白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
「永遠の命を信じ奉る」
以上の言葉に、我々の究極的な行き先(終末)が要約されています。
我々の究極的な行き先の第一幕は「死」です。前回ご紹介しました。
我々の究極的な行き先の第二幕は「私審判」です。
霊魂は死ぬ時、創造主のみ前に出廷します。霊魂は天主のみ許に帰るのです。
喩え話で、私たちの主、イエズス・キリストは次のように仰せになります。旅に出ていた主人が家に戻る時、自分の僕らと再会します。主人は「会計報告を出せ」 と僕(しもべ)に言いました。
審判の時には、我々にもそうなります。死ぬ瞬間、霊魂はその創造主によって裁かれます。なぜかというと、我々は創造主に依存している存在だからです。創造主から生命を頂いているので、天主から預かった貴重な生命をはじめすべての物事をどうやって扱ってきたかについての責任があります。また、我々が持っている良いものは天主から頂いたものだし、洗礼や他の秘跡を通じての聖寵をはじめ、超自然なことのすべてを天主から頂いています。または助力の聖寵もあります。天主の助力のお陰で、この世で善く生きられるように助けられました。これらすべては、天主より給った賜物です。賜物を頂いた以上は、これらの賜物をどうやって使ってきたかの責任を取らざるを得ません。「会計報告を出せ」ということです。
私審判の時に、こういった報告をせざるを得ません。死んだとき、霊魂が身体を去る瞬間、天主のみ前に出廷し、裁かれます。
その時、我々の人生の一生のすべてが調べられます。その取り調べは一瞬もかかりません。というのも、天使たちが、純粋に霊的な目で察するように、人間も、霊魂が身体を去る瞬間に自分の送ってきた一生を貫く鋭い目で自分を眺めるからです。善い事も悪い事もすべてを。
この世で我々が告解に行くときに自分の犯した罪を糾明する時とは、違う感じです。というのも、地上にいる私たちが糾明する際、一日にやってきたことを一つ一つ思い出して、少しずつ検討して、その場所と時間を思い出して罪を確認しますが、それとは違うからです。死んだとき、一目で、自分の一生をすべて把握します。極まりなく鋭い一瞥となります。死んだとき「霊魂は自分を有りのままに見通す」のです。
「有りのままに自分を評価する」といえます。これは一番悲劇的なことです。
というのも、我々の霊魂には必ず良心があるからです。例外なく皆、良心の働きを感じたことがあります。内面的な声であるかのように、良心が「善悪」を霊魂に知らせて、どうすべきなのかを霊魂に知らせ、また「これは悪い事でやってはいけない」と知らせます。
悪を犯した時に、その後に残っていて自分を悩ます改悛または良心の呵責もあります。
残念ながら、我々は良心の声を押し殺すことができます。ただし、霊魂が身体を去る時には、良心はその全力を回復します。死んだとき、良心が一番明晰で確実な評価を行います。その結果、自由な良心に照らして 霊魂は、自分を有りのままに裁きます。
悲劇的瞬間です。なぜかというと、その時、霊魂は騙しようがなく、自分を有りのままに察知するからです。
死者のミサの典礼では、「Dies Irae天主の怒りの日」という続誦があります。それに「Quid quid latet apparebit」とありますが「隠されたことは、なんでも明らかにされるだろう」という意味です。そして「nil inultum remanebit.」「いかなるものも報いられずに留まらない」と。
~~
その時に、霊魂は自分のことを有りのままに察知して善悪を見て自分を裁くのです。典型的ですけど、私審判に臨む天使が「天秤」を持っている形で絵画などにおいてよく表現されています。これは良心が善悪を評価して測るということを意味しています。賛否両論を天秤にかけるということです。啓発された良心に照らして、霊魂が自分の証人となり、自分の裁判官となるのです。そして、送ってきた一生次第で、積み重ねてきた善悪次第で、頂いた聖寵をどうやって守って増やしてきたか次第で、また、生きるべき人生をどれほど拒否し、否定し、軽蔑し、背いてきたか次第で、霊魂が自分のことを評価して判断した結果、天主が永遠の沈黙のままに決定的な判決を渡されるのです。その瞬間に、霊魂の運命が決定されて固定されます。もう取り戻しのない判決となります。もう我々がやれることはなくなります。もうそこまでです。
また、よい学びの糧にするために、私たちの主イエズス・キリストの十字架によって我々の霊魂が裁かれるだろうということを黙想すると助けられるでしょう。つまり、イエズス・キリストは地上での一生の間、我々のためにお捧げした御苦しみと我々に対する御愛をお示しになられたのが十字架です。我々が死んだとき、イエズスが御受難を見せ給い、その間のあらゆる苦悩なども見せ給うのです。そして、御受難の際、我々一人一人のためにお持ちだった思いを特に見せ給うのです。そして、我々のためだけの思いに照らしても、判決が決まるのです。私たちの主イエズス・キリストの御受難を我々が無駄にしたか、御受難を糧にして成長してきたか次第で裁かれるのです。
~~
以上の審判は「私審判」と呼ばれています。というのも、各霊魂は死ぬ時に裁かれるからです。また、各霊魂は死んだときの「私審判」に出廷して、至上の裁判官である私たちの主、天主ご自身によって下される判決を受け、決定的に永遠の運命が決まるのです。
しかしながら、「私審判」が行われ、さらに別に、世の終わりの日には「公審判」が行われるということも啓示されています。全人類が死んだときに行われるのが「公審判」です。あえて言えば、あらゆる霊魂はもう一度出廷することになります。勿論、人間の言葉で想像することだから、(比喩的)表現に過ぎませんが、少なくとも全人類のすべての霊魂が天主のみ前にもう一度出廷することになります。
ただし、この「もう一度の出廷」には、新しい判決などはありません。判決は「私審判」のままです。
「公審判」になると、どう違うかというと、天主とイエズス・キリストの御前に裁かれるだけではなく、残りの全人類の前にも裁かれることになります。公審判の時にも、「私審判」の時と同じように自分が犯した罪をすべて察知しますが、さらに、罪によるすべての帰結・結果をも察知します。あえていえば、天主のみ前に出廷した「個人」として裁かれるだけではなく、「社会的な生き物」として裁かれるのです。というのも、行為を遂げたことによって、それが社会上・政治上に影響と結果を伴うものとして裁かれるからです。例えば、家長の霊魂の場合、家庭上の影響を生じるし、指導者であれば政治上の結果があります。そこで、犯された罪はまるで別の次元になるのです。
また、罪による結果として共同体としても罪が公に犯されるので、公に裁かれることになります。個別の裁判だけではなく、公の裁判となります。私たちの主イエズス・キリストを不正に断罪した多くの人々は、世の終わりの日に公に裁かれます。同じく、私たちの主、イエズス・キリストの名誉を讃えつづけ、天主とイエズス・キリストの愛を他人に伝え、多くの霊魂を愛徳と働きによって救い続けた聖人たちも公に裁かれて、その恩恵が評価されるのです。
以上、手短に公審判についてご紹介しました。
要約すると、世の終わりの日に、我々は、全員もう一度出廷し、天主のみ前に裁かれます。判決自体は変わらないのですが、全人類の前に、我々が遂げたあらゆる行為は見え見えとなって、開いた本であるかのように、送ってきた一生を有りのままにだれでも読みとれることになります。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第七十講 永遠の命-②
「永遠の命を信じ奉る」
以上の言葉に、我々の究極的な行き先(終末)が要約されています。
我々の究極的な行き先の第一幕は「死」です。前回ご紹介しました。
我々の究極的な行き先の第二幕は「私審判」です。
霊魂は死ぬ時、創造主のみ前に出廷します。霊魂は天主のみ許に帰るのです。
喩え話で、私たちの主、イエズス・キリストは次のように仰せになります。旅に出ていた主人が家に戻る時、自分の僕らと再会します。主人は「会計報告を出せ」 と僕(しもべ)に言いました。
審判の時には、我々にもそうなります。死ぬ瞬間、霊魂はその創造主によって裁かれます。なぜかというと、我々は創造主に依存している存在だからです。創造主から生命を頂いているので、天主から預かった貴重な生命をはじめすべての物事をどうやって扱ってきたかについての責任があります。また、我々が持っている良いものは天主から頂いたものだし、洗礼や他の秘跡を通じての聖寵をはじめ、超自然なことのすべてを天主から頂いています。または助力の聖寵もあります。天主の助力のお陰で、この世で善く生きられるように助けられました。これらすべては、天主より給った賜物です。賜物を頂いた以上は、これらの賜物をどうやって使ってきたかの責任を取らざるを得ません。「会計報告を出せ」ということです。
私審判の時に、こういった報告をせざるを得ません。死んだとき、霊魂が身体を去る瞬間、天主のみ前に出廷し、裁かれます。
その時、我々の人生の一生のすべてが調べられます。その取り調べは一瞬もかかりません。というのも、天使たちが、純粋に霊的な目で察するように、人間も、霊魂が身体を去る瞬間に自分の送ってきた一生を貫く鋭い目で自分を眺めるからです。善い事も悪い事もすべてを。
この世で我々が告解に行くときに自分の犯した罪を糾明する時とは、違う感じです。というのも、地上にいる私たちが糾明する際、一日にやってきたことを一つ一つ思い出して、少しずつ検討して、その場所と時間を思い出して罪を確認しますが、それとは違うからです。死んだとき、一目で、自分の一生をすべて把握します。極まりなく鋭い一瞥となります。死んだとき「霊魂は自分を有りのままに見通す」のです。
「有りのままに自分を評価する」といえます。これは一番悲劇的なことです。
というのも、我々の霊魂には必ず良心があるからです。例外なく皆、良心の働きを感じたことがあります。内面的な声であるかのように、良心が「善悪」を霊魂に知らせて、どうすべきなのかを霊魂に知らせ、また「これは悪い事でやってはいけない」と知らせます。
悪を犯した時に、その後に残っていて自分を悩ます改悛または良心の呵責もあります。
残念ながら、我々は良心の声を押し殺すことができます。ただし、霊魂が身体を去る時には、良心はその全力を回復します。死んだとき、良心が一番明晰で確実な評価を行います。その結果、自由な良心に照らして 霊魂は、自分を有りのままに裁きます。
悲劇的瞬間です。なぜかというと、その時、霊魂は騙しようがなく、自分を有りのままに察知するからです。
死者のミサの典礼では、「Dies Irae天主の怒りの日」という続誦があります。それに「Quid quid latet apparebit」とありますが「隠されたことは、なんでも明らかにされるだろう」という意味です。そして「nil inultum remanebit.」「いかなるものも報いられずに留まらない」と。
~~
その時に、霊魂は自分のことを有りのままに察知して善悪を見て自分を裁くのです。典型的ですけど、私審判に臨む天使が「天秤」を持っている形で絵画などにおいてよく表現されています。これは良心が善悪を評価して測るということを意味しています。賛否両論を天秤にかけるということです。啓発された良心に照らして、霊魂が自分の証人となり、自分の裁判官となるのです。そして、送ってきた一生次第で、積み重ねてきた善悪次第で、頂いた聖寵をどうやって守って増やしてきたか次第で、また、生きるべき人生をどれほど拒否し、否定し、軽蔑し、背いてきたか次第で、霊魂が自分のことを評価して判断した結果、天主が永遠の沈黙のままに決定的な判決を渡されるのです。その瞬間に、霊魂の運命が決定されて固定されます。もう取り戻しのない判決となります。もう我々がやれることはなくなります。もうそこまでです。
また、よい学びの糧にするために、私たちの主イエズス・キリストの十字架によって我々の霊魂が裁かれるだろうということを黙想すると助けられるでしょう。つまり、イエズス・キリストは地上での一生の間、我々のためにお捧げした御苦しみと我々に対する御愛をお示しになられたのが十字架です。我々が死んだとき、イエズスが御受難を見せ給い、その間のあらゆる苦悩なども見せ給うのです。そして、御受難の際、我々一人一人のためにお持ちだった思いを特に見せ給うのです。そして、我々のためだけの思いに照らしても、判決が決まるのです。私たちの主イエズス・キリストの御受難を我々が無駄にしたか、御受難を糧にして成長してきたか次第で裁かれるのです。
~~
以上の審判は「私審判」と呼ばれています。というのも、各霊魂は死ぬ時に裁かれるからです。また、各霊魂は死んだときの「私審判」に出廷して、至上の裁判官である私たちの主、天主ご自身によって下される判決を受け、決定的に永遠の運命が決まるのです。
しかしながら、「私審判」が行われ、さらに別に、世の終わりの日には「公審判」が行われるということも啓示されています。全人類が死んだときに行われるのが「公審判」です。あえて言えば、あらゆる霊魂はもう一度出廷することになります。勿論、人間の言葉で想像することだから、(比喩的)表現に過ぎませんが、少なくとも全人類のすべての霊魂が天主のみ前にもう一度出廷することになります。
ただし、この「もう一度の出廷」には、新しい判決などはありません。判決は「私審判」のままです。
「公審判」になると、どう違うかというと、天主とイエズス・キリストの御前に裁かれるだけではなく、残りの全人類の前にも裁かれることになります。公審判の時にも、「私審判」の時と同じように自分が犯した罪をすべて察知しますが、さらに、罪によるすべての帰結・結果をも察知します。あえていえば、天主のみ前に出廷した「個人」として裁かれるだけではなく、「社会的な生き物」として裁かれるのです。というのも、行為を遂げたことによって、それが社会上・政治上に影響と結果を伴うものとして裁かれるからです。例えば、家長の霊魂の場合、家庭上の影響を生じるし、指導者であれば政治上の結果があります。そこで、犯された罪はまるで別の次元になるのです。
また、罪による結果として共同体としても罪が公に犯されるので、公に裁かれることになります。個別の裁判だけではなく、公の裁判となります。私たちの主イエズス・キリストを不正に断罪した多くの人々は、世の終わりの日に公に裁かれます。同じく、私たちの主、イエズス・キリストの名誉を讃えつづけ、天主とイエズス・キリストの愛を他人に伝え、多くの霊魂を愛徳と働きによって救い続けた聖人たちも公に裁かれて、その恩恵が評価されるのです。
以上、手短に公審判についてご紹介しました。
要約すると、世の終わりの日に、我々は、全員もう一度出廷し、天主のみ前に裁かれます。判決自体は変わらないのですが、全人類の前に、我々が遂げたあらゆる行為は見え見えとなって、開いた本であるかのように、送ってきた一生を有りのままにだれでも読みとれることになります。