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宗教の非宗教化はグローバリズムにつながる!

2021年06月06日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
宗教の非宗教化はグローバリズムにつながる!
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

宗教の非宗教化はグローバリズムにつながる!

立正文化の河本理事長の原稿を拝読し、本論を執筆することにした。
河本理事長は元気にお過ごしになられているようで、何より幸いなことである。また最近、お会いできなくて申し訳なく思っている。
本論の目的は相澤氏の記事への返答と同じように、いくつかの考察を共有することにある。キリスト教に関する不正確な題目はさておいても、「宗教の非宗教化」あるいは「絶対な平和」にある種の「フリーメイソン的なグローバリズム」が潜んでいるのではないかと否応なく看取したことから、河本師からの学恩に報いるためにも、私には誠実に考察の結果をお知らせする義務があると信じ、本論を執筆するものである。微力ではあるが、極力手短に要点だけに絞って論じていきたいと思う。いくつかの諸課題に関しては割愛せざるを得ないので、ぜひとも他の返答記事も参考していただけたら、今度のための論争の資すると思う。

I.冥合思想はなぜ無理なのか?
1.現実的な理由
仮にキリスト教と法華仏教の冥合思想のようなものがあり得る話だったとしても、それは非現実的であると言わざるを得ない。日蓮宗、あるいは法華宗は纏まった宗教でもないし、その信徒数からも、地域分配からも非常に小さい。世界中の諸宗教の間にあっては存在感がないどころか完全に無視されている。それが日本固有の仏教なら、なおさらのことであろう。

要するにだれもこのような夢想に耳を傾けてくれないに相違ない。私は恩返しということでこのような原稿を敢えて書く義務があると思っているのだが、実は何度もこれを諦め、皆様を見捨てて無関心になろうという誘惑を何度も受けたのである。ところが、やはり恩人なので、いずれ天国で会いたいと思ったとき、私のできる範囲でやれることをやらなければならないと決意したのである。正直に言おう。どうせ、このままだと長くとも数十年後には神道も仏教も亡くなるに違いない。ほら、立正教団あたりでも状況は芳しくないだろう。若者もいないし、なかには本当に信念がある人もいるかもしれないが、それでも世界中な規模に達するにはもはや無理がある。

カトリック教会は二千年近く続いてずっと纏まった形で、また、世界規模であり、また自分自身の自由意志をなくしてまでもイエズス・キリストに倣おうとするのがカトリックの中核であると言えよう。私も本論を書くに際しては、極力私心をなくして、イエズス・キリストのみ旨のままに書けるよう祈りながら書いている次第なのである。

元の話に戻ろう。現実的に日本のために尽くすためにどうすればよいか?里見氏などが築き上げたことを引き継ぐためにどうすればよいか?破綻寸前にみえてならない中、戦前の状況などは変わっていないかのようにつづけて、キリスト教などへの誤解を見てみないふりにし続けると、いずれかその報いは訪れるだろう。すでにこれらの帰結は現に起きつつあるのではないだろうか?

2.本質的な理由
他の私の返答記事に参照していただけたらすぐお分かりだと思うが、本質的にいっても冥合思想が間違っていると断言する。というのも、比較基準自体が間違っており、キリスト教とは何であるかということも著しく誤解されている。戦前なら、近代流の間違った見解ばかりが日本で紹介されており、また反カトリックが強いドイツ流とイギリス流の学問も強かったので、仕方がない部分があるとは思う。このなかで、私が国体学会と出会ったのも御摂理の導きであると信じているのだが、それはこのような誤解を解消させるためであったかもしれないと思うのである。

カトリックなら間違いなく、また。多くのプロテスタント宗派もそうであるように、絶対にイエズス・キリストを相対化することは許されていない。問題はそうしたくないからではなく、イエズス・キリストご自身がそのように言い切られたことであるからだ。我々、カトリック信徒、カトリック教会は単にイエズス・キリストの肢体、あえて誤解を恐れずいうと奴隷に過ぎないので、それに従って行くことにしている。だから、そうしたものとしてカトリックがある限り、このような冥合思想には無理がある。冥合思想は信徒にとってはイエズス・キリストを否定することになり、ひいては、救済の御業を否定することになり、さらにひいては秘蹟の営みを否定することになるのであり、それはとりもなおさず地獄と悪魔を招くことになるからである。

ユダヤ教とカトリックとの位置づけや、神人の本質を持つイエズス・キリストや、キリスト教において覚りという過程はないことや、思想ではなく実践こそがカトリックであるとの教義の上に、カトリックにしかない無比無窮の秘蹟があることや、三位一体などは「学説」ではなく、天啓によって示された「真理」そのものなので、信徒として信じなければならない真理であるようなこと(天主が啓示したものであるがゆえに、それがかりに理解できなくても信じなければならない、人間の弱い理性でそれを疑ってはならない、また、つまり、「思想、学問」の問題ではなく、現実はどうなっているかという問題でもある)

3. 融合、冥合は真理に反対する、相対主義をもたらし、真理は破壊される。
融合などを聞くと現代の「Inclusion」あるいは「Diversity」といった流行語は思い浮かび、まさに近代的な「寛容論」あるいは「平等主義」あるいは「相対主義」に見える。

というのも、真理はその定義にそったのなら、必ず排他的であるからだ。同時に矛盾しあう命題はあり得ないという原理に因らなければ、何の学問も理性の作用も無理となるはずである。いわゆる二律背反という「公理」を肯定しなければ何でもかんでもめちゃくちゃになっていく。このように、二律背反を否定している近代こそ、むやみに相容れないものを融合させようとして、戦争、軋轢、対立を生んできた。歴史に照らしても明らかである。

だから真理は排他的であるがゆえに、教義の討論などが存在する。というのも、人間の理性を越える真理であるのなら、その真理を教えてくれた人に信頼するしかない(信仰)。イエズス・キリストに信頼するか、日蓮に信頼するか?福音書に信頼するか、法華経に信頼するか?そう決めるために客観的な基準もある。いわゆる、教義上、信条の全体図の一貫性を検討する以前にも、教義上の高度さ?を検討するよりも、教える人への信頼度を評価できるはずである。

たとえば、福音書は直接目撃した人々によって書かれて、数年間、イエズスの傍にいた人々によって書かれて、その復活後からすべて、早い時期に完成された。史学でいうと、第一史料と言われて、もっとも信憑性が高い。そして、イエズス・キリストの人物の言動を見ても他のすべての賢者に比べたら桁が違う、遥かに勝る。(これらも別途の原稿で少し触れたので割愛する)。

また、真理があるからと言って、人々を否定するのではない。逆である。人々は偽りの真理ではなく、本物の真理を受け入れなければ、問題が起こる。だから、伝道があり、布教があり、だからイエズス・キリストが布教するように使徒たちを送り、信仰を告白することは信徒の一つの義務である。だから、真理を受け入れない人々が出ても、真理を断言し続けるだけであり、誤謬において頑固となる人々によって迫害されて多くの殉教者が出た。真理のためなら命を惜しまないのがカトリック信徒である。また、真理を宣言しつづけても、実践においても愛徳と慈善の行いに尽くそうとしている。かなり惨めでも、無力でも、罪をも多く犯し続けるとも(原罪を負った人間としてかわらないので、仕方がない)。
なぜこのように告白できるだろうか?その真理は自分の口からでるのではなく、単にイエズス・キリストの教えをオウムのように繰り返すから、できるものだ。

II.聖俗の一致は平和を産まないどころか、混沌をもたらす―バベル塔、グローバリズムの呪
1.歴史を追っていく

世俗一致などの話は非常に大である。というのも、人類学も歴史学も証明しているように、世俗一致になっていくと野蛮な「文明」が生まれ、極まりのない暴力的な体制が出来上がって、全体主義的な国家となっていく。そして多くの意味で近代期以降、いわゆる「世俗化」という流れとなっていき、カトリック教会は国家によって飲まれようとされている。この意味で昔から欧州の学問では「異教化」という名前で呼ばれることもあって、千年以上に欧州大陸から消えた奴隷制、肉刑、強調圧力、「正史」、人間の生贄(現代版は堕胎、あるいは安楽死)などが再び姿を現す。神格化される国家もかつての異教国においてすら経験したことのない「全体主義」が勃興してきた。革命期の恐怖政治、ナチス、ソ連、ジェノサイド、大規模の世界戦争などなど。


なぜ近代化した世界が異教化でありながら、異教時代よりもひどくなっていくのか?自然法ですら否定されることになるからだ。
しかしながら、日本に置かれては、誤解は生みやすい。明治時代の時、受容された「西洋」、つまり日本に置ける「近代化」の大きな部分は結局、「カトリックの善い遺産」を受容したことが大きかった。江戸時代や戦国時代の世界に比べたら、桁が違うほどにキリスト教を基礎にしている法制度、司法制度、奴隷制廃止などが行われた。当時はそれでよかったし、この意味で日本に置ける「近代化」は進歩だったかもしれない(欧州では同じ近代化は非カトリック化を意味したので非常に堕落を意味した、このような乖離があるから、日本に置ける近代化に対する評価においてかなりの歪曲があると思われる)。現代はもはやカトリックの遺産はなくなっている。

また歴史を見ていこう。世俗一致、世界政府、バベル塔、つまりある種の「絶対平和」は図られた時にとんでもない災いをもたらした。聖書におけるバベル塔、ソドムとゴモラ、漢族による侵略、近代期以降の近代化の流れと大きな帝国などなど、数が数えきれないほどある。

2.宗教の非宗教化はまさに悪い意味での欧州における「近代化」であり、グローバリズム、世界政府を築こうとするフリーメイソン的な発想である
宗教の非宗教化を望むのなら、もはや安心したらよいと思われる。というのも、近代期以降、宗教の非宗教化が進んで、現代になってその絶頂期に達する。世界政府もグローバリズムもまさに宗教の非宗教化を遂げつつあって、融合された「人間中心主義」的な博愛的な「非宗教化された宗教」ができあがりつつある。世界政府において世俗が一致するように歴史が進んでいる。

昔と比べて規模が違うだけであるが、つまり、バラバラの小宇宙だった国家においての世俗一致ではなく今回は世界規模になる。(小規模で同じような帰結を伴っていたが、技術も野望も現代に比べて桁が違うので、その弊害も違う。また近代的な「世界宗教」において自然法なども否定されて、より深く危険ではあるが)。

また、第二ヴァチカン公会議以降、近代主義という誤謬、まさに宗教の非宗教化を図る誤謬が教会内に入ってから、グローバリズムという完全に非宗教化されたフリーメイソン的な宗教に対する堤防は崩れた。いや、最近のフランシスコ教皇などにより、宗教の非宗教化は速まって、世界規模で世俗一致が進んでいる。

だから、宗教の非宗教化はいま、勝とうとしている。この結果、どういった「平和」が訪れるかはコロナ騒動でわずかにも味わえていると思われる。また共産党の中国を見ても、西洋を見ても自明である。あえて言えば、21世紀の技術で、江戸幕府的な専制政治を過激化した感じに見えなくはない。自治体も基本的な自由もなくされて、確かに外見的には「平和」になろう。

また、グローバリズム教によってそれぞれの文化の固有性と文化は消えつつある。私は国体学会に行ってその教義などをかなり誤解していたようであり、恥ずかしいが、それはともかく、国体学会のずっと好きなところが具体的に和風の「伝統」を引き継いでいたことである。畳、孝行、剣術、仲間精神、伝統的な勉学方法などなど。これは文化を一つにしていない「西洋」における伝統に通じるはずである。真理は排他的なので、「カトリック」において皆、纏まっていたが、それ以外の固有性(つまり文化)はむしろどんどん固有化していった。
私は日本の伝統が好きなのは「曖昧な思想」ではなく、以上のような具体的な和風であり、その言語であり、その礼儀作法である。
絶対平和のために、以上のような和風を蔑ろにしてもよいだろうか?

3. 二元対立は問題であるどころか、戦争の原因でもない。

世俗の対立、あるいは二元対立は混乱の原因ではない。混乱の原因は罪であり、誤謬である。そして、真理は誤謬に毒されたら(融合によって、世俗の一致によって、宗教の非宗教化によって、相対主義的な寛容論によって)状況はさらにひどくなっていく。近世近代の欧州の歴史を見たら、以上の流れは自明である。解決するためには融合ではなく、罪を犯さないで、誤謬を除いて真理を固く守るしかない。

4.いずれにせよ厳しい時代が訪れて、一人一人の回心にこそ解決がある
理想的な解決がこの世に存在しないというのはイエズス・キリストの教えである。だからといって、無為になることはない。本来にあるべき秩序を自分のレベルで取り戻すということだ。天主のみ旨に従い、イエズス・キリストに倣い、天国を得るためにこの世における使命を果たし続ける。
また罪を償い、多くの犠牲を捧げていく。また、十字架を愛して、苦しみを喜んで受け入れて、人々の回心を願うしかない。

政治上にもやるべきことが多いに違いない。しかしながら、これは宗教の非宗教化でもないと思われる。国体を宗教化することでもないと思われる。単に、天主様によって皇位にまします天皇に忠実を続けて、東西の歴史にある叡智と経験を活かして近代的な特別な脅迫であるグローバリズム、革命思想、近代主義を打開するために考えていきたいと思う。正直にいって、聖伝カトリックへの回心なしに、日本は生き残れるかは疑問である。

結びに代えて・将来への展望
現代に置かれている我々には共通の敵はあるのではないのか?グローバリズムというイデオロギーを中心に、ジェンダー論、家族と社会への破壊力を持った革命思想(ひいて啓蒙思想)を汲む思想である。また、「環境問題」や衛生(コロナ騒動)などもその一環であることは表舞台に現れつつある。

これらの勢力は伝統的な日本、固有性のある和風の破壊を毎日のように進んでいる。こういった革命の勢力の厄介なところは共産党や帝国主義などと違って、敵陣を特定できるのではなく、だれでもどこでも悪しき思想は浸透していて、社会を侵害していて、いつの間にか破壊は進んでいる。
それと戦うため、いくつかの見える敵はあるものの(ワクチン、国際組織、ビルゲイツなどなど)、我々の主な仕事はこれらの悪しき原理原則を暴いて、伝統的な原理原則に立ち戻ることにあるのではないのか?

その中、近代全体、革命全体は世界中にその歴史に照らしてカトリック教会を第一の敵にしていることを知るべきである。だから、カトリックへ回心しないとしても、カトリックなしに、カトリックの復興なしに、勝ちつつあるグローバリズムを食い止めようがない。
だから、御武運を祈りながら、日本、皇室の将来のためにどこで戦うべきか、何のために戦うべきか、見直す時期は迫っているのではないだろうか?



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