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「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。」を誤って理解していませんか?

2021年01月03日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、動画「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。」をご紹介します。
※この動画は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

ビルコック神父様によるお説教 2020年6月10日「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。」


ビルコック神父様によるお説教
2020年6月10日 Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、手短に先ほど朗読された福音について申し上げましょう(ルカ、6、36-42)。何かキリスト教徒を馬鹿優しい弱虫に貶めるような響きがあると思われたかもしれません。私たちの主、イエズス・キリストは仰せになります。「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。人を罪に定めるな、そうすれば罪に定められぬ。」(ルカ、6、37)。

もしも文字通りに私たちの主、イエズス・キリストのこの言葉を理解すると、何ごとを問わず、キリスト教徒なら何も言ってはならない、主張してはならない。何かがあってもキリスト教徒は口出ししてはならない、あきらめなければならない、引っ込むべきだ、黙らなければならない。キリスト教徒はずっとさばいてはいけない。評価してはいけない。いや、むしろ、ずっとずっと忍従するのみ許されている。

このような誤った考え方を持った人々は意外と多いのです。カトリック信徒にも見られるし、またカトリックを敵にしている人々にもこのような「キリスト教徒像」が見られます。そして、このような考え方に基づいて、カトリック信徒へ「カトリックだから、黙れ、忍従せよ」として利用されることは多いです。つまり、「あなたカトリックだろ。だから黙殺せよ。だから何もするな。だから忍従せよ。だから苦しめ」と言われて、カトリックにはそれだけが許されているかのような空気があります。

このようなカトリック像の根拠として、先ほどの私たちの主のみ言葉にあるとされていますが、それはイエズス・キリストのみ言葉を間違って理解することになります。いや、むしろ、このような理解は私たちの主、イエズス・キリストのみ言葉を歪曲することなのです。

私たちの主、イエズス・キリストと彼のカトリック教会は裁判所を廃止しようとしたことは一度もありません。そういえば、カトリック教会は(世俗社会から独立した)裁判所をちゃんと持っています。裁判所を持つということは、カトリック教会は裁いているということを意味します。また同じように、カトリック信徒として、正義の徳を常に実践しなければなりませんが、正義の徳は本質的に「裁くこと、つまり判断すること」を要求する徳なのです。

「正義(Justice)」とは何であるかというと、「各々の人に、その恩、その分に応じて恩を返す徳」なのです。そして、実際に、恩返しするために、ひとまずどれほど恩を頂いたかを確認して、何を恩返しすべきかを判断する必要があります。ですから、判断すること、つまり「裁く」ことは正義の徳の根本要素なのです。そして、カトリック教会は正義の徳を称賛して、その実践を信徒に求めます。

また、善き天主は私たち人間に知性を与え給うたのです。教父たちをはじめ、聖職者たちはいつもいつも、カトリック信徒にこの知性を養い発展していくように勧めています。しかしながら、「知性」だけの行為とは、「知性」の本質的な要素とは、「評価する」あるいは「判断する」ということです。つまり知性は裁く能力です。では私たちの主、イエズス・キリストは「人をさばくな」を仰せになった時はどういう意味でしょうか?



「さばくな」という文字だけを取り出して、文字通りに解釈してしまうと意味を成しません。つまり、「知性を黙らせて、忍従せよ」ということではありません。使徒たちに向けた「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。」という言葉を理解するためには、先ほどの福音のその前の文章とを一緒に読むのがよいです。「御父が慈悲深くあらせられるように慈悲深い者であれ。」(ルカ、6,36)と。

また、更にいうと、その前の文章を一緒に読むとより明らかになります。本日のミサの福音にはなくて、数行前にある文章です。私たちの主、イエズス・キリストは使徒たちに「あなたたちは敵を愛し」(ルカ、6、27)と仰せになりました。つまり、悪人でも自分の友達を愛しているのですから、あなた方、カトリック信徒が友達だけを愛するのであれば悪人より良いということはないでしょう。ですから、「この話を聞いている人々に言おう。あなたたちは敵を愛し」(ルカ、6、27)と。

ですから、「人をさばくな、そうすればあなたたちもさばかれぬ。」というイエズス・キリストのみ言葉を理解するためには、敵への愛と慈悲の要求を前提に置かなければなりません。そういえば、「慈悲深い者であれ」と命令されていますが、慈悲深くあるための前提には「裁く」あるいは「判断」が必ずあります。というのも「慈悲深くする」という意味は、あるみじめさ、ある悲惨事を憐れむことを意味します。つまり、目の前に惨めさがあると判断してはじめて憐れむことは可能となります。ですから、「慈悲深くする」ために、隣人をさばく必要があるということです。

ですから、このように、明らかに「必ず何にかんしてもさばくな」という命令ではないのです。いや、むしろ私たちの主、イエズス・キリストが私たちに命令するのは「慎重に判断せよ」ということです。イエズス・キリストが断罪するのは「判断する」ことではなく、「軽々しい判断」なのです。「軽々しい判断」とは、何の根拠はないものの、何の手掛かりあるいは証拠がないものの、隣人を罪を定めるということです。

また、私たちの主はともに「口」による罪を断罪します。つまり、人前で根拠なしに隣人に罪を定める悪口と誹謗をイエズス・キリストは咎めます。または、自分自身を慰めるために隣人を判断することをもイエズス・キリストは咎めます。要するに「隣人はこれほど堕落しているのだから私はましだ」とい気持ちを得るための判断をイエズス・キリストは咎めます。



つまり、隣人を悪く評価することによって、自分の評価を高めようとするようなものです。ですから、福音の次の部分には、梁とわらくずのたとえをイエズス・キリストは取り上げます。まさに、自分自身を慰めるために隣人のことをさばくという。これはまさに、ファリサイ派の人々が常にやっていたことです。ファリサイ派の人々は多くの人々をさばくことによって、自分自身が立派だと見せかけていたのです。

ファリサイ人と税吏のたとえにはありますね。ファリサイ人は税吏について「私はこのようなくずではないからさ」といった態度で隣人をさばきます。そうすることによって、ファリサイ人は自分自身を高めようとしていて、立派な人であるかのように見せかけます。このファリサイ人は理に適わないのです。まず、自分自身に関する事実を認めないということです。慎みの心に背く態度です。

隣人をさばくためには、慎みが必要です。むろん、隣人をさばくことはときどきは必要です。教父たち全員そろって明らかにこのみ言葉について説明します。「一切裁くな」ということではなくて、「憐み深く仁慈であれ」ということです。これこそ、本日の福音の教訓なのです。そのためにはまず第一に、「自分自身をよく裁くように」習慣づける必要があります。

そして、「自分自身をよく裁く」ためには、天主に向かって、自分自身をありのまま、素直に、忠実に評価するということです。罪人なる自分自身として自分を知ることです。ですから、自分自身の欠点、また弱み、また天主への依存において、自分自身を知れば知るほどに、隣人をよく裁くことにつながります。つまり、自分自身の罪を知って、隣人の罪を見て「罪だ」と判断することできるようになります。私たちはどうしても天主の御憐みを得たいので、隣人の罪を裁くときにも自分自身の罪を自覚し、自然に憐み深く行為するようになります。

要するに、人をさばくな、「そうすればあなたたちもさばかれぬ」とイエズス・キリストが仰せになる時、「愛徳における順番」、つまり「愛徳の秩序」を示してくださいます。隣人に対して本物の慈悲、それから本物の正義を全うしたいと思うのなら、つまり、正しい真の判断を下したいと思うのなら、必ずその前に天主との関係において自分自身をさばくべきだという教えです。そして、天主への依存が存続する限りにおいて、隣人をさばく時に正しい判断をして、慈悲深い判断をして、公平な判断をすることができます。

しかしながら、一方で、ある霊魂が傲慢の内に生きているのなら、言いかえると、傲慢の霊魂が天主を標準に自分自身をさばくことなくて、自慢げに「自分自身が善いもの」だと決めつけるな、このような時には、隣人への判断は必ず歪められています。慈悲も無理となります。
ですから、本日の福音でのイエズス・キリストの教えは自分自身を天主の目の下に置くようにということです。

隣人をさばく必要があります。物事をさばく必要もあります。愛する兄弟、罪は罪です。冒涜は冒涜です。涜聖は涜聖です。物事をそのありのままに、その現実通りに評価することを習わなければなりません。しかしながら、だからといって、隣人を罪に定めてはいけません。断罪してはいけません。霊魂の裁き、意図の裁きは天主に譲りましょう。最後の日、天主はお裁きになられますので、隣人に対しても、自分自身に対しても天主は判決を渡されることを忘れないでおきましょう。



私たちカトリック信徒はどうしても天国に入りたい、どうしても私たちの罪に対して天主の御憐みを頂きたいものだから、隣人に対して憐み深くに振舞っていきましょう。慈悲深くあるいは憐み深く振舞うということは、無条件に罪を黙殺するようなものでもないし、また罪は罪ではないかのような黙認でもありません。また、罪の前に目をつぶって、罪は増えていくことを黙殺してもよいわけがありません。天主の栄光にかかってくるので、それは一切ありません。

憐み深く付き合うということは罪人である隣人を見たら、その隣人は天主に愛されているということを思い出して、また天主の御血によって贖罪された霊魂であることを思い出しましょう。ですから、罪人にたいして憐みを示してあげるということは、隣人の霊魂は天主のご慈悲を仰げるようになるために行為するということです。

どれほど慈悲深く振舞っても、ある霊魂が天主のご慈悲を頑固に拒否したら、悪が広まらないためにもちろん厳しく行為せざるを得ない場合もあります。しかしながら、隣人の霊魂が天主のご慈悲を求めている場合、隣人に対して全力で慈悲深く付き合って天主のご慈悲を垂れることにつながりますように。愛想よく、気前よく振舞いましょう。

そして、神父は毎日、ミサの際に言っているように「われらが人に赦す如く、われらの罪を赦したまえ」。私たちに対する天主の裁きの基準は、私たちがどのように隣人をさばいたかに基づくことになります。また、私たちの罪に対する天主の赦しの程度は、私たちがどのように隣人の罪を赦したかによります。これは愛徳なのです。隣人への愛徳は天主への愛徳を全く密接につながっています。

本日の福音はデリケートで難しかったかもしれませんが、本日の福音をよく理解するために、本日の聖ヨハネの書簡に照らす必要があります(ヨハネの第一の手紙、4、8-21)。要するに、愛徳に照らしてこの教訓を理解することです。愛徳は一つしかありません。天主への愛徳と隣人への愛徳は同じ愛徳です。

ですから、憐みの聖母にお祈りしましょう。私たち慈が悲深くあられるように、善良であられるようにお祈りしましょう。馬鹿やさしくならないように祈りましょう。つまり、罪はいつまでも罪であることを忘れないように祈りましょう。
そして、罪人である私たちは、私たちの主、イエズス・キリストによって贖罪されたというのは、私たちは罪人であるからだということを忘れないように祈りましょう。私たちが犯した罪の御赦しを天主から頂くように祈りましょう。罪の償い、悔い改めによって御赦しを得らえるのは確かです。しかしながら、このような赦しと慈悲を得るためには、また隣人に対して慈悲と赦しを実践していかなければなりません。

聖父と聖子と聖霊のみ名によりて、アーメン


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