のために! - 一人の報告者の証言をここで詳しく述べることにします。われわれはアヴェリーノ・デ・アルメイダの名前を挙げます。彼はリスボンの最大の「リベラルな」反カトリック的でフリーメーソンの日刊紙 O Seculo の編集主任でした。彼はこう書いています:

「馬車が混み合っており、そして数千人の人々がぬかるみの大地を横切って前進するのに十分な勇気を持たないために立ち止まっている道路から、われわれは巨大な群衆が雲から出て天頂にきらきら輝く太陽の方を振り向くのを見た。それは一枚の銀の円盤に似ていた。そして少しの不快さも伴わずにそれを凝視することができた。それは両眼を焼かなかった。それは人々を盲目にしなかった。われわれはそれが蝕を産み出したと言ってもよかったであろう。それからすさまじい叫びが鳴り響いた。そしてわれわれのすぐ側にいた群衆がこう叫ぶのを聞いた:『奇跡だ!奇跡だ!...不思議だ!...不思議だ!』その態度がわれわれを聖書の時代へと移ったかのような気にさせた人々、そしてものが言えないほどに驚き、むき出しの頭で、空の青さを凝視している人々の眩んだ目の前で、太陽は震動した。それはすべての宇宙的な諸法則からはずれて奇妙なそして突然の動きをした。農民たちの典型的な表現に従えば『太陽が踊った』...」注8)

反教会権力的なすべての新聞によって猛烈に攻撃されて、アヴェリーノ・デ・アルメイダは、14日後に、彼の評論雑誌 Ilustracao Portuguesa において彼の証言を繰り返しています。今回は、彼はその説明を巨大な狂喜した群衆の多数の写真でもって例証しました。彼の論攷の至る所で「私は...を見た...私は...を見た...私は...を見た」を一つの同じことの繰り返しとして繰り返しました。

そして彼はこう結論づけます。
「人々が叫んだように、奇跡なのか?専門家たちが言うように、自然現象なのか?今のところそのことは私にとってはどうでもいいことである。私はただ私が見たことを語っているにすぎない...その他のことは科学の、そして教会の問題である。」注9)

10月13日土曜日は、その前日の夜からずっと雨だったために償いの巡礼として始まりました。今や、「ほこりまみれの道路を激しい雨によってぬかるみの湿地へと変え、秋の甘美さを冬の身を切るような厳しさと、一日の間に置き換えるこの ほとんど突然の天候の変化は、彼らを動かすこと、あるいは彼らを断念させる、あるいは絶望させることに成功しなかった。」注10)

目撃についての多くの説明を比較することによって、われわれはすべての人によって見られた驚くべき現象のさまざまの局面とその結果とを区別することができます。諸々の現象の各々のためにそれら自体が一つの印象的な書物を構成するであろう諸々の目撃の十数ページを集めることができるでしょう。

目撃者の報告

ここにおびただしい数の信用し得る目撃者たちのうちの一人によって記述された最初の驚くべき事実があります:

「子どもたちがいた正確な場所で淡い、きれいなそして青みがかった雲の柱が立ったのは午後1時30分であったに違いありません。その柱は彼らの頭上おそらく2メートルほどまで拡がっており、そしてその高さで蒸気になっていました。完全に裸眼に見えるものであるこの現象は2,3秒の間続きました。それがどのくらい長く続いたか気をつけていませんでしたので、私はそれが1分間よりも長かったかそれとも短かったかを言うことはできません。その煙は突然散らされました。そしてしばらく後にそれは二度目に再び起こりました。それから三度目に...」

「低いそして重い空は非常に暗い色をしており、湿気を帯びていました。それは大量のそして長く続く雨を降らせました。御出現の時の間に雨はすっかり止みました。突然空が明るくなりました。太陽はその時までそれを隠している雲の厚い層を勝ち誇ったように突き破りました。そして強烈に輝きました。」(アルメイダ・ガレット博士)注11)

天候のこの急激な変化はすべての目撃者たちをあっと言わせました:

「その日は激しいそして連続的な雨の日でした。しかし奇跡の数秒前に雨は突然降り止みました。」(アルフレド・ダ・シルヴァ・サントス)

そして、太陽が目に害を与えることなしに直接見られるのを許す、説明不可能な太陽の銀色化に関するある物理学者、科学者からの以下の証言があります:

「突然私は数千人の人々がわめき叫ぶ声を聞きました。そして私は私の足下であの広大な場所に拡がっている大群衆が...その時まで彼らのすべての期待がそこへ集中させられていたあの場所に彼らの背を向けて、他方の側にある太陽を見ていました...私もまた、彼らに見ることを要求している地点の方へ向きを変えました。そして私は太陽を見ることができたのです。それはその鋭い縁をもった非常に透明な円盤のようでした。それは視覚を損なうことなしに輝いていました...それは霧を通して見た太陽(その瞬間には霧は出ていませんでした)と混同されることはあり得ませんでした。なぜなら、それはヴェールをかけられたのでもなく、またぼやけてもいなかったからです。ファチマではそれはその光と熱とを保ち、そして一つの大きなゲーム用のテーブルのように、鋭い縁をもって、空にくっきりとかかっていました。最も驚くべきことは、目を害することなしに、あるいは網膜に傷を与えることなしに、光と熱をもって輝いている太陽の円盤を長時間凝視することができることでした。」(アルメイダ・ガレット博士)注12)。

O Seculo の編集主任による以下の証言も同じ調子です:

「そしてそれからわれわれは、もしあなたがそれを目撃していなかったならば信じることができない、一つの類のない大仕掛けな見せ物、途方もない見せ物を目撃しました。道路の上の方から...われわれは巨大な群衆が太陽の方へ向きを変えるのを見ます。太陽は雲から出て天頂に現れました。それは鈍い銀色の平皿のように見えました。そして全然不快感なしにそれを凝視することができました。私は両眼を焼くことはありませんでした。私は盲目になりませんでした。」(1917年10月15日の論攷)

そして同様に:「人々は、われわれが月を注視するのと同じように、太陽を注視することができました。」(マリア・ド・カルモ)注13)

人は、ある反教権的な新聞の世俗的な編集主任によってさえ目撃された次のような太陽現象についての証言を果てしなく増やすことができるでしょう。以下のものをよく考えてみてください:

「それは揺れ動き、そして震えました。それは火の車のように見えました。」(マリア・ダ・カペリーニャ)注14)

「太陽は虹のすべての色を帯びながら、火の車のように回転しました。」(マリア・ド・カルモ)注15)

「それはそれ自体回転している雪の球のように見えました。」(ロウレンソ神父)注16)

「真珠のような円盤はめまぐるしい動きをしていました。これは一つの星がそのすべての輝きにおいてきらきら光っているようなものではありませんでした。それは猛烈な速さでそれ自身が回転していました。」(アルメイダ・ガレット博士)注17)

「ある瞬間に太陽は止まりました。そしてそれから再び踊り始め、回転し始めました。それは再び止まりました。そして再び踊り始めました。」(ティ・マルト)注18)

「太陽は虹のすべての色を帯びました。あらゆる事物:すなわち、われわれの顔、われわれの衣服、大地自身がそれらの同じ色彩を帯びました。」(マリア・ド・カルモ)注19)

「その色が一つの瞬間から次の瞬間へと変化した一つの光は人々と諸々の事物に反射していました。」(ペレイラ・ゲンス博士)注20)

次に起こったことは奇跡の最も恐ろしい局面を、そしてその中で人間が空からの火でもって全世界を破壊する能力を完成したわれわれの時代に対する重大な影響をもった局面を構成しています:太陽は空から離れて大地に向かって突っ込んで来るように見えました。

「われわれは突然、あの群衆全体の苦痛の叫びのような、一つの大きな叫び声を聞きました。事実、太陽はその回転の急速な運動を保ちながら、それ自身を天空から解放し、そして血のように赤くなって、その燃えさかるかたまりでもってわれわれを押し潰そうと威嚇しながら、大地の方へ突っ込んで来るように見えました。それは恐ろしい数秒間でした。」(アルメイダ・ガレット博士)注21)

「私は太陽が回転するのを見ました。そしてそれは降りて来るように見えました。それは自転車の車輪のようでした。」(ジョン・カレイラ)注22)

「太陽は踊り始めました。そしてある瞬間にそれは天空から離れて、火の車のように、われわれに向かって突進してくるように見えました。」(アルフレド・ダ・シルヴァ・サントス)注23)

「私はそれがあたかも地上に激突しに来たかのごとく完全に降りて来るのを見ました。それは空から離れ、われわれの方へ向かって突進してくるように見えました。それはわれわれの頭上で短い距離を保っていました。しかしその種の攻撃の持続時間は非常に短いものでした...それは人々の非常に近くに見えました。そしてそれは反対の方向へと変化し続けました。」(マリア・ド・カルモ)注24)

「突然、太陽はその円周がはっきりした形で現れました。それはあたかも雲の高さまで降りるかのように降りて来ました。そして一つの閉じ込められた火の球のようにめまぐるしく旋回し始めました。何回か中断しながら、この旋回は8分間ほど続きました。」(ペレイラ・ダ・シルヴァ神父)注25)

「それは突然、大地を脅しながら、ジグザグに降りて来るように見えました。」(ロウレンソ神父)注26)

「われわれの上に落ちて来る太陽を見ながら...」(ジョン・ゴメス神父)注27)

「最後に、太陽は止まりました。そして誰もが助かった安堵の吐息をもらしました...」(マリア・ダ・カペリーニャ)注28)

「あの数千人の人々の口から私は喜びの叫び声といとも聖なるおとめ[マリア]への愛の叫び声を聞きました。そしてそれから私は信じました。私は暗示の犠牲者ではなかったことについて確信を持ちました。私は再び見ないであろうような太陽を見たのです。」(マリオ・ゴディーニョ、エンジニア)注29)

もう一つの驚くべき事実:その大部分が徹底的にびしょぬれであったあのすべての人々が、自分たちが乾いているということを喜びと驚きをもって事実であることを証明したのです。その事実は、最終的に2000年5月13日に列福されたヤシンタとフランシスコのための教会法上の訴訟手続きにおいて確証されています。

「人がそれをまったく期待していなかったであろうその瞬間にわれわれの衣服は完全に乾いていました。」(マリア・ド・カルモ)注30)

「私の衣服は一瞬のうちに乾きました。」(ジョン・カレイラ)注31)

アカデミー会員、マルケス・ダ・クルスは次のように証言しました:

「この巨大な群衆はびしょぬれでした。なぜなら、明け方から雨が止むことなく降っていたからです。しかし - このことは信じられないことと見えるかも知れませんが - 大きな奇跡の後には、誰もが心地よいと感じました。そして彼の衣服がまったく乾いていることを見出しました。これは大多数の人に共通する不思議の主題です...この事実の真理は、私が子どもの時から知っており、そして今も生存している(1937年)絶対的に信用のおける何十人もの人々によって、同様にまたこの国のさまざまの地域出身のまだ現存している人々によっても、最大の誠実さをもって保証されてきました。」注32)

そして最後に、また多くの人々の回心という道徳的な奇跡もありました。『目撃者たちに会う』(Meet the Witnesses)という彼の書物の中でジョン・ハッファートはこう書いています:


「山岳兵連隊の将校はその日 - 群衆の集合を中止させる命令を受けていた - 直ちに回心しました。明らかに、彼らの証言が示すであろうように、多くの他の不信仰者たちもそうでした。」注33)

「一人の普通の女の子を見るためにファチマに出かけた『ばか者たち』を嘲りながらその朝を過ごした一人の不信仰者がそこにいました。彼は今麻痺したように見えました。彼の目は太陽に釘づけになりました。彼は頭から足まで震え始めました。そして両腕を上げながら、神に叫び声をあげて泥の中に跪きました。」(ロウレンソ神父)注34)

「私はファチマから18マイル離れた所に住んでいます。そして1917年の5月にわれわれは驚くべき御出現について話を聞きました。しかしそのニュースは人々の幻想と混ぜ合わされてわれわれのところに届きました。当然私は信じませんでした。私はそれは単に誰かある者の想像の産物であると心から思いました...私の母の要求で、私は8月の御出現の時にコヴァ・ダ・イリアに一度行きました。もう一度、私は落胆させられ、そして失望させられて帰って来ました。しかしそのとき何か驚くべきある事が起こりました。長年の間その片一方の目に大きな腫瘍を持っていた私の母が癒されたのです。彼女を診ていた医師たちはそのような治癒を自分たちは説明することができないと言いました。それでもなお私は御出現を信じませんでした。最後に、そして再び母の要求で私は10月13日にもう一度コヴァ・ダ・イリアに行きました...私の母に起こったことにもかかわらず、私は失望させられ、そして御出現を信じませんでした。それで私は車の中に坐っていました。その時突然、私は誰もが空を見るのに気づきました。自然的な好奇心が私の注意を惹きました。そして車から出て、私も空を見ました...数万人の人々の口から私は信仰と祝せられたおとめ[マリア]への愛の言葉を聞きました。そしてそれから私は信じました。」(マリオ・ゴディーニョ、エンジニア)注35)

治癒と回心の他の多くの例は、他の箇所にもありますが、以下の書物の中に記録されています:Documentacao Critica de Fatima および Fatima from the Beginning 注36)

奇跡はその場の「集団ヒステリー」の産物であったと言うであろう人々に対しては、神御自身が一つの用意のできた反駁を手配なさいました:すなわち、その現象はファチマで何が起こっていたかを彼らに知らせる人を周りに誰も持っていなかった25マイルも離れた個々の人たちによってさえ見られたのです。コヴァ・ダ・イリアから非常に遠く離れた所にいた完全に信用のできる目撃者たちが、おとめ[マリア]の御出現になったトキワガシの木の周りに集まった7万人の巡礼者たちと正確に同じように、太陽のダンスという先例のない見せ物を見たと話しました。注37)

ファチマからおよそ10マイルの所に位置するアルブリテルの小さな村では、全村あげてその太陽の驚異の光景を楽しむことができました。しばしば引用された証言はイナシオ・ロウレンソ神父の証言です。というのは、それは最も詳細なものだからです。しかし、彼が見たと語っていることは、調査者たちによって質問されたすべての村民が正確に同じ仕方で見たと確証しました。

その出来事の目撃者たちは実際数え切れないくらいおおぜいでした。彼らの証言は一致しています。そしてわれわれは彼らがわれわれに残した文書の洪水に襲われます。注38)

まず第一に、数多くの説明が一度にポルトガルの新聞に現れました。最初に証言を提供した人々が反教権的な報告者たちであったということは注目すべきことです。アヴェリーノ・アルメイダの三つの論攷 - その出来事の直前の10月13日の論攷、13日の夕方に Vila Nova de Ourem で編集された10月15日の他の論攷、そして10月29日の第三の論攷 - は特別の注目に値します。部分的に最初の論攷に霊感を与えているひやかしの論調とヴォルテール式の皮肉にもかかわらず、15日の論攷においてなお現れている予期された反教権的な論調にもかかわらず、一人の才能を持ったレポーター - 彼はその上誠実で良心的です - から出ているこれらのテキストは第一級の重要性を持った歴史的文書です。しかし彼は諸事実を語る唯一の人物ではありませんでした。なぜなら、他のレポーターたちがコヴァ・ダ・イリアにはいたからです。

次に、諸々の公式的な調査がありました。1917年11月に、当時リスボンの司教区を指導していたリマ・ヴィダルの司教の要求で、ファチマの小教区司祭が調査を行い、小教区の何人かの目撃者たちに質問をしました。不幸なことに、彼はただ四例の証言録取書だけ書き写しました!

歴史家たちの諸々の調査が幸いなことに公式的な調査者たちの不注意を埋め合わせました。フォルミガオ神父 - 彼はコインブラ大学理学部教授ホセ・マリア・デ・アルメイダ博士から非常に詳しい説明を得ました - の報告はわれわれが所有している最も科学的な報告です。注40)その上に、われわれはダ・フォンセカ神父の諸々の報告を持っています。(彼の仕事は証拠を検討することを拒否したダニス神父注41)によって反論された諸点の正しいことを立証するためになされました)われわれはデ・マルキ神父、カノン・バルタス、ディアス・コエリョ神父そしてリチャード神父の報告を持っています。

1977年には、最後の御出現の60周年記念日を祝うために、ファチマに太陽の奇跡に立ち会い、そしてかれらの記憶をはっきり述べることができる30人以上の人々を集めることがまだ可能でした。これらの多くの証言のおかげで、確かに世界の歴史の中でも最も重要な日の一つである、この決定的な日を時間毎に、分毎にわれわれに体験することを許す一つの正確な実況放送を再構成することができるのです。実際、1917年10月13日の太陽の奇跡の証拠は非常に圧倒的でしたので、1952年にハリウッドでさえファチマの聖母の奇跡 The Miracle of Our Lady of Fatima という題名の古典的な映画 - これは今日でもビデオで利用可能です - を公開することによってその真正性を保証したほどです。

疑いを超えて

なぜこの日はそのように重要なのでしょうか?それは神の御母からの天のメッセージがいかなる筋の通った疑いをも超えて真だと証明された日だからです。このメッセージは90年後に、われわれにそこから抜け出す唯一の実現可能な道を提供しながら、人類の歴史におけるまさにこの瞬間に教会と世界の危機的な状況の中心に立っています。

註:
(8)   O Seculo of October 15, 1917. 
(9) Article of October 29, 1917. See also Frère François deMarie des Anges,  Fatima: The Astonishing Truth , p. 164. 
(10)    Ilustração Portuguesa , October 29,1917. 
(11)    Fatima: The Astonishing Truth , pp. 171-172. 
(12) Ibid., pp. 172-173. 
(13) Ibid., p. 173. 
(14)   The Whole Truth About Fatima - Volume I, p. 337. 
(15)    Fatima: The Astonishing Truth , p. 178. 
(16) Ibid. 
(17) Ibid. 
(18) Ibid. 
(19) Ibid. 
(20) Ibid. 
(21) Ibid. 
(22) Ibid. 
(23) Ibid., pp. 178-179. 
(24) Ibid., p.179. 
(25) The Whole Truth About Fatima - Volume I, p. 337. 
(26) Ibid., p. 339. 
(27) Ibid., p. 340. 
(28)  Ibid. 
(29)  Fatima: The Astonishing Truth , p. 179. 
(30) Ibid. 
(31) Ibid. There is also this fact about thatmiracle which is the most surprising. The quantity of energy necessary to accomplish the drying out of the ground and the clothes in such a rapid manner would have been so great that all persons presentthere would have been incinerated. Given that this aspect of the miracle radically contradicts the law of nature, no devil could have performed this miracle. 
(32) The Whole Truth About Fatima - Volume I, p.340. See also Father John de Marchi, I.M.C.,  Fatima from the Beginning  ,
(Missões Consolata, Fatima,Portugal, 1981, third edition, rst published in 1950) p. 141; and Joseph A. Pelletier, A.A., The Sun Danced at Fatima ,
(Doubleday, New York, 1983) pp. 129-130. 
(33) John M. Haffert, Meet theWitnesses ,
(AMI International Press, Fatima, Portugal, 1961) p. 62. This book was published with anImprimatur from the Bishop of Leiria, Portugal and provides us with credible direct testimonies of numerous witnesses to the Miracle of the Sun. 
(34) Ibid., p. 65. 
(35) Ibid., pp. 86-89. 
(36)  DocumentaçãoCrítica de Fátima , Volume II,
(Santuário de Fátima, 1999) 17 cases documented on pp. 277-372; andFather John de Marchi, I.M.C.,  Fatima from the Beginning  . 
(37) Father John de Marchi, I.M.C.,  Fatima from the Beginning  , p. 136. See also  Documentação Crítica de Fátima, Volume I,
(Santuário de Fátima,1992) p. 408. See also The Whole Truth About Fatima - Volume I, pp. 330-331.   
(38) Among the manyreference works, see: The Whole Truth About Fatima - Volume I; John M. Haffert, Meet the Witnesses ;Father John de Marchi, I.M.C.,  Fatima from the Beginning  , pp. 135-142. 
(39) We find the photographic reproduction of those three articles in Fatima 50 of October 13, 1967, pp. 6-10; 14-15. 
(40)    Novos Documentos de Fatima , Loyola editions, Sao Paulo, 1984, pp. 60-63. 
(41) The modernist Jesuit priest,Father Dhanis, would later attempt to “debunk” the vision of hell and the prophetic elements of theMessage, including the consecration and ultimate conversion of Russia. Father Dhanis refused theinvitation of Sister Lucy herself to come to Fatima and study the Fatima archives. Father Dhanis willeventually be cited as an “authority” on Fatima by key members of the Vatican apparatus in their attempt to revise the Message of Fatima according to a “commentary” published on June 26, 2000. 

Only Way to World Peace by The Fatima Center on Scribd

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