マンション管理のお勉強日記+スピリチュアルなブログ:飯田史彦教授 江原啓之氏 坂本政道氏等の精神世界の書籍を読んで

先立った最愛の彼女といつか必ず逢いたい…彼女が枕元に置いて逝った江原啓之氏の書籍…Spiritualな世界の存在を信じて

真言宗 長江寺住職 萩原玄明氏 -身体と魂-

2007年05月31日 04時56分46秒 | ★書籍で探訪|長江寺住職 荻原玄明氏
また少し、書籍を読んでみたくなりまして、荻原玄明著「『死者の霊魂とどうつき
あうか』死者からの教え」ハート出版に目を通していました。

真言宗 長江寺住職の萩原玄明氏は、
「振り返ってみますと、私自身の霊的不思議を自分もただ不思議だ不思議だと驚い
ていた時期も昔にはあったように思えます。また、霊能者として結果的には死者の
霊を見せ物のようにしてしまっていた時期も全く無かったとは言えない気もしま
す。」とおっしゃり、反省されています。

「しかし、これまででも、他の人の説を借りたり引用したりしたことは一切ありま
せん。」

「すべて私の体験をそのまま何の誇張もなしに素直に書き続けました。」
とおっしゃっています。

そして、本書では、この私たちの身体について、このように説かれています。

「毎度申し上げていますように、この身体という物質は、魂という人間の本当の生
命を知るための道具に過ぎません。」

「目には見ることの出来ないこの真実の生命に気づかないままでは、いくら生きて
いたって、それはもう人間としての価値を失った単なる有機生物しか過ぎません。」

「死というものは物質の肉体の終了であって、本当は永遠なる生命すなわち魂は決
して消滅しない。このことを知れば、人間の死に対する姿勢も当然変わるはずです。」

「近頃の私は、以前のように知人の訃報に接しても、悲しんでうろたえるなどとい
うことはもう全くありません。これは、私が冷酷になったのでも何でもなく、魂の
永遠の存在を確信したからのことです。」と語っておられます。

どうしてそこまで言えるのか。その点については、本書に書かれている多くの霊視
とその結果などをご一読ください。

・・・

萩原玄明氏は、先祖の供養に関して、
先祖代々とまとめてお経をあげて、それでいいのだと昔からどこかの僧に言われた
まま、何代もこれで大丈夫だと済ませて来た被害者がここにもいました、と一例を
先にあげられ、

「私はただ勝手にこれで駄目だと申しているのではありません。」
「先祖代々でまとめられてはたまらん、ちゃんと名前を呼んでくれと、霊視の中で
死者にはっきりと注文をつけられたことが何度もあるからです。」とおっしゃって
います。

そう言えば、江原啓之氏も、故人のたましいとの接し方として、また江原啓之氏が
監訳され、お薦めの「天国のこどもたちから」ハート出版にも、「名前で」
呼んであげて(呼んで欲しい)ということが書かれています。

・・・

萩原玄明氏もまた、飯田史彦教授や江原啓之氏、鈴木秀子教授と同じく、

「永遠に生きている魂なのですから、この世にあろうが、もといた魂の里に帰ろう
がたいした変わりはないのです。」

「ただ死もまた魂にとって1つの修行であり、カミによって教えられる1つの現象
であることは間違いないようです。」

「死というものを悪いことだとただ恐れるのではなく、もっと心静かに見つめて下
さい。」

「生きていることに意味があれば生きています。」

「死のうと思っても死ねません。」

「生きている意味がないと御佛が判断なされば、生きていたいと願っていても肉体
は活動を停止します。」

「生死それぞれは決して無意味ではないのです。」と語っておられます。

・・・

では、「自殺」はどうなのでしょうか。

萩原玄明氏も自殺を考えたことがあります。
しかし、死者との対話ができ、あの世を知る萩原玄明氏は次のようにおっしゃって
います。

錆びついたカミソリの刃が手首の上を走っていたら・・・
「おそらく手首の痛さと出血におののきながら、そのうちに意識が薄れて行って数
分後には間違いなく肉体の終焉を迎えたことでしょう。」

「肉体は荼毘にふされ埋葬されて形を消しますが、私の魂なる生命の意識体は生き
ています。」

「妻子はもちろんのこと姉たちや甥姪にまで意識を通わせて、永遠の未解決の世界
を彷徨することになるのは間違いありません。」

「『私は確かに自殺したはずなのだが、こうして自分でいろいろ意識を働かせてい
るところをみると、どうも私はまだ生きているらしい。どうしてなんだ。どうなっ
ているんだ。』と言った具合にです。」

「なにしろ生きている人間としての体験しか持っていませんので、意識だけの世界
にきてしまうと何もわからないので不安でたまりません。しきりにあわれふためく
だけです。こんな自分の様子が手にとるように想像出来ると、本当にこれが現実の
ことではなくてよかったとつくづく思います。」

そして、萩原玄明氏は、
「私にはこうして自分のことのように死者の立場を思い描くことができますので、
毎日のご供養でも一生懸命に死者たちに話をしています。」
なのだそうです。

どのように、話をしているのでしょうか。それは・・・
「『あなたが死んだことは夢でも何でもありません。本当にあなたは死んで肉体は
消滅してしまっているんですよ。そして魂で今は生きているんですよ』と。」

そして、萩原玄明氏は、
「本来なら私こそ死を自覚できずにさまよっているはずなのに、まったく逆の、成
佛していただく立場でこうして生きているのですから、不思議を通り越して有り難
い思いで一杯です。」とおっしゃっています。

・・・

萩原玄明氏は、「肉体というものはこの世でしか使えずこの世でしか必要でないも
のだけれども、魂の向上のために苦楽すべての体験を積んでいくという大切な道具
でもあるわけです。」

「ですから、永遠に生きる自分の魂という視点を忘れることなく、自分の身体に
ばかり中心を置いた生き方をしないようにしたいと思います。」

「言葉で表現するとなかなか旨く言えませんが、つまり、肉体にとらわれた暮らし
を続けると、死んだ後に自分の死が自覚できなくなるということだけでも、今から
胸に叩き込んでいただきたいのです。」とおっしゃっています。

そして、
「これは常々私が申し上げている大自然の法則・摂理と同様に、霊的世界において
も絶対的な真理です。人間とはそういう霊的存在なのだといってもいいでしょう。」
と語っておられます。

・・・

う~む。。。


この人物の書籍が気になると思っては、色々と読んできましたが、やはり「真実は
一つ」なんだなぁと、本書を読んでもそう思いました。


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3 コメント

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疑問 (凡夫)
2009-03-10 00:09:33
 ただただ素朴な疑問。萩原玄明氏は確かな方なのですか?失礼ながら、たとえば彼自身が精神鑑定を受けたなら間違いのない方ですか?なぜ、仏教僧侶なのに「カミ」を崇めるのですか。死者の魂?はいつまでも同じ所に留まりますか?先祖崇拝云々言っておられますが、仏教では先祖崇拝は方便のはずで、実際は宗派の信奉するご本尊への帰依、そこから始まる仏法帰依と認識していますが如何に。
 不可思議なことを否定する材料は持ち合わせていませんが、なんであれ基本を堅持して考えていくという常道を踏み外すことは大変危険なことのように思えます。
 釈迦は死者の行く末をどのように説いておられたか・・・。マールンクヤの話や、その他の逸話を参考に、いまいちど原点にたち返り、思慮あるものとして目覚めるべきではないのでしょうか。
 
返信する
すみません (凡夫)
2009-03-10 00:51:58
 すみません。あなたのプロフィールを読んでいませんでした。あなたのことを宗教関係者(特に仏教関係者)だと早合点して、前回のコメントを書いてしまいました。
 読んでみてお分かりだと思いますが、決して「荒らし」ではなく、本当に素朴な疑問と意見を書いたものです。
 あなたの思いを否定するものではありません。
 
返信する
Unknown (管理人)
2009-03-11 01:14:21
凡夫様、コメントありがとうございます。

いえいえ、気になさらないでください☆
私も難しいことはわからないのですが、ブログには「へ~っ、そういう考えもあるんだ」とか「あの世って本当にあるのかな・・・あって欲しいなぁ」「あの世に逝ったときには、亡くなった彼女に逢いたいなぁ」という思いで、色々とあの世がありそうな感じがする書籍を読んでいるというような状況です。

萩原玄明さんは、霊が視える(何か見えない存在が視える)人ではあるかなと思っていますが、実は先祖云々、特に祖先がその昔に何かしたから、今の子供や孫に降りかかってきているというように取れる発言や精神病=先祖乃至は自分の行いの因果応報のような話は、どうかなぁ・・・と思っています。ほぼ全ての話が、身内乃至は親族・先祖などに絡めての「精神病=霊的なものを通しての警鐘」のような話には疑問を抱いています。

突然、通りかかりの霊がくっつくことだってあるんじゃないの?って思ってますから。

自分自身の行いが、回りまわって自分に返って来るという理論?(因果応報のことですけど)は、「そうかも知れないなぁ」「のちのちのこと(生まれ変わることがあるとすれば)を考えると、この世を生きている間、キチンとしておこう」なんて考えたりして、悪いことではないし・・・なんて思っています。

ただ、特に江原さんや飯田先生、それに意外とお客様と接していたら「幽霊が視える」とか「私・・・幽霊を見たことがあるので部屋探しは、幽霊が出ないところを紹介して頂けませんか・・・」「職場(ホテル)で視たんです!」などと言う人がいるように、「いわゆる幽霊のような存在が視える人」がいるということは、やはり、何か科学では説明しきれない何かがあるように思うんですよね。私はですけど。

複雑なあの世の仕組みを知りたいとか、あの世はどうなっているのか、ということは、スピリチュアルは話に耳を傾けるようになった頃は、どれが正しい「あの世の姿」なのか、ということにも興味がありましたが、今の私は、確かに不思議ですけど、本人や親族・友人など限られた人しか知らないことを言い当てたり、死者の霊なるものが確かに視えているからそんな話ができるのだと思われる人の話を聞いて、「じゃぁ、死んだときには、亡き彼女に逢えるのかぃ?」「それって信じていい?」という、極々単純で素朴な疑問とそういう世界(あの世)があって欲しいなという願いから、このブログに「あの世はありそう」と思える話を書籍からピックアップして書いているというような感じです。

あの世は、やっぱりあって欲しいですし、
亡き彼女に絶対に逢いたいです。
もう一度逢いたいではなく、ずっと逢っていたい。

あの世は階層の世界と聞いていますので、この世のようにそばで一緒にいるということは、少し諦めていますが、江原さんや飯田先生のおっしゃるように「いつでも逢うことは出来る」という言葉だけは信じて生きたいと思っています。

またお気軽にお立ち寄りください。
コメントありがとうございました。
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