お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!
あさって、2月23日(水)に、11:00から、新宿で
【子供達にコロナワクチンを打たせない】デモ行進があります。
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ブベ(J-P.Boubée神父)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ブベ(J-P.Boubée神父)神父様のお説教
彼らは天主を追い出した!
2021年10月9日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、本日の書簡は、お祝いする聖ディオニジオについて教えられています。アテナのアレオパゴス(一種の集会)と聖ディオニジオは宣教に挑みました。
聖ディオニジオはギリシャ人の強みを活かして、宣教しました。つまり、高等な哲学を営んだギリシャ人の前に、聖ディオニジオは彼らに思い起こさせます。ギリシャ人たちは天主の存在を見極めていて、第一の原因、霊的な神、唯一なるような創造主の存在、異教の神々と異質な天主の存在を見極めたことを、聖ディオニジオは思い起こします。
そして、天主はギリシャ人が気づいたように存在するのなら、天主はこの世のすべての原因となっているので、人間としての本分を守るために天主へ恩を返すべきだと聖ディオニジオは説きます。ですから、天主の存在は重要な問題となり、その存在に気づいたら我々の人生の目的と原因もわかるので、天主からすべてを頂いている分、なるべくすべてを恩返しすべきですし、また人間ならだれでもそれをすべきだということをも明らかになります。
本日、土曜日の夕方なので、天主の存在の幾つかの証明について話さないことにします。それについて多くの説教や書物がありますので、ぜひご覧ください。大変に面白いテーマで、重要です。今晩は手短に話しますが、天主の存在は理性によって証明できるだけではなく、天啓によって示されている真理であることを注意していただきたいです。
世界中、時代を問わないで、どれほど原始社会、未開社会にせよ、皆、神々や人間を超える存在を認めています。神々の存在は普通なことで、日常のことでした。このような社会において、神の存在を証明する発想なんて考えられないで、そもそも理不尽なことであり、神々の存在を前提に生きていたまでです。神の存在を前提としていたのは、人類の歴史で近代期まででした。啓蒙主義や攻撃的な無神論の台頭によって、はじめてその存在は否定されました。
ちなみに、無神論なら、必ず攻撃的な無神論になるしかありません。というのも、無神論を主張するために、つまり人間を超える存在がいないという人間性に反する発想を主張するために、自分の本性に対して、暴力的に強制的にこのような発想を思い込むように押し付ける必要がありますので、攻撃的になるほかありません。天主の存在を否定することなんてこのぐらい不自然なことであるからです。
要するにかなり多くの当たり前な事実、あるいは自明なことを見ないことにして、これらを黙らせて、これらの事実よりもうるさく自慢しなければ無神論は成り立たなくなるので、必ず攻撃的になります。
このようにどれほど原始社会であっても、未開社会であっても、偶像崇拝、汎神論、フェティッシュ、トーテムなどがいろいろあるでしょうが、神のような存在を否定するなんてありえなかったし、神の存在は自然なことでした。このように、死に迫る時、あるいは困難に迫る時、自然に上へ祈りを捧げていたし、お供えあるいは犠牲を捧げていたのです。確かに偽りの神々だったかもしれませんが、善意をもって人間を超える存在に向かって拝みました。そうしないと人間らしくなくなるからで、大昔から人間にとっての当たり前な営みでした。
さて神々を信じていた多くの人々はもちろん、多くの誤謬を抱いていました。キリストの光に照らされてはじめてはっきりと認識できます。いわゆる聖パウロがいう「ジェンチレス(異教徒、フランス語で親切な人という意味にもなっている)」ですね。聖パウロは異教徒の使徒だと呼ばれています。
そして、大体、異教徒たちは神々を信じて、つまり多神教でした。この意味で旧約聖書の時代において、天主によって選ばれたヘブライ民族は唯一、一神教でしたあえていえばヘブライ民族の特徴です。そしてこれがあり得たのは、天主のご加護のお陰でした。あえていえば、ヘブライ民族の意志に反してまで一神教であり続けさせられました。旧約聖書を見たら、何度も何度も天主を捨てようとして多神教になろうとしました。しかしながら、天主はそれを阻むために何度も何度も絶えず、「唯一なる神はわたしだ。天主なるわたしのみである。だから、我を拝むように命令する。また霊的な天主なので、外形的な犠牲などだけではなく、心において我を礼拝して、愛するようにと命令する」といわんばかりに。
ヘブライ民族の歴史のなかで、天主は何度も預言者あるいは直接にご自分の存在と在り方をお示しになって、ヘブライ民族が逸脱しないように御手を出されました。
というのも、ヘブライ民族は常に多神教や汎神論の国々に囲まれて、時に支配されていたからです。ですから、例えば、出エジプトの際、天主ははっきりと命令されました。「私以外に神を持つな。異国の神を拝むな。私のみ天主である」と特に天主はしつこくしつこく強調されました。
このようにみると、1986年のアッシジの会で本格的に始めた現代のエキュメニズムを見たら文字通りスキャンダルです。また最近なら、高等聖職者をはじめ、ローマで崇拝されたパチャママの事件を見ても、極めて醜くで恥じるべきことです。なぜなら、もはや天主を弄ぶようなことを意味しており、天主は単なる「お守り」、偶像あるいはフェティッシュ扱いされるだけではなく、その上、天主はずっと、このようなことにならないように何度も何度も命令して、教えられて、奇跡やしるしを与えられていたからです。
また、このようなことがあった時、天主は憤怒され、復讐されました。ご自分の民を罰されました。多神教による祭りは天主から見てふざけるというか侮辱の行為に値するわけです。天主を貶めることだからです。天主より低い存在を絶対化して拝むなんて、どれほど無礼であるかは想像に難くないのです。(天皇陛下を忘れて、その代わりに犬を陛下扱いするようなことと似ているでしょう。)
また多神教の他、もう一つの大きな誤謬は多少なりともいつも潜在していました。いわゆる二元論的な誤謬です。つまり善の原理と悪の原理、あるいは霊の原理と肉体の原理などです。このような誤謬も天主を貶めるのです。なぜなら、天主は何度もお示しになったように、「私の他に神はない(…)光をつくり、やみをつくり、(…)私は主であって、これらすべてを行う」(イザヤ、45,5-7)からです。
善の神と悪の神のようなことは存在しません。平和を行う神と戦争を行う神なんかありません。「私は主であって、これらすべてを行う」と天主はイザヤに告げられます。
また、天主は悪を行うのではなく、被創造物は必ず不完全であることから、必要となる不完全は悪に見えても全体から見て悪ではないということです。ですから、欠陥や不完全性があって当然です。
また、正義を全うするためにも、それに値する人々を罰したりするようなことも善いことです。その個人にとって悪であるかもしれないが、全宇宙にとって正義が全うされるので善いことです。この意味で、我々の目に見える悪は天主の御手に、罪を罰するための手段ともなり得て、その意味で善です。
またその他、多くの誤謬も現れました。例えば、神人同形説のようなものです。一応、神は唯一だと認めても肉体のある神だとして、ある種の超人間に過ぎない神になるような説です。福音書の聖ヨハネを読んだらすぐわかりますが、「天主は霊である」ということで、だれも肉体の眼で天主が見えたことはありません。このような誤謬はいわゆる、天主を個人的な趣味あるいは個人にとって都合の良い形に天主を縮減させるというか、還元化させる傾向を指します。
それ以外にもカトリック信徒たちも間接であるものの、このような傾向に陥りやすいかもしれません。たとえば、天主の御決定を自分なりの決定のレベルで理解しようとするときとか、あるいは低い自分のレベルで天主の御決定を理解しようとするときなどです。
特に葬式の際、よく目撃する傾向です。生者たちは死者について、天主であるかのように判断しようとするというか、裁こうとする傾向です。ただし、人間臭い判断に過ぎないわけです。例えば、死者を称賛したりして、もはや聖人であるかのように語るような傾向の時、そうです。このようなことは天主がお裁きになるので、我々が裁けないし、裁いてはいけないのです。我々はあくまでも人間らしい基準で裁くので、非常に限定的です。
このようにして、天主の命令や我々に対する要求を縮減する傾向に繋がります。いわゆるキリストあるいは天主を模範にしないで、良い人を模範するのなら、いろいろ妥協してしまいます。たとえば、断食(小斎大斎)あるいは結婚あるいは祈りなどで妥協します。いわゆる「いやいや、天主様はこのようなことをお望みにならないと思うからさ」という口実を設けて、一時的に人生を楽にしますが、天主をないがしろにするようなことです。ある種の神人同形説なのです。
それから、特に現代で広く広まっている誤謬ですが、いわゆる快楽主義のような主張があります。天主の叡智も天主のみ摂理をも無視して否定する挙句に、「遊ぼう!飲もう!明日のことを考えないように」ということに邁進して、自滅していきます。つまり、常に天主は我々とともにいらっしゃり、またすべてにおいてましますことを見ないふりにする態度です。聖ペトロの手紙にあるように「すべての心配を天主に委ねれば、天主はあたなたちをかえりみたもう」(ペトロの第一の手紙、5,7)ということです。
天主の常にましましたもうこと、つまりすべてにおいてわれわれと共にましましたもうこと、またすべてにおいて天主はましましたもうことという真実を拒否することは、結局、天主を追い出そうとするようなことです。
ところが、この意味で、人間らしいずる賢さの絶頂は「近代主義」であるでしょう。基本的に、近代主義といったら、天主が存在しないという前提の上にたって、信仰や宗教は人間が必要としているから存在するという誤謬です(まさに近代的な宗教学の基盤です)。完全に人間中心主義となります。「このような神が欲しいので、このような神を作って信じよう」というような、とんでもない人間至上主義でもあります。かなりずる賢いです。つまり、個人の良心の産物、あるいは全体の無意識の産物としての神で、人間がそれを必要としておりそれを産んだというような誤謬になりますが、正面から天主を侮辱する誤謬であることはいうまでもありません。この上なく天主に対する侮辱です。天主を都合の良い心理的なくつろぎというレベルに貶めるようなことです。
そして、ヘブライ民族は旧約聖書の時代、聖書の時代以前から、天主の御命令によって、唯一なる、創造主なる、個別なる、全能なる、み摂理なる天主を信じる義務が与えられました。歴史を通じて、ヘブライ民族において天主への正しい礼拝が保たれるように天主はすべてを用意されました。聖書を読んでみると明らかです。考古学に照らしても歴史学に照らしても聖書に描写される歴史は歴史であることが明らかで、聖書の記述の史実性を否定できないのです。(つまり、聖書は神話ではなく、歴史です。言いかえると神々の話ではなく、ヘブライ民族の歴史です)。また、天主の直接の御介入は学問的に言うと立証されているわけです。認めたくない人々が多くいるとしても学界などの先行研究を細かく見たら自明です。
しかしながら、我々カトリックは新約聖書の継承者たちです。幸いなことに、原始の天啓の最高なる発展を福音書によって知っております。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります。(…)私たちが一つであるごとく、彼らもそうなるようにお守りください」とイエズスは天を仰ぎ祈られました(ヨハネ、17,3、11)。
つまり三位一体なる天主とのこの上なく親しい関係を結ぶようにキリストによって招かれています。
これは旧約聖書よりも斬新で、いわゆるレベルアップになります。
聖ディオニジオが評価していたギリシャ人が持っていた天主についての知識を遥かに超えています。聖ディオニジオが言っていました。「あなたたちが崇敬しているものを見ていて、知られざる神と記した一つの祭壇を見つけた」(使徒行録、17、22-34の内)というところですね。つまり生後とみ摂理、宇宙全体を創造して均衡を与えるような天主だけではなく、それ以上です。肉体になりたまえり、我々を贖罪し給うた我々を非常に愛し給う天主であることは福音書ではじめてはっきりと、行動をもって示されました。また、十字架上の生贄によって、我々に本物の命を齎し給い、つねに内面的な命、聖のもとで生きられるように助け給います。
ですから、皆様、我々の日常において、つねに天主がましまし給うことを意識して生きていきましょう。天主のみ摂理は常に働いていることを忘れないで生きていきましょう。天主の栄光のために常に尽くしていきましょう。
また、常にわれわれを見守り給う善なる天主と共にどんどん相応しくよく生きられるように尽くしましょう。
我々は自分自身だけでは何でもできない存在であり、すべてを天主より頂いていることを常に思い出しましょう。そして永遠の命を得しめ給うように常に祈りましょう。
ですから、聖ディオニジオと聖母マリアに祈りましょう。天主への愛の内に生きられるように。天主と共に天主の内に常に生きられるように。修道士に倣いましょう。シャルトル会、カルメル会のような修道士女に倣いましょう。つねに天主の生命の内に常に生きられるように。聖母マリアこそは一生ずっとそれできましたので、聖母マリアに倣いましょう。このように、真のキリスト教徒になれるように、深いキリスト教徒になれるように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ペトゥルッチ(PP. Petrucci)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ペトゥルッチ(PP. Petrucci)神父様のお説教
2022年1月19日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる兄弟の皆様、先ほど聖ヨハネの福音の朗読がありました。聖母童貞マリアの頼みの結果、我らの主、イエズス・キリストが公に行った最初の奇跡についてでした。カナで婚礼へ招かれていました。新郎新婦が恥をかかないために、イエズスは水をワインへ変える奇跡を行いました。このすごい奇跡は人前での初めての奇跡でした。これによって、イエズスはご自分の栄光を示し、弟子たちがイエズスを信じることを助けるためでした。
カナの奇跡は目に見える奇跡でしたが、目に見えない、より偉大な奇跡の兆しでした。最後の晩餐の時の偉大な奇跡の兆しでもあります。つまり最初のミサ聖祭です。パンとワインをご自分の御体と御血へ変えた大奇跡です。まえもって、十字架上の犠牲を実現して、再現するためでした。翌日に十字架上に登られて御生贄をお捧げしました。
最後の晩餐の大奇跡はミサ聖祭の制定です。ミサ聖祭は新しい同盟、新約の犠牲です。このように世の終わりまで、毎日、我々とともにイエズスは残すことになさいました。我々の霊魂を養うためです。聖櫃にましますイエズスが我々の礼拝を迎え入れるためです。世の終わりまであなたたちと一緒にいるという風にイエズスは仰せになりました。ですから、イエズスはこの約束を果たされるために最後の晩餐にミサ聖祭を制定して、この大奇跡を行われました。
奇跡という時は広義での奇跡です。なぜなら、厳密に言うと、この奇跡は目に見える事柄というか、認識できることであります。これは、良き天主は我々に示し給う啓示を示すために奇跡という道具を使います。カトリックという宗教こそ唯一に真の宗教であることを示すためです。
しかしながら、確かに、普段、ミサ聖祭の聖変化は感知不可能です。歴史上に御聖体にかかわる奇跡も数えきれないほどに多くあり、天主はそれを感知する多くの奇跡も行われたのですが、これはイエズスのご現存を改めて示すための奇跡です。イタリアだけでも、有名なこのような奇跡はLanciano, Bolsena, Ferrareなどが多くあります。パリなら、Les Billetes教会での御聖体の奇跡も有名です。他にも無数にあります。
ご聖体に実際に我らの主の御体、御血、ご霊魂とご神聖、イエズスご自身が本当にましますことを可視化するような奇跡です。しかし、普段なら毎日与かるミサ聖祭では基本的に感知できない大奇跡です。それでも大奇跡です。目に見えない大奇跡ですが、御聖体の良き結果によってこそ、この大奇跡は可視化されます。はい、御聖体拝領によって信徒においてミサ聖祭の大奇跡は目に見えてきます。
最悪、最大の罪でも信徒が赦されるという大奇跡は、また、悪いことがされても、かえってこの悪人のために祈り、彼を赦すというカトリック信徒の在り方にあります。イエズスは人々、敵を赦すようにと福音書においてわれわれに教えられました。使徒たちに「天にましますわれらの御父」すなわち、「主祷文」という祈りを教えた時に示された教えです。
「主祷文」を祈るたび、我々は「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦し給え。」と言います。山上の垂訓の際にもイエズスは同じ教えを与え給いました。「あわれみのある人は幸せである、彼らもあわれみを受けるであろう。」(マテオ、4,7)
しかしながら、天主から憐みを受けるためには、我々も心から人を赦す必要があります。そして我々に対して悪を成した人々の善を望む必要があります。イエズス・キリストは十字架上にましましたとき、彼を殺そうとする人々のために祈られた通りです。
最初の殉教者である聖ステファノも彼を投石して殺す人々のためにも祈ります。
御聖体拝領によって我らの主イエズス・キリストは人を赦すための恩寵を我々に与え給います。また、教会史を貫いて現代に至って殉教者はいつもいました。我らの主イエズス・キリストを否認するよりも、死ぬことを選ぶ殉教者です。イエズス・キリストへの愛のため。
このような英雄的な行為をするための力はやはり聖体拝領によってでもあります。恩寵を受けて、本来ならば無理なる殉教死への決意が可能となって、殉教者の歴史を通じてイエズスの天主性も、カトリック教会が天主によって制定されたことも示されています。
多くの殉教者は聖体拝領においてこそ、イエズスを愛する恩寵を受けました。ローマでの3世紀の聖タルチシオがいます。殉教者で、聖人です。ウァレリアヌス皇帝の時代の迫害でした。聖タルチシオは弾劾で死刑判決を受けた囚われた信徒たちのために、御聖体を運んでいました。最後の試練をよく受け入れられるために、彼らを強めるために御聖体を運んで、ご聖体拝領を助けました。そしてある日、聖タルチシオは御聖体を運んでいましたが、涜聖を避けるために、聖タルチシオは御聖体を守り続けた結果、殺されました。これほど御聖体は大切であります。
はい、御聖体拝領によって、このような恩寵を受けることができます。
また、20世紀の最初の聖マリア・ゴレッティも有名です。自分の童貞を守るために貞潔を捨てるよりも、貞潔に対して大きな罪を犯すよりも殉教死を選んだ聖人です。聖マリア・ゴレッティを犯そうとした男は憤怒して、彼女を包丁で殺しましたが、聖マリア・ゴレッティは殺人を赦しました。そして、これで話は終わるわけではありません。殺人はその後、裁かれて刑務所の刑罰をうけます。彼は刑務所の独房で絶望して、自殺することを考え始めます。しかし、聖マリア・ゴレッティが彼の前に現れて、いずれか天国で一緒ですからというようなことを彼に言いました。
これを機に、殺人者は徹底的に回心します。刑務所を出たら、聖マリア・ゴレッティの母の下へ行き、赦しを希います。母は心広く彼を赦しました。そしてご降誕の祝日になって、同じ教会で、母と殺人は隣に跪いて、聖体拝領しました。罪を赦す英雄的な力を与えるのが聖体拝領なのです。カトリック信徒が聖マリア・ゴレッティの母のように英雄的に人を赦せるのは聖体拝領のお陰です。
御聖体という大奇跡のもう一つの可視化した帰結は貞潔の実践です。童貞、貞潔、純潔とも呼ばれる美しい聖徳です。「心の清い人は幸せである。彼等は天主を見るであろう」(マテオ、5、8)とイエズスは仰せになりました。
聖パウロも動物のように振舞う人は天主のことを知ることはないということを説明されています。貞潔によって、我々の霊魂を天主へ高めることが可能となります。地上に生きながら、天主と共に生きて、天使のように生きられることを助ける聖徳です。
しかしながら、本当の貞潔の実践は天主の恩寵を抜きにして不可能です。この恩寵はまた聖体拝領によって与えられています。もちろん、貞潔についての助言などは説教によって受けられるし、このような多くの機会で貞潔という徳を実践するためにどうすればよいか教えられます。
貞潔にとって危険な機会を避けるのは基本ですね。残念ながら現代では貞潔を脅かす機会は数え切れないほど多いです。町を歩いたら電車に乗ったら、インタネットや画面でいつも一杯あります。ですから、慎重にして、賢明に処することによって、貞潔は守られ、賢明さは貞潔の守護者です。
あとは苦行です。つまり、犠牲などによって自分の身体などを意志に従わせます。楽園から追放されてから、我々人間には保全の賜物はもはやなくなりました。われわれの感覚的な部分、つまり身体や感覚、感情などは意志と理性に背くことが多くあって、簡単に理性に従うことがなくなりました。アダムとイブが持っていたような保全の賜物はもはやなくなりました。洗礼を受けても保全の賜物を取り戻したわけではありません。ですから、苦行する必要があります。償う必要があります。犠牲を捧げる必要があります。苦行によって身体や感情などを意志と理性に従わせます。例えば悪い好奇心に譲らないようなことに努めたりすることが大事です。そして、誘惑が来た時に、祈ることが大事です。とても大事です。
これらは貞潔を守るための基本対策ですね。しかしながら、この上ない薬は、戦いにおいて勝利するための至上の武器はご聖体拝領です。そして、頻繁に聖体拝領することです。できれば毎日の聖体拝領です。大昔から身についてしまった、また霊魂における悪習などを打ち破るために聖体拝領は必要不可欠です。特に毎日の聖体拝領は一番効果的です。
ある人は「しかし、仕事や学校の勉強など、交通上の不便などで、毎日の聖体拝領は難しい」といわれるかもしれません。確かに、事情はいくらでもあるでしょう。しかしながら、考えてみてください。病気になった時、仕事や勉強を休んで、全力を尽くして治るために薬など治療をとりますね。これは身体の世話をするためだけですよ。
霊魂の病ならなおさらに取り組むべきです。比較にならないほどに霊的な病気は身体上の病気よりも深刻です。なぜなら霊的な病気のせいで、地獄での永遠の劫罰を被らされる危険があるからです。たとえば、平日の朝ミサのすべてに与る時間が足りないとしても、御聖体拝領するために来るだけでも可能です。・・・聖体拝領の心の準備をよくしていたら、聖体拝領できます。その後に、感謝の祈りをして、礼拝すればよいのです。
霊的な薬なので、治るために拝領しましょう。特に貞潔の徳を守り続けるために、増やすために聖体拝領は必要不可欠です。なぜなら、聖体拝領というのは我らの主、イエズス・キリストご自身を頂くのです。神聖なるイエズスの人間性も含めていただけます。イエズスは真の天主、真の人間でありますので、真の人間でもあります。そして、イエズスの神聖なる人間性は非常に力強いです。福音書を見たら、イエズスの服の縁の先ぐらい触れることができただけで治療不可能な病気が直されたりして、すごい奇跡ばかりです。イエズスの御体と接触していた服に触れるだけでこのような奇跡があるのですよ。
ですから、考えてみてください。御聖体拝領する時、しばらくの間、イエズスの御体はあなたの体内にましますよ。15分間ですか。奇跡を希う絶頂の機会です。ほら、御体はあなたの霊魂に来給い、体内にまします。どれほど多くの恩寵を頂けるかは想像を絶します。もちろん、我々の霊魂において障害がないという条件があります。つまり大罪の状態で聖体拝領してはいけません。絶対に。深刻な涜聖となります。
しかしながら、そうではないかぎり、聖体拝領しましょう。我々が必要としている恩寵を希いましょう。毎日の戦いにおいてイエズスの御助けを仰いで、毎日のための恩寵を得ましょう。貞潔の徳なら、いつも毎日絶えまない戦いなので、良い状態での毎日の聖体拝領は非常に効果的です。もちろん我々が受ける恩寵は聖体拝領する時の我々の聖化、状態次第です。ですから、聖体拝領をよく準備することが非常に大事です。聖体拝領するたび、その前に我らの主への愛を励み、燃やしましょう。我らの主と一体になりたい気持ち、一体となる決意を改めて堅くしましょう。お赦しを願いましょう。
聖体拝領の遠い準備は我々の義務を忠実に行うことにあります。常に、瞬間瞬間に、天主のみ旨を常に仰ごうとして、天主のみ旨を認識して、み旨に従うことにあります。試練や苦しい時においてもですね。
そして聖体拝領の直前の準備も重要です。我らの主との一体を望み、励み、天主への愛を燃やし、これからすぐ、人を愛することを心に拝領することになるので、完全に障害なくイエズスを我々の心の奥まで染みるように。我々を強化なさるように。
そして聖体拝領の後に、感謝の祈りをしましょう。これは大事です。少なくとも数分ほどは感謝しましょう。来給うたことへの感謝。できれば聖体拝領後だけではなく、ミサの後も感謝を表すために祈りましょう。これら聖体拝領の前、中と後の時間は非常に貴重です。
このタイミングを狙ってこそ、我らの主、イエズス・キリストとこの地上で可能なこの上ない親しいかかわり、対話となりますので、我々の霊魂を最大にイエズスのために開けましょう。我々の傷や悲しみや望についてイエズスに明かす最高のタイミングです。もう、聖体拝領したら、我々の内にましますのですよ。イエズスは天主です。イエズスは我々を愛しておられます。個人として我々を愛しておられます。罪や過失にもかかわらず、憐み深い愛をもって我々を愛しておられます。
聖体拝領する時にこそ、イエズスと親しく一致しましょう。そして、感謝の祈りなどは、聖母マリアを通じてお捧げしましょう。聖母マリアを通じてイエズスはこの世に来給うたのです。同じく、聖母マリアを通じてこそ、イエズスの御下まで参ります。聖母マリアに頼んで、我々の代わりにイエズスへ我々の祈りを運んでいただきましょう。我々よりも聖母マリアこそがイエズスを一番愛して、よく知り、祈り方もこの上なく知っておられる聖母マリアです。ですから、聖母マリアに頼みましょう。よりよく、より深くイエズスと一致するように聖母マリアの助けと保護を頼みましょう。また霊的な戦いにおいてわれわれが必要とする恩寵を聖母マリアを通じて願いましょう。
このような良い心で聖体拝領できたら、キリスト教的な生活を実際に実践できるようになることを確信できます。つまり、キリスト教的な生活とはイエズス・キリストに倣うということです。イエズスの教えと模範に従うことです。イエズスが実践された聖徳を我々も実践することです。このように、すこしずつ、毎日の戦いを経て、最期になったら、天での報いを得られますように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ(D.Puga)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
プーガ(D.Puga)神父様のお説教
光りと闇
2022年1月6日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、本日、ご公現の祝日のミサ聖祭をお捧げします。ご公現の祝日はキリスト初期には、ご降誕の祝日よりも重視されていました。なぜなら、全世界、全時代の国々への王たるキリストの統治を公に宣言する祝日であるからです。というのも、キリストはこの世に来給うたのは善意のすべての人々を救うためだからです。そして、善意の人々を真理へ導きたもうために来られました。
このように東洋からの三博士の場面が思い起こされます。この三博士に関する細かな情報はほぼ記されていないのですが、とにかく遠い外国から来たのです。また、どこから来たかは記されていないこと自体に意味があります。不明なよくわからない場所から来ました。これは霊魂を救うために不可欠となる本当の教えを持っていない異教徒が生きている闇を象徴しています。
そして、天主は三博士に頗る恵みを与えられました。東洋の空にある星が現れて、博士らを驚かせ、この星によって導かれることになります。この星は自然法則に従っているかのように見えますが、実際、不思議な星です。消えたり現れたりする星です。止まったり動きだしたりする星です。ある人はその星が見えたり他の人はその星が見えなかったりします。この星とは恩寵を象徴します。恩寵は我々の人生においてわれわれを導いてくれます。三博士の手柄というのは、この星を見て、「不思議だな」と正直に認めたことにあります。この星は理性で自然法則で説明できない星だと博士たちが素直に認めたことにあります。
現代なら、我らの主、イエズス・キリストの人生を研究している多くの著者たちはイエズス・キリストのご降誕前後の歴史書物を調べ尽くして、このような不思議な星が記されたどうか調べています。流れ星でも天文学上の稀な現象でも表しうる何かの記述を求めています。しかしながら、何も彼らは見つけないのです。このような不思議な星は皆が見えたらこれほど不思議なので、歴史書物において何らかの痕跡が残るはずだという前提ですね。
問題はこれらの著者には大きな勘違いが存在します。自然上の現象を求めて、超自然上の現象を理解しようとするところが間違いです。なぜなら、聖書などを見ても、この星が見えるのは三博士のみであるようです。そして、この三博士の手柄は素直にこの不思議な現象を引き受けて、信頼したということです。ほら、この星に従ってどこへ導かれるのはわからなかったのです。三博士は、結局、このようにしてエルサレムに到着します。おそらく来たことのない町だったでしょう。そこで星は消えたと福音に明記されています。
これを受けて、三博士は素直に「生まれたばかりの王はどこにいるだろうか」とあちこちに調べていきます。そして、ヘロデの耳に入って、ヘロデは三博士と会って、三博士に事情を聞きます。すると生まれた王の話などが出て、ヘロデは司祭らに問合せをします。司祭らは「聖書に照らして救い主なる王はベトレヘムに生まれるだろうと預言されている」という答えがきます。そして、三博士は次にベトレヘムへ赴きます。どこにあったのかもよくわからなかったでしょうが、エルサレムの近くにあるから分かりやすかったでしょう。しかしながら、エルサレムを出ると不思議な星は改めて現れます。三博士はこれを見て喜びます。そして星は王たる子のいる場所まで導いてくれます。福音書に明記されているように、幼きキリストのいた場所はその時、家でした。これで分かるように、ベトレヘムの洞窟だった馬小屋でのお産の後、聖ヨセフは何とかしてよりよい宿を見つけただろうということを示します。
幼きイエズスがおられた家の上に星が止まりました。そして消えました。三博士は素直に家の中へ入りました。そこに何かがあったでしょうか。福音書によると「幼き子がその母マリアと共にましますのを見」た(マテオ、2,1-12)のです。愛する兄弟の皆さま、とても短い文章ですが、この福音記者の記述は美しいです。なぜなら、聖母マリアに自分自身を捧げて聖母マリアに信頼したら、かならずイエズスを見るということを示す短文です。マリアこそはイエズスへ導く道です。マリアこそが我らの主、イエズス・キリストを我々に与えてくださったのです。
それから、三博士はひれ伏してこの世の王になるために来給うた天の王なるイエズスを礼拝しました。そして、三博士はその後、おとなしく帰ります。しかしながら夢を見て、エルサレムを通らないで帰るようにという勧告を受けます。なぜなら、み摂理は三博士が、やがて起こるヘロデの虐殺の命令に間接的にでも貢献しないようにし給うたからです。善意のこの三博士はみ摂理に守られたのです。福音書によると三博士は「他の途をとって自分の国に去った」とあります。要するに、今度は三博士は聖なる生活を歩む道をとったでしょう。そして東洋においてイエズスのことを伝える道を歩んでいったでしょう。三博士は天の王、我らの主、イエズス・キリストに会いました。
その後、何があったのかよくご存じのとおりですね。天使は眠っていた聖ヨセフを覚まして警告します。速やかにマリアと幼い子を連れてエジプトへいきなさいと。この子を殺そうとする人がいるからと。
そして、聖ヨセフは何の質問も返事もしませんでした。ほら、エジプトは遠いし、生まれたばかりの子を連れて大変だし、そこで仕事もできるかな、そこでの言葉もわからないし、いろいろ心配事が湧いたはずです。しかしながら、素直に聖家族は旅立ちます。どれほど長い逃亡になるのもわからないままです。長い旅となります。異教の地で住まざるを得なくなります。どれほど長い時間になるかわからないままですね。短期間になるか長期間になるかもわかりません。一生、そこで残ることになるかどうかもわかりません。
聖ヨセフと聖母マリアには星が与えられなかったです。用意された星も光もありませんでした。闇だけです。わからないままです。信仰の闇だけです。なぜでしょうか?本物の光なるイエズスとともにいるからです。イエズスのお陰ですでに神聖な心を持っています。このように、天主はご自分の命で生きている霊魂を導き給います。奥深い、静かな、目に見えない恩寵によって天主は聖ヨセフと聖母マリアを導いておられます。しかしながら、イエズスに倣って生活を送る人には、聖なる道を歩む人にはみ摂理に頼り、自分を捧げることになります。わからないとしても。
このように、聖ヨセフと聖母マリアは数年ほどエジプトに住みました。いつナザレへ帰れるかもわからないままです。
そして、長い長い数年後、ある日、突然、天使が現れて、聖ヨセフに「ふるさとに帰ってもいい。この子を殺そうとした人は亡くなったから」と。そして、聖ヨセフは素直に聖家族を連れて帰ります。すぐに。帰っても地元がどうなっているかもわからないままです。歓迎されるかどうかもわからないままです。仕事を再開できるかどうかもわからないままですが、天使が伝えた天主の命令に従うまでです。素直に。闇と影の内に。
愛する兄弟の皆さま、聖なる人生を歩むのは、このような自己犠牲が必ず出てきます。わからないとしても腑に落ちないとしても、どうしても闇に巻き込まれているものの、み旨をよくわからないとしても、素直に自分をお捧げしてみ摂理に信頼することが重要です。信仰の闇です。天主は聖霊の賜物によって我々を内面的に導いてくださるのです。
ご公現の祝日の次の主日は聖家族の祝日となります。福音書の朗読は神殿で発見されるイエズスの場面です。皆、ロザリオを唱えるたびに黙想する一つの場面なので、よくご存じだと思います。この有名な場面においても同じような闇があります。不明ですね。聖ヨセフと聖母マリアと12歳のイエズスは毎年の神殿参拝を行うために、エルサレムへ行ってきました。そして、帰り道のおり、イエズスがいないということになります。イエズスは隠れたかのようです。福音書に記されているので、我々が知っていますが、イエズスは神殿におられました。律法学者に教えたりして、律法学者の質問に答えたりしておられました。博士たちはまだ闇の内にいるので、迷いの内にいるので、イエズスさまは彼らを照らされます。天主は人々を照らすために来給うたのです。
しかしながら、その間に、聖ヨセフと聖母マリアは神殿におられることを知らないで、迷います。いったいイエズスはどこにおられるのか、どこに行かれたのか、拉致されても無事なのかなどなど。聖母マリアにはイエズスがいずれか霊魂を救うために死に給うべきことが告げられました。具体的にどのように死なれるかはよくわからないままだったので、急に幼きイエズスがいなくなったらこのような心配になってもおかしくないのです。三日間ほど、聖ヨセフと聖母マリアはイエズスを捜しています。二人とも闇の内のままです。天主への信頼と天主のみ旨のままに自分を捧げるまでです。疲労がたまっても、心配事があっても、天主のみ旨のままに。
「私のせいなのか。誤ったことでもしたのか。罪があるのか。一体なぜこのようにいきなり預かった子は消えたのか」というような心配事があっても、天主のみ旨のままに。聖ヨセフと聖母マリアは三日間ほど不安や苦悶のうちのままです。聖ヨセフと聖母マリアは非常に聖なる生活を生きていて、天主の非常に近くに生きていて、天主の内に生きているのにということです。
以上の場面の結末はご存じのとおりです。三日間ほどの探索の挙句に、もう探しつくした挙句に、聖ヨセフと聖母マリアはおそらく途方に暮れて祈るために神殿に来たでしょう。すると、そこになんと律法学者に教えられる幼きイエズスがおられました。
すると、聖母マリアは幼きイエズスに言い出します。「子よ、私たちになぜこんなことをしたのですか」と。そしてイエズスは「私が、私の父の家におらねばならないことを、知らなかったのですか」と答えます(ルカ、2,42-52)。
聖母マリアはイエズスの返事について最初、よくわからないようです。なぜなら、聖母マリアはイエズスが天主の御子であることを知っているものの、イエズスのこの上ないご使命などについてまだよくわからないし、この三日間にイエズスは不在になる必要があった玄義もよくわからないままだからです。なぜなら、この三日間はイエズスが死に給うた後の三日間の預言でもあったということを聖母マリアが知るよしもなかったわけです。また十字架上の後の三日間の聖母マリアの不安の兆しであるこの三日間なども知るよしもなかったのです。
光と闇がともにあるという玄義です。キリスト教徒の人生はまさにそれです。時には善き天主は多くの恵みを与えてくださり、眩しいほどの光を与え給うのです。具体的には、我々を慰める周りの出来事によって、み摂理を垣間見せてくださる時があります。しかし、時には周りのすべてが崩れるかのように、我々を見捨てられたかのように、砂漠を渡るときもあります。なぜなら、試練は、外の慰めがなくても、信徳、望徳、愛徳を鍛えて、実践させてくれるように励ましてくれるからです。
本日の福音書の最後ですが、イエズスは聖ヨセフと聖母マリアと一緒にナザレに帰りました。「彼らに従順したもうた」と。本日の福音書の最後の言葉です。
なんと!天主の御子はナザレのこの貧しい男に、若い女に従順しておられたと!天主の御子なるイエズス、天地を創造されたイエズスは長年、三十年間、親によく従っておられました。あらゆる物事の主なるイエズスは従順でいるようになさったのです。
聖パウロは思い起こすのです。罪がこの世にはじめて入ったのは我々の人祖、アダムとイブの不従順の故でした。同じように、十字架上の天主のみ旨への従順も三十年の親への従順と謙遜も含めて、キリストの従順の故にこそ、救済をこの世に齎し、本物の光をこの世にもたらされました。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン