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詩編50番:ミゼレレ・メイ・デウス(天主よ私を憐み給え!)

2021年04月25日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

天主よ、私を憐み給え!Miserere mei Deus

ビルコックBillecocq神父様の説教
2021年3月7日・四旬節の第三の主日
「天主よ、私を憐み給え!Miserere mei Deus」
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、四旬節の間、毎日の聖務日課において、詩編50番の「天主よ、私を憐み給え!Miserere mei Deus」を唱えるようにカトリック教会は用意してくださいました。

詩編50番はこの上なく改悛の詩編です。また望徳に満ちて罪を償う重要な詩編です。
ちなみに、この詩編の番号は「50」となるのもたまたまではありません。というのも、旧約聖書では、天主の命令に従い、50年おきに「大赦の年」がありました。ですから、詩編50番は罪人の望徳を語り、罪人が犯した罪の赦しと聖寵の取り戻しへの望徳を表します。

この詩編はダヴィド王によって作成されました。深刻な罪を犯した際にこの詩編を作りました。いや、厳密に言うと一つの罪ではなく、いくつかの罪を犯したときにダヴィド王がこの詩編を作りました。



ご存じのようにダヴィド王はエルサレム王国を統治するようになって、国の安泰を確保するために、王国のあちこちの拠点を強化して王座を固めるためにイスラエル民の敵と戦っていきます。そして、ある日、軍は敵の都市を包囲していたのですが、ダヴィド王は首都エルサレムに残っていました。そして、ある夜、たまたま眠ることができなくて、屋上に出ました。そして、隣にあった家の屋上に入浴しかける美女が見えました。その時点でダヴィド王の悪い視線はすでに色欲に満ちていました。最初の大罪です。視線による大罪です。



続いて、不潔な欲望を満たそうとする意志の大罪を犯しました。

残念ながら、不潔な欲望を行為に移して不倫を犯しました。三番目の大罪となります。ダヴィド王は連続に三つの大罪を犯したということになります。

それだけでは終わりませんでした。不倫を犯してから、ダヴィド王はこの女性に関する情報を調べて、一人の士官と結婚していることが判明しました。夫は敵の都市の包囲の中で戦って首都にはいませんでした。不倫を隠すため、ダヴィド王は何とかして士官を首都に呼び戻して夫が妻と一緒に寝させたいところです。しかしながら、士官はその呼び戻しを拒否します。軍人なので国王の寵愛を得て戦わないことは論外ですが、仲間たちが戦っている間、自分だけが家に帰って戦えないことが耐えられなかったのです。しかしながら、国王の命令に従わないわけにもいかなかったので、結局、首都に帰りながらも、自分の家には入らず玄関の前に寝ることにしました。要するにある種の苦行というか、とにかく妻と会わないことにします。

ダヴィド王はあらゆる方便を尽くして、士官は妻と寝るようにさせようとします。ダヴィド王は士官に酒を飲ませて酔っ払わせることまでやります。つまり、さらに士官を騙して飲ませる罪を犯しました。

しかしながら、それでも策略は失敗して、士官はダヴィド王の思い通りに妻と会わないままに終わります。ダヴィド王はどうしようもなかったのです。そして、士官は前線に戻る時が来たら、ダヴィド王が現地の司令官宛の書簡を士官に預かってもらい、ヨアブと呼ばれる司令官ですが、司令官に渡すように命令します。

士官の名前はウリアといいますが、渡した指示の中身は恐ろしいものでした。つまり、ダヴィド王は司令官に次のように命じました。「無謀の攻撃を命令し、使者の士官を戦いの一番危ない場所で戦わせるように」という指示です。つまり、ダヴィド王は戦場でウリアという士官を死なせようとしています。そして、ダヴィド王の思い通りにウリアは死にました。ウリアは手紙の中身がわからないまま、司令官に渡し、司令官は無謀な危ない攻撃を命令して、その前線にウリアを置いたのです。そして、ウリアは戦死しました。

これはダヴィド王の五つ目の罪となります。殺人です。ご覧のように、ダヴィド王は連続で大罪を犯し続けます。不潔の視線、不潔な欲望を満たす意志、不倫、詐欺、殺人。聖なるダヴィド王の話ですよ。聖徳に満ちたダヴィド王ですよ。

そのあと、天主はナタンという預言者を出現させたまい、ダヴィド王の下に派遣したもうたのです。そして、ナタンはダヴィド王に謁見され、ある話をします。ご存じのように、よき天主はよくたとえ話を通じて教えを垂れ給いますね。旧約聖書においてもよくありました。


このようにナタンは二人の人についての話をします。一人は貧乏人であり、もう一人は金持ちです。金持ちの者は多くの家畜の持ち主です。貧乏人は子ヤギ一頭しか持たないのです。貧しいですから。貧乏人はこの子ヤギを非常に可愛がっています。彼の唯一なる財産だからです。そしてある日、一人の外国人が訪れたのです。金持ちの家を訪れて一泊のおもてなしを願います。(旧約聖書において、外国人、旅人をもてなすことは最低限の常識でほぼ慣習的に義務化されていました)そうすると、金持ちは貧乏人の子ヤギを奪って、外国人に御馳走させます。

以上の話を聞いたダヴィド王は憤怒しました。「この金持ちの人とはだれなのか?私が彼を罰するから」とナタンに聞き出します。そしてナタンは答えます。「この金持ちの人はあなたです」と。要は、「ダヴィド王よ、あなたエルサレム王国の国王であり、強く大勢の軍隊を持つ者よ、自分の欲望を満たすためにある人の唯一なる妻を奪ったのではないでしょうか。」とナタンが言わんばかりです。

そのとき、ダヴィド王の反応は自慢あるいは傲慢ぶりの要素はほとんどありませんでした。ダヴィドはむしろ謙遜になって頭を下げました。平伏して「主の前に罪を犯した」と認めました。そのあと、詩編50を作成しました。ぜひともこの詩編を読んで、四旬節の間、何度も読み直すように推奨します。この詩編は、現代の我々にとっても、改悛するための模範となります。

この詩編においてダヴィド王はまず、天主の御憐みを平伏して希います。ダヴィド王は自分が犯した罪を認めて、罪の深刻さを理解して痛感します。どれほど罪のせいで不正、不義を犯したか、天主を侮辱したかをダヴィド王は深く感じて自覚して理解しました。

一般的に思われていることと違って、罪は単なる個人的な問題ではないのです。個人にかかわる問題だけではありません。何らかの形で、罪は必ず周辺へ広がり、社会と共通善への弊害を及ぼします。ダヴィド王の犯した罪の場合はかなり自明ですが。

ダヴィド王は最初、天主のみ前に犯した罪を明かしてこれを認めます。「我はなんぢにむかひて獨なんぢに罪ををかし聖前にあしきことを行へり」Tibi soli peccavi domine。「あなたに向かってあなたに対してのみ罪を犯した」。ダヴィド王は自分が犯した罪を認めます。明かします。

いと愛する兄弟の皆様、四旬節の間、我々が覚悟すべき第一の心構えです。自分が犯した罪を認めて明かすことです。つまり、我々は罪人であることを自覚することですが、それだけではなく、具体的に犯した罪を認めることです。罪は天主に対して犯すものです。かならず。というのも、罪は天主を侮辱するからです。「主よ、あなたに向かってあなたに対してのみ罪を犯した」。

過失を自白するお陰でこそ、ダヴィド王は天主の赦しを希うことは可能となります。ダヴィド王は「私は罪人だから、天主の御赦しを願い」とは言わないのですよ。「罪を犯した」と自白します。つまり、具体的な罪を考えて天主のみ前に告白します。いわゆる、「一応罪人」であるから、「まあ、一応の大まかな罪」を認めるだけでは足りません。具体的な罪、つまり天主に対する不義、不正などを意識して痛感することが大事です。

犯した罪の御赦しを平伏して希うと同時に、ダヴィドは天主との仲直りである霊魂における「聖寵の復活」に期待して望徳を実践します。これは、毎週の日曜日の歌ミサの時、詩編50の一部を歌っています。「Asperges me, Domine, hyssopo et mundabor」「主よ、ヒソプもて私に注ぎたまえ、私は浄められるであろう。私を洗いたまえ、私は雪よりも白くなるであろう。」これはダヴィド王の望徳を表します。罪を告白して悔い改める上、天主は赦し給うことへの望徳に満ちています。




いと愛する兄弟の皆様、四旬節の間、我々も望徳に満ちましょう。四旬節は苦行だけではありません。いわゆる辛くて厳しいから絶望を招くような時期ではありません。その逆です。我々が犯す罪を見て、認めて、悔い改める心ができたら、望徳もあふれ出していきます。天主の御憐みへの望み、期待に満ちます。

我らの主は仰せになりました。「医者が要るのは健康な者ではなく病人である。義人ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために私は来た」(ルカ、5、31-32)キリスト教徒の生活を送り、あふれ出す望徳はそこにあります。また、正直に痛ましく自分の罪を明かして告白して、認めて、悔い改めることによってあふれ出す望徳です。

以上は詩編50番の前半に当たります。後半においてダヴィド王は「行動、行為を改めることを約束する」ということです。そうするために、犠牲を捧げます。大事なのは、外面的な生贄だけではありません。ダヴィド王は明らかに綴るのがこの詩編のミソなのです。いわゆる、羊などの生贄だけでは足りません。「あなたはもう生贄を好まれず、供え物をしてもあなたは喜ばれない。天主への生贄とは痛悔する魂である。ああ天主よ、あなたは悔い改め、へりくだる魂を軽んじられない。」

天主は何をお望みでしょうか?もちろん、外面的な犠牲もお望みです。ですから、苦行なども四旬節の間に特に行います。しかしながら、それでは足りないとダヴィド王がこの詩編を通じて教えます。苦行は善いことですが、足りないということです。
「ああ天主よ、あなたは悔い改め、へりくだる魂を軽んじられない。」つまり、痛悔する心、へりくだる心を天主は軽んじないのです。

要するに、外面的にだけ告白して、外面的な償いだけでは足りません。外面的な告白と償いは必要ですが、この上に内面的な痛悔も必要です。言いかえると、自分の罪を認めて、これらを見て告白することによって心が痛むこと、悔いて痛い心になることという意味です。つまり、罪は天主を侮辱するとともに、自分もこのような罪によって悲しまれるということです。天主からの愛を痛感している魂は天主の愛を蔑ろにする罪を悔います。これは罪の痛悔です。

いと愛する兄弟の皆様、要約すると詩編50番において、改悛するために持つべき三つの態度、心構えが教えられています。ダヴィド王は示した模範ですが、現代に至ってもまったく重要であり、倣うべきです。単なる旧約聖書の詩編ではありません。普遍的な教訓を示す詩編です。

三つの教訓です。罪の告白。天主の御憐みへの希望。へりくだって改める心という内面的な犠牲。というのも、実際、内面的に悔い改めたら、罪を償う意志はできて、具体的な償いにもつながるからです。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、何度も詩編50番を読むようにしましょう。聖職者なら、聖務日課の朝課で毎日、詩編50番を唱えるのです。痛悔の精神、改悛の精神を深く身に染みるようになるためです。詩編50番は簡単に見つかるはずです。ぜひとも、興味を持って読んでいただくように。黙想していただくように。素晴らしい詩編です。

この詩編を頻繁に黙想すると、かなり深刻な罪を犯したダヴィド王の具体的な事例を通じて、痛悔の精神、改悛のやり方が身についていきます。また、どれほど大きな罪を犯したとしても、天主の御赦しを得られることもダヴィド王の事例からの教訓であり、慰めになりましょう。罪の告白と内面的な痛悔の心による償いはあればどの罪も赦されえます。

ですから、聖母マリアに祈りましょう。引き続き、熱心に四旬節を過ごし続けられるように。また、へりくだる魂、痛悔の心で過ごせるように。アーメン。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


イエズス・キリストはこれほどまで憐み深いお方!|終油の秘蹟

2021年04月18日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十三講 終油の秘跡について



終油の秘蹟について
Gabriel Billecocq神父

前回、「死者の秘蹟とよばれる改悛の秘蹟」を見たのですが、次に、瀕死の人々のための秘蹟を紹介しましょう。
瀕死の人々のための秘蹟だからといって、死者の秘蹟ではなく、生者のための秘蹟なのです。というのも、終油の秘蹟を受けるためには、聖寵の状態にいなければなりません(霊が天主の生命の内に生きている状態)。
終油の秘蹟あるいは「病者の秘蹟」は聖寵の状態にある瀕死の信徒に授ける秘蹟です。終油の秘蹟は個人のための秘蹟の内の最後の秘蹟なのです。
そのあとの二つの秘蹟は婚姻と品級ですが、社会のためにある秘蹟となります。

さて、終油の秘蹟とはなんでしょうか?
病者の霊魂と肉身を助ける秘蹟なのです。他の秘蹟とおなじく、イエズス・キリストによって制定された秘蹟なのです。
ただし、具体的にいつの場面の時に制定されたかについては、なんとも言えないところです。福音書ではこの秘蹟の制定は記されていないからです。通説に従うと、イエズス・キリストの復活後に制定されたのだろうと思われています。

それはともかく、終油の秘蹟はユダの手紙において明記されています。その上、トレント公会議は改めて終油の秘蹟について秘蹟として断言しました。終油の秘蹟は本物の秘蹟であることは信条の一つであり、信じるべき信条です。イエズス・キリストによって制定された秘蹟です。
終油の秘蹟の場合、ユダの手紙においての痕跡があるものの、聖書に書かれたことというよりも、まさに聖伝において伝えられてきました。

要するに、病者の霊魂と肉身を助ける秘蹟なのです。聖油をもって司祭が瀕死の病人の身体に十字架を印すことから、「終油」と呼ばれます。つまり、死の審判に出廷する前の最後の塗油となるからです。

前にも見たように、最初の塗油は洗礼の際に行われます。第二の塗油は堅振の際に行われます。そして最後の塗油はこの終油の秘蹟の時です(司祭なら、第四の塗油になりますが)。

この秘蹟はある意味で最晩年の秘蹟だと言えましょう。ご覧のように、終油の秘蹟は救霊を得るために必要不可欠ではありません。洗礼が必要不可欠であることを見た通りです。洗礼を受けない限り、天国に行くことはできません。しかしながら、もちろん、終油の秘蹟を受けなくても、天国に行くことはできます。ただし、終油の秘蹟を受けることによって、多くの恵みを頂いて、逆に言うと、受けることができるものの、あえて受けないことにするのは大きな過失なのです。

もちろん、終油の秘蹟を受けられるように、司祭に頼むことは具体的に信徒たちにとってデリケートであり、頼みづらいところがあるのは事実です。というのも、終油の秘蹟を授けるような場合というと、瀕死である状態ということなので、親戚にとっても本人にとってもつらいです。地上の人生の終わりが近づいていることを意味します。また、同時に、永遠の命は近づいたことをも意味しますので、喜ばしいことでもあるのですが、人間的にみると我々、死すべきもの、罪深い者にとって、やはり、辛くて心配の時期でもあります。



さて、終油の秘蹟の質料は何でしょうか。遠因の質料は「病者の油」と呼ばれる油です。「病者の油」は聖木曜日の聖油のミサの際、司教が作って祝福する聖油です。「病者の油」をもって、司祭は病者の秘蹟を授けます。具体的に、病人の五感の器官に(目、耳、鼻、口、手、足)十字架を印します。そうすることによって、この五感によって犯された一生の罪のあとを除き、病人の罪の償いを得るための秘蹟です。

そして、目、耳、鼻、口、手、足に塗油しながら、司祭は次の言葉を言います。これは、秘蹟の形相となります。
「この聖なる塗油によりて神が汝を見、聞き、かぎ、触れることによりてなしたるすべての罪をゆるしたまわんことを」

で、具体的に、神父は聖油を指にこうやってちょっと取って、塗油していきます。まず、目に塗油しながら、「この聖なる塗油によりて神が汝を見ることによりてなしたるすべて罪をゆるしたまわんことを」それから、同じ言葉をもって、それぞれの五感に合わせて、耳、鼻、口、手と足に塗油していきます。毎回、それぞれの五感によって犯された罪の赦しと償いを希う祈りとなります。

司祭の塗油とその言葉、終油の秘蹟の中心部分となります。そうしながら、司祭は天主の慈悲があるように祈ります。
終油の秘蹟を受けた人々の証言によると、皆「受けてから、内面的に静謐な状態、安泰となった」といっています。これは間違いのないことです。終油の秘蹟を受けていないかぎり、認識しづらいことだと思いますが、終油の秘蹟を授けた多くの司祭たちの経験に照らして、皆、同じく証言しています。終油の秘蹟を受けてから、病人は安泰な状態となって、また「死ぬ覚悟ができた」といえるようになります。

それは、かなり印象に残る現象です。終油の秘蹟によって、恐ろしい死に対して、瀕死の信徒は穏やかになり、落ち着き、時に死を迎える喜びを得られます。つまり、終油の秘蹟によって、病人は毅然となりえるというか、強い姿勢で死を迎えて、また喜びをも得るというか、少なくとも霊魂は静謐になり安泰となります。終油の秘蹟の執行者は司祭です。

しかしながら、終油の秘蹟を受ける人には条件があります。洗礼者であり、分別がついた信徒(つまり、罪を犯しうる年齢になったという意味です)である条件もあります。つまり、一歳の赤ちゃんは死にそうになっても、終油の秘蹟を受けないのです。というのも、一歳の赤ちゃんは罪を犯せないし、既に洗礼によって赦されている原罪以外、罪を犯していないので、終油の秘蹟は不要です。(犯された罪の赦しを希う罪はないということです)。

そういえば、このような幼い子供は死んだときの葬式のミサは黒ではなく、白で、喜びに満ちている典礼です。というのも、洗礼者の幼い子は天国に行くのです。洗礼を受けたまま、罪を犯していないから、赤ちゃんの霊魂は清いからです。

要は、終油の秘蹟を受けるには、洗礼者であること、分別があること(罪を犯し得る状態にあるという)、それから、第三の条件は、深刻な病気になっていること。言い換えると、死に至らせる病気があるということです。もちろん、すぐ、この病気で死ぬことはなくても、終油の秘蹟を受けられます。ただし、死に至らせる病気である条件があります。この意味、いずれか必ず死ぬからとって「生きている」ということは病気ではないのですね。

それはともかく、たとえば、重い癌にかかった人とかは終油の秘蹟を受けられます。いわゆる、癌の場合、まだまだ最期に全くなっていないとしても、終油の秘蹟を受けることはできます。「霊魂と肉身を助ける」効果があります。ただ、同じ病気で、二度と、終油の秘蹟を受けることはできません。しかしながら、いわゆる、病気から治って回復して、そのあと、もう一度病気なったら、もちろん、終油の秘蹟を受けることはできます。

終油の秘蹟を受けるために、ぎりぎり、死ぬ直前をまって、最期を待つことは好ましくないことです。これは大事なことです。具体的に、その時が来たら覚えていただきたいと思います。最期がいつなるかは、結局誰も知らないので、終油の秘蹟を受けることを遅くしすぎるのはだめです。あと、昏睡の状態になってしまった時、終油の秘蹟を受けることもできませんので、大変なことになります。ですから、このようなことにならないように、あまり待たないで、終油の秘蹟を受けましょう。

司祭は、終油の秘蹟を授けに来る際、その前に告解の秘蹟を授けます。そして、聖体拝領をもさせます。意識を失っている人は残念ながらも告解することはできないわけですよ。いつもミサに通っている信徒なら、それでも改悛の徳を持っていることに期待して、お赦しを頂ける状態にあることに期待されますが、やはりそれでも弊害があります。

しかしながら、あまりミサに与っていない信徒なら、改悛の徳を得るかどうかは非常に微妙な場合、どうなるかは大変でしょう。その場合、意識を失ったなら、司祭が来てもあまり何もできないわけです。信徒の内面的な状態に関して、司祭は何ともできないからです。



ですから、自分が大変な病気になったらぎりぎり最期まで待たないで、終油の秘蹟を受けましょう。また、自分の親戚が重い病気になったら、その人の最期を待たないで、しつこくても、親戚が死をよく迎えられるように助けましょう。準備しましょう。いずれか皆、死ぬので、親戚に対してなるべく早く司祭の訪問があるように助けましょう。

繰り返しますが、司祭としての経験からすると、終油の秘蹟を受けるお恵みは非常に大きいです。証言は数え切れないほどに多いです。いや、司祭の親戚だけの話でも、よく経験していることです。親戚に、終油の秘蹟を授けたら、本当にお恵みが多いです。

終油の秘蹟の効果は二種類があります。肉体に関する効果もあれば、霊魂に関する効果もあります。

肉体の効果といえば、病気による苦しみを和らげるほか、場合によって、天主のお望みなら、健康を戻すこともあります。
経験に照らしても、五・六回ぐらい、終油の秘蹟を受ける信徒もいるぐらいです。毎回、回復して、時に、終油の秘蹟のお陰で治ることもあります。それは天主がお決めになることで、天主のみ旨のままに。もちろん、このようなことは自動的ではないし、しかもそれほど重要なことではないのです。大事なのは永遠の命を得ることです。我々は地上にまだ天主のご用があったら治し給うことがありますが、そうではなかったら、天に行けます。

そして、霊魂に関する効果は罪の赦しと償いの効果があります。小罪も、告解で忘れられて告白し損なわれた大罪も赦されます。そして、霊魂を安心させて、力を与えて強くさせます。最期を迎えるとき、断末魔の苦悶がありますが、その時、悪魔の攻撃があります。それに備えるために、終油の秘蹟は霊魂を毅然にさせておきます。最期の時こそ、悪魔は一番暴れるわけです。というのも、どうしてもその霊魂を地獄に落としたいわけだから、最期の時に、我々の主からその霊魂を奪いたいわけです。で、終油の秘蹟を受けることによって、死ぬ覚悟と死ぬ強さを霊魂に与えられています。司祭なら、だれでも、終油の秘蹟を受けてからの霊魂の新しい毅然な態度を証言できるかと思います。

以上、終油の秘蹟をご紹介しました。天主という裁判官の前に出なければならない霊魂に安泰と毅然さを与えるのです。


告解に行くための手引き

2021年04月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 百二十二講 告解に行くための手引き



告解に行くための手引き
Gabriel Billecocq神父

前回は、改悛の秘跡をご紹介しました。今回は改悛の秘跡において、告解に行く者が行うべきことをご紹介したいと思います。
前回見たように、改悛の秘跡の遠因の質料は、洗礼を受けてから犯された罪、とりわけ大罪ということになります。
それに加えて、改悛の秘跡の遠因の質料は悔い改める者の三つの行いからなります。言いかえると、改悛者はそれらの三つの行いを実践して初めて、改悛の秘跡は効果があることになります。

その内の一つは内面的な行為であり、残りの二つは主に外的な行為となります。
具体的には、改悛するための三つの行為は次のようになっています。
第一、痛悔、あるいは遷善の決心です。
第二、告白です。
第三、償いです。
あえて言えば、告解前、告解中と告解後という区別で、殆どこの三つの行為と捉えて良いかもしれません。殆どですけど。

最初に痛悔という行為があります。この行為こそが一番大切です。内面的な行為でありますが、改悛の秘跡の基盤となるのがこの痛悔です。そして、痛悔はずっと続くようにすべきであり、本来ならば告解の前中後だけではなく、人生においてずっと痛悔の心を持つべきです。というのは、痛悔というのは改悛する、悔い改めるという徳となるからです。

では、痛悔あるいは遷善の決心とは何でしょうか?痛悔とは自分が罪を犯したことに対する内面的な痛み、またもう二度と罪を犯さないという断固たる決心をして、これらの罪を忌み嫌うということです。

第一、痛悔は内面的な痛みです。つまり天主を侮辱したことから来る痛みです。天主の良さに背き、その善さを見捨てたことから来る痛みです。罪を犯したことによって天主に背を向けたことから来る痛みです。罪とは天主から背を向けるという意味だからです。

痛悔とは内面的な痛みなのです。つまり、涙を流しても物足りないものです。こういった外面的な痛みだけではありません。内面的に深く悲しむことを意味します。そういった痛悔に至るためには、「告白の祈り(Confiteor)」を捧げるのがよいです。また、告解に行くまえに、詩編の第50、「Miserere」を読むのも良いでしょう。この詩編はダヴィド王が三重の罪といってもよい罪を犯した後にダヴィドが唱えたのです。

ダヴィド王はまず、視線において罪を犯しました。つまり自分の妻ではない女を欲しがったという罪を犯しました。それから第二の罪、ダヴィド王はその女と不倫関係となって、その間に子供がうまれました。で、不倫の結果に生まれた子供を見て、ダヴィド王が女の夫を殺させました。第三の罪です。



そのあと、ナタンという預言者はダヴィド王を厳しく戒めに来ました。天主はダヴィド王とその民を厳しく罰しました。その結果、ダヴィド王は深く悔い改めましたが、その時、詩編第50という美しい祈りを作りました。「天主よ、慈悲によって私を憐み、深い憐憫によって、私のとがを消し給え(Miserere mei, Deus, secundum magnam misericordiam tuam)」
この詩編をよむことをお勧めします。本当に美しくて、そしてこれを読むと内面的な痛悔をするための大きな助けとなります。要するに、天主を侮辱した後悔と悲しみという念を起こさせる詩編なのです。

痛悔には、罪を忌み嫌うことも含んでいます。これは、罪は天主の正反対であり、深く天主を悲しませて傷つけることであるということを理解しているからこそ忌み嫌うということです。また、天主を自分の霊魂から追い出す罪なので、罪を忌み嫌うということです。そして、痛悔の結果、罪を忌み嫌う結果、もうこんど二度と罪を犯さないという決心をして、遷善の決心ということも痛悔において含んでいます。
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Miserere mei
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告解という裁判所に出ても、痛悔を持たない者は赦しを頂けないことになります。いったい、痛悔していない罪を本当の意味で、赦すのは無理です。というのも、赦しを頂くためには、赦しを乞う前提がありますが、赦しを乞うためには痛悔する必要があります。いわゆる心を持って内面的に赦しを乞うために、犯した罪を痛悔して、忌み嫌って、もう侵さないように決心する必要があります。

「痛悔していない」というものが現れたら、赦しを乞うていないということになるので、当然、その場合、天主は赦しを与えることはできません。また、「回心しない。行動を改めない。同じ罪を犯すことにしている」というような態度で来たら、これは赦しを乞う態度ではないのです。というのも、もう、これから罪を侵さない決心をしないということは、罪を忌み嫌っていないということを意味します。

そして、罪を忌み嫌っていないということは、罪を愛着しているという意味です。従って、赦しを本格的に頂こうと思わないことになります。痛悔の心がない状態です。ですから、天主は赦しを与えようとしても、与えられるためには、赦しを乞うという前提がありますので、赦しを乞わなければ与えられません。それは悲劇的なことです。本当に。

ですから、痛悔の心になり、痛悔するように努力しましょう。告解に行くときはもちろんですが、告解の時だけではなく、常に痛悔するように努力しましょう。そうすると、告解に行くのも簡単になるし、赦しを頂くことも簡単になるし、またその効果も増えます。

というのも、思い出しましょう。改悛の秘跡によって永劫の罰は免れるとしても、限りある罰は残っています。で、罪を犯した分の限りある罰の多寡(たか=多い少ない)は痛悔の程度に依存しています。痛悔は磨けば磨くほど、限りある罰も減刑されます。ですから、毎日、寝る前に「糾明」して、反省して、自分の明かした罪を見つけて悔い改めるのです。



厳密に言うと、痛悔という時、二つの痛悔があるとされています。完全なる痛悔と不完全な痛悔です。

実際、完全なる痛悔を持っているかどうかを知るのは難しいです。それはともかく、不完全な痛悔というのは、いわゆる、罰と地獄を恐れているから、罪を忌み嫌うというような痛悔なのです。叱られることを恐れて、いたずらを後悔する子供と似ています。要は、父の罰がくるから、やったいたずらを後悔するという感じです。この後悔は正直です。本物の後悔です。本当に、罰してほしくないから、やったことを悔い改めています。しかしながら、完全なる後悔ではないということです。

痛悔も以上のような子供の気持ちと一緒です。しかしながら、不完全な痛悔だけでも、赦されるということです。天主は不完全な痛悔だけでも赦し給います。つまり、地獄を恐れているから痛悔しているというのが不完全な痛悔です。でも、改悛の秘跡が効くためには十分です。ご存じのように、我らの主は公生活の間、三年間、多くのお言葉を残しましたが、その内、「地獄」という言葉は非常に頻繁にお使いになっています。地獄に落ちるという罰、永劫の罰をおっしゃられ、イエズス・キリストは何度も我々を警告されたのです。

そして、それは良いことです。というのも、このような警告のお陰で、善き道から外れないとすれば我々は助かりますので、それは良いことです。親にとってはよくわかることだと思います。時に、悪をやるのならこの結果になるよということで、子供に警告してあげるおかげで、悪い方向へ行かないための助けとなります。

善き天主は我々をお創りになっただけに、我々の心理を深く理解してくださるので、その意味で、我々人間の性質に合わせておられます。ですから、地獄と永劫の実際に存在する罰を振りかざすことによっても、多くの霊魂は救われます。そういえば、地獄と永劫は実際に存在しますので、脅かすというよりも、警鐘を鳴らしてくださるようなもので、まさに警告してくださるのです。そうすることによっても、罪を悔い改めない場合、どういった目に合わされるかということ、つまり地獄と永劫の罰を見せることによって、我々の不完全な痛悔に誘ってくださるのです。

それはそれで、素晴らしいことで、救われるためには十分です。地獄に陥りたくないという不完全な痛悔をもつだけでも、告解に行って赦しを頂くのです。地獄を恐れることは非常に良い気持ちです。永劫の罰を免れたいという恐れの念は良いことです。聖書では、恐れの念は知恵に達するための第一歩だと記されている通りです。

それでは、完全なる痛悔とはなんでしょうか?完全なる痛悔とは霊魂が深く悲しんで、痛悔して、後悔していますが、今回は地獄を恐れているから悲しむのではなく、天主を侮辱したから、天主の言うことを聞いていなかったから、天主を悲しませたから、悲しくなるというようなことです。
要するに、天主を愛している気持ちから生じる痛悔です。

そういえば、相手を愛すれば愛するほど、相手を侮辱した時、その分、深く悲しみます。また、その分、深く後悔して、もう一度、愛する人が悲しまないように努力するということです。経験にてらしても、人間同士の赦しにおいてもこのようなことはわかることです。つまり、人が本当に痛悔しているのなら、いわゆる罰されるとかというよりも、やはり、悪いことをしたことを深く悲しんで気の滅入りという姿を見たら、「彼は本当に後悔している」ことがわかりますね。

たとえば、母を愛している息子が、母が悲しんでいる姿を見たら、耐えられないはずです。ですから、息子が母の悲しみの原因だったら、なおさら耐えられないことで、絶対に悲しませないように努力するはずです。というのも、母を愛しているのならそういう気持ちになります。天主に対しても同じです。

天主を愛すればするほど、天主の悲しみを見て、自分も悲しむようになります。そして、自分は天主の悲しみの原因であることがわかって、なおさら耐えられないことになって、もう天主を愛しているから、私はもう、天主を悲しませる罪を犯さないように全力を尽くすのです。このような痛悔は完全なる痛悔だと呼ばれています。

実際、このような完全なる痛悔に達するのは難しくて、本当に達しているかどうかはだれも言えないことです。しかしながら、達成さえしていれば、この完全なる痛悔はすでに赦しを得られるためには十分な条件ですが、その場合でも、告解に行く必要があります。
以上は、悔い改める者の第一の行いでした。痛悔でした。

改悛において、一番重要な行為は痛悔となります。痛悔はやはり、告解の時だけではなく、できるだけ、常に痛悔するように努力する必要があります。罪を犯さないためにも必要となります。改悛の徳の一環である痛悔だと言えます。ベネディクト修道士らは「悔恨」の徳と呼んでいます。

カトリック信徒は常に痛悔の徳を常に実践しているからといって、いわゆる悲しい人にならないわけですよ。ただ、罪の重さを知り、罪を犯すことによる弊害を知り、その分、罪を憎んで、侮ろうと常に努力します。それは悲しみとは別のことです。むしろ、カトリック信徒は赦されていることを知り、常に非常に喜んでいるのです。
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Miserere mei
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さて、悔い改める者の第二の行為は何でしょうか?告解そのもの実体です。つまり告白ですね。厳密に言うと、赦しの言葉を頂くため、自分が犯した罪を司祭に明かして咎めることです。罪の告白は司祭に言い表す必要があります。

具体的にいうと、改悛者は司祭のところに行きます。そして、跪きます。一般的に、信徒はこういいます。「神父様、多くの罪を犯したから、私を祝福してください。」あるいは、「神父様、私が犯した罪をよく告白するように、私を祝福してください。」

で、神父は祝福を与えます。この祝福は改悛者がよい告白ができるように聖寵が与えられています。

そのあと、並んでいる人々が少ない場合、改悛者は告白の祈りを唱えるのです。

そして、そのあと、罪を告白します。告白を準備するために、糾明するための善くできた栞(日本では公教会祈禱書)がありますので、それを参照するのがよいです。罪の種類などはリストされていて、良い糾明をするため、自分の罪を見つけるために助かります。なるべく、告白をよく準備しましょう。

大事なのは、改悛者は少なくともすべての大罪を告白すべきです。すべての大罪です。秘跡の質料なので、必要不可欠なのです。あと、告白の仕方ですが、罪を明かす時、簡素に明かしましょう。自分の罪だけを明かすので、他人の罪を言わないようにしましょう。また、事実通りに、正直に、慎みをもって明かしましょう。なるべく、大罪に関して、罪の数をも言いましょう。例えば、貞操の徳に背く行為をやった場合、その数あるいは頻繁さを明かすべきです。

たとえば、ミサに意図的に与らないことにした改悛者は何回、ミサに行かなかったことを明かすべきです。人を殺した者は何人を殺したか明かすべきです。大罪、つまり深刻な罪になると、その数をも明かすべきです。

もちろん、小罪を明かしてもいいですし、大罪がなくとも、小罪を明かすために告解にいくのが良いことです。ただ、罪を明かす時、必要な事情だけを言い表しましょう。いらない事情や細かいことは言わなくてもいいです。事情の説明は足りない場合、司祭は質問しますので、ご安心ください。



告白は無駄話ではありませんので、冗長になることは避けましょう。簡素で、手短にしながら、正確ではっきりとした言い方、すべての必要のことを言いましょう。つまり、すべての罪を明かしますが、罪だけを明かして、それ以上に言う必要はありません。いわゆる、罪と直接に関係ないその周りのすべての事情を言わなくてもいいですし、他人のことを問題にしなくてもよいです。言い訳もいりません。そうするために、例えば、次のような形で罪を明かすのがよいでしょう。

「神父様」。というのも、天主の代理人である神父に罪を言い表すから、「神父様」で始めるのがよいです。
「神父様、私が明かします。○○という罪を犯しましたので、私が私を咎めます」というような言い方でいいでしょう。簡素な形で、無駄話にならないようにかなり効果的だと思われます。ただ、言い訳しないようにしておきましょう。言い訳ではなくて、自分を咎めるということです。

もしも、大罪などはない場合、洗礼を受けてからの過去の大罪(つまり、すでに赦された大罪)を明かすのもよいです。
大事なのは、すべての大罪を明かすということです。もしも、やはり言いづらい罪がある時、どうしてもなんか言い出せない罪がある時、それは誰にもありますので、問題ではありません。ただ、その時、簡単に司祭に言いましょう。「神父様、罪を犯しましたが、どうしても言えなくて」、あるいは「明かしたいが、言いづらくて」

そして、司祭は穏やかに優しくて、質問したりすることによって、言えるようになるべく助けてくれますので、ご安心ください。またご遠慮なく、その助けを求めてください。大事なのは最終的に明かせるようになることです。こういった言いづらい罪を告白した暁には、どれほど、ほっとするか言い表せないことがありますので、本当にご遠慮なく、司祭の助けを。

逆にいえば、意図的に大罪を隠すことは、冒涜を犯す危険があります。言いかえると、告解の効果を失う危険に晒すという意味です。

そして、これはカトリック教会の素晴らしい点ですが、告解の際、告白されたすべてのことは厳格な秘密の義務が司祭にあります。この秘密の義務は絶対です。司祭の命が危険にさらされても、告解の秘密を守るべきです。司祭は告解の秘密を破るよりも死ぬべきです。(たとえば、殺人者がその罪を明かしても、司祭は裁判で証言してはいけません)

告解の時の司祭はあくまでも天主の代理人なのです。ですから、告解で聞いた物事について、天主だったかのように聞いたので、人間的な扱いはしてはいけません。言いかえると、告解で聞いたことに基づいて、告解の外に何かを判断するあるいは行動するのは絶対に禁止されています。
これらの保証はカトリック教会が設けたものですが、どれほどありがたいでしょうか!

あえていえば、改悛の秘跡においての司祭は本物のごみ箱です。ただ、罪を預かっているごみ箱ではなく、罪を潰して破壊するごみ箱なのです。言いかえると、底のないゴミ箱となるので、そこに罪を投げたら、罪は消えていきます。

ですから、自分の罪を明かすのは誰にとっても嫌なことですし、司祭を相手に罪を告白することも恥ずかしいし、年配の方が若い司祭を相手にしてでも、そういった不愉快な気持ちになることもあるのは普通なことですが、その時、こういった保証をおもい出しましょう。このような人間的な妨げを忘れましょう。司祭は司祭なので、誰であるかはどうでもいいことで、告解の時、司祭は底のないゴミ箱であり、罪を消していくための道具になります。天主が司祭という道具を通じて、罪を赦すのです。

要約しましょう。改悛者は告白します。罪を明かして、その重さ、種類、頻繁さなどを告白します。
そして、罪の告白が終わった時、次のような言葉で告白を締めるのがよいです。
「以上の罪を犯したことを明かして咎めて、また覚えていない罪や過去の罪をも咎めます。また、これらの罪の赦しを天主に希って、また、私はそれに値すると判断したら、神父様にその分の償いと赦しのお言葉を頂くように願います。」

そういえば、過去の罪、つまりすでに赦された罪を明かすのも可能ですし、いいですし、いわゆる、これらの罪への痛悔をより高めるために時によいことです。

そのあと、神父は一旦、改悛者にちょっと話します。激励なり、助言なり、慰めの言葉なり、警戒なり、時には痛悔はあるかどうかを確認するための質問なり。また、赦しを与えるために条件を付けることもあります。例えば、盗みだったら、盗まれた物を返す条件とか。あるいは、いわゆる罪の状態だった場合、もはやこの状態は続いていないことを確かめるようなこともあります。例えば、内縁関係にあったという罪だった場合、もはや同棲しないことを、内縁関係は終わっていることを確かめる必要があります。

そして、そのあと、司祭は贖罪のために、償いを改悛者に与えます。罪を犯したとき、必ず罪を償う必要があります。贖罪のためですね。
このように司祭は償いを与えます。もし、与えられた償いを果たすことは無理である場合、改悛者はその時、言うべきです。大丈夫の場合、そのままに受け入れます。

普通は、司祭が償いを与えてから、短い間を与えて、例えば「○○祈りを償いとしてやりなさい」あるいは「その日、ミサに与りなさい」といってから、改悛者はできない場合、例えば、その日に出張でとか不在のせいで、ミサに行けないのなら、簡単に正直に司祭に言いましょう。果たせない償いであることを知りながら、告解室を去るのはやはりだめです。

結局、償いを果たすことを拒む改悛者は罪を悔い改めないことを意味するからです。しかしながら、いわゆる、与えられた償いを果たすことは事情があって無理である場合は、話が変わります。その場合、司祭は別の償いにしてくれるから、正直に言いましょう。大事なのは与えられた償いを果たすことですから、事情があることもあるので。

そして、告白の最後は司祭がお赦しの言葉を与えます。同時に、改悛者は痛悔の祈りを言います(あるいは心の中に)。というのも、御赦しを頂くその瞬間、できるだけ痛悔であるようにするために、痛悔の祈りを唱えます。

「平和の内に行きなさい」と神父が言って告白は終わります。

告解のあと、償いはなるべく早く果たすべきです。できる場合、告解のすぐ後で果たしましょう。なるべくはやく「quam primum」と道徳者が言っている通りです。

償いは祈りの場合、やりやすくて、どこでもできますね。もうちょっと重い償いになると、それほど早く済めない償いもあるでしょうが、何か疑問があった場合、ご遠慮なく、司祭に聞いてください。償いは非常にありがたいです。償いを果たすと、心は軽くなって、そして限りある罰を消すためにも助けとなります。

以上は改悛の秘跡のために改悛者が行うべき三つの行為を紹介しました。
痛悔、告白、償い。

カトリックには、罰するためではなくて赦すための裁判所があります。そこでは憐みの判決しかなされません。

2021年04月04日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十一講 改悛の秘跡について



改悛の秘跡について
Gabriel Billecocq神父

さて、次の秘跡をご紹介しましょう。洗礼、堅信、ミサ聖祭の次に、改悛と呼ばれる秘跡をご紹介しましょう。
「改悛」といった時、一般的に二つのことを指すのです。第一、いわゆる改悛という徳を指すことがあります。悔い改める善徳ということで、例えば、旧約聖書においてヨナは天主のお言葉を預かり、ニネベの人々へ改悛をしなければニネベは破壊されると告げます。同じように我らの主、イエズス・キリストは我らの改悛を求めておられます。これは単純に悔い改める善徳ですが、もう一つ、秘跡を指す時の改悛もあります。

改悛という善徳は徳ですので一つの習慣ですが、自分が犯した罪を憎み、これらを糺すように頑張る習慣なのです。言いかえると、改悛という徳を実践するということは、自分が犯した罪を嫌って、何かの犠牲あるいは施しあるいは苦行などをもってこれらの罪を償おうとしていて、そしてできるだけの用意と努力をしてもう一度、罪を犯さないようにしておく徳です。

改悛の秘跡において、もちろん改悛の徳が含まれます。というのも、改悛という徳を実践しないかぎり、改悛の秘跡を効果的に受けることはできません。

改悛という秘跡は秘跡なので、我らの主、イエズス・キリストによって制定された物質的な印号なのですが、改悛の秘跡をもって、洗礼を受けてから犯された罪を司祭が赦すことになります。要するに、改悛という秘跡によって、洗礼のあとに犯された罪が赦されるということです。
我らの主、イエズス・キリストご自身は罪を何度も赦されました。というのも、罪は天主への侮辱であるから罪を赦せる御(おん)方は天主のみです。侮辱を赦すためには侮辱された者こそが赦しえるとの前提があるからです。

そして、天主なる我らの主、イエズス・キリストはその意味で、すでに地上での人生の間、何度も罪を赦されました。例えば、姦通の女の場面では、イエズス・キリストは「あなたたちの中で罪のない人がまずこの女に石を投げよ」(ヨハネ、8、7)。そして、そこにいた人々は皆、去っていきます。そして、我らの主と姦通の女は残って、我らの主は「あなたを罰した人はいなかったか」と尋ねます。「女は「主よ、一人も」。そこでイエズスは「私もあなたを罰しない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」」(ヨハネ、8、10-11)つまり、この場面で、我らの主は罪を赦されます。聖マリア・マグダレナの場面も有名ですね。我らの主の下へ泣きに来た場面です。「この人の罪、その多くの罪はゆるされた、多く愛したのだから。」(ルカ、7、47)

要するに、我らの主、イエズス・キリストは罪によって侮辱された天主であるがゆえに、罪を赦す力があります。そして、罪を赦す力を使徒たちにイエズス・キリストは託しました。その力、その根源を託したことによって、改悛の秘跡を制定なさいました。その結果、司祭はイエズス・キリストのみ名において、その代わりとして、罪を赦す力があります。

改悛の秘跡の制定は我らの主の復活のあとにありました。我らの主は使徒たちの前に現れ給います。「あなたたちに平安」(ヨハネ、20、19)と仰せになります。これはまさに復活の実りです。「彼らに息を吹きかけて、『聖霊をうけよ。あなたたちが罪を赦す人はその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」といわれた」(ヨハネ、20、22-23)

この場面は改悛の秘跡の制定であって、我らの主は使徒たちに罪を赦す力を与え給いました。改悛の秘跡は必要不可欠です。特に大罪を犯した人ならなおさらです。言いかえると、霊魂の生命が亡くなるほどの罪を大罪というのですが、霊魂の生命を失った人は、言いかえると聖寵の生命を失った人は改悛の秘跡を通じてのみ、霊魂の生命を取り戻せるわけです。

あえていえば、これこそはプロテスタントの不幸なのです。というのも、プロテスタントは改悛の秘跡を廃止しようとしました。全力で。いまも、昔も、プロテスタント教徒の証言がありますが、カトリック信徒に対して「この秘跡があって幸せだなあ。そのおかげで良心にやましいところがないから羨ましい」といったようなコメントが多いのです。

プロテスタント教徒に言わせれば「私は直接に天主に罪を明かすから」といっていますが、実際に罪が赦されたかどうかという確信を持てないわけです。しかも残念なことに、基本的に改悛の秘跡を通じてのみ罪が赦されます。というのも、天主ご自身は改悛の秘跡を通じて罪を赦すことになさいましたから。こういった秘跡を制定なさったのも天主のこの上ない善良をしめしています。というのも、我々人間は身体をもって、感覚があって、霊的な現実に触れるためにも、物質的な、感覚的な媒体が必要となります。

それだけではなく、更に言うと、人間には確信を得ない限り、落ち着かないという性質があるため、よく生きるためには確信が必要です。秘跡はそういった確信を与えてくれます。改悛の秘跡の印号は実現された途端、秘蹟の効果は確保されているというようにイエズス・キリストは秘跡を制定なさいました。

このようにして、司祭は秘跡の時、罪を赦す印号を与える瞬間、罪は赦されることになり、そして天主の友好関係を失っていた状態であれば、天主との友好関係を取り戻すことになります。要するに、改悛の秘跡は何よりも素晴らしい秘跡です。また、この上なく、天主のいと高き慈悲を示している秘跡です。

改悛の秘跡の別の名前は「死者の秘跡」とも呼ばれています。なぜでしょうか?死んでいる霊魂、言いかえると天主の生命、聖寵を持っていない霊魂は文字通りに死んでいるから、改悛の秘跡に与って、初めてこれらの死んでいる霊魂は天主の生命に復活するという意味です。ですから、「死者の秘跡」と呼ばれています。

また、以上で分かるように、改悛の秘跡は必要不可欠です。改悛の秘跡に与らないと、基本的に天国に行くことはできません。天主との友好関係を持たない人は、永遠に天主の内に生きていくことは一体どうやってあり得る話になるでしょうか?あり得ません。大罪を犯している人は天主を自分の霊魂から追い出している状態ですから天主のおられる天国に行けるわけがありません。

それで、良き天主はそのいと高き善良さを示して、罪を赦すための秘跡を制定なさいました。改悛の秘跡はイエズス・キリストの十字架上の犠牲から生じます。十字架上の悪人の話を思い出しましょう。彼はイエズス・キリストとともに十字架上につけられたのですが、彼は少なくとも重い罪を犯して十字架刑に処されたことが知られています。その悪人自身が明かします。「われわれは行ったことの報いを受けたのだから当然だ。だがこの人は何の悪事もしなかった」(ルカ、23、41)と悪人が求めます。我々の主は何もしなかったのに十字架上におられるということをその悪人がはっきりと断言しますが、次にその悪人が言います。「イエズス、あなたが王位を受けて帰られるとき、私を思い出してください」(ルカ、23, 42)。そして、我らの主は答えます。「真に私は言う。今日あなたは私とともに天国にいるだろう」(ルカ、23,43)

十字架上の犠牲はなんて素晴らしい実りをもたらすのでしょうか。その悪人の罪が赦されたほどの犠牲。そして、悪人はそのあと平安のうちに死んでいきます。直接、十字架上の肉体のイエズス・キリストに罪の赦しを頼んで赦されたからです。

ですから、改悛の秘跡は洗礼を授かってからの罪人のための秘跡です。洗礼を受けないと改悛の秘跡を受けることはできません。
罪人は赦しを希って、告解室へ跪きにいきます。

他の秘跡と同じように、改悛の秘跡は物質的な印号なのですが、質料と形相からなっています。改悛の秘跡の質料は何でしょうか?遠因の質料は洗礼を受けてから侵されたすべての罪なのです。そして、特に大罪が対象となります。ですから、告解に行った時、一番優先に大罪こそを明かすべきです。もちろん、義務化になっていなくても、小罪を明かすことも大事ですが。

それから、近因の質料は罪人の「三つの行為」と呼ばれるものです。三つの行為に関する詳細は次回の講座の時にご紹介します。簡単に言うと、罪人の三つの行為は「痛悔」があり、「告白」があり、「償い」があります。詳細は次回の時、ご紹介します。要するに、質料は大きく言うと、告解の時に明かすべき罪です。

では、改悛の秘跡の形相は何でしょうか?つまり、我らの主の御血が霊魂を清めた、秘蹟が実現された具体的な印はなんですか?形相は司祭が与える「赦しの言葉」なのです。神父のみ、赦しの言葉を有効に与えられます。もちろん、司教も司祭なので、赦しの言葉を与えられます。しかしながら、助祭も他の聖職者も赦しの言葉を与えることはできません。信徒ならなおさらのことです。改悛の秘跡を預けるためには、司祭でなければなりません。

さて、「赦しの言葉」は何でしょうか?イエズス・キリストの名において、相応しい状態にある罪人のために、神父が述べる次の言葉です。「我、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて汝の罪を赦す」というお言葉です。「Ego te absolve a peccatis tuis, in nomine patris et filio et sipiritus sancti」という赦しの言葉です。司祭が罪を赦せるのは天主より直接に与った権限にすぎません。

しかしながら、以上の赦しの言が発せられた途端、実際に天主が罪を赦したということになります。そういえば、「赦しの言葉」を言いながら、司祭は罪人に十字架の印を切ります。罪の赦しは十字架のお陰で実現された、また十字架においてこそできるということを示すためです。「お赦しの言葉」が発せられる途端、天主の生命を失っていた信徒であれば、天主の生命をその瞬間に取り戻すのです。

形相はつまり決まったお言葉ですが、「判決」とも呼ばれます。天主の判決です。「赦したぞ」という処分。ですから、告解室を指して「裁判所」とも呼ばれています。ただし、罰するための裁判所ではなく、赦すための裁判所です。憐みの裁判所です。告解という裁判所においての判決は必ず「御憐みの判決」となります。「我、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて汝の罪を赦す」。

正義を全うするための裁判所もありますよ。それは皆、死んだ瞬間、出廷する裁判所です。

ですから、とりあえず、御憐みの裁判所は天主によって用意されているので、頻繁に行きましょう。それを活かしましょう。天主は改悛の秘跡という具体的な形で、折角、無償に御憐みを我々に与え給うという業はなんて素晴らしいことで、それはしかも簡単なことなのです。
もちろん、自分の罪を明かすのは不愉快ですが、天主のゆるしを得るためなら、安いことでしょう。そして、死後の裁判の時、罰を避けるためなら、非常に安いことでしょう。

改悛の秘跡のお陰で、あらゆる罪が赦されるのですよ。「赦すぞ」という判決しか出られない裁判所なので、我々、罪人はどうしても行きたくなるでしょう。赦せない罪なんて存在しないので、どんな罪でも赦されます。

さて、改悛の秘跡の効果は何でしょうか?以上を踏まえると簡単です。第一の効果は、改悛の秘跡は罪人が痛悔している大罪と小罪を取り消すのです。思い出しましょう。罪という時、二つの現実が重なっています。罪には過失があります。つまり、天主に対する侮辱の行為。そして、その行為に対する罰も決まっています。つまり、罪を償うために払わなければならない対価です。

告解の「赦しの言葉」はすべての過失をチャラにします。取り消すのです。その借りをないことにします。天主は我々が犯した罪をと忘れてくださいます。つまり、告解のあと、何もなかったかのように一からやり直せるということです。これは素晴らしいことです。というのも、我々は誰かと喧嘩して仲悪くなった時、すべてを赦して、忘れて、何もなかったかのように一からやっていくことは非常に困難でしょう。人間って、すぐ恨みを持ってしまうし、「赦してあげる」といっても、実際に「が、忘れていない」ということは多いでしょう。一方、天主はすべての罪を本当の意味で赦し給います。罪を取り消して、忘れてくださいます。



あとは、罪を犯したせいで生じる罰に対して、どうなるでしょうか?そもそも、罰というのは侵された罪の深刻さに相当しています。つまり、罪が重ければ重いほど、罰も重くなります。で、大罪の場合はどうなるでしょうか?大罪というのは霊魂から天主を追い出す罪であって、霊魂の生命を失わせる罪です。この場合の罰は永劫なのです。つまり、地獄です。で、「お赦しの言葉」のお陰で、この永劫という罰は取り消されます。言いかえると、本来、そのままに死んだら地獄に落ちそうになっていた霊魂は改悛の秘跡によって、天国への道に再び乗せられたということです。これもなんとも素晴らしいことです。もう、我々が地獄に落ちることに値するのに、その永劫をチャラにしていただけるなんて、どれほど素晴らしいことでしょう。

さて、永劫は大罪に伴う罰で、まさに地獄ですが、改悛の秘跡によって取り消されます。が、減刑というか、それでも償う必要はありますので、時間的に限定されている罰が残ります。そういった、時限の罰も改悛の秘跡によって多少にかかわらず取り消されることがありますが、どれほど取り消されるかは残念ながらだれもわかりません。というのも、時限の罰の取り消しは、我々の痛悔と直接につながっています。慎み深くて、誠実に深くに痛悔すればするほど、罰は減らされています。残念ながらも、これは心の中の状態なので、それを具体的に図ることは困難で何とも言えません。また次回、ご紹介しますが、そういうことになりますので、痛悔という徳をできるだけよく実践していくこと習うことが大事です。

それはともかく、時限の罰への取り消しの程度は天主のみがご存じです。で、死んだとき、時限の罰は完全に赦されていない場合、煉獄に行かざるを得ません。煉獄で、時限の罰を受けて、その償いを果たします。


そして、改悛の秘跡の効果は永劫の罰が赦される分、霊魂においてあたらためて聖寵が入っていきます。で、聖寵を失っていなかった罪人も改悛の秘跡によって、その聖寵は増やされています。

また、改悛の秘跡は過去の死んでいた功徳を復活させます。また、いくつかの秘跡上の聖寵を受ける特権を与えます。特に、明かされた罪を再び侵さないように抵抗するための聖寵を頂ける特権を与えてくれるのが改悛の秘跡です。

そして、それよりも、改悛の秘跡は平安を与えます。安泰と静謐を与えます。これはなによりも素晴らしいことです。プロテスタント教徒なら、あるいはカトリックの近代主義者は「天主に直接に告白する」といっても、結局何の平安を得ることはありません。罪人は告解に行って、犯した罪を明かす苦労を遂げたら、告解室から出ると平安になります。「平和の内に行け」と神父が告解の最後の時に言う通りです。で、しばしば、告解室から出ると、この平安を感じることがあります。

要するに改悛の秘跡は非常に素晴らしいです。この秘跡を活かさないことは勿体ないというほかありません。