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ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け 【公教要理】第四十一講 贖罪の玄義[歴史編]

2019年04月16日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第四十一講  贖罪の玄義・歴史編・その九・ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け



「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け」。
前回見たとおり、ピラトは十字架につけさせるためにイエズスをユダヤ人たちに渡しました。総督ピラトにこそ私たちの主に対しての死活の権限があったのです。従ってユダヤ人たちにイエズスを渡してしまうことによって、ピラトが死刑判決を下したことになります。言われてみるとなかなか不思議なやり方だといえます。

【ピラトの逆説:卑怯さ】
ピラトは一方で、私たちの主が罪で無いことを認めました。しかも、私たちの主の無罪をハッキリと大きい声で国民の前にピラトは訴えました。ところが、同時に、自分の手を洗いながらも、ユダヤ人たちに十字架につけさせるためにイエズスを渡してしまいました。だから、結局、イエズスが有罪であると断言した行為に他なりません。不思議な逆説といったらそうなのですが、どちらかというと残念ながら、これはピラトの卑怯さを良く物語っています。

つまりピラトという名前は世々に至るまで引き継がれるほどの卑怯な男だということです。そういえば、マリア・マグダレナに関して数日前にこうありました。私たちの主イエズス・キリストはマリア・マグダレナを指して「世々に至るまで彼女の名前はのこる」というようなことを仰せになりました。ところが、ポンシオ・ピラトの場合は、その名前自体は信経の中に記されているほどです。従って、カトリック信徒は、すべての教条が納まっている信経を唱えるたびに、ポンシオ・ピラトの名前を唱えます。つまり、私たちの主はその人の管下にて苦しみを受け、死に給うたと唱えます。


【ポンシオ・ピラト:御受難の具体的な歴史性を表す】
第一、ポンシオ・ピラトの名前を言う理由は、年代上の位置付けの目印としての役割が勿論あります。つまり、御受難とは、歴史上の事実であることを表すために言及されています。言い換えると、御受難は歴史の一つの史実である上に、具体的なまでその史実を知っているということを思い起こします。つまり、具体的に「ポンシオ・ピラトの管下」の時代にあった御受難なのです。要するに「ポンシオ・ピラト」という言及は、御受難の歴史性を表しますが、その上に、「ポンシオ・ピラト」という人こそが私たちの主を十字架につけさせるためにユダヤ人たちに渡してしまったということをも表す言及なのです。
それで、ユダヤ人たちが私たちの主を捕まえてしまいました。

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【猶予を与えない死刑執行】
当時の慣例に従うのなら、死刑宣告された囚人に対して、死刑を執行するまでに、数日間を与えていました。それは、自然なことで、常識的な慣例でした。私たちの主は死刑という判決を受けてしまいました。本来ならば、判決が宣言されてから、囚人を独房に戻して、そこで死刑の執行を控えて数日間に待機させる慣例がありました。私の記憶が正しいならローマ法では、死刑の判決から死刑の執行まで、最大に十日間の期間が許されていたとおもいます。

しかしながら、予想外のことでしたが、私たちの主は独房にも入れられずに、すぐさまに十字架につけられました。渡された途端、ユダヤ人たちが私たちの主を捕まえて、彼を十字架につけるために、ゴルゴタ丘へ連れて行ってしまいました。なぜそれほど急いでいたかというと、司祭長たちがある恐れを抱いていたからです。つまり、執行まで待ちすぎたら国民が自分の意をまた変えてしまって、私たちの主の味方に回る恐れがあったからです。従って、司祭長たちの影響下にある国民が「十字架につけよ!十字架につけよ!」と叫んでいるうちに、司祭長たちはその国民の情熱を利用して、私たちの主を十字架につけてしまいました。

枝の祝日の日に、数日前に「ダヴィドの子にホサンナ!」 と叫び出した同じユダヤ国民でしたから、またこれから自分の意を変えてもおかしくもなかったし、行き成り私たちの主のために同じのような賛美を叫び出す可能もかなりありました。司祭長たちは国民がひっくり返して、自分たちの敵に回ることを恐れてしいたので、執行を急ぎました。だから、すぐさまに十字架につけてしまいました。


【緋色の服を着替えさせるが、茨の冠はそのまま残す】
そこで、先ず私たちの主の覆っていた緋色の上着を脱がせました。ポンシオ・ピラトが覆わせていた上着でしたね。私たちの主を嘲笑うためでもあったが、また緋色は王の色でもあったので、王もどきにさせて、ポンシオ・ピラトはユダヤ人たちにこの格好で私たちの主を見せていました。ユダヤ人たちはその緋色の上着を脱がせました。きっと、脱ぐと鞭打ちの傷はかきむしられたでしょう。その代わりに、日常の服を着せました。つまり、私たちの主のトゥニカを着せ直しました。それから、茨の冠を被っているまま、十字架を担わせてしまいました。差し込まれていたから、茨の冠を脱がせるのも面倒だったし、イエズスを嘲笑うためでもよかったでしょう。こうして十字架を担わせてしまいました。


【十字架を担わせる】
十字架といっても、全体の十字架ではありませんでした。一般的に、十字架はT型でしたけれども、その全体のT型の十字架を私たちの主が担われたのではありません。実は十字架という物は、二つの部分からなっています。第一に縦の部分があります。土の中に差し込む縦の部分です。第二に横の部分があります。その横の部分を縦の部分にくっ付けるのですが、「Patibulum」と呼ばれる部分です。この横の部分に、受刑者の手を釘付けられるのです。
したがって、一般の死刑受刑者と同じように、私たちの主はその横の部分を担い給うことになりました。当時のやり方に従うと、受刑者の体が縄で横の部分に絞られ、それで肩に担わせられてしまいました。それから、十字架の道行を歩み始め給いました。カルヴァリオの丘の道を歩み始め給いました。


【二人の盗賊も同時に死刑を執行される】
ところで、もう二人の受刑者を私たちの主と共に執行させることになりました。目撃者としても一緒にさせますが、その上、私たちの主を単なる有罪者程度に貶めるためでもありました。というのも、もう二人の受刑者は盗賊者だったからです。この二人の盗賊者は私たちの主の死を目撃することになります。残念なことに、目撃者となると同時に、、私たちの主の死の同伴者になりました。
要するに、この二人の盗賊者を、私たちの主と一緒に死刑執行することで、国民へ「これは単なる犯罪者だよ、盗賊程度の野郎だぞ」と知らせるためでした。私たちの主は強盗者扱い程度に貶められてしまったということです。

そこで二人の盗賊者も独房から出して、Patibulumを彼らにも担わせました。縄で同じくPatibulumに絞られていました。この二人の盗賊者は、死刑が判決されいましたが、死刑の執行をまさに待っていた受刑者でした。だから、私たちの主のような虐めやむち打ちなどは受けていなかったのです。あえていえば、私たちの主よりかなり元気でした。この二人にとって、Patibulumを担うのは、あまり苦労せずに容易でした。
要約すると、私たちの主の傍に、この二人の盗賊者がいて、受刑者の皆に十字架を担わせてから、行列を組みはじめました。


【ゴルゴタまでの行列の構成:先頭、中央、しんがり】
ゴルゴタまで行く行列ですけれど、その構成を見ておきましょう。
行列の前方には、触れ役がいました。ローマの番兵たちと共に、行列の先頭に立ちました。触れ役は受刑の判決掲示を掲げる上に、判決を絶えずに叫び出し続けました。周りの国民へ判決の理由を知らせるためにいた触れ役の人です。
触れ役と番兵たちが行列の先頭に立ち、そして、その後、番兵たちの次に数人の男たち、恐らく子供を含めて、十字架刑に使われる諸道具を持っていきました。要するに、釘や縄や槌や酢を持っていた男たちです。酢は後でまた説明しますが、受刑者に与えた酢でした。
十字架刑に使用される諸道具を持っていた男たちが続き、その次に、二人の盗賊者と私たちの主が続きました。受刑者の周りに番兵たちが用意されていました。それから、その後にも番兵たちが行列の殿(しんがり)をつとめました。この行進は正に行列のように進み、私たちの主はその中央におられました。王のための行列といったら不思議にそうだったかもしれません。王たる者のその上ない生贄として、私たちの主は行列の中央におられました。また、子羊が屠所に連れていかれるように私たちの主は連れて行かれました。私たちの主は行列の中央におられて、抵抗せずに歩み給うのです。


【十字架の道行き】
それから、「十字架の道行」と伝統的に呼ばれる場面が始まるのです。あるいは「ヴィア・ドロローサ」とも呼ばれます。「苦しみの道」との意味です。十字架の道行は、その距離が具体的に言うとそれほどに長くはありません。正確な距離を推算するのは難しいですけど、大体700メートルから1200メートルまでの距離ぐらいだったと思われます。要するに、健やかな人だったら、15分ぐらいで歩く距離です。

しかしながら、私たちの主の場合は、より長く時間がかかりました。もう、苦悶から鞭打ちを通じて茨の冠をはじめ、いろいろの虐めなども含めて私たちの主はもう疲れ切っておられた状態です。したがって、その疲労困憊の状況だったからこそ、十字架の道行はより苦しくなり、難しくなりました。

十字架の道行は町をでますが、出発点がどこにあったか定かではありません。聖伝の定説に従うのなら、出発点はアントニア城塞にあったとされています。アントニア城塞は神殿の後ろ辺り、町の北部にありました。で、北東へ十字架の道行は町から出て降りるのですが、エマオの町に向かう道でした。別の説によれば、出発点はより中央西部にあるとされて、ヘロデの宮殿にあったという説です。

それは兎も角、私たちの主は町から降りて、エマオ行きの門を確かに潜り給うのです。潜り給うとエルサレム町を去ることになりますが、エマオの町方面の西へ行く道になります。主は、その道を歩み給うたのですが、しばらくすると、その手前にあった道坂を通って、道沿いにあったゴルゴタ丘へ登り給いました。

以上は、十字架行きの図面のご紹介でした。要約すると、私たちの主は、先ず町から降り、門を潜り、町を去り、ゴルゴタ丘に登り給うたという道行です。「苦しみの道」でした。私たちの主は十字架を担い、十字架の道行を苦しまんとなさいました。



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