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イエズス様はカイアファの前に 【公教要理】第三十八講 贖罪の玄義[歴史編]

2019年04月07日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第三十八講  贖罪の玄義・歴史編・イエズス様はカイアファの前に




【私たちの主が逮捕されてから】
オリーブ山で、私たちの主は逮捕されます。使徒たちは私たちの主を後に、主を一人残して逃亡してしまいました。無罪なのに強盗扱いにされ、主は束縛されました。拘束されながら前日に歩んできた道を逆の方向に歩まれました。ケドロンの谷へ向けて山を下りて、ケドロン川を渡りました。その際、川の中へ頭を押し浸されたかどうかは不明ですが、詩編109によると「De torrente in via bibet (道にある激流から彼は飲む)」とありますから、その際の予言である可能性が高いでしょう。

兎も角、福音においてはそれについて何も記されていません。ケドロン川を渡ってから、エルサレムの町へ昇り、城壁をくぐりました。夜中でした。私たちの主を先ずアンナのところへ連れていきました。

【大司祭アンナのもとで】
アンナという人は元大司祭です。現役の大司祭ではありません。本来ならば、こういった事件と関係ないはずの前任の大司祭です。しかしながら、アンナは現役の大司祭であるカイアファの義父に当たる人物でもあります。また元大司祭として、現役だった時に大評判を得て、引退しても後任の大司祭たちへの彼の影響力は強かった事実もあります。だから、私たちの主イエズス・キリストに対する陰謀の首謀者はまさにアンナであると言えます。

アンナの前での裁判は非公式の裁判ですが、正式の裁判の大リハーサルのようなものです。要するに、訴因や証人を見つけたりすることによって、その後の正式の裁判のために、判決がなるべく早くにスムーズに下されるようにアンナの前での非公式裁判をやるということです。

アンナが私たちの主イエズス・キリストを尋問する場面があります。私たちの主はこう応じられたのです。簡素で立派な答えです。
「私はこの世の人々に公然と話してきた。なぜ私に聞くのか。私のことばを聞いた人たちに聞け。」 と仰せになりました。

ある種の不受理事由を訴えるような答えです。つまり「あなたは私を裁判できる裁判官ではないぞ」という意味を込めて仰せになりました。
「あなたはその立場でなくなったので裁けないし、もし私について知りたいのなら、私の弟子たちと私のことばを聞いた人々に聞けばよい。私のことばを聞いたファリサイ人に聞けばよい。彼らに答えてあったから彼らが知っている。が、私は今あなたに何も答えない。あなたが裁く資格はないから、裁判官でなくなったから。」という意味です。

以上のように答えられてアンナは唖然とします。身のほどを思い知らされて唖然となり、そこにいた一人の召使は私たちの主に近寄ってきて、平手打ちをしました。おそらく強い平手打ちだったでしょう。
「大司祭に向かってそんな答えをするのか」とその召使が言いました。
私たちの主は改めて不受理事由を宣べるかのように、「私が悪い事を話したのなら、この悪い点を証明せよ。もし良いことを話したのなら、なぜ私を打つのか」 と仰せになりました。当然ながら、召使からの返事は皆無でした。

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【私たちの主はカイアファの前に】
それから、アンナの裁判はあまり旨く行かなかったので、続いて、アンナは自分の婿であるカイアファの前に私たちの主を連れて行くことを命じました。福音によると、この流れの前後を整理するのはやや難しいのですが、少なくとも言えるのは、アンナの前に連れていかれた後に、カイアファの前に連れていかれました。
現場の設定は不明な点が多いですけれども、高い可能性で、アンナの住居とカイアファの住居の間に、共通の中庭があって繋がっていたと思われます。福音によると、中庭では聖ペトロがいました。聖ペトロは私たちの主を愛しているので、逃亡したのですが引き返して主のところまで来ていました。そこで、中庭に入り込むために、司祭・大司祭たちの家との人脈をもっていた聖ヨハネに頼んで、入り込んでもらったと思われます。つまり中庭には聖ペトロと聖ヨハネがいました。

中庭には温まるための火がありました。それは兎も角、束縛されたままに、私たちの主はアンナの場所を去って、番兵たちに囲みこまれて強盗扱いされながらカイアファの前に行かれました。カイアファだけではなく、衆議所(サンヘドリン)の前に連れて行かれたということになります。サンヘドリンというのは、通常なら72員から構成されていた司祭たちの議院なのです。大司祭と共に、大司祭を院長として協議される司祭議員です。



私たちの主はカイアファの前に連れていかれました。衆議所(サンヘドリン)も揃っていました。そこで、偽りの証人が寄せられました。偽りの証人というのは、私たちの主イエズス・キリストに対する不利な証言をするように頼まれいた証人たちを言うのです。

そこで、ある種の小さいな奇跡らしきことが起きましたが、少なくとも、事実として確かに何側に真理があったか確認しやすい事が起きました。嘘と誤謬はかならず自己否定するしかありません。だから、偽りの証人たちの証言はお互いに矛盾していました。訴因を何とか私たちの主に擦り付けようとした挙句に、お互いに矛盾し合ってしまいました。その結果、私たちの主、イエズス・キリストに対するすべての訴因は嘘だったことは明らかになりました。訴因を確立する試みはすべて失敗に至りました。

一人の証人は、「彼は<私は神殿を壊して三日に建て直せる>と言いました」 といいました。なぜかこの証言は訴因になり得たかというと、こういう発言は、神殿に対する冒瀆として認められたら、ユダヤ律法上、死刑に当たる犯罪とされていたからです。でも、その時でも偽りの証人は同じことをいっていませんでした。また、ユダヤ人は、皆、私たちの主イエズス・キリストがそう言った発言をしたときに、建物の神殿なのではなくて、ご自分のことについて語っていたことを分かっていたのです。

訴因を確立しうる証言を得られなかった挙句、カイアファが私たちの主を直接に尋問することになりました。しかしながら、私たちの主は何も答えないままでした。黙っていたままです。
「屠所にひかれる子羊のように、口を開かなかった」 。

カイアファは無言のイエズスに対して、どうするでしょうか。大司祭としての権威を振るうことにしました。
「Adjuro te per deum vivum」
「私は生きる天主によって、あなたに命じる」 といいました。

つまり、メシア(贖い主)の到来を認め受けるはずの大司祭職の権威をあえて振るいました。本来ならば選ばれた民に知らせるために大司祭として聞くべきだった質問を聞きました。「私は生きる天主によってあなたに命じる、答えよ、あなたは天主の子キリストなのか」 と聞きました。

しかしながら、残念なことに、カイアファの意図は明らかです。本来ならば、しっかりと自分の大司祭職を本当に果たそうと思ったのなら、イエズスが「はい」と答えられた場合に、カイアファは、主が本当に天主の子であるかどうかを確認して(確認する余裕が十分あったし)、その上に民に知らせるべきでした。

しかしながら、カイアファの心には違うことを企んでいました。「はい」と答えられたら、冒涜者であることは自明となって死刑に相当する、と。

「いいえ」と答えられたら、嘘つきの強盗ということが自明となって、死刑になると。
要するに、選択はどちらかです。何を答えたとしても、私たちの主は死刑が宣言されるというジレンマです。そのジレンマに対して、私たちの主は何も答えないという選択もありました。

ところが、私たちの主はあえて真理を断言しました。なぜかというと、キリスト教徒への模範と励みを残すためです。キリスト教徒なら、いずれか信仰が問われたら、また殉教者もまさに問われたように、私たちの主による私たちへ「信仰を恥じないで、死が伴ってまでにしても公然としたハッキリに信仰宣言をせよ」という模範です。

だから、私たちの主はご自分の天主性を断言して、こうお答えになりました。
「その通りである。私は言う、人の子は全能なるものの右に座り、天の雲に乗り来るのをあなたたちは見るであろう」

その後の流れは予想通りになりました。カイアファが待っていた答えだったのです。彼はどうするでしょうか。
「そのとき大司祭は自分の服を裂き」 ました。
ユダヤの文化では、憤慨を表現する仕業でした。「この男は冒瀆を吐いた」 と叫びました。「どうしてこれ以上証人がいろう」 。

都合いいですね。偽りの証人たちはもういらない、もう自分で明かしたので、これが証拠だ、と。冒瀆したばかりだから、「みなも今、冒瀆のことばを聞いた。どうだ」 と。サンヘドリンはそれを受けて「reus est mortis」「この男は死に値する」 と答えました。

つまり、死刑になれということですね。死刑を宣告せよ、ということです。

死刑は宣告されたということになります。ところが、死刑が宣告されたとしても、その宣告は無効でした。

なぜかというと、法律上、サンヘドリンは、夜中の裁判をすることが禁じられていたからです。だから、有効の宣告をするために曙を待たざるを得なかったのです。


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