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フリーメイソンはルシファー教なのです【3】回心の経緯|元フリーメイソンでカトリックに回心したセルジュさんの証言

2021年06月21日 | カトリック
元フリーメイソン、カトリックに回心したSerge Abad Gallardo(セルジュ アバド・ガラルド)
「フリーメイソンはルシファー教なのです」

Reinformation.tv https://www.youtube.com/watch?v=kCZQnT_6sLE

記録映画
編集長 Armel Joubert des Ouches
音楽 Stephan Cayre
ミキシング Cali Schmidt


続き)
「フリーメイソンを辞めた理由」

セルジュ「これはね、いろいろ経緯がありました。
その時、車を運転していました。ある会議から帰る道でした。渋滞がありました。で、ラジオをつけてみたら自動検索モードでした。で、カトリックの地域ラジオ、RCF Pays d’Audeに当たります。で、全国のカトリックラジオと同じように、毎日、午後3時30分から、ルルドのロザリオが放送されていました。つまり、その時、私はロザリオの生中継に当たりました。たまたま。ロザリオと言う祈りを聞いたことは一度もありませんでした。ロザリオの存在ですら知りませんでした。

その時の記憶、その時に感じたことを表現するために、このたとえにしましょう。つまり、生まれながら耳が聞こえない人はいきなり奇跡的にも聴覚が復活して耳が聞こえるようになるうえに、モーツァルトのレクイエムを聞かせるような経験でした。本当にこの上なく綺麗なものでした。その綺麗さを表現しようとも言葉に絶するような素晴らしいことでした。



ロザリオを聞いて、私の心が刺されて絶えまなく感動していました。そのあと、子供時代の時、初聖体拝領の際にもらったロザリオを何とか見つけたほどに感動していました。家のどこかの引き出しで落としていたような感じでした。このロザリオは家にまだあったということもたまたまではありませんでした。というのも、昔から私は何度もこのロザリオを手放そうとしたのに、どうしても私の手に戻ってしまったわけです。主はやはりこのロザリオを手放さないようにお望みでした。私はこのロザリオをカトリックの友人に何回もあげたのに、毎回返されてしまったのです。

で、この経験のあと、ロザリオの祈りを習い、ロザリオを祈り始めました。そして、ついにルルドへ参りました。ルルドの洞窟に行って(注・1858年、聖母マリアが出現した場所。有名な巡礼地)、聖母マリアの御像の前にロザリオを祈っていました。
そして、祈りが終わったら、帰ろうと思って、手荷物を片づけました。で、出発しようとした瞬間、私はドンッと地面に倒れました。なんか、私の足は麻痺していたかのように倒れたのです。私の足は亡くなったかのような感じでした。周りの人々は私の転倒を見て近づいてきました。

その時の私の状態はまず仰天で、茫然自失していました。その上、やはり怖い気持ちもありました。「これはなんだ。どうしているのか」という恐れもありました。なんか、いきなり理由もなくこのように地面に倒れたら、心配に値しますね。そして、前にある聖母像を眺めました。その時、聖母マリアの出現はありませんでしたが、聖母像は妙に光っていました。その時、何が起きているかなんて私は何もわからなかったのです。途方にくれました。そして、周りの人々は私が起こすように助けてくれながら、「あらあら、膝の障害で奇跡を乞いに来たのか」といわんばかりの多くのコメント。その時、私は頭の中で、彼等を罵倒したかったのです。「ほら、毎週10キロを二回走っているし、いつも元気いっぱいで健康だったから、もう。。。」という思いで。。。やはり不思議でした。



しばらくしたら、どのぐらいの時間だったか、なんとも言えないのですが、ある程度長かったと思いますが、周りの人々はいよいよ私を持ち上げて起こしました。というのも、周りの人々は私を起こそうとしても、私の足は持てなくて立てなかったのですよ。一旦、持ち上げられても足は麻痺しているかのように、もう一度倒れたりしていました。
で、しばらくしたら、ようやく足は戻って、帰りました。私のヴェストが裂けていていたので、ホテルに帰ってヴェストなどを見た家内が心配していました。「どうしたの」といわれて、私は恥ずかしくて実際に何があったかを言えなかったのです。なんか「滑って倒れた」というような言葉で逃げました。

私はやはり心配していて、医者を訪問しました。いわゆる、検査してもらうために健診を受けました。私はいきなり理由なし倒れたことを医者に報告していました。もちろん、ルルドなどの話はしませんでした。というのも、私は狂気でもあるかと疑われることは怖かったし。で、私は深刻な癌でも、多発性硬化症でも何か重病にかかっているのではないかと医者に私の疑問を聞かせました。で、検査の結果、問題なし。。。

で、検査の結果が報告されたら、私は医者に転倒の事情をより詳しく報告しました。ルルドでいきなり倒れたと。医者は「いや、なんだろう?健康上の問題はないし」と答えて。で、私は怖かったその言葉を言いました。「もしかしたら、私は精神錯乱でも心理的な問題がある可能性が?」と私は医者に聞きました。で、医者は「セルジュ、10年前から私はあなたのかかりつけ医でしょう。もう、精神的にも心理的にもあなたは問題なく安定ですので、それはないと思います。精神病も神経症もあなたにないと見ています」と答えられました。

その結果、私は結論しました。もう、これは病気とか身体とかの問題ではなくて、やはり超自然の問題だったと認めざるを得ませんでした。ですから、そのあと、神父の助けを求めにいきました。
一番不思議なのは、以上の経験は身体上の経験にとどまらなかったのです。同時に、説明しづらいですが、ある種の「当たり前」の気持ちが私の心に溢れました。つまりキリストと聖母マリアの私への愛がいっぱいであるという事実を「当たり前だ」という気持ちが溢れて不思議にも強くその気持ちを抱いていました。

この愛は両側だったというか、つまり、私の方で聖母マリアとキリストを初めて愛しました。初恋のような気持ちで、15歳になって初めて恋するという激動の愛。そして、同時に聖母マリアとキリスト側の私への愛は幾倍も大きくて、私は凄く愛されていることを感じました。で、何よりも聖母マリアとキリストの愛は私のためにあったという不思議な気持ち。

その結果、どこかの修道院で黙想会に参加することにしました。Lagrasseの修道院で、一週間を過ごすことになりました。本当に私にとって不思議なことでした。修道院の門を潜って、私のために用意された小室に入ったら、壁に十字架上のキリストがありました。で、それを見て泣き出しました。私は泣かない人です。というのも、私の先祖がアンダルーサ出身で、アンダルーサの人々の誇りは非常に高いわけですよ。ですから、「男なら泣かないのだ」と子供の時から父から教え込まれていた者だから、私は泣かない者です。しかしながら、十字架上のキリストを見て、生まれてから初めて、涙のかれるまで泣きましたよ。

このように、信仰に戻った経緯をちょっと語りましたが、もちろん、経緯はその他にもいろいろありました。
要は、いろいろのことがあって、「わかった」ということです。フリーメイソンの神、フリーメイソン的な自然主義的な神は概念、観念に過ぎないことをいよいよわかったわけです。フリーメイソンの神は理念上の観念に過ぎないのです。一方、天主は実在します。本物の神、カトリックの神である天主はまさに実在するということを初めて知りました。で、実際に天主は我々を愛し給うのです。

で、認識しました。私の理性の力で理解したのではなくてね、天主の恩寵の働きと助けのおかげで分かったのです。
結局、単純で簡単なことです。フリーメイソンのいわゆる「光」はたとえてみると電球の光にすぎません。いわゆる、その上なく輝かしい太陽、核兵器の爆発を越えるキリストの愛に比べて、似非光である電球。

ですから、はいそうですね。私は直されたのです。癒されたのです。回復せられたのです。一旦、救われたでしょう。もちろん、この世では最期まで救いを決定的に獲得することはないのです。天主は単純にわれわれを呼び求めておられます。そして、その呼びかけに答えるかどうかは我々の自由意志です。いわゆる、街を歩いて出会う乞食のようなものでしょう。つまり、良き心の人が乞食に一札をあげるとしましょう。我々は乞食であるとして、手を握っているままで一札を貰わないことにしたら、この一札を得ることはできません。天主は私たちに対してこのようなやり方で接触しておられます。かつてまで、私は手を握っているままでしたが、もう今、手を開いて天主の賜物を頂こうとしています。

それ以来、説明できない、言葉に絶する愛を経験しているわけです。この「説明できない」という部分を取ったら、フリーメイソンの秘密との類似性があります。しかしながら、この類似性はあくまでも形式的な類似性にすぎません。中身は全然違います。というのも、フリーメイソン会員は自分の秘密を追求していることを信じています。ただし、フリーメイソンは精神療法ではないわけです。フリーメイソンは曖昧にして「真理」をいつまでも追及しています。「自分の真理」を追究しています。しかしながら、結局、追究した結果、自分自身のみがあります。自分自身にぶつかるのです。しかしながら、キリストなしの自分自身は非常に貧しい者で、愚かな者に過ぎないわけです。」

取材者 「今日になって、引き返せるとしても、絶対に引き返さないことにするでしょうか?」

セルジュ「絶対に引き返したくないのです。物質的に、回心する前の日常と今の日常を交替できたとしても絶対にしません。というのも、回心する前の生活標準は物質的に言うと、今よりはるかに豊かでした。もちろん、今、地味でも貧乏になったわけではないのですが。言いたいのは、回心したおかげで得られたキリストの内に信仰を失うことを意味したら、絶対に嫌です。決して手放したくないのです。キリストから距離を取って豊かになるよりも、イエズス・キリストの愛のうちに乞食になった方が絶対にいいと思って覚悟しています。

どちらかというと、私にとってこのような問いすら成り立たないのです。当然になによりもまずキリストです。他のすべては二次的です。世間と天主があります。マモン(お金)と天主があります。私は決定的に天主を選びました。この選択は絶対に変えられないように毎日、祈っています。私から見ると、この選択は不可逆だと思います。そして、キリストから見ると、天主は人間と違ってこの上なく誠実なので、私を見捨てることはいつまでもないことを確信しています。

天主はいつもおられます。いつも傍におられます。このように元気に見えるでしょうけど、回心してからかなり大変なことがあって、ひどい目にも合っているけど、イエズス・キリストのお陰で乗り越えられます。私が倒れてもイエズス・キリストは私を持ち上げ給うのです。そして、聖母マリアもおられます。表現しづらいことです。説明するのは難しいです。しかしながら、これは毎日生きている現実です。殆ど感知できる現実です。
まあ、この動画を見るフリーメイソン会員は私の話を聞いておそらく疑いを表すでしょう。

そのような方に二つのご提案があります。最近に出た書籍を読むことをお勧めします。私の本ではないですよ。自分の本の広告はしない者ですからね(笑)。Sarah枢機卿がお書きになった書籍で、「沈黙の力」と題されています。素晴らしい本です。そして、この本を読んだ上に、一回ぐらい、御聖体のみ前に礼拝するようにお勧めします。それでもフリーメイソンを捨てなくて回心しないのなら、もう、彼等は心を閉ざすことにしているということです。それなら、仕方がありません。乞食が手を握っているままと一緒です。」

取材者「御証言、真にありがとうございました」

セルジュ「こちらこそ、ありがとうございます。」 終


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