お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

松任城

2014-06-30 05:31:17 | 石川県
 松任城

2014/5/24

石川県白山市のお城めぐり

 加賀一向一揆「松任組」の本拠地

≪ お城の概要 ≫

城名: 松任城
よみ: マツトウ
別称: 鏑木城
所在地: 石川県白山市古城町2
現状: 松任城址公園
築城年代: 長享年間(1487-89)
築城者: 鏑木右衛門大夫常専
形式: 平城
遺構: 櫓台跡
規模:
文化財:
訪城日: 2012/8/19・2014/5/24


≪ 訪城記 ≫

金沢城から松任城へ向かう。

石川県兼六有料駐車場を出て金沢市兼六交差点信号を左折、金沢城前の県道10号を南下、広坂交差点信号を右折、金沢市役所前を通り、突き当りの香林坊三叉路信号を左折、犀川大橋を渡り、国道157号を南下、有松交差点信号を右折して西進、横川交差点信号を斜め左折して南西に進み、野々市信号付近で道が右に曲がり西進、三日市交差点信号で金沢バイパス高架下をくぐり直進、県道291号を西進、松任駅前の信号を右折して、松任駅の東側、松任ふるさと館前の駅駐車場に車を駐車する。

松任駅前の信号を渡った南西側角に松任城址公園があり、入口に説明板がある。
公園の南西隅の盛り上がったところが隅櫓跡で、南東側の橋の手前に松任城本丸跡碑と松任城略年表が架かれた立派な石板が建てられいる。


≪ 歴 史 ≫

長享年間 (1487-89) 鏑木右衛門大夫常専が松任に築城して、加賀一向一揆の政治軍事組織「松任組」の根拠地となる。
天正五年 (1577) 常専の子右衛門尉頼信の時、上杉謙信に攻められ落城したようです。その後、若林長門守が松任城に拠っている。
天正八年 (1580) 柴田勝家軍に若林長門守が謀殺され、城は落ち、落城後は勝家の家臣徳山五兵衛則秀が在城する。
天正十一年 (1583) 前田利長が豊臣秀吉から松任の地を与えられ、越前府中から移る。
天正十三年 (1585) 前田利長が越中犬山城に移り、松任城は豊臣秀吉の直轄地となり寺西治兵衛秀則が代官として在城する。天正十五年(1587)、丹羽五郎左衛門長重が城主となる。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の戦いの功により、再び前田利長に松任が与えられ、赤座備後守吉家が城代として在城する。
慶長十九年 (1614) このころ廃城になったようです。


≪ 写 真 ≫


松任城本丸跡碑


橋付近


松任城址公園


櫓台跡

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR北陸本線松任駅から徒歩すぐ。
<車>
北陸道白山ICを降りて白山インター口信号を右折、県道8号を南下、JR北陸本線高架下をくぐり、五歩市南交差点信号を右折、県道291号を西進、松任駅前の信号を右折して、松任駅の東側、松任ふるさと館前の駅駐車場を利用すると良い。


≪ 位置図 ≫

松任城(松任城址公園)


紹介したお城の数 235城



Canon デジタル一眼レフカメラ EOS 60D ダブルズームキット EF-S18-55mm/EF-S55-250mm付属 EOS60D-WKIT
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キヤノン




Nikon デジタル一眼レフカメラ D5300 ダブルズームキット ブラック 2400万画素 3.2型液晶 D5300WZBK
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ニコン

金沢城

2014-06-29 13:14:29 | 石川県
 金沢城

2014/5/24

石川県金沢市のお城めぐり

 加賀百万石前田家の居城

 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 金沢城
よみ: カナザワ
別称: 尾山城・金沢御坊・尾山御坊・御山御坊・金沢御堂
所在地: 石川県金沢市丸の内1-1
現状: 金沢城公園
築城年代: 天文十五年(1546)
築城者: 一向宗徒
形式: 平山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・東の丸・鶴の丸・薪の丸・玉泉院丸・新丸・藤右衛門丸・現存石川門・大手門(尾坂門)・黒門跡・河北門・菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・現存三十間長屋・辰巳櫓跡・丑寅櫓跡・戌亥櫓跡・鯉喉櫓台・百堀跡・いもり堀・大手堀・内堀・石垣
規模: 675m×663m、標高59.5m、比高約40m
文化財: 重要文化財(石川門・三十間長屋)・国指定史跡
訪城日: 2011/10/7・2014/5/24


≪ 訪城記 ≫

自宅を出て金沢城へ向かう。

北陸道金沢西ICを降りて側道の国道8号金沢バイパスを北東に進み、松島北交差点信号を右折、北陸道高架下をくぐり、県道25号を進み、農業会館前付近で大きく左に曲がり東進、坂を登った野町広小路交差点信号を左折、犀川に架かる犀川大橋を渡り、国道157号を北上、香林坊三叉路信号を右折、県道10号を東進、金沢市役所前を通り、金沢21世紀美術館前の広坂信号を斜め左折、左側が金沢城公園、右側が兼六園、そのまま進み金沢市兼六交差点信号を右折した道の左側に石川県兼六有料駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場を出て土産物さん前を通って兼六交差点を左に曲がり、坂を登って石川橋を渡って石川門を入る。石川橋の下は県道10号で深い百堀跡です。現存の石川門は桝形虎口になっていて、土塀の石落しもカッコいいです。門をくぐって入ると広い三の丸で、右奥に河北門、中央奥に菱櫓、五十間長屋、整備中の橋爪門続櫓があります。そばまで行って内堀越しに眺めながら石川門までぐるっとまわり、石川門の石川櫓内部見学をしました。見学料は無料です。鶴の丸を通って二の丸まで行き、菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓を見学、ここは入場料310円です。
二の丸から戌亥櫓石垣下を通って鶴丸倉庫前から本丸へ入りました。石垣の虎口を入ったら東の丸で、北東隅に丑寅櫓跡、南東隅に辰巳櫓跡、中央付近の庭園跡付近が本丸跡です。北西隅が戌亥櫓跡で、西の鉄門跡を出た広場に現存三十間長屋があります。ここは内部見学無料です。三十間長屋の南端から階段を降りていくと薪の丸で、この付近の石垣も見ごたえがあり、石垣下に公園が整備中で、ここが玉泉院丸跡です。極楽橋の下の堀切石垣もいいです。一周して二の丸に帰り、三の丸へ戻り、河北門から広い新丸へ出て大手門(尾坂門)跡を通って大手堀沿いに左回りで一周して石垣を堪能しました。南側の本丸下の高石垣は素晴らしい、特に辰巳櫓下の段石垣は見ごたえがあります。この前には鯉喉櫓台といもり堀、本丸東面の百堀沿いの高石垣もすばらしいです。
石垣めぐりの案内板があるので参考に巡ってみてください。
とても広くて、石垣の種類の多さにびっくりします。


金沢城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天文十五年 (1546) 加賀一向一揆の本拠として金沢御坊が創設される。
天正八年 (1580) 柴田勝家軍の猛攻撃で孤立化し、勝家の甥佐久間盛政に占領され、尾山城と称して土塁、堀の造成を行う。
天正十一年 (1583) 羽柴秀吉との賤ヶ岳の合戦で柴田勝家軍は敗れ、佐久間盛政も捕えられ、六条河原で処刑された。尾山城も開城し、北陸制圧に功のあった前田利家に与えられ、入城する。以後、加賀百万石前田家の居城となり利長、利常、光高、綱紀、吉徳、宗辰、重煕、重靖、重教、治脩、斉広、斉泰、慶寧と続き明治維新を迎える。三代利常のころに金沢城と改称する。五代目綱紀のときに大名庭園「兼六園」が造営される。
慶長七年 (1602) 落雷によって天守、本丸を焼失する。
元和六年 (1620) 火災より本丸御殿を焼失する。翌年、再建。
平成十三年 (2001) 菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓を復元する。


≪ 写 真 ≫


金沢城石川門石川櫓


石川門枡形門


河北門二の門


河北門一の門


河北門ニラミ櫓


菱櫓と五十間長屋


内堀と二の丸北面石垣


五十間長屋


橋爪門続櫓


内堀石垣


石川門


三の丸


河北門


二の丸


本丸北面石垣


鶴丸倉庫


丑寅櫓跡


辰巳櫓跡


辰巳櫓跡からの鯉喉櫓台


本丸跡


戌亥櫓跡


鉄門石垣


三十間長屋


薪の丸東側石垣


極楽橋と堀切の石垣


東の丸北面石垣


大手堀石垣


本丸南面の高石垣


百堀からの石川門


現地金沢城石垣めぐり(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR北陸線金沢駅からバスで約15分、兼六園下バス停下車、徒歩約5分。
<車>
北陸道金沢西ICを降りて側道の国道8号金沢バイパスを北東に進み、松島北交差点信号を右折、北陸道高架下をくぐり、県道25号を進み、農業会館前付近で大きく左に曲がり東進、坂を登った野町広小路交差点信号を左折、犀川に架かる犀川大橋を渡り、国道157号を北上、香林坊三叉路信号を右折、県道10号を東進、金沢市役所前を通り、金沢21世紀美術館前の広坂信号を斜め左折、左側が金沢城公園、右側が兼六園、そのまま進み金沢市兼六交差点信号を右折した道の左側に石川県兼六有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

金沢城(金沢城公園)


紹介したお城の数 234城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




レンズが撮らえた幕末日本の城―永久保存版
來本 雅之
山川出版社

掛川城

2014-06-28 06:20:00 | 静岡県
 掛川城

2014/5/6

静岡県掛川市のお城めぐり

 今川氏の重臣朝比奈氏が築き、山内一豊が近代城郭に大修築した居城

 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 掛川城
よみ: カケガワ
別称: 雲霧城・松尾城・懸河城・辰多山城
所在地: 静岡県掛川市掛川
現状: 掛川公園
築城年代: 永正九年(1512)
築城者: 朝比奈泰能
形式: 平山城
遺構: 復興天守閣・復元大手門・現存御殿・太鼓櫓・四足門・天守の丸・本丸・二の丸・三の丸・三日月堀・十露盤堀・土塁・石垣・霧吹井戸・二の丸勝手台所井戸跡
規模: 1,400m×600m、標高60m、比高30m
文化財: 県指定文化財(御殿)
訪城日: 2011/10/4・2014/5/6


≪ 訪城記 ≫

横須賀城から掛川城に向かう。

横須賀城の駐車場を出て南の県道41号へ出て北西へ進み、袋井市内へ入り、東海道新幹線高架下、JR東海道本線高架下をくぐり、原野谷川を渡り北上して、堀越東交差点信号で国道1号袋井バイパス高架下をくぐって右折、側道を走って袋井バイパスに合流する。ここから国道1号袋井バイパスを東進、掛川市に入り東名高速と交差する地点から国道1号東海道を東進、北門交差点信号を右折、掛川公園西側を通って逆川を渡って南下、すぐの中町交差点信号を左折、県道37号を東進、仁藤町交差点信号を左折、北上した二つ目の信号のある交差点を左折、約150m西進した道の南側に大手門有料駐車場がある。ここに車を駐車する。

大手門有料駐車場西側交差点信号を渡った北西角に大手門と番屋が復元されている。大手門北側を流れる逆川沿いに西へ歩いていくと、観光案内所のある広い橋を渡ったところが掛川城跡の掛川公園で、立派に復元された天守閣が目に入る。右手の広い広場が三の丸跡で、左側の四足門から入り、南側の丘上に太鼓櫓、北側に石垣下に三日月堀と十露盤堀が復元されている。門を入った虎口を抜けると本丸跡の庭園、切符売り場で御殿を含む入場料400円を購入して北側に見上げる天守閣へ続く石段を登っていく。天守下門跡付近から太鼓櫓が良く見える。天守の丸に入ると霧吹き井戸を見て天守閣内を見学、天守閣からは二の丸御殿が良く見えます。次に二の丸御殿も見学、この二の丸御殿東側には黒土塁があり、北側の二の丸美術館前に勝手台所井戸跡もあります。
ちょうどこどもの日の次の日なので「こいのぼり」が天守閣前を泳いでいました。


掛川城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

今川氏重臣朝比奈氏一族のうち泰煕が斯波氏の押えとして掛川に築城することを今川義忠に命ぜられ掛川に移り、永正九年(1512)、子の泰能が長い年月をかけ完成する。
弘治三年 (1557) 朝比奈泰能が没し、泰朝が跡を継ぐ。
永禄十一年十二月 (1568) 武田信玄により駿府を追われた今川氏真を掛川城に迎えたが、掛川城は徳川家康に攻められる。
永禄十二年五月 (1569) 奥平美作守貞能の奔走で家康と講和がなり、掛川城を開城する。開城後、石川家成、康通父子が守将として入城する。
天正十八年七月 (1590) 徳川家康の関東移封にともない石川康通も上総国鳴戸へ移る。代わって、豊臣秀吉配下の山内一豊が近江国長浜し、近世城郭に改修する。
慶長五年十一月 (1600) 関ヶ原の合戦で東軍に属した山内一豊は土佐一国に加増転封となる。
慶長六年二月 (1601) 徳川家康の異父弟松平(久松)定勝が入部する。
慶長十二年閏四月 (1607) 松平定勝が伏見城代となり、子の定行が城主となる。
元和三年七月 (1617) 松平定行が伊勢国桑名城に移り、代わって、家康十男駿河府中城主徳川頼宣の付家老安藤直次が掛川城に入る。
元和五年七月 (1619) 徳川頼宣が紀伊和歌山に移り、安藤直次も従って紀伊田辺に移った。代わって、松平定行の弟定綱が入る。
元和九年 (1623) 松平定綱は将軍秀忠から山城国淀に築城を命じられ、寛永二年(1625)一月、淀城に転封となる。代わって、徳川忠長(家光の弟)の付家老朝倉宣正が入いるが、十月、忠長事件に連座して除封となる。
元和十年二月 (1624) 青山幸成が常陸国から入る。
元和十二年七月 (1626) 青山幸成が摂津国尼崎へ移り、八月、松平(桜井)忠重が駿河国田中から入る。
元和十六年三月 (1630) 松平忠重の嫡子忠倶が遺領相続と同時に信濃国飯山に移封、代わって、播磨国から本多忠義が入る。
正保元年三月 (1644) 本多忠義が越後国村上へ移封、代わって、駿河国田中から松平(藤井)忠晴が入封する。
慶安元年閏一月 (1648) 松平忠晴が丹波国亀山に移封、代わって、駿河国田中から北条氏重が入封する。
万治元年十二月 (1658) 北条氏重が無嗣除封となる。
万治二年五月 (1659) 三河国西尾から井伊直好が入封、子直武、孫直朝と続く。
宝永二年 (1705) 井伊直朝が発狂、一族の直矩が削封のうえ、十二月、越後国与板へ移封となる。
宝永三年一月 (1706) 信濃国飯山から松平(桜井)忠喬が入封する。
正徳元年二月 (1711) 松平忠喬が摂津国尼崎へ移封となり、代わって、武蔵国岩槻から小笠原長煕が入封し、養子長庸、長庸の嫡子長恭と続く。
延享三年九月 (1746) 小笠原長恭が陸奥国棚倉へ移封となり、代わって、上野国館林から太田資俊が入封し、資愛、資言、資始、資功、資美と続き、明治維新を迎える。
安政元年十一月 (1854) 大地震によって天守閣が倒壊する。本丸御殿も倒壊したが翌年に建て直される。
明治元年閏四月 (1868) 徳川家達が駿府に封ぜられ、太田資美は上総国芝山に国替えとなる。
平成六年 (1994) 天守閣が復元される。


≪ 写 真 ≫


掛川城復元天守閣


掛川城全景


掛川城


太鼓櫓


御殿前の掛川城趾碑


御殿からの天守閣


掛川城御殿


土塀


天守閣からの御殿


天守閣からの太鼓櫓


天守閣近影


霧吹き井戸


本丸跡


登城路からの太鼓櫓


天守下門


登城路


登城路入口


本丸跡からの掛川城


四足門


十露盤堀


三日月堀


掛川城入り口


天守と太鼓櫓


勝手台所井戸跡


黒土塁


松尾池跡


復元大手門


番所


現地主要部模型(リンク付サムネイル)


現地見取図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線掛川駅から徒歩約15分。
<車>
東名高速掛川ICを降りて掛川IC入口信号を右折、上張南交差点信号を右折、県道38号を北上、東名高速高架下をくぐり、JR東海道新幹線と東海道本線の高架下をくぐり、仁藤町交差点信号を直進、北上した二つ目の信号のある交差点を左折、約150m西進した道の南側に大手門有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

掛川城(掛川城公園)


復元大手門


紹介したお城の数 233城



日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
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静岡の山城ベスト50を歩く
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横須賀城

2014-06-22 16:46:17 | 静岡県
 横須賀城

2014/5/6

静岡県掛川市のお城めぐり

 徳川家康が高天神城奪還のために大須賀康高に築かせた居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 横須賀城
よみ: ヨコスカ
別称: 松尾城・両頭城
所在地: 静岡県掛川市西大渕
現状: 横須賀城跡公園
築城年代: 天正六年(1578)
築城者: 大須賀康高
形式: 平山城
遺構: 天守台跡・本丸・二の丸・西の丸・北の丸・松尾山・米倉跡・土塁・石垣・桝形虎口・三日月池
規模: 650m×350m、標高25m、比高20m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2011/10/4・2014/5/6


≪ 訪城記 ≫

高天神城から横須賀城へ向かう。

高天神城搦手門側駐車場を出て北上、高天神城案内板のある三叉路を右折、約120m東進した交差点を左折、北上して突き当りの三叉路を左折、県道249号を西進、途中から道なりに南下、川を渡って約350mの県道249号のまま交差点信号を右折、西進した野中交差点信号を斜め右折、県道69号を西進、横須賀の町中を通り過ぎ、西田町三叉路信号をほぼ直進、県道41号を約200m進んだ交差点を斜め左折、約200m西進した小さな横須賀城案内板のある三叉路を右折、約100m北上したところに駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場西側のゲートボール場付近が二の丸跡です。
駐車場に説明板があり、東へ登っていくと草が青々とした西の丸へ出る。西の丸の東側が本丸で真ん中付近に横須賀城趾碑があり、北東隅の土塁で高くなった場所が天守台跡です。本丸と西の丸には南に突き出た出郭があり、挟まれた部分が桝形虎口のようです。その南裾に三日月池があります。
横須賀城の石垣は南方面のみで、めずらしい大玉石で積み上げられたものです。
本丸北側下には北の丸、北の丸の東側の小高い山が松尾山で建物跡の発掘調査中のようです。


横須賀城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天正六年三月 (1578) 徳川家康は高天神城奪還を企図して、馬伏塚城主大須賀康高に命じて横須賀城を築城する。
天正十七年六月二十三日 (1589) 大須賀康高が没し、養子忠政(榊原康政の長男)が跡を継ぎ横須賀城主となる。
天正十八年八月 (1590) 徳川家康の関東移封にともなって大須賀忠政も上総国久留里に移封となり、代わって関白豊臣秀次付の渡瀬(横瀬)繁詮が入城する。
文禄四年七月 (1595) 秀次事件に連座して渡瀬繁詮が改易となり、代わって有馬豊氏が城主となる。
慶長五年十二月 (1600) 有馬豊氏が関ヶ原の戦功で丹波福知山に加増して転法となる。
慶長六年二月 (1601) 大須賀忠政が再び横須賀城主となり、松平姓を許され横須賀藩を立藩する。
慶長十二年 (1607) 大須賀忠政が没し、嫡子忠次が襲封する。
元和元年 (1615) 榊原康政の跡を継いだ康勝が嗣子なく急遽したことから榊原家が絶えることを惜しんだ家康の配慮によって忠次が榊原家に入り大須賀松平家は絶家となり、横須賀城は駿府城主徳川頼宣に組み込まれる。
元和五年七月 (1619) 徳川頼宣が紀伊和歌山に移り、同年十月に下総国関宿から松平(能見)重勝が入封する。
元和七年十一月 (1621) 松平重勝の跡を継いだ嫡子重忠が出羽国上山へ転封となり、翌八年(1622)老職井上正就が横須賀藩主となる。
寛永五年八月 (1628) 江戸城中で目付豊島信満との刀傷事件で井上正就が落命、嫡子正利が相続する。
正保二年六月 (1645) 井上正利が常陸国笠間へ転封となり、代わって三河国岡崎から本多利長が入部する。
天和二年二月 (1682) 本多利長が藩政苛虐を理由に出羽国村山郡内へ左遷され、三月、信濃国小諸から西尾忠成が入封、忠尚、忠需、忠移、忠善、忠固、忠受、忠篤と続く。
明治元年 (1868) 駿府藩の成立で西尾氏は安房国花房に移封となる。
明治二年 (1869) 廃城となる。


≪ 写 真 ≫


横須賀城桝形虎口と高石垣


横須賀城趾碑


天守台跡


本丸


西の丸


本丸から見下ろす桝形虎口


桝形虎口


大玉石の石垣


本丸石垣


本丸出郭


三日月池


北の丸からの天守台跡


北の丸


松尾山登り道


松尾山


松尾山建物跡


北の丸からの松尾山


米倉跡


現地横須賀城図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線袋井駅からバスで約30分、七軒町バス停下車、徒歩約10分。
<車>
東名高速袋井ICを降りて袋井IC信号を右折、県道61号を南下、川井交差点信号を直進、JR東海道本線の高架下、東海道新幹線高架下をくぐり、鉄開橋三叉路信号を左折、原野谷川に架かる橋を渡り、次の交差点信号を右折、県道41号を南下、道なりに進み石津付近で東進になり、七軒町バス停から約300mで小さな横須賀城案内板のある三叉路を左折、約100m北上したところに駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

横須賀城


紹介したお城の数 232城



静岡の山城ベスト50を歩く
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戦国の山城―山城の歴史と縄張を徹底ガイド (歴史群像シリーズ)
全国山城サミット連絡協議会
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高天神城

2014-06-21 08:53:43 | 静岡県
 高天神城

2014/5/6

静岡県掛川市のお城めぐり

 武田氏と徳川氏が激戦を繰り広げた遠江要の山城

≪ お城の概要 ≫

城名: 高天神城
よみ: タカテンジン
別称: 鶴舞城
所在地: 静岡県掛川市上土方嶺向・下土方
現状: 山・高天神社
築城年代: 室町時代中期
築城者: 今川氏
形式: 山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・西の丸・御前曲輪・的場曲輪・井戸曲輪・堂の尾曲輪・井楼曲輪・袖曲輪・馬場平・追手門跡・搦手門跡・着到櫓跡・土塁・横堀・堀切・かな井戸跡・三日月井戸
規模: 550m×360m、標高132m、比高104m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2011/10/4・2014/5/6


≪ 訪城記 ≫

ホテルから高天神城へ向かう。

ホテルを出て東名高速静岡ICから東名高速に乗り西進、菊川ICで降りて菊川IC入口信号を右折、県道37号を南下、菊川IC南交差点信号を右折、県道79号を西進、道が大きく左に曲がって南下した中内田交差点信号を左折、県道79号のまま南下、内田小学校前を通って下内田交差点信号を右折、県道79号のまま西進、小貫交差点信号を直進、県道38号を西進、道が大きく左に曲がり南下して城東中学校前を通り、道が右に曲がった川の手前の交差点を右折、県道251号を川沿いに北上、次の交差点を斜め右折して約230m北上、土方郵便局の交差点を左折、川を渡って西進、集落内を出た大きな道の交差点を直進して約120m進んだ高天神城案内看板のある三叉路を左折、山の方向へ約300m南下した道の両側に駐車場がいくつかある。一番奥の駐車場に車を駐車する。

駐車場から鳥居をくぐって高天神城趾碑と案内図のある搦手門跡を通り、階段を登っていくと右に曲がった地点の左側階段隅に三日月井戸跡があり、水が溜まっていて中に金魚が飼われている。ここを抜けると本丸と西の丸の中間点に出る。左側の大きな高天神城略図年表のある方が本丸方向で、右側の鳥居跡のある方が井戸曲輪のある西の丸方向です。
まずは左側の本丸方向の階段を登り、すぐの左側に的場曲輪跡があり、曲輪奥にある大河内政局石牢へ行く道を進んだところに、大河内政局が幽閉された石窟跡がある。その上に登っていくと本丸に着く。入り口に土塁跡があり、広い削平地の南入口付近に古い高天神城趾碑がある。本丸南側には元天神社のある御前曲輪、その下に三の丸があり、土塁跡が残る。三の丸右側を追手門方向に降りていく途中に着到櫓跡、追手門跡があり、その下に追手門側駐車場がある。
中間点に戻って右側の西の丸方向へ、すぐに井戸曲輪で中央にかな井戸がある。左の鳥居から階段を登った上に高天神社があり、ここが西の丸で社殿左側奥を通って深い堀切を渡った先が馬場平で奥に横田甚五郎尹松が落城時に脱出した犬戻り猿戻りという甚五郎抜け道がある。
かな井戸を右側裾を降りていくと二の丸、袖曲輪、さらに降りていくと本間氏清、丸尾義清兄弟戦死の碑があり、西側に降りた先に見事な横堀が南北に連なる。この横堀の右側台地上に堂の尾曲輪、その北に井楼曲輪と続く。曲輪の間には深い堀切がある。


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≪ 歴 史 ≫

永正十年頃 (1513) 今川氏親の重臣福島正成が入城する。
永禄三年 (1560) 今川義元が桶狭間の戦いで討死し、今川氏が衰退。
永禄十二年 (1569) 城主小笠原与八郎長忠が徳川家康に与し、本間八郎三郎氏清、丸尾修理亮義清らと守備する。
元亀二年三月 (1571) 武田信玄が遠江に侵攻し、高天神城を包囲するも城主小笠原長忠は籠城して死守する。
天正二年五月 (1574) 武田勝頼が遠江に攻め入り、高天神城を包囲、激戦の末、六月十七日、城主小笠原長忠が降伏する。勝頼は城番に横田甚五郎尹松を置く。
天正三年五月 (1575) 長篠の戦で武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗する。
天正六年三月 (1578) 徳川家康は高天神城攻略の拠点として大須賀康高に横須賀城を築かせる。
天正七年 (1579) 岡部丹波守真幸(元信)が入城する。
天正八年 (1580) 徳川家康は付城六砦を築き、高天神城を包囲する。
天正九年三月二十二日 (1581) 激しい攻防戦の末、城将岡部真幸(元信)が討死して軍監横田尹松が脱出、高天神城は落城し廃城となった。


≪ 写 真 ≫


高天神城本丸


本丸にある高天神城趾碑


本丸の土塁


御前曲輪


御前曲輪にある元天神社


三の丸


三の丸の土塁


着到櫓跡


追手門跡


大河内政局幽閉の石窟


的場曲輪


西の丸側入り口の鳥居跡


井戸曲輪


かな井戸


西の丸の高天神社


二の丸


袖曲輪


本間氏清、丸尾義清兄弟戦死の碑


袖曲輪と堂の尾曲輪の間の堀切


堂の尾曲輪


横堀から見上げる堂の尾曲輪方向


堂の尾曲輪下の横堀


堂の尾曲輪と井楼曲輪の間の堀切


井楼曲輪


井楼曲輪下の横堀


西の丸と馬場平の間の堀切


馬場平


搦手門側登城口


現地高天神城跡略図(リンク付サムネイル)


現地高天神城案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線掛川駅からバスで約25分。土方バス停下車、徒歩約15分。
<車>
東名高速菊川ICで降りて菊川IC入口信号を右折、県道37号を南下、菊川IC南交差点信号を右折、県道79号を西進、道が大きく左に曲がって南下した中内田交差点信号を左折、県道79号のまま南下、内田小学校前を通って下内田交差点信号を右折、県道79号のまま西進、小貫交差点信号を直進、県道38号を西進、道が大きく左に曲がり南下して城東中学校前を通り、道が右に曲がった川の手前の交差点を右折、県道251号を川沿いに北上、次の交差点を斜め右折して約230m北上、土方郵便局の交差点を左折、川を渡って西進、集落内を出た大きな道の交差点を直進して約120m進んだ高天神城案内看板のある三叉路を左折、山の方向へ約300m南下した道の両側に搦手側の駐車場がいくつかある。大手側にも駐車場有。


≪ 位置図 ≫

高天神城


搦手門側登城口


紹介したお城の数 231城



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