ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 9. ルシアの家庭での問題

2017年09月29日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。

第二の手記

II. 御出現


9. ルシアの家庭での問題

私自身の家庭のもっとも深いところで、新しい苦しみが起こりました。このことの非難は、私に非難が飛んできました。
コヴァ・ダ・イリヤは私の両親の所有地でした。その一帯ではもっとも良く肥えた畑で、とうもろこし、野菜、馬鈴薯、エンドウがよくできました。傾斜面には、オリーブの木が生え、樫の木、トキワガシの木々が茂っていました。さて、群衆がそこに行って集まるようになってから、すっかり踏まれて荒らされ、何の収穫も得られないようになりました。大多数の人々が馬やろばに乗ってきたので、彼らの動物が見つけることができたものを全て食い荒らして全てを荒らしてしまいました。
母はこの損害を嘆き悲しんでこう言いました。
「さあ、おまえ、何か食べたい時には、例の貴婦人の所へ行ってもらいなさい!」
姉達までも「コヴァ・ダ・イリヤで育つものを、おまえは食べたらいいわ!」と言うのでした。

その言葉を聞いて、私は心を傷つけられ、一切れのパンさえ敢えて取って食べることができなくなりました。母の言う表現によれば、母が私に本当のことを言わせようと、とてもしばしば、箒の柄、あるいは、暖炉の側から一本の薪をとって私を強く打ちました。けれども、それにもかかわらず、母は母親だったので、私の弱った健康を再び回復させるように努めました。母は私の青白い痩せた姿を見て、私が病気にかかるのを注意深く心配しました。かわいそうなお母さん! 今、私は母の立場が一体どんなだったかを良く理解し、本当に母のことを気の毒に思います。母は、私がそのような大きな恵みを受けるに値しないものだと思い、私が嘘をついているのだ、と判断しましたが、母は正しかったのです。

主からの特別な恵みによって、私は、母が私に対するやり方に関して、恨みの考えや気持ちを起こすようなことは少しもありませんでした。天使が、天主は私に苦しみを送ってくださると予告したので、これらのすべてのことの中に、いつも天主の御手の働きを認めていました。それで、私は、あたかも最も可愛がられたかのように、母に対して私が抱くべき愛と尊敬と敬意は増えてゆきました。今、私はこのような母の厳しい態度で私を接してくれたことに対して、愛撫や優しさで私を取り巻き続けてくれたよりも、もっと感謝しています。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 8. 郡長からの脅迫

2017年09月28日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。

第二の手記

II. 御出現


8. 郡長からの脅迫

数日の後、私たちの両親は通達を受け、ジャシンタ、フランシスコ、私の三人が両親と共にヴィラ・ノヴァ・デ・オウレンの役所の前へ、指定の時刻に出頭するようにとのことでした。これは、およそ15キロメートの道のりという三人の小さい子供にとって相当な道程を行かなければならないことを意味していました。その頃の唯一の交通の手段は、私たちの二足の足で歩くか、あるいはろばに乗るか、でした。私のおじは、すぐに伝言を送り、自分は出頭するが自分の子供たちは連れて行かないと伝えました。
「子供たちには、歩いて行くのは無理だ、ろばに乗るのも慣れていない。ロバの上に留まっていることもできないだろう。ともかく、こんなに小さい二人の子供を裁判所に出頭させるなど全く意味がない」と言いました。
私の両親は、全く反対のことを考えました。

「私の娘は行きます。あの子に自分自身で答えさせます。
私は、このことについて何も分かりません。もしもあの子が嘘をついているのなら、嘘をついたことの罰を受けるちょうど機会です。」
その翌日 [注20] の朝早く、私はろばに乗せられて出発しました。父と叔父とがついてきました。私は道の途中、三度ろばから転がり落ちました。司教様、この日、ジャシンタとフランシスコは、私が殺されると思っていたので、どんなに苦しんだか、それについては、私はすでに申し上げたと思います。

[注20] これは8月11日である。

私にとって、私の心を最も傷つけたことは、両親が私に見せた無関心でした。これは私にとってあまりにも明らかでした。何故なら、叔父や叔母が彼らの二人の子供をどれほど愛情を込めて優しく扱うのを見ることができたからです。私たちが道を行くに従って自分でこう考えていたのを覚えています。
「私の両親は、叔父や叔母とどれほど違っていることだろう。彼らは自分の子供たちを守るために、自分自身を危険にさらすのに、うちの両親は全くの無関心で私を渡そうとしているわ。それなら、したいようにすればいいわ!でも私は忍耐しなければ。」
心の奥底でこう言ったのを覚えています。
「わが天主よ、つまりこれは御身を愛するため、罪人らの回心のために、もっと苦しむという幸せがあるっていうことだわ。」この考えは、いつも私に慰めをもたらしました。役所では、私は、父や叔父やその他知らない人々の前で、郡長から訊問されました。
郡長は、私に何とかして秘密を白状させようと、そして、これから絶対にコヴァ・ダ・イリヤへ戻らないという約束をさせようと決意していました。この目的のために、彼は、色々手を尽くし、約束や脅しさえ用いました。しかし何も得ることがないと分かり、私を解放しました。しかしながら、彼は私の命を奪わなければならなくなったとしても、自分の目的を達成する、と宣言しました。そして彼は、叔父が自分の子供らを連れて来なかったことを厳しく叱ってから、私たちに家へ返しました。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 7. ルシアの母親と母の疑い

2017年09月27日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。

第二の手記

II. 御出現


7. ルシアの母親と母の疑い

天主様のおかげで、このご出現は、私の霊魂から疑いの雲を晴らしてくれ、内的な平和が回復させました。私のかわいそうな母は、ほうぼうから群れをなして訪ねてくる人々を見れば見るほど、ますます心配しました。母は言いました。
「この可哀想な人たちは、あなたのたわごとに騙されて、ここに来ています。あなたはそのことをはっきり知りなさい。お母さんは彼らがだまされないように何をしたらよいかわからないわ。」

私たちをあざ笑い、私たちを侮辱し、私たちを殴りつけようとさえして自慢していたかわいそうな人が、ある日、私の母に尋ねました。
「ちょっと、奥さん、あなたの娘の受けた幻についてどう考えますか?」
母は「わかりません。私にはこの話しは偽で、それは世界の半分をだますほどの嘘だと思います」と答えました。
「それを大きな声で言わないでください。さもないと誰かが娘さんを殺してしまうでしょうから。」
「それはかまいません。あの子がそれで真理を白状すればそれで良いんです。私は、いつも真理を話しています。私の子供たちに反対することであれ、その他の人に関わることであれ、私自身に反対することであってもそうです。」そしてこれは本当のことでした。母は常に本当のことを言いました。それがたとえ自分に都合が悪くてもです。私たちは母の子供として、この良い模範を母に感謝しています。

ある日、母はまたしても、私が言ったことを全て撤回するように私に強制しようと試みる決心を立てました。母はその翌日司祭館に私をまた連れて行こうと決心しました。そこに行ったら、私は嘘をついたと告白して許しを請わなければなければなりませんでした。そして神父様が私に与えることを望まれる、あるいは私にふさわしいと思われる償いを果たさなければならないと言いました。今回は攻撃があまりにも強かったので私はどうして良いか分かりませんでした。道すがら私は叔父の家を通ると、私は家の中に走って入りジャシンタに何が起こっているのかを話しました。ジャシンタはまだベッドにいました。それからすぐに家を出て、母の後に従いました。ジャシンタについての報告の中で、私はすでに司教様に申し上げたとおり、天主様が私たちに送り給うたこの試練においてジャシンタとフランシスコが果たした役割、そして彼らが井戸のところで私を待ちながらどれほど祈りをしていてくれたかを書きました。

私たちが歩いていると、母は私にお説教をしました。ある時点で私は震えながら母に言いました。「でもお母さん、私は本当に見たのに、見なかったと、どうして言うことができるの?」と。
母はだまっていました。司祭館に近づくと、母はこう宣言しました。
「いいかい、よくお聞きなさい!私が望むのは、おまえが本当のことを言うことです。
もしあなたが見たならば、見たと言いなさい。でもおまえが見なかったなら嘘をついたとみとめなさい。」

その他に言葉はなく、私たちは階段を上りました。よい神父様はとても親切に、さらに愛情を込めてとさえ私は言いたいほど、私たちを書斎に迎えてくださいました。神父様はまじめにきわめて礼儀正しく私に質問をし、私が自己矛盾をしているのではないか、あるいは私の発言に一貫性がないかを調べるために様々な作戦を使いました。最後に神父様は私たちを帰しながら、あたかも「どうしたらよいかさっぱり分からない」とでも言っているかのように肩を上に挙げました。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 6. ジャシンタとフランシスコからの励まし

2017年09月26日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。

第二の手記

II. 御出現


6. ジャシンタとフランシスコからの励まし

神父様のこの考えがどれほど私を苦しめたかは天主だけがご存じです。何故なら天主だけが私たちの心の最も奥底にまでしみ通るからです。

その時から私は、これらのご出現は、悪魔から来たのではないかと疑うようになりました。悪魔はこれらの手段を使って私の霊魂を失わせようとしているのではないか、と。私はよく人々がこう言っているのを聞きました。悪魔は、いつも混乱と無秩序を持ってくる、と。そこで、本当に、これらのことを見始めてから、私の家はもう同じではなくなってしまった、喜びと平和が逃げてしまったということを考え始めました。私はどれほどの苦悩を感じたことでしょうか!私は自分の疑いをいとこたちに打ち明けました。
ジャシンタは答えました。

「ちがう、絶対に悪魔じゃない!絶対にちがう!悪魔はとっても醜くて、地獄の地下の奥底にいるって聞いたわ。でもあの貴婦人は、あんなに綺麗だったでしょう。私たちは、あの方が天に昇っていくのを見たもの!」
私たちの主は、この言葉で私の疑いを幾分か軽くしましたが、その丸一か月間、私は犠牲と苦業をする熱心を失ってしまいました。それから何もかもおしまいにするために、嘘をついていたと言ったほうがよいのではないかと躊躇うようになってしまっていました。フランシスコとジャシンタは、叫んで言いました。
「そんなことをしないで。ルチアちゃんは、嘘をつこうとしているって分からないの?嘘をつくのは、罪なのよ。」

この心の状態に陥った時、私は精神の暗闇をますますいや増しただけのある夢を見ました。悪魔が私をだまして、嘲笑いながら、私を地獄へ引っ張りこもうとしている夢でした。

自分が悪魔の爪の中にいるのを見て、私はあまりにも大きな声で叫び、助けを求めてマリア様を呼び求めたので、母が目を覚ましました。母は何が起こったのかと心配して私のそばにきて、「どうしたの」と聞きました。私が母に何を言ったか覚えていませんが、私は恐れで麻痺してその夜は一晩中眠れなかったということは覚えています。

この夢は私の霊魂を、本物の恐れと苦悩で覆い包みました。私の一つの気休めは、一人で静かなところへ行くこと、そこに心の満足するまで泣くことでした。

私の二人のいとこたちと一緒にいることも、重荷のように感じ始めました。その理由から、私は彼らから隠れ始めもしました。可哀想な子供たち!時々、彼らは私を探して、私の名を呼ぶのですが、私は返事をしませんでした。私は彼らが探そうと思わないような隅に、彼らのすぐ側に隠れていました。

7月13日が近づきました。私は、まだコヴァ・ダ・イリヤへ行くべきかどうか迷っていました。私は自分でこう考えていました。
「もしあれが悪魔なら、何故悪魔を見に行くべきだろうか?もしなぜ行かないのかと尋ねられたら、私たちに現れているのが悪魔かもしれないと思う、と言おう。そのために私は行かないのだって。」
フランシスコとジャシンタは自分たちの好きなようにすればよい。私はコヴァ・ダ・イリヤへはもう行かない。」私は決心を立てて、その通りにすると決意していました。

12日の夕方になると、次の日の出来事の準備で早くも群衆が詰めかけていました。私はジャシンタとフランシスコに、私の決心を知らせました。ふたりは口を揃えて、
「私たちは行きます。あの貴婦人は、私たちに来なさいおっしゃったのよ」と言いました。

ジャシンタは、貴婦人に話しかけることを自発的に申し出ましたが、私が行かないと言ったのでとても怒り、泣き出してしまいました。私は、涙の理由を聞きました。
「だって、あなたが行かないから!」と言うのです。
「私は行かない。よく聞いて。もし貴婦人が私のことをお尋ねになったら、悪魔かもしれないと思って、私は行きませんでした、て伝えてちょうだい。」

そこで私は二人を残して、隠れに行きました。質問をしようと私を探して来た群衆に話さなければならないのを避けるためでした。母は、私が村の子供たちと一緒に遊んでいるものと思っていました。私はその間中、もう何度も申し上げた井戸から少し東寄りで、アルネイロと隣り合わせの隣家の茂みの後ろに隠れてしまいました。その夜に私が家へ帰るや否や、母は私を叱りつけました。
「おまえったら、なんて恥ずかしくもなく聖人づらをしているのね!羊の世話から離れるとずっと遊ぶことしかしないのだから。しかも、誰も探せないような所で遊ぶなんて!」

その翌日、 あそこへ行く約束の時間になろうとする時、私は突然行かなければならないと感じました。私は不思議な力に押されて、 ほとんど抵抗することができませんでした。私は歩き出して、叔父の家で、ジャシンタがまだ家にいるか呼んでみました。すると私はジャシンタが兄のフランシスコと一緒にベッドの横で跪いて泣いているのを見ました。
「あなた、行かないの?」と私は尋ねました。
「ルチアちゃんが行かないなら、私たちだって行かない。来て!」
「うん、行くわ!」と私は答えました。
二人の顔は、喜びに輝き、私と一緒にコヴァ・ダ・イリヤへ急ぎました。
大勢の人々は道の途中で、私たちを待っていました。そこで私たちは群衆を押しわけながら、やっとあそこに到達することができました。この日は、私たちに秘密を教えてくださった日です。そのあと、聖母が私の弱くなった熱心を再び生き生きとさせるために、私たちにこう言われました。
「罪人たちのためにあなたたちをいけにえにしなさい。あなたたちが犠牲を捧げるときには特に、イエズス様とマリア様にたくさんこう言いなさい。イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、マリアの汚れなき御心に対して犯される罪を償うためです、と。」

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 5. ルシアの疑いと誘惑

2017年09月20日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。

第二の手記

II. 御出現


5. ルシアの疑いと誘惑 [注19]

[注19] これは、偽物だと疑うというよりは、ルシアが混乱し助けがなかった状況のことである。彼女の家庭における様々な困難と、司祭の慎重な態度によって引き起こされたものである。

そうこうしていると、私たちの小教区の主任司祭は何が起こっているのか知るようになりました。司祭は母に伝言を送り、司祭館に私を連れてくるようにと命じました。母はもう一度生き返って息することができるように感じ、この出来事の責任を司祭が取ってくれると思いました。そこで母は私にこう言いました。

「明日、私たちはミサに行きます。朝になったら最初にすることです。それからおまえは神父様の司祭館に行きなさい。神父様がなさるとおりおまえは真理を言いなさい。神父様がどのようにおまえに本当のことを言わせるかはどうでも良いことです。神父様がおまえを罰するままにさせて、神父様はおまえが嘘をつきましたと認めるように強いる限り、おまえにどのようなことでもさせるがままにさせなさい。そうすれば私は満足です。」

姉たちも母の見方をして、終わりのない脅迫をこしらえました。主任司祭との面会について怖がらせるためです。私はジャシンタとフランシコにそのことを全て言いました。

「私たちも行くのよ。神父様は私たちのお母さんにも私たちを連れてきなさいっておっしゃったの。でもお母さんは私たちにはそんなことは言わなかった。心配しないで!もしも殴られたら、私たちは私たちの主への愛のために、罪人たちのために、苦しみましょう。」

翌日、私は母の後ろを歩きました。母は私にその日、一言もしゃべりませんでした。私はこれから起きようとしていることを考えて、震えていたと認めなければなりません。ミサの間、私は自分の苦しみを天主に捧げました。その後、私は母の後について教会を出て、司祭館まで行きました。ベランダに登る階段を上り始めました。私たちは階段を数歩上ると、母は私の方を向いてこう叫びました。
「もう私を困らせないでちょうだい!今から神父様におまえが嘘をつきましたってちゃんというのよ。そうしたら神父様は主日に教会で、例の件はみな嘘でしたって言うことができるんだからね。そうすればこの事件の終わりになるから。なんて素晴らしいったらありゃしないよ!この群衆がコヴァ・ダ・イリヤに駆け寄せてトキワガシの林の前でお祈りしてるんだから、これは!」

これ以上何もすることなく、母はドアをノックしました。良き司祭の姉妹がドアを開けてくれて、しばらく待つように私たちにベンチに腰掛けるように中に招いてくれました。ついに主任司祭が現れました。神父様は執務室に私たちを通し、母に座るようにと合図しました。私には机のほうに来るように頼みました。神父様が私にとても静かにしかもとても親切に質問をしているのを見て、私は驚きました。私はしかし、なにがやって来るのかとまだ恐れていました。尋問は非常に細かく、疲れると言いたいほどでした。
神父様はこの短い所感で結論づけました。
「天からの啓示であるようには、私には思えない。私たちの主はそのような場合にはそのような伝達をする霊魂たちに、何かが起こったのかを聴罪司祭や主任司祭に報告するようにと命じるのが普通だから。でも、この子供は、その反対に、できる限りそれを自分のために秘密にしている。これは悪魔の欺きかもしれない。様子を見守りましょう。私たちがこれについてどう考えなければならないかは将来が教えてくれるでしょう。」

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 4. 聖母のご出現

2017年09月19日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。

第二の手記

II. 御出現


4. 聖母のご出現

私は5月13日のご出現を描写して筆を遅らせないようにいたします。それについて司教様はよくご存じのことであり、ここでそれについて書き進めるのは私にとって時間の無駄であると思うからです。司教様は、母がどうやって何が起こったのかを知るに至ったのか、母がどれほどのことをして私に嘘をついていると認めさせようと一生懸命になったのかもご存じです。あの日に聖母が私たちに話した言葉を誰にも言わないと、私たちは同意しました。私たちを天国に連れて行って下さると約束なさった後で、聖母は私たちにこう尋ねました。
「あなたたちは、天主がそれによって屈辱されている罪を償う行為として、また罪人の回心を懇願する行為として、天主があなたたちに送り給う全ての苦しみを耐え忍ぶために、自分自身を天主に喜んでお捧げしますか?」
私たちの答えは「はい、私たちはお捧げします」でした。
「それでは、あなたたちは多くのことを苦しむことでしょう。しかし天主の恩寵はあなたたちの力づけるものとなるでしょう。」

6月13日、聖アントニオの祝日は、いつも私たちの小教区の盛大な祝日でした。その日は、私たちは普通、朝早くから羊の群れを牧場へ連れて行き、9時には羊小屋へ連れ帰ってもう一度柵の中に入れてから、私たちはお祭りに行きました。母と姉たちは、私が祝い日をどんなに楽しみにしているかをよく知っていて、私によくこう言いつづけていました。「私たちは、おまえが祭りに行かずに、コーヴァ・ダ・イリヤへ行ってあの貴婦人と話すのを見なければね!」

この日が来ると、誰一人として私に一言も言いませんでした。私に関しては、家族のものは、「ルチアを放っておいて、彼女が何をするかを見てみよう」と言い合わせていたかのように行動しました。夜明けに、私は羊の群れを外に出しました。群れを9時に柵に戻して、10時にミサに与って、その後コヴァ・ダ・イリヤに行くつもりでした。
しかし、日が昇るやいなや、兄が私を呼びに来ました。兄は私に家に帰るように言いました。何故なら、家に数名の人々が私を訪ねてきて、私に話をしたがっているからだ、と。兄が群れと共に残り、私は訪問客が何を望んでいるのかと家に帰りました。
すると何名かの女性や、男の人たちが、ミンデとかトマール、カラソコス、ボレイロスなどの場所から来た人々が家に来ているのを見ました。[注18]
みんなは私と一緒に、コーヴァ・ダ・イリヤへ行きたいと言うのです。私はまだ早いから、私と一緒に8時のミサにあずかるように招きました。ミサの後、私は家へ帰りました。この良い人達は庭のイチジクの木陰で、私を待っていました。

[注18] これらの場所はファチマの近辺、25キロメートルほどの距離のところにある。

母も姉も軽蔑的な態度をとり続けており、これが私の心を傷つけ、侮辱を受けるほど辛いものでした。
11時頃、私は家を出て叔父の家でジャシンタとフランシスコを呼びました。そこで彼らは私を待っていたのです。そして私たちはコヴァ・ダ・イリヤに向かいました。待ちに待ったときが来たのです。あの人々もみな私たちについてきて、いろいろな質問を浴びせました。その日は、私は苦々しさで一杯でした。母が深く歎いていることが分かりました。母はどんな値を払ってでも、母の言葉によれば、私が嘘をついていたと認めさせようとしていました。
私は母の望み通りにしたかったのですが、しかしそうする唯一の方法は、本当に嘘をつくことでした。幼い頃から、母は子供たちに嘘の恐ろしさを教えていました。
もし私たちの誰か一人が嘘をついたら、母は厳しく罰するのが常でした。
母は度々こう言いました。
「私の子供たちにはいつも本当のことを言うようにさせてきたのに、今、一番下の子にこのような嘘をつかせるがままにさせるとでも言うの?もしもこれがちょっとしたことだったならともかく!こんなにも多くの人々を騙して、みんなをここまで連れ出してくるような桁外れの嘘を!」
この苦々しい小言の後で、私の方を向いてこう言うのです。
「いいかい、おまえの欲しいものをよぉく決めておきなさい。おまえが嘘をつきましたとみんなに言ってこの騙し話しを取り消すか、さもなければ、私はおまえをくらぁーい部屋に閉じ込めておまえはもうお日様の光も見ることがなくなるよ。私が辛い思いをしたゴタゴタの後で、こんどはこんなことが起こるなんて!」
姉たちは母の側について、私を取り巻く雰囲気は、全くの軽蔑と馬鹿にした態度でした。
私は昔のことを思い出して、こう自問しました。「少し前まであった家族の私に対する愛情は一体どこに行ってしまったの?」と。私の一つの慰めは、主のみ前で泣き、主に私の犠牲を献げることでした。私がすでに司教様に申し上げたことに加えて、まさにこのような日に、聖母はあたかも私に何が起こっているかを当てるかのように私にこう言われました。
「あなたはたくさん苦しんでいますか?落胆しないで。私は決してあなたを見捨てたりしません。私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、あなたを天主へと導く道となるでしょう。」
ジャシンタが私が涙を流しているのを見たとき、慰めようとして私にこう言いました。
「泣かないで。これは確かに、天使が言った犠牲で、天主が私たちに送ってくださる苦しみなのよ。だからルチアちゃんはくるしんでいるの。天主に償いを捧げて、罪人たちを回心させることができるために。」

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 3. 家での問題

2017年09月18日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

II. 御出現


1914~1917までファチマの主任司祭だった、マヌエル・マルケス・フェレイラ神父

3. 家での問題

ここで、司教様、私が7歳だった時から私が10歳だった時までの羊飼いの3年間の終わりに来ました。この3年間で、私の家庭と、敢えて申し上げるなら小教区教会とは、ほとんど全く変わってしまいました。ペナ神父様は転勤になってもはや私たちの主任神父ではありませんでした。その代わりにボイシニャ神父様が主任神父になりました。[注16]

[注16] この司祭の本名はマヌエル・マルケス・フェレイラ神父だった。ボイシニャ神父として知られていた。彼は1945年1月に亡くなった。

この極めて熱心な新しい主任司祭は、終わりを知らずに踊り続けるダンスというような異教の習慣が、あまりにも普通に小教区で行われているのを知り、すぐに日曜日のミサの説教で、これに反対する説教をしはじめました。公的にも私的にも、神父様はこの悪い習慣を攻撃する機会を全て使っていました。私の母はこの良い神父様がこのようなやり方で話すのを聞くや否や、私の姉たちにダンスに出席することを禁じました。

私の姉たちの模範は、他の人々もダンスに参加しないようにさせたので、ダンスの習慣は次第になくなりました。同じことは子供たちにも起こりました。子供たちは自分たちで小さな別のダンスに行く習慣でした。これは私の従姉妹のジャシンタについて書いたとき司教様にはすでに説明したとおりです。

このことについて、ある人はある日、母にこう言いました。
「今までダンスをするのは罪ではなかったのに、新しい主任司祭が来たからというだけの理由で、ダンスが罪だなんて。いったいどうしてそんなことが起こるのかしら?」と。

母は答えました。「私は知らないわ。私が知っているのは、神父様はダンスをするのを望まないということ、だから、私の娘たちはもうそのような集まりには行かないということだわ。譲歩したとしても、娘たちが家庭の中ですこし踊るのは許すぐらいね。神父様もそれには害が無いとおっしゃっているから。」

その頃、二人の一番上の姉たちは婚姻の秘蹟を受けて家を離れました。父は、悪い仲間の手に陥ってしまいました。そこで父は自分の弱さの罠に落ち、私たちの土地の一部を失いました。[注17]

[注17] ルシアの父の行動において、彼の酒好きをオーバーに理解してはならない。確かに酒を好んだがアルコール中毒ではなかった。宗教に関する彼の義務遂行(復活祭の聖体拝領など)については、確かにファチマの小教区では数年間その義務を果たさなかった。それは小教区の主任司祭と仲が悪かったからである。しかしヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの教会で復活祭の義務を果たしていた。

母は私たちの生活費が足りなくなっているのを見ると、姉のグロリアとカロリナとをよその家へ手伝いに出す決心をしました。私たちに残っていたわずかな畑を耕すために、兄だけが家に残りました。母は家事をして、羊の世話をするのは私でした。

かわいそうな母は不幸のどん底に沈んでるようでした。ある晩、私たちは囲炉裏を囲んで、父が夕食に帰るのを待っていた時、母は娘たちがいつも座っていた不在の席を見て、深い悲しみをもってこう叫ぶのです。
「我が天主よ、私たちの家庭の喜びはどこへ行ってしまったのでしょうか?」と。
そこで、頭をそばの小さい机に圧し付けて、苦い涙を流すのです。母と共に、兄も私も泣きました。それは私が経験した最も悲しい場面でした。姉たちを待ち焦がれて、あまりにも悲惨な母を見て、心が本当に引き裂かれました。私はその時まだ子供でしたが、私の家庭の状態を良く理解しました。

その時、私は天使の言葉を思い出しました。「とりわけ、主があなた方に送る犠牲を、従順に受け入れなさい。」そのような時には、私は一人っきりの場所に引きこもり、
私の苦しみを見せて母の苦しみを増やさないようにしました。この場所は、普通はうちの井戸でした。そこでひざまずいて、井戸のふたの石板の縁に寄りかかって、私の涙はその下の水に混じりました。私はこの苦しみを天主に献げました。

時々は、ジャシンタとフランシスコが来て、このように悲しみに沈んでいる私を見つけたものでした。私がむせび泣いて、何も言えないので、二人も大量の涙を流して泣き、彼らは私の苦しみを共にしました。そしてジャシンタは大きな声で、私たちの苦しみを天主に献げました。「わが天主よ、償いの行為として、罪人らの回心のため、この苦しみと犠牲を全て御身に御捧げいたします」と。祈りの言葉はいつも同じではありませんでしたが、その意味はいつも同じでした。

たくさんの苦しみは、母の健康を損ね始めました。母はもう働くことができなくなり、
よそへ手伝いに出ていた姉のグロリア [訳者注1] は、母の看病と家事をするために、家へ帰りました。私も家事を手伝いました。母は近くの全ての内科や外科の医者らの診療を受けました。ありとあらゆる種類の薬を試してみました。しかし少しも良くなりませんでした。
良き主任司祭は、自分のロバの車に乗せて母をレイリアまで連れてくださることを提案して下さいました。それはそこのお医者さんに見てもらうためです。
姉のテレサと一緒に母はレイリアに行きました。
しかし、母は、半死半生の病態で旅路から家に戻りました。あまりのも多くの診察の後疲れ切ってしまい、利益になるような結果は全くありませんでした。
結局は、サン・マメーデにいる医師の診察を受けると、この先生は、母には心臓病があり、脊髄が歪んでおり、腎臓の機能不全があると言いました。そこで母に赤く熱くなった針での治療と様々な薬を頓服するように命じました。これのおかげで母の体調は少し良くなりました。

以上が、1917年5月13日がやって来たときの私たちの家庭の状態でした。兄が兵役の年齢に到達したのもこの頃でした。兄の健康は良好でしたから、兄が兵役に受かる多くの理由がありました。更に戦争の最中でしたから、兵役義務の免除を得るのは難しいことでした。

母は、ひとりぼっちで家に残ることを恐れて、また、畑の世話をするのが誰もいなくなると思い、姉のカロリナ[訳者注2]を家へ帰るようによびました。
その時、兄の代父が兵役免除を兄のために取ってくれると約束しました。この代父は兄の診断書を書く責任者の医者の言葉を証明書に書いたので、良い主は、母にこの助けを与えてくださいました。


[訳者注1] 「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」1987年/ドン・ボスコ社には、カロリナとなっているが、ポルトガル語の原文によると、ここはグロリアとなっている。Esta, não podendo já trabalhar, mandou vir, para a tratar e tomar conta do arranjo da casa, minha irmã Glória.

[訳者注2] 「ファチマの聖母の啓示~」1987年には、グロリアとなっているが、ポルトガル語によるとここはカロリナとなっている。Com o receio de ficar sem ter quem Ihe cuidasse as terras, minha mãe mandou também vir para casa a minha irmã Carolina.

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 2. 1916年の天使の御出現

2017年09月16日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

II. 御出現


2. 1916年の天使の御出現

しばらくして、私たちは羊たちを連れて同じ場所に戻りました。すると全く同じことがまた起こりました。私の同僚たちはもう一度その話しを全て語りました。しばらく時を置いて、同じことが繰り返されました。母は、家の外でこれらのことが語られているのを3度も聞きましたが、それについて家では私から一言も聞きませんでした。母は極めて不愉快に思い、私を呼んでこう尋ねました。

「さあ、ご覧なさい!おまえたち女の子があそこで見たというのは何なのかい?」
「お母さん、私には分からないわ。それが何か分からないの!」

私たちを馬鹿にし始める人々もいました。姉たちは、私の初聖体の後しばらく私が他のことに気を取られていたようだったのを思い出して、むしろ軽蔑したように私にこう尋ねました。
「紙に包まれた誰かを見たっていうの?」

私はこのような馬鹿にした言葉としぐさを深く感じ取りました。今まで私はいつも抱擁と優しい態度しか受けたことが無かったので、ぐさりと感じました。しかしこんなことは何でもありませんでした。本当です。司教様、私は良き主が将来私が受けるべく、とっておかれたことを知らなかったのです。

このころ、すでに司教様に申し上げましたように、フランシスコとジャシンタは、自分のお母さんから彼らの羊の群れを世話する許しを受けました。そこで私は、私のお友達らから離れて、その代わりに二人の従弟妹すなわちフランシスコとジャシンタと一緒に羊の世話をするようになりました。他の羊飼いたちと一緒にセラに行くのを避けるために、私たちは、叔父や叔母や私の両親の所有地で羊を牧するように決めました。

ある晴れた日、私たちは羊の群れと一緒に、私がすでに申し上げた丘の東側の坂の麓にある両親の所有地へ行きました。この土地はチョウサ・ヴェリャと呼ばれていました。私たちが着いた後すぐ、午前の10時頃、細かい小雨がばらつき始めました。とても細かい雨で霧のようでした。私たちが避難することができるような雨宿りの場所を探して、私たちは丘の脇に登り、羊の群れもついてきました。

こうして、岩の間にあるこの祝福された(カベソの)洞窟に私たちが入ったのは初めてのことでした。これは私の代父のアナスタシオ所有のオリーブの林の真ん中に立っていました。そこからは、私が生まれた小さい村が見えますし、両親の家や、カサ・ヴェリャの村落とアイラ・ダ・ペドラも見えます。オリーブの林はいろいろな人々の所有となって、いろいろな村落の境界線まで広がっていました。
私たちは、そこ岩の間で一日を過ごしました。雨は止んで太陽が明るく輝いていたにもかかわらず、です。私たちはお昼を食べ、ロザリオを唱えました。
その日、私たちがロザリオを、司教様に既に申し上げたやり方で、つまり、珠一つに付き「めでたし聖寵」と「天にまします」とお祈りの最初の言葉だけでやるやり方で唱えたのか、よく分かりません。遊びたいという一心からそうやっていました。私たちの祈りが終わると、私たちは小石遊びをしました!
私たちはほんの少しの間遊んだのですが、強い風が木々を揺らし始めました。

私たちは、一体何か起こっているのかと、思わず振り向きました。何故なら普通は日中は穏やかだったからです。すると、私たちは、オリーブの木々の上を、私たちのほうに向かって、すでにお話しした姿が来るのを見ました。[注12]

[注12] これは天使の最初の御出現であり、天使は1916年に3回現れた。

ジャシンタとフランシスコはそれを以前まだ見たことがありませんでしたし、私もそれについて彼らに話したことがありませんでした。

その姿が私たちに近づいたとき、様子をはっきり見ることができました。それは、およそ14、5歳の美少年で、雪よりも白く、太陽がそれを通して輝くときクリスタルよりも透明で、とても美しい方でした。私たちに近寄ると、この方は私たちに話しました。
「恐れるな!私は平和の天使です。私と一緒に祈りなさい。」
地面に跪き、額が地面につくまで身をかがめて、次の祈りを三度私たちに繰り返えさせました。
「わが天主よ、私は信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。私は、あなたを信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々のために、御身に御赦しを乞い願い奉る」と。
すると、天使は身をおこして、こう言いました。
「この通り祈りなさい。イエズスとマリアの聖心は、あなたたちの懇願の声に注意深くおられます」と。

天使の言葉は、私たちの心に深く刻み込まれ、絶対に忘れえないものとなりました。それからというものは、私たちは天使のようにひれ伏して、時々疲れ果てて倒れてしまうまで、天使の言葉を繰り返し繰り返し祈って長い間、時間を過ごすのを常としました。私は二人の子供たちにすぐに、これは秘密にしておかなければならないと警告しました。天主のおかげで、彼らは私が望むとおりにしました。

しばらく時がたち[注13]、夏が来ました。私たちがお昼寝に家に行かなければならないときが来ました。

ある日、両親が所有している庭園(私たちはこれをアルネイロと呼んでいました)の底にある泉の石の板の上で遊んでいました。(私はこの泉についてはジャシンタについての報告書で司教様に既に申し上げたことがあります。)

突然、私たちの横に同じ姿、いえむしろ、私にはそう見えたのですが天使を、私たちは見ました。

「あなたたちは、何をしているのか?」天使は尋ねました。
「祈りなさい。極めてたくさん祈りなさい。イエズスとマリアの至聖なる聖心は、あなたたちに、憐れみの計画をお持ちです。いと高き者に、祈りと犠牲を絶え間なく献げなさい。」
「犠牲を捧げるには、私たちはどうしなければなりませんか」と私は尋ねました。

「あなたたちができることを全て犠牲として、天主がそれによって犯されている罪の償いの行為として、また、罪人たちの回心のための懇願として、それを天主に捧げなさい。こうして、あなたたちはあなたたちの国に平和を呼び寄せるでしょう。私はその守護の天使、ポルトガルの天使です。とりわけ、主があなたたちに送る苦しみを服従して受け入れ忍耐しなさい。」

[注13] 同じ天使の第2回目の御出現。

相当長い時が経ちました。私たちはある日、私の両親の所有の土地に私たちの羊を牧しに行きました。既に申し上げたようにこの土地は丘の坂に位置し、ヴァリニョスよりもすこし高いところにありました。それはプレゲイラと呼ばれたオリーブの林です。私たちはお昼を食べた後、丘の反対側にある岩の間の穴に入って祈ろうと決めていました。そこにたどり着くために私たちは坂の周りを通り、プレゲイラの上の岩をいくつか登りました。羊がこれらの岩を登るのは大変難しいことでした。

私たちがそこに到着するやいなや、私たちは跪いて、額を地面に付けて、天使の祈りを繰り返し始めました。「わが天主よ、私は信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。私は、あなたを信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々のために、御身に御赦しを乞い願い奉る」と。

私たちがこの祈りをどれほど多く繰り返したのか分かりません。すると普通では無い光が私たちを照らし出しました。私たちは何が起こっているのかを見ようと立ち上がり、天使を見ました。天使は左手にカリスを持ち、その上にホスチアがありました。ホスチアからはカリスの中に血がしたたり落ちていました。[注14]

[注14] 同じ天使の第三回の最後の御出現。

カリスを空中に残したまま、天使は私たちのそばに跪いて、私たちにつぎの祈りを三度唱えさせました。
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての祭壇のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、御霊魂、御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

すると立ち上がって、天使はカリスとホスチアを自分の両手に取り、御聖体を私に、カリスから御血をジャシンタとフランシスコに与え [注15] こう言いながらそうしました。

「恩知らずの人々から恐ろしく侮辱されているイエズス・キリストの御体と御血を受け、飲みなさい。彼らの犯罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい。」

[注15] フランシスコとジャシンタはまだ初聖体を受けていなかった。しかしながら、彼らはこれを秘蹟による御聖体拝領であるとは考えなかった。

再び天使は地にひれ伏して、私たちと一緒に更に3回同じ祈りを繰り返しました。「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。・・・」そして、姿が消えました。

私たちは長い間、この姿勢で留まり、何度も何度も同じ祈りをとなえ続けました。ついに私たちが立ち上がってみると、すでに暗くなっていて、家に帰る時である、ということに私たちは気がつきました。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  Ⅱ. ご出現 1. 1915年の神秘的な前兆

2017年09月15日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

II. 御出現


1. 1915年の神秘的な前兆

これが私が7歳になるまでどんなふうであったかと言うことです。母は私が7歳になると、私たちの羊の世話を私がするようにと決定しました。父は賛成せず、姉たちも賛成しませんでした。彼らは私のことが好きだったので、私のために例外を作ろうと望んだのです。母は同意しませんでした。「あの子も他の子と同じよ。カロリナはもう12歳になったし、あの子は畑で働き始めること、あるいはあの子が好きなように糸巻きや機織りを学ぶことができる年頃になったわけ。」

そこで私たちの羊の群れの世話は、私に与えられました。[注9] 私が羊飼いとしての生活を始めたというニュースは、他の羊飼いたちの間にすぐに広がりました。ほとんど全てのその様な子供たちがやって来て私の伴侶になることを提供してくれました。私は皆に「はい」と答えて、村はずれの坂で会おうと約束しました。翌日、村はずれは羊と羊飼いたちの群れで一杯でした。あたかもそこに雲がおりてきたかのようです。

しかし私はその様な喧噪の中であまり落ち着きませんでした。そこで羊飼いたちの中から三人を選び、誰にも一言も言わないで、私たちは羊たちを反対側の坂で牧することにしました。私が選んだ3人とは、テレサ・マチアス、その姉妹のマリア・ローサ、そしてマリア・ジュスティノでした。[注10] 翌日、私たちはカベソという名前で知られている丘の方角に出かけました。私たちは北側の坂を登りました。ヴァリニョスという、司教様がもうその名前をご存じの場所は、同じ坂の南側にあります。その東側の坂には、私が既にジャシンタについての報告で申し上げた洞窟があります。私たちの群れと一緒に、私たちは丘のほぼ頂上まで登りました。私たちの足元にはオリーブや樫や、松や、トキワガシなどの木々が広く伸び、下の谷の高さまで下に広がっていました。

お昼頃に、私たちは昼食を食べました。この後で、私は伴侶らに私と一緒にロザリオを祈るように誘い、彼女たちは喜んで同意しました。私たちがロザリオを始めるやいなや、そこ、私たちの目の前に、木々の上の空中に置かれた人影を見ました。雪でできた御像で、太陽光線によってほとんど透明になっているように見えました。

[注9] これは1915年のことであった。
[注10] この3人は全て、まだ生存中に、ルシアがここで語ることについてコンドル神父によってインタビューされた。

「あれ何?」私はビックリして伴侶らに尋ねました。
「知らないわ!」
私たちは祈り続け、目は目前の姿をじっと見つめていました。私たちが祈りを終えるとこの姿も消えました。私にはいつものことですが、何も言わないことにしました。しかし私の伴侶たちは、家に着くなり何が起こったのかを家族の人々に言いました。ニュースはすぐに広まりました。ある日私が家に着くと母は私に質問しました。

「ほらごらん!おまえたちが私が何か知らないものをあそこで見たそうじゃない。おまえが見たのは何だったの?」
「わかりません。」
私自身説明できなかったので、こう言い続けました。
「何かに包まれている人のように見えたの。」私にはその姿が良く区別できなかったと言おうとしてこう付け加えました。
「目も手もそこにあるのか分からなかったの。」
母はあきれたような仕草をしてその話しをしなくなりました。「子供じみたナンセンスね。」[注11]

[注11] これらの区別のできない天使の御出現は、多分にルシアを将来のために準備するためにあった。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  I. ご出現の前 8. 振り返って

2017年09月14日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

I. 御出現の前


8. 振り返って

私の初聖体について話した事実が現実なのか、あるいは子供の錯覚なのか、私には分かりません。私が知っているのは、これらの出来事は、私を天主と一致させるために、私の心に強い影響を与えたし、いまでも与えている、ということです。私が知らないのは、何故私が今司教様に私たちの家庭生活についてのことを全てお話ししたかということです。しかし、そうするように私に息吹いてくれたのは天主で、天主はその理由を知っておられます。おそらく、これは司教様が、私にそれほどまで多く降り注がれた愛情を受けた後であればあるほど、私たちの愛する主が私にお求めになろうとする苦しみを、私がそれだけ深く感じたと言うことをお知らせになるためかもしれません。司教様は、私たちの主が私に送り給うた全ての苦しみと、主がその御憐れみによってかたじけなくもくださった御恵みとを書くように私に命じられたので、私は、それらの出来事が実際に起こったがままを述べるのが最も良いことだと思います。[注8]

更に、私はそれについて全くの平安を感じています。何故なら、司教様が天主といとも聖なるマリア様とのより大いなる栄光のためにならないとご覧になるものはどんなものであれ、司教様は火に焼き捨ててくださるだろうと私は知っているからです。

[注8] このことはルシアの単純さを明らかにしている。また彼女の書いたものにおける彼女の潔白さと誠実さを示す。

(続く)

シスター・ルシアの第二の手記の日本語訳  I. ご出現の前 7. ルシアの家族

2017年09月13日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第二の手記

I. 御出現の前


ルシアの家


7. ルシアの家族

そのような離脱の時はまれでした。司教様はもうご存じの通り、私は、隣人たちから私たちに委託された子供たちの世話をしなければなりませんでした。この他にも、母は看護婦としてたくさんのことを求められていました。たいしたことのない病気の場合、病気の人々は私たちの家に来て母のアドバイスを求めました。しかし病人が外に出ることができないときには、今度は彼らに母に自分たちの家に来てほしいと頼まれました。母は病人の家で昼間を何日も過ごし、時には夜も過ごしました。病気が長引いた場合、或いは病人の状態がそれを必要としたなら、母は時折姉たちを送って病人の寝台の傍らで夜を過ごすように命じました。それは病人の家族に休むチャンスを与えるためでした。病人が若い家族の母親である場合には、或いは、子供たちの騒がしさを耐えることができない人の場合、母は幼子たちを私たちの家に連れてきて私がその世話をするように命じました。私は子供たちと遊び、どうやって機織りの糸を準備するか教えたりしました。子供たちは木の糸巻きを回転させて、それに糸を玉状に巻いて、それをかせに巻き取り、枠に縦糸が準備されるように糸の玉を導きました。

こうして、私たちにはいつもやることが一杯ありました。普通、私たちの家には、機織りや服を作るのを習いに来た数名の女の子たちが働いていました。通常は、これらの女の子たちは私たちの家族に大きな愛情を示し、自分たちの人生で最高の日々が私たちの家で過ごした日だったとよく言ってくれました。一年のある決まったときには、姉たちは日中に畑仕事に出なければなりませんでした。そこで姉たちは、機織りや縫い付けを夜しました。夕食の後、父が祈りの先唱をして夕の祈りがあり、それから仕事が始まりました。

誰もが何かをしなければなりませんでした。姉のマリアは機織り仕事に行き、父は糸巻きを一杯にして、テレサとグロリアは裁縫に行きました。母は回転糸巻きを取り、カロリナと私とは、台所をきれいにかたづけた後、裁縫の手伝いをしなければなりませんでした。仮縫いを取り、ボタンを縫う、などなどです。うとうとするのを遠ざけるために兄はアコーディオンを弾き、私たちは様々な種類の歌をそれに合わせて歌いました。しばしば隣人たちも私たちと一緒にいるために家に来ました。これは彼らの睡眠時間がなくなるということを意味していましたが、私たちの陽気な音楽が自分たちの心配を無くさせてくれ、自分たちを幸せで満たすのだとよく私たちに言っていました。

私はいろいろな婦人たちが母に時々こう言うのを聞きました。
「あなたって、ほんとに幸せね!天主様があなたになんてすてきな子供たちを与えたんでしょう!」

トウモロコシを収穫するときが来ると、私たちはトウモロコシの皮を月明かりで見て取りました。私はトウモロコシの積まれた山のてっぺんに座って、濃い赤の穂軸が現れたら、そこにいる人々に抱擁をするように選ばれていました。

(続く)