お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

揖斐城

2014-03-23 09:20:58 | 岐阜県
 揖斐城

2014/3/15

岐阜県揖斐川町のお城めぐり

 斎藤道三に攻め滅ぼされた名族土岐氏の一族揖斐氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 揖斐城
よみ: イビ
別称:
所在地: 岐阜県揖斐川町大光寺・三輪・極楽寺・上南方
現状: 山
築城年代: 康永二年(1343)
築城者: 揖斐出羽守頼雄
形式: 山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・出丸(太鼓曲輪)・北の丸・南の丸・搦手曲輪・曲輪・桝形虎口・竪堀・堀切・切通し・井戸
規模: 標高220m、比高180m
文化財: 町指定史跡
訪城日: 2011/5/15・2014/3/15


≪ 訪城記 ≫

竹中陣屋から揖斐城へ向かう。

岩手公民館駐車場を出て県道257号を南下、長畑交差点信号を左折、県道53号を東進、府中小学校南交差点信号を左折、県道53号を北上、JR東海道本線踏切を越え、梅谷片山トンネルを通り、池田温泉前を通り、東へ道が曲り東進、下八幡広海橋交差点信号を左折、国道417号を北上、粕川に架かる脛永橋を渡り、揖斐川に架かる岡島橋を渡り、上新町交差点信号を左折、国道303号を西進、次の昭和町信号を左折、約100m南下した道の西側に揖斐川町役場があり、役場の駐車場に車を駐車させてもらう。

役場駐車場から徒歩で昭和町信号を右折、東進して上新町信号を左折、約90m北進した突き当りT字路を右折、すぐ次のT字路を左折すると三輪神社の参道で、道の角の地図付の案内板がある。約100m北上して東側に揖斐小学校、西側に三輪神社があり、神社の北側池前の道を西へ入ると階段の城台山公園登り口がある。ここまで約20分。階段を登っていくと城台観世音菩薩前を通り、約10分で播隆院一心寺へ着く。一心寺の左側からが登城口で遊歩道を登ること約15分で井戸へ行く分かれ道に着く。左側に白山神社があり、裏側に出曲輪、まっすぐ登ると段々の曲輪があり、南の丸に出る。南の丸の左側から登ると本丸に出る。本丸には揖斐城趾碑があり、北側入口に桝形虎口が残っている。桝形虎口の北側に竪堀を挟んで平面図付の説明板、曲輪、二の丸、東へ折れ曲がり曲輪、三の丸、一段高い出丸(太鼓曲輪)、出丸左側に切通し、堀切を挟んで北の丸、堀切、搦手曲輪、堀切、説明板がある。ここから三の丸まで戻り、井戸へ降りる。位置的には二の丸の下ぐらいに今も岩肌から水が染み出ている井戸跡がある。


≪ 歴 史 ≫

康永二年 (1343) 美濃・尾張・伊勢三国守護土岐頼康の弟揖斐出羽守頼雄が揖斐城を築き、揖斐氏を称する。
康暦二年 (1380) 揖斐頼雄が揖斐城で没する。その後、詮頼、友雄、基春、基信と続くが、基信に子がなく宗家土岐政房の子光親を養子とする。
天文十六年 (1547) 斎藤道三に攻められ落城、揖斐氏が滅び、道三の被官堀池氏が城主となる。
天正十一年 (1583) 稲葉一鉄の急襲を受けて落城、廃城となる。


≪ 写 真 ≫


揖斐城


揖斐城趾碑


本丸


本丸北側桝形虎口


本丸と二の丸の間の竪堀跡


二の丸


大手門跡付近


三の丸


出丸(太鼓曲輪)


出丸左側の切通し


出丸の切岸


北の丸


北の丸と搦手曲輪の間の堀切


搦手曲輪


搦手曲輪北側の堀切


井戸


南の丸


本丸登り口


白山神社


井戸への分かれ道


播隆院一心寺左側の登城口


播隆院一心寺


城台観世音菩薩


三輪神社北側奥の城台山公園登り口


三輪神社


現地揖斐城址平面図(リンク付サムネイル)


現地案内地図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
養老鉄道揖斐駅から揖斐川町コミュニティバスで揖斐川町バス停下車、徒歩約5分で三輪神社北側の登城口に着く。ここから約30分で本丸。
<車>
東海環状道大垣西ICで降りて国道21号中山道を東進、道が大きく北へ曲がり、すぐに東へ大きく曲り東進、河間交差点信号を左折、国道417号を北上、粕川に架かる脛永橋を渡り、揖斐川に架かる岡島橋を渡り、上新町交差点信号を左折、国道303号を西進、次の昭和町信号を左折、約100m南下した道の西側に揖斐川町役場があり、役場の駐車場を利用すると良い。ここから徒歩で昭和町信号を右折、東進して上新町信号を左折、約90m北進した突き当りT字路を右折、すぐ次のT字路を左折すると三輪神社の参道で、道の角の地図付の案内板がある。約100m北上して東側に揖斐小学校、西側に三輪神社があり、神社の北側池前の道を西へ入ると階段の城台山公園登り口がある。ここまで約20分。ここから約30分で本丸。


≪ 位置図 ≫

揖斐城


三輪神社北側登城口


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菩提山城

2014-03-22 13:18:03 | 岐阜県
 菩提山城

2014/3/15

岐阜県垂井町のお城めぐり

 軍師竹中半兵衛重治の父重元が築いた竹中氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 菩提山城
よみ: ボダイヤマ
別称: 菩提城・岩手城・菩提寺城
所在地: 岐阜県不破郡垂井町岩手
現状: 山
築城年代: 永禄二年(1559)
築城者: 竹中重元
形式: 山城
遺構: 本曲輪・二の曲輪・三の曲輪・西の曲輪・台所曲輪・大手曲輪・出曲輪・腰曲輪・竪堀・堀切・土塁
規模: 216m×36m、標高402m、比高約300m
文化財:
訪城日: 2011/5/15・2014/3/15


≪ 訪城記 ≫

竹中陣屋から菩提山城へ徒歩で向かう。

岩手公民館南側の菁莪記念館角を曲がり、岩手小学校前を通って西へ約700mでJR東海道本線の踏切を渡り、すぐに山裾の三叉路に突き当り、右へ約200m登っていくと白山神社の碑と菩提山城跡ハイキングコース案内板のある右側の階段を登っていくと約10分で白山神社に着く。白山神社社殿の左側が登城口です。ハイキングコースを登ること約15分で鉄塔のある分かれ道に着き、左側の菩提山城跡方向に約10分登ると堀切が見られ、堀切を越えてすぐに大手曲輪に出る。さらにアップダウンの道を登ると分かれ道に出る。左側が三の曲輪で奥に深い堀切があり、その西に出曲輪、帯曲輪、堀切がある。分かれ道に戻り、右側へ行くと虎口があり、進むと台所曲輪、奥に西の曲輪、竪堀、土塁が見られ、特に西の曲輪は起伏のある複雑な形をしている。虎口へ戻り、一段上へ進むと空堀で分断された広い削平地があり、南側に二の曲輪と空堀で区切られた馬出、北側に本曲輪があり、縄張図付の説明板が建てられている。本曲輪東側下に腰曲輪、竪堀があり、本曲輪から眺める景色は絶景です。
帰りは鉄塔の分かれ道で禅幢寺の方向で下山、麓の八幡神社へ出る。八幡神社の南に禅幢寺があり、竹中半兵衛重治公の墓がある。


≪ 歴 史 ≫

永禄元年 (1558) 竹中重元が岩手氏を滅ぼし、翌永禄二年(1559)、菩提山城を築くが、翌年病没し、竹中重治が十六歳で跡を継ぐ。
永禄七年 (1565) 竹中半兵衛重治が斎藤竜興の稲葉山城を奪取するが、返却している。その後、織田信長、羽柴秀吉に仕え軍師として活躍する。
天正七年六月 (1579) 播磨三木城攻めの陣中で病没、重治の死後は従弟竹中源助重利が城を守り、重治の子重門は幼少のため秀吉のもとで養育された。
天正十六年 (1588) 岩手に帰り、菩提山城主となるが、山城の不便さから山麓に竹中陣屋を構え、菩提山城は廃城となる。


≪ 写 真 ≫


菩提山城


菩提山城本曲輪


本曲輪と二の曲輪の間の空堀


二の曲輪


馬出と空堀


本曲輪東側下の腰曲輪


西の曲輪


西の曲輪西側斜面の竪堀


西の曲輪北側の竪堀


台所曲輪


台所曲輪へ入る虎口


三の曲輪


三の曲輪と出曲輪の間の堀切


堀切の奥の腰曲輪


出曲輪


出曲輪奥の竪堀


出曲輪奥の堀切と土塁


出曲輪奥の2本目の堀切


大手曲輪


大手曲輪手前の堀切


堀切


鉄塔附近の分かれ道


登城口の白山神社


白山神社の碑のある登り口


踏切を渡った三叉路


八幡神社入口


禅幢寺


竹中半兵衛重治公の墓


現地菩提山城縄張図(リンク付サムネイル)


現地菩提山城跡ハイキングコース案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線垂井駅からバスで岩手公民館前下車、徒歩約25分で白山神社の登城口、ここから本曲輪まで約1時間。
<車>
名神高速関ヶ原ICを降りて国道365号を北上、関ヶ原西町交差点信号を右折、国道21号中山道を東進、関ヶ原駅前を通り過ぎ一ッ軒交差点信号を左折、JR東海道本線高架下をくぐり大高交差点信号を右折、国道21号関ヶ原バイパスを東進、野上北三叉路信号を左折、県道53号を北進、道が右に曲がった先の農産物直売所「半兵衛の里」のある長畑交差点信号を左折、県道257号を北上、岩手小学校角を通り過ぎた岩手公民館北側の櫓門前の道を挟んだ東側の観光駐車場に駐車すると良い。竹中陣屋から徒歩約25分で白山神社の登城口、ここから本曲輪まで約1時間。


≪ 位置図 ≫

菩提山城


白山神社の碑のある登城口


竹中半兵衛重治の墓のある禅幢寺


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竹中陣屋

2014-03-21 06:33:07 | 岐阜県
 竹中陣屋

2014/3/15

岐阜県垂井町のお城めぐり

 軍師竹中半兵衛重治の子重門が築いた陣屋

≪ お城の概要 ≫

城名: 竹中陣屋
よみ: タケナカ
別称: 岩手城・竹中氏館・竹裏館・岩手陣屋・竹中氏陣屋
所在地: 岐阜県不破郡垂井町岩手
現状: 竹中陣屋跡・岩手幼稚園・岩手公民館・岩手小学校
築城年代: 天正十六年(1588)
築城者: 竹中重門
形式: 平城
遺構: 櫓門・石垣・堀・土塁
規模:
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2011/5/15・2014/3/15


≪ 訪城記 ≫

自宅から竹中陣屋へ向かう。

自宅を出て国道8号を南下、川崎町交差点信号を左折、県道37号を東進、北陸道長浜ICを通り越して国道東上坂三叉路信号を斜め右折、国道365号を東進、道なりに進み伊吹山口信号を右折、関ヶ原バイパスを通って野上北三叉路信号を左折、県道53号を北進、道が右に曲がった先の農産物直売所「半兵衛の里」のある長畑交差点信号を左折、県道257号を北上、岩手小学校角を通り過ぎた岩手公民館の駐車場に車を駐車させてもらう。他にも櫓門前の道を挟んだ東側にも観光駐車場がある。

岩手公民館の北側に堀と石垣、櫓門が現存している。
櫓門の両側に石垣と土塁があり、櫓門石垣の上に登ることが出来る。
門をくぐって入ると岩手幼稚園の敷地となっている。


≪ 歴 史 ≫

天正七年(1579)六月、父竹中半兵衛重治が播磨三木の陣中で病没したため、幼少であった子重門は秀吉に養育され、成人して岩手に帰った天正十六年(1588)以降に菩提山城を廃し麓に陣屋の築城を開始、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い以後に完成したようです。以後、竹中氏は旗本として明治維新まで続く。

≪ 写 真 ≫


竹中陣屋櫓門


石垣と堀


櫓門北側の石垣と土塁


石垣上


石垣上からの見た堀


櫓門裏


竹中陣屋趾碑


竹中半兵衛重治公之像


現地観光案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線垂井駅からバスで岩手公民館前下車すぐ。
<車>
名神高速関ヶ原ICを降りて国道365号を北上、関ヶ原西町交差点信号を右折、国道21号中山道を東進、関ヶ原駅前を通り過ぎ一ッ軒交差点信号を左折、JR東海道本線高架下をくぐり大高交差点信号を右折、国道21号関ヶ原バイパスを東進、野上北三叉路信号を左折、県道53号を北進、道が右に曲がった先の農産物直売所「半兵衛の里」のある長畑交差点信号を左折、県道257号を北上、岩手小学校角を通り過ぎた岩手公民館北側の櫓門前の道を挟んだ東側の観光駐車場に駐車すると良い。


≪ 位置図 ≫

竹中陣屋


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野田館

2014-03-03 06:47:00 | 愛知県
 野田館

2014/2/16

愛知県新城市のお城めぐり

 千秋氏、富永氏を経て菅沼定則の居館

≪ お城の概要 ≫

城名: 野田館
よみ: ノダ
別称:
所在地: 愛知県新城市野田入畑
現状: 畑
築城年代: 十一世紀終わり頃
築城者: 千秋清季
形式: 居館
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2014/2/16


≪ 訪城記 ≫

野田城から野田館へ向かう。

野田城西側に道を南下、突き当りの三叉路を右折、西進した川田交差点信号を斜め左折、国道151号伊那街道を南西に進み、川田下側交差点信号を左折、大きく曲がって東進、道なりに左へ曲がり、次を右へ曲って東進、約1kmで川を渡り、約200m進んで右折、川沿いに南下、約100mで川を渡り左折、約200m進んだ道の北側に説明板があり、道が曲がる地点の空き地に車を駐車する。

畑の中に説明板があるのみで遺構はない。


≪ 歴 史 ≫

十一世紀終わり頃に千秋氏の祖、藤原季兼の三代清季が野田館を設け千秋氏を名乗る。千秋氏六代(238年間)を経て、富永氏に代わる。富永氏も七代(175年間)ののち田峯から菅沼定則が入るが、野田城を築いて移る。

≪ 写 真 ≫


野田館説明板付近


現地野田館説明板館の図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR飯田線野田城駅から約2.0km、約40分。
<車>
東名高速豊川ICで降りて国道151号伊那街道を北上、川田下側交差点信号を右折、大きく曲がって東進、道なりに左へ曲がり、次を右へ曲って東進、約1kmで川を渡り、約200m進んで右折、川沿いに南下、約100mで川を渡り左折、約200m進んだ道の北側に説明板があり、道が曲がる地点の空き地に車を駐車可能。


≪ 位置図 ≫

野田館


紹介したお城の数 190城



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野田城

2014-03-02 08:30:18 | 愛知県
 野田城

2014/2/16

愛知県新城市のお城めぐり

 武田信玄に攻められた「野田の戦い」で有名な野田菅沼氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 野田城
よみ: ノダ
別称:
所在地: 愛知県新城市豊島本城
現状: 野田城址
築城年代: 永正二年(1505)
築城者: 菅沼貞則
形式: 丘城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・空堀・土塁・土橋・虎口・井戸
規模: 200m×50m、標高42m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2014/2/16


≪ 訪城記 ≫

新城城から野田城へ向かう。

市立新城こども園北側の空き地を出て北上、新城市役所横の突き当り三叉路を左折、体育館前信号を直進して西進、八幡信号を直進、石田三叉路信号を斜め左折、伊那街道を西進、杉山信号を直進、野田城跡の案内看板のある豊島交差点信号を左折、南東に約200m行ったところに、道の東側に野田城説明板があり、道路脇に車を駐車する。

説明板横に空堀が見られ、空堀沿いに二の丸を入って行くと土橋、両側の空堀、土橋を渡った南側に土塁、この土塁上に野田城址碑があり、東側に野田城稲荷、土塁南側には広い削平地があり、ここが本丸で南側に井戸跡がある。井戸の南側淵には土塁跡、南東側には小振りな削平地と虎口、空堀が見られる。
土橋と空堀の北側に二の丸、三の丸があり、それぞれ入口があるが、雑木林で良く分からない。三の丸へ入って東側の桑淵は断崖絶壁です。
この野田城は、武田軍が通りがかりに攻めたが落ちず、信玄が城兵村松芳休の笛の音に聞き入り鳥居三左衛門の火縄銃に撃たれ、深手を負い、これがもとで死去したという伝説は有名です。


≪ 歴 史 ≫

永正二年 (1505) 田峯菅沼氏の菅沼定忠の三男定則が野田菅沼氏の祖となり野田城を築城する。
永禄三年五月 (1560) 野田菅沼氏は今川氏に属していたが、今川義元が桶狭間の戦いで討死すると三河の松平元康(のちの徳川家康)に属する。
永禄四年 (1561) 今川氏真に攻められ落城する。
元亀二年 (1571) 武田軍の攻撃にあい、城に火を放って城を開ける。
天正元年 (1573) 武田信玄の東三河攻略が始まり、城主菅沼定盈は籠城戦を戦った。この戦いが有名な「野田の戦い」で、信玄が城兵村松芳休の笛の音に聞き惚れ城に近づき、鳥居三左衛門の火縄銃に撃たれ、深手を負い、これがもとで死去したという伝説がある。
天正十八年 (1590) 徳川家康の関東移封によって、野田城主菅沼定盈が上野へ移封となり、野田城は廃城となる。


≪ 写 真 ≫


野田城址碑


野田城入口


本丸と二の丸の間の土橋


土橋東側の空堀


土橋西側の空堀


本丸


信玄公狙撃場所と伝わるところ


本丸井戸


井戸南側の土塁跡


南東の虎口付近の空堀


稲荷付近の土塁跡


土塁上からの本丸


二ノ丸


三の丸


桑淵の断崖絶壁


三の丸入口


現地野田城跡平面図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR飯田線野田城駅から徒歩約20分。
<車>
東名高速豊川ICで降りて国道151号伊那街道を北上、川田交差点信号を直進、野田城跡の案内看板のある豊島交差点信号を右折、南東に約200m行ったところに、道の東側に野田城説明板があり、道路脇に車を駐車可能。


≪ 位置図 ≫

野田城


紹介したお城の数 189城



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