お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

津山城

2014-05-24 05:59:54 | 岡山県
 津山城

2014/4/29

岡山県津山市のお城めぐり

 森蘭丸の末弟森忠政が本格的な築城をした居城

 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 津山城
よみ: ツヤマ
別称: 鶴山城
所在地: 岡山県津山市山下
現状: 鶴山公園
築城年代: 嘉吉元年(1441)
築城者: 山名忠政
形式: 平山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・天守台・復元備中櫓・櫓跡・表鉄門跡・裏鉄門跡・切手門跡・四脚門跡・冠木門跡・五番門跡・七番門跡・虎口・土塀・大井戸跡・井戸跡・高石垣・薬研堀
規模: 600m×1,100m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2011/8/3・2014/4/29


≪ 訪城記 ≫

ホテルを出て津山城へ向かう。

国道53号を北上、岡山地方裁判所交差点信号を直進、県道27号を北上、山陽本線と山陽新幹線の高架下をくぐり、大和町交差点信号を左折、岡山県総合グラウンド前を通り、国道53号を西進、山陽道岡山IC入口三叉路信号を右折、国道53号岡山北バイパスを北上、岡山IC入口を通り越し、山陽道高架下をくぐり、吉宗付近で大きく右に曲がってから今度は左に曲がり、辛香トンネルを通り、トンネル出口で大きく右に曲がり、今度は左に曲がり北上、かつらぎ橋信号を直進、旭川沿いに大きく曲り、そのまま国道53号岡山街道を北上、津山市皿三叉路信号をほぼ直進、一方三叉路信号を直進、国道53号出雲街道を東進、津山駅前を通り、南町信号で吉井川に架かる橋を渡り北上、鶴山西口交差点信号を右折して突き当りを左折したら津山城有料駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場の東側が津山城で高石垣がすばらしい。山裾沿いに南へ歩き、道なりに石垣沿いに東へ曲がった先に入口があり、冠木門跡前に入場券売場がある。入場料300円です。
冠木門跡横に津山城趾碑があり、広い石段から入ると三の丸で素晴らしい高石垣が迎えてくれる。高石垣に見とれながら石段の桝形虎口を登っていくと二の丸入口の四脚門跡に出る。ここから復元備中櫓を見上げながら切手門跡を通り、表鉄門跡へ、横から眺める備中櫓もいい。鉄門を入ると本丸で、東側の太鼓櫓跡、矢切櫓跡、月見櫓跡と続く大きな要塞のような石垣群は圧巻です。本丸西側には復元備中櫓、その奥に天守台の石垣がある。裏鉄門跡から降りていくと本丸下へ出て、西側の高石垣が見られる。


津山城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

嘉吉年間 (1441-44) 山名忠政が築城する。
慶長八年 (1603) 信濃川中島城主森忠政が入部し、本格的な築城を始める。
元和二年 (1616) 津山城が完成する。
元禄十年 (1697) 森氏が四代続いたが、森長成が死去し、嗣子なく改易となる。
元禄十一年 (1698) 松平越前守宣富が津山城主となり、以後、九代にわたって在城する。
明治二年 (1869) 徳川慶倫が版籍奉還し、津山城は明治三年(1870)に廃城となる。
平成十七年 (2005) 備中櫓が復元される。


≪ 写 真 ≫


津山城復元備中櫓


南西から見た備中櫓


天守台


天守台から見た備中櫓と天守虎口


天守台石垣


月見櫓石垣


本丸東側石塁の合雁木石垣


太鼓櫓石垣


表鉄門跡から見た備中櫓


表鉄門跡


石塁の東側


本丸東側石塁


石塁の南側


切手門跡


本丸北側の高石垣


天守台下の段石垣


本丸常用の井戸


本丸大井戸跡


裏鉄門跡石垣


裏鉄門跡


栗積櫓跡石垣


裏門石垣


西側高石垣


表門石段


表門石垣


冠木門跡


津山城趾碑


入口の石垣

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR津山線津山駅から徒歩約15分。
<車>
中国道津山ICで降りて津山インター信号を左折、国道53号出雲街道を西進、東津山駅前を通り過ぎ、吉井川沿いに進み船頭町交差点信号を右折し北上、鶴山西口交差点信号を右折して突き当りを左折したら津山城有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

津山城(鶴山公園)


紹介したお城の数 221城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




レンズが撮らえた幕末日本の城―永久保存版
來本 雅之
山川出版社

庭瀬城

2014-05-21 05:51:53 | 岡山県
 庭瀬城

2014/4/28

岡山県岡山市のお城めぐり

 関ヶ原の合戦の戦功によって戸川達安が築いた庭瀬藩の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 庭瀬城
よみ: ニワセ
別称: 御陣屋
所在地: 岡山県岡山市北区庭瀬
現状: 清山神社・八幡宮
築城年代: 慶長五年(1600)以後
築城者: 戸川達安
形式: 平城
遺構: 郭・堀・石垣
規模: 200m×200m
文化財:
訪城日: 2014/4/28


≪ 訪城記 ≫

撫川城から徒歩で庭瀬城に向かう。

撫川城入口を南に進み、住宅街の突き当りを左折、約60m東進した突き当りを左折、約80m北上したT字路を右折、約80m東進したところの右側に池のような堀のある庭瀬城があり、入口の北側、案内図のある前に駐車スペースがある。

堀と石垣のある浮島が庭瀬城跡で入口に説明板と庭瀬城址碑があり、八幡宮が鎮座している。南側に架かる石垣の橋を渡った西奥に清山神社がある。


≪ 歴 史 ≫

慶長五年 (1600) 関ヶ原の合戦の戦功で戸川達安が入部して、撫川城を広げて古城の東に築城する。その後、四代の安風に嗣子なく改易となる。
天和三年 (1683) 久世重之が下総関宿から入部する。
貞享三年 (1686) 久世氏が丹波亀山に移封となる。
元禄六年 (1693) 松平信通が大和興留から入部する。
元禄十年 (1697) 松平氏が出羽上山に転封となる。
元禄十二年 (1699) 板倉重高が上総高滝から入部して明治維新まで板倉氏の居城となる。


≪ 写 真 ≫


庭瀬城入口


庭瀬城址碑


八幡宮


清山神社


清山神社からの橋の石垣


西から見た橋と石垣


西から見た庭瀬城


現地案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR山陽本線庭瀬駅から徒歩約5分。
<車>
岡山道岡山総社ICを降りて国道180号を東進、小山三叉路信号を直進してすぐに大きく右に曲がり、JR吉備線備中高松駅を過ぎ、国道180号を南東へ進み、山陽道高架下をくぐり、板倉三叉路信号をほぼ直進の斜め右を進み県道245号を約900m南下した県道389号へ行く三叉路を右折、県道389号を約700m西進した信号のある三叉路を左折、県道389号を南下、山陽新幹線高架下をくぐり、突き当りの三叉路信号を左折、約150m東進したら右折して細い路地の住宅街の道を約120m南下、突き当りを左折、すぐに右折してさらに細い路地を南下、下東城之内公民館角の突き当りを左折、すぐに右折して太鼓橋を渡って左折、クランクして南下すると左側に撫川城の堀が見える。突き当りを左折して約80m東進すると撫川城があり、入口を南に進み、住宅街の突き当りを左折、約60m東進した突き当りを左折、約80m北上したT字路を右折、約80m東進したところの右側に池のような堀のある庭瀬城があり、入口の北側、案内図のある前に駐車スペースがある。


≪ 位置図 ≫

庭瀬城(清山神社)


紹介したお城の数 220城



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撫川城

2014-05-20 06:26:29 | 岡山県
 撫川城

2014/4/28

岡山県岡山市のお城めぐり

 毛利氏の備前宇喜多氏に対抗する境目城

≪ お城の概要 ≫

城名: 撫川城
よみ: ナツカワ
別称: 高下ノ城・芝揚城・泥城・小倉城
所在地: 岡山県岡山市北区撫川
現状: 撫川城址公園・三神社
築城年代: 寛治年間(1087-94)
築城者: 藤井久任
形式: 平城(沼城)
遺構: 本丸・石垣・堀・土塁跡
規模: 100m×70m
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2014/4/28


≪ 訪城記 ≫

備中高松城から撫川城へ向かう。

高松城水攻築堤跡の蛙ヶ鼻を出て、来た細い道を戻り、JR吉備線踏切を渡った歩道橋のある交差点を左折、国道180号を南東へ進み、山陽道高架下をくぐり、板倉三叉路信号をほぼ直進の斜め右を進み県道245号を約900m南下した県道389号へ行く三叉路を右折、県道389号を約700m西進した信号のある三叉路を左折、県道389号を南下、山陽新幹線高架下をくぐり、突き当りの三叉路信号を左折、約150m東進したら右折して細い路地の住宅街の道を約120m南下、突き当りを左折、すぐに右折してさらに細い路地を南下、下東城之内公民館角の突き当りを左折、すぐに右折して太鼓橋を渡って左折、クランクして南下すると左側に撫川城の堀が見える。突き当りを左折して約80m東進すると撫川城入口にある公園前に駐車スペースがある。ここに車を駐車する。

撫川城は堀と石垣に囲まれた本丸跡に入口に門があり、門をくぐった右手に説明板とパンフレットが置いてある。中央には三神社があり、北側と東側に土塁らしき盛り上がりが一部残る。


≪ 歴 史 ≫

寛治年間 (1089-94) 藤井久任が築城したとも、平清盛の家臣妹尾太郎兼康の一族が居城したとも言われている。
天正以前に三村氏の持城となる。
天正年間 (1573-92) 城主伊賀左衛門尉久が切腹したあと、毛利氏の城代として上山兵庫介、植民部大輔が在城したと言われている。
天正十年 (1582) 羽柴秀吉によって落城する。落城後は宇喜多氏の部将が城番として在城する。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の戦いの戦功で戸川達安の所領となり、撫川城の東に陣屋が構えられ、以後も城域として利用されたようです。


≪ 写 真 ≫


撫川城入口の門


堀と石垣


西側の堀と石垣


三神社


東側の土塁跡


太鼓橋


現地案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR山陽本線庭瀬駅から徒歩約10分。
<車>
岡山道岡山総社ICを降りて国道180号を東進、小山三叉路信号を直進してすぐに大きく右に曲がり、JR吉備線備中高松駅を過ぎ、国道180号を南東へ進み、山陽道高架下をくぐり、板倉三叉路信号をほぼ直進の斜め右を進み県道245号を約900m南下した県道389号へ行く三叉路を右折、県道389号を約700m西進した信号のある三叉路を左折、県道389号を南下、山陽新幹線高架下をくぐり、突き当りの三叉路信号を左折、約150m東進したら右折して細い路地の住宅街の道を約120m南下、突き当りを左折、すぐに右折してさらに細い路地を南下、下東城之内公民館角の突き当りを左折、すぐに右折して太鼓橋を渡って左折、クランクして南下すると左側に撫川城の堀が見える。突き当りを左折して約80m東進すると撫川城入口にある公園前に駐車スペースがある。


≪ 位置図 ≫

撫川城(撫川城址公園)


紹介したお城の数 219城



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備中高松城

2014-05-19 05:47:07 | 岡山県
 備中高松城

2014/4/28

岡山県岡山市のお城めぐり

 羽柴秀吉に備中高松城を水攻めされ、城主清水宗治の切腹によって和睦成立した清水宗治の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 備中高松城
よみ: ビッチュウタカマツ
別称: 高松城・沼城
所在地: 岡山県岡山市北区高松
現状: 高松城址公園
築城年代: 十六世紀前半期か
築城者: 石川氏
形式: 平城(沼城)
遺構: 本丸・清水宗治公首塚・道塚・自刃跡・ごうやぶ遺跡・水攻め築堤跡(蛙ヶ鼻)
規模: 400m×400m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2014/4/28


≪ 訪城記 ≫

徳倉城から備中高松城へ向かう。

徳倉城跡大手登城口前の県道61号を南下、岡山空港北西側の道を進み、空港西端を大きく左に曲がり交差点信号を南下、横尾池の横を通り、岡山市水道局長野取水場を過ぎた三叉路を右折、長野浄水場を過ぎ、高松稲荷横を過ぎ、老人ホーム松風園を通り過ぎた高松城址公園案内板のある三叉路を右折、約400m西に進んだ突き当りを右折したすぐに高松城址公園の駐車場がある。ここに車を駐車する。

公園駐車場の道を挟んだ東側にある清涼閣と寺の奥に清水宗治公自刃跡の供養塔がある。この供養塔の南側田んぼの中に清水宗治公の家臣が殉死したところ「ごうやぶ遺跡」がある。
高松城址公園には城の遺構はなにもないが、蓮池の北側の区画に清水宗治公の首塚と清水宗治城址碑や高松城水攻めの説明板があり、南東隅には高松城址水攻め築堤址の碑がある。
さらに北西隅の駐車場から約30m行った清水宗治公胴墓案内板のある角を入ったところのに胴墓がひっそりとある。

蛙ヶ鼻へ車で移動する。

駐車場を約60m南へ進んだ三叉路を左折、約400m東へ進んだ突き当りの三叉路を右折、県道241号を南下、JR吉備線の踏切を渡り、高松稲荷交差点信号を左折、国道180号を約200m南東に進んだ歩道橋のあるところの細い道に左折、すぐに踏切を渡り、川を渡って約200m進んだ突き当りを左折したところにベロ上に突き出た蛙ヶ鼻があり、ここが高松城水攻め史跡公園となっていて、蛙ヶ鼻の西側に駐車場がある。
ベロ上に突き出た築堤の根元に築堤の碑があり、築堤の南に発掘跡が保管されている。


高松城址公園の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

石川久孝が高松城の城主であったが、実子がなく奥郡の須々木氏の末子筑前守を養子に迎えて高松城を譲り、久孝は他界した、筑前守も早死にし、嗣子がなかった。
永禄八年八月 (1565) 石川氏は断絶の時期を迎え、適当な養子をとって城主にしようとしたが、長谷川氏が高松城で清水宗治に誅殺され、宗治が高松城主に収り毛利氏の小早川隆景の幕下となる。
天正六年四月 (1576) 毛利氏の播磨上月城攻めに清水宗治も出陣する。
天正十年三月 (1582) "羽柴秀吉の高松城攻めが始まり、清水宗治は高松城に籠城、後詰として毛利輝元が備中猿掛城に、吉川元春、小早川隆景が備中岩崎に陣を構える。四月二七日、秀吉は高松城を囲み、攻め落とそうとしたが、高松城は堅く守城する。そこで秀吉は水攻め以外ないと考え、城外三里に高さ二丈の堤を築き、足守川や長野川の水を引き入れ、高松城は孤立した。六月二日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に倒され、報を受けた秀吉は、密かに講和を持ちかけ、条件に城主宗治の自刃を要求、六月四日、清水宗治は船上で切腹した。その後、有名な秀吉の大返しによって、明智光秀が山崎の合戦で討たれることになる。
和睦後、高松城には秀吉麾下の杉原七郎左衛門尉が城番した。このあと宇喜多氏の部将花房正成が居城とする。このとき大改修が行われる。"
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦後、宇喜多氏の家中騒動で追放された花房職之が徳川氏の旗本として入部して陣屋として活用された。


≪ 写 真 ≫


備中高松城本丸跡


清水宗治城趾碑


清水宗治公首塚


高松城址公園


高松城址公園資料館


高松城址水攻築堤址碑


清水宗治公胴塚


清水宗治公自刃供養塔


ごうやぶ遺跡


高松城水攻築堤跡(蛙ヶ鼻)


発掘調査跡


高松城水攻築堤址碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR吉備線備中高松駅から徒歩約10分。
<車>
岡山道岡山総社ICを降りて国道180号を東進、小山三叉路信号を直進してすぐに大きく右に曲がり、JR吉備線備中高松駅を過ぎ、高松稲荷三叉路信号を左折、JR吉備線踏切を渡り、県道241号を約500m北上した高松城址の案内板のある三叉路を左折、約400m西に進んだ突き当りを右折したすぐに高松城址公園の駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

備中高松城(高松城址公園)


清水宗治公自刃供養塔


清水宗治公胴塚


蛙ヶ鼻(高松城水攻め史跡公園)


紹介したお城の数 218城



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徳倉城

2014-05-18 05:44:23 | 岡山県
 徳倉城

2014/4/28

岡山県岡山市のお城めぐり

 松田氏一族の居城で金川城の出城

≪ お城の概要 ≫

城名: 徳倉城
よみ: トクラ
別称: 土倉城・徳蔵城
所在地: 岡山県岡山市北区御津河内
現状: 山
築城年代: 文明年間(1469-87)
築城者: 松田親秀
形式: 山城
遺構: 本丸・出丸・腰曲輪・土塁・石垣・堀切・井戸跡
規模: 300m×170m、標高232m、比高170m
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2014/4/28


≪ 訪城記 ≫

金川城から徳倉城へ向かう。

北区役所支所を出て、支所の東側、旭川沿いの国道53号を南下、宇垣三叉路信号を右折、JR津山線の踏切を渡り、すぐに左に大きく曲り、県道61号を南西方向に進み、川の右側を進み橋を渡り、御津河内の集落を過ぎた橋を渡る手前に徳倉城跡大手登城口の案内板がある手前の道路脇スペースに車を駐車する。

案内板に沿って川沿いの舗装路を少し入ると本丸登山道の案内板のあるところから登っていく。要所の角々に小さな案内標識が建ててあり道に迷うことなく登れるが、堀切、出丸付近からほぼ直登で非常にきつい。約25分登ると出丸長郭跡に出て、ここからは道が緩やかになる。矢竹林、腰曲輪、井戸跡を過ぎると、いきなり野面積の石垣で屈折した虎口に出る。この上が本丸で登城口から約50分で着く。本丸は南北に細長く、中央高い部分に祠があり、南面に石垣を施した土塁跡が残る。
この徳倉城は岡山空港に近いため旅客機が城跡の上を飛んでいくのに本丸に着いたときちょうど出くわし、旅客機をまじかに見ることが出来ました。


≪ 歴 史 ≫

文明八年 (1476) 松田元隆の三男親秀が居城とする。
天文年間(1532-55)から永禄五年(1562)頃に宇垣市郎兵衛が城主であったが、宇喜多直家による離反工作にあい永禄十年(1567)頃、徳倉城を退去する。
永禄十一年 (1568) 宇喜多直家が松田氏を滅ぼして備前国西半を支配し、家臣の遠藤河内守が城主となる。天正末年には城番を置いて岡山に移住する。
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦で宇喜多秀家が滅び、代わって小早川秀秋が備前国主になり、徳倉城は廃城となる。


≪ 写 真 ≫


徳倉城虎口石垣


南面の石垣のある土塁跡


本丸


本丸北面


井戸跡


腰曲輪


矢竹林


出丸長郭跡


堀切


登城口


徳倉城跡大手登城道入口

≪ アクセス ≫

<車>
山陽道岡山ICを降りて国道53号岡山北バイパスを北上、山陽道高架下をくぐり、吉宗付近で大きく右に曲がってから今度は左に曲がり、辛香トンネルを通り、トンネル出口で大きく右に曲がり、今度は左に曲がり北上、かつらぎ橋信号を直進、旭川沿いに大きく曲り、宇垣三叉路信号を左折、JR津山線の踏切を渡り、すぐに左に大きく曲り、県道61号を南西方向に進み、川の右側を進み橋を渡り、御津河内の集落を過ぎた橋を渡る手前に徳倉城跡大手登城口の案内板がある手前の道路脇スペースに駐車可能。


≪ 位置図 ≫

徳倉城


登城口


紹介したお城の数 217城



レンズが撮らえた幕末日本の城―永久保存版
來本 雅之
山川出版社




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