掛川城
2014/5/6
静岡県掛川市のお城めぐり
今川氏の重臣朝比奈氏が築き、山内一豊が近代城郭に大修築した居城
日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 掛川城
よみ: カケガワ
別称: 雲霧城・松尾城・懸河城・辰多山城
所在地: 静岡県掛川市掛川
現状: 掛川公園
築城年代: 永正九年(1512)
築城者: 朝比奈泰能
形式: 平山城
遺構: 復興天守閣・復元大手門・現存御殿・太鼓櫓・四足門・天守の丸・本丸・二の丸・三の丸・三日月堀・十露盤堀・土塁・石垣・霧吹井戸・二の丸勝手台所井戸跡
規模: 1,400m×600m、標高60m、比高30m
文化財: 県指定文化財(御殿)
訪城日: 2011/10/4・2014/5/6
≪ 訪城記 ≫
横須賀城から掛川城に向かう。
横須賀城の駐車場を出て南の県道41号へ出て北西へ進み、袋井市内へ入り、東海道新幹線高架下、JR東海道本線高架下をくぐり、原野谷川を渡り北上して、堀越東交差点信号で国道1号袋井バイパス高架下をくぐって右折、側道を走って袋井バイパスに合流する。ここから国道1号袋井バイパスを東進、掛川市に入り東名高速と交差する地点から国道1号東海道を東進、北門交差点信号を右折、掛川公園西側を通って逆川を渡って南下、すぐの中町交差点信号を左折、県道37号を東進、仁藤町交差点信号を左折、北上した二つ目の信号のある交差点を左折、約150m西進した道の南側に大手門有料駐車場がある。ここに車を駐車する。
大手門有料駐車場西側交差点信号を渡った北西角に大手門と番屋が復元されている。大手門北側を流れる逆川沿いに西へ歩いていくと、観光案内所のある広い橋を渡ったところが掛川城跡の掛川公園で、立派に復元された天守閣が目に入る。右手の広い広場が三の丸跡で、左側の四足門から入り、南側の丘上に太鼓櫓、北側に石垣下に三日月堀と十露盤堀が復元されている。門を入った虎口を抜けると本丸跡の庭園、切符売り場で御殿を含む入場料400円を購入して北側に見上げる天守閣へ続く石段を登っていく。天守下門跡付近から太鼓櫓が良く見える。天守の丸に入ると霧吹き井戸を見て天守閣内を見学、天守閣からは二の丸御殿が良く見えます。次に二の丸御殿も見学、この二の丸御殿東側には黒土塁があり、北側の二の丸美術館前に勝手台所井戸跡もあります。
ちょうどこどもの日の次の日なので「こいのぼり」が天守閣前を泳いでいました。
掛川城の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
今川氏重臣朝比奈氏一族のうち泰煕が斯波氏の押えとして掛川に築城することを今川義忠に命ぜられ掛川に移り、永正九年(1512)、子の泰能が長い年月をかけ完成する。
弘治三年 (1557) 朝比奈泰能が没し、泰朝が跡を継ぐ。
永禄十一年十二月 (1568) 武田信玄により駿府を追われた今川氏真を掛川城に迎えたが、掛川城は徳川家康に攻められる。
永禄十二年五月 (1569) 奥平美作守貞能の奔走で家康と講和がなり、掛川城を開城する。開城後、石川家成、康通父子が守将として入城する。
天正十八年七月 (1590) 徳川家康の関東移封にともない石川康通も上総国鳴戸へ移る。代わって、豊臣秀吉配下の山内一豊が近江国長浜し、近世城郭に改修する。
慶長五年十一月 (1600) 関ヶ原の合戦で東軍に属した山内一豊は土佐一国に加増転封となる。
慶長六年二月 (1601) 徳川家康の異父弟松平(久松)定勝が入部する。
慶長十二年閏四月 (1607) 松平定勝が伏見城代となり、子の定行が城主となる。
元和三年七月 (1617) 松平定行が伊勢国桑名城に移り、代わって、家康十男駿河府中城主徳川頼宣の付家老安藤直次が掛川城に入る。
元和五年七月 (1619) 徳川頼宣が紀伊和歌山に移り、安藤直次も従って紀伊田辺に移った。代わって、松平定行の弟定綱が入る。
元和九年 (1623) 松平定綱は将軍秀忠から山城国淀に築城を命じられ、寛永二年(1625)一月、淀城に転封となる。代わって、徳川忠長(家光の弟)の付家老朝倉宣正が入いるが、十月、忠長事件に連座して除封となる。
元和十年二月 (1624) 青山幸成が常陸国から入る。
元和十二年七月 (1626) 青山幸成が摂津国尼崎へ移り、八月、松平(桜井)忠重が駿河国田中から入る。
元和十六年三月 (1630) 松平忠重の嫡子忠倶が遺領相続と同時に信濃国飯山に移封、代わって、播磨国から本多忠義が入る。
正保元年三月 (1644) 本多忠義が越後国村上へ移封、代わって、駿河国田中から松平(藤井)忠晴が入封する。
慶安元年閏一月 (1648) 松平忠晴が丹波国亀山に移封、代わって、駿河国田中から北条氏重が入封する。
万治元年十二月 (1658) 北条氏重が無嗣除封となる。
万治二年五月 (1659) 三河国西尾から井伊直好が入封、子直武、孫直朝と続く。
宝永二年 (1705) 井伊直朝が発狂、一族の直矩が削封のうえ、十二月、越後国与板へ移封となる。
宝永三年一月 (1706) 信濃国飯山から松平(桜井)忠喬が入封する。
正徳元年二月 (1711) 松平忠喬が摂津国尼崎へ移封となり、代わって、武蔵国岩槻から小笠原長煕が入封し、養子長庸、長庸の嫡子長恭と続く。
延享三年九月 (1746) 小笠原長恭が陸奥国棚倉へ移封となり、代わって、上野国館林から太田資俊が入封し、資愛、資言、資始、資功、資美と続き、明治維新を迎える。
安政元年十一月 (1854) 大地震によって天守閣が倒壊する。本丸御殿も倒壊したが翌年に建て直される。
明治元年閏四月 (1868) 徳川家達が駿府に封ぜられ、太田資美は上総国芝山に国替えとなる。
平成六年 (1994) 天守閣が復元される。
≪ 写 真 ≫
掛川城復元天守閣
掛川城全景
掛川城
太鼓櫓
御殿前の掛川城趾碑
御殿からの天守閣
掛川城御殿
土塀
天守閣からの御殿
天守閣からの太鼓櫓
天守閣近影
霧吹き井戸
本丸跡
登城路からの太鼓櫓
天守下門
登城路
登城路入口
本丸跡からの掛川城
四足門
十露盤堀
三日月堀
掛川城入り口
天守と太鼓櫓
勝手台所井戸跡
黒土塁
松尾池跡
復元大手門
番所
現地主要部模型(リンク付サムネイル)
現地見取図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR東海道本線掛川駅から徒歩約15分。
<車>
東名高速掛川ICを降りて掛川IC入口信号を右折、上張南交差点信号を右折、県道38号を北上、東名高速高架下をくぐり、JR東海道新幹線と東海道本線の高架下をくぐり、仁藤町交差点信号を直進、北上した二つ目の信号のある交差点を左折、約150m西進した道の南側に大手門有料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
掛川城(掛川城公園)
復元大手門
紹介したお城の数 233城
2014/5/6
静岡県掛川市のお城めぐり
今川氏の重臣朝比奈氏が築き、山内一豊が近代城郭に大修築した居城
日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 掛川城
よみ: カケガワ
別称: 雲霧城・松尾城・懸河城・辰多山城
所在地: 静岡県掛川市掛川
現状: 掛川公園
築城年代: 永正九年(1512)
築城者: 朝比奈泰能
形式: 平山城
遺構: 復興天守閣・復元大手門・現存御殿・太鼓櫓・四足門・天守の丸・本丸・二の丸・三の丸・三日月堀・十露盤堀・土塁・石垣・霧吹井戸・二の丸勝手台所井戸跡
規模: 1,400m×600m、標高60m、比高30m
文化財: 県指定文化財(御殿)
訪城日: 2011/10/4・2014/5/6
≪ 訪城記 ≫
横須賀城から掛川城に向かう。
横須賀城の駐車場を出て南の県道41号へ出て北西へ進み、袋井市内へ入り、東海道新幹線高架下、JR東海道本線高架下をくぐり、原野谷川を渡り北上して、堀越東交差点信号で国道1号袋井バイパス高架下をくぐって右折、側道を走って袋井バイパスに合流する。ここから国道1号袋井バイパスを東進、掛川市に入り東名高速と交差する地点から国道1号東海道を東進、北門交差点信号を右折、掛川公園西側を通って逆川を渡って南下、すぐの中町交差点信号を左折、県道37号を東進、仁藤町交差点信号を左折、北上した二つ目の信号のある交差点を左折、約150m西進した道の南側に大手門有料駐車場がある。ここに車を駐車する。
大手門有料駐車場西側交差点信号を渡った北西角に大手門と番屋が復元されている。大手門北側を流れる逆川沿いに西へ歩いていくと、観光案内所のある広い橋を渡ったところが掛川城跡の掛川公園で、立派に復元された天守閣が目に入る。右手の広い広場が三の丸跡で、左側の四足門から入り、南側の丘上に太鼓櫓、北側に石垣下に三日月堀と十露盤堀が復元されている。門を入った虎口を抜けると本丸跡の庭園、切符売り場で御殿を含む入場料400円を購入して北側に見上げる天守閣へ続く石段を登っていく。天守下門跡付近から太鼓櫓が良く見える。天守の丸に入ると霧吹き井戸を見て天守閣内を見学、天守閣からは二の丸御殿が良く見えます。次に二の丸御殿も見学、この二の丸御殿東側には黒土塁があり、北側の二の丸美術館前に勝手台所井戸跡もあります。
ちょうどこどもの日の次の日なので「こいのぼり」が天守閣前を泳いでいました。
掛川城の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
今川氏重臣朝比奈氏一族のうち泰煕が斯波氏の押えとして掛川に築城することを今川義忠に命ぜられ掛川に移り、永正九年(1512)、子の泰能が長い年月をかけ完成する。
弘治三年 (1557) 朝比奈泰能が没し、泰朝が跡を継ぐ。
永禄十一年十二月 (1568) 武田信玄により駿府を追われた今川氏真を掛川城に迎えたが、掛川城は徳川家康に攻められる。
永禄十二年五月 (1569) 奥平美作守貞能の奔走で家康と講和がなり、掛川城を開城する。開城後、石川家成、康通父子が守将として入城する。
天正十八年七月 (1590) 徳川家康の関東移封にともない石川康通も上総国鳴戸へ移る。代わって、豊臣秀吉配下の山内一豊が近江国長浜し、近世城郭に改修する。
慶長五年十一月 (1600) 関ヶ原の合戦で東軍に属した山内一豊は土佐一国に加増転封となる。
慶長六年二月 (1601) 徳川家康の異父弟松平(久松)定勝が入部する。
慶長十二年閏四月 (1607) 松平定勝が伏見城代となり、子の定行が城主となる。
元和三年七月 (1617) 松平定行が伊勢国桑名城に移り、代わって、家康十男駿河府中城主徳川頼宣の付家老安藤直次が掛川城に入る。
元和五年七月 (1619) 徳川頼宣が紀伊和歌山に移り、安藤直次も従って紀伊田辺に移った。代わって、松平定行の弟定綱が入る。
元和九年 (1623) 松平定綱は将軍秀忠から山城国淀に築城を命じられ、寛永二年(1625)一月、淀城に転封となる。代わって、徳川忠長(家光の弟)の付家老朝倉宣正が入いるが、十月、忠長事件に連座して除封となる。
元和十年二月 (1624) 青山幸成が常陸国から入る。
元和十二年七月 (1626) 青山幸成が摂津国尼崎へ移り、八月、松平(桜井)忠重が駿河国田中から入る。
元和十六年三月 (1630) 松平忠重の嫡子忠倶が遺領相続と同時に信濃国飯山に移封、代わって、播磨国から本多忠義が入る。
正保元年三月 (1644) 本多忠義が越後国村上へ移封、代わって、駿河国田中から松平(藤井)忠晴が入封する。
慶安元年閏一月 (1648) 松平忠晴が丹波国亀山に移封、代わって、駿河国田中から北条氏重が入封する。
万治元年十二月 (1658) 北条氏重が無嗣除封となる。
万治二年五月 (1659) 三河国西尾から井伊直好が入封、子直武、孫直朝と続く。
宝永二年 (1705) 井伊直朝が発狂、一族の直矩が削封のうえ、十二月、越後国与板へ移封となる。
宝永三年一月 (1706) 信濃国飯山から松平(桜井)忠喬が入封する。
正徳元年二月 (1711) 松平忠喬が摂津国尼崎へ移封となり、代わって、武蔵国岩槻から小笠原長煕が入封し、養子長庸、長庸の嫡子長恭と続く。
延享三年九月 (1746) 小笠原長恭が陸奥国棚倉へ移封となり、代わって、上野国館林から太田資俊が入封し、資愛、資言、資始、資功、資美と続き、明治維新を迎える。
安政元年十一月 (1854) 大地震によって天守閣が倒壊する。本丸御殿も倒壊したが翌年に建て直される。
明治元年閏四月 (1868) 徳川家達が駿府に封ぜられ、太田資美は上総国芝山に国替えとなる。
平成六年 (1994) 天守閣が復元される。
≪ 写 真 ≫
掛川城復元天守閣
掛川城全景
掛川城
太鼓櫓
御殿前の掛川城趾碑
御殿からの天守閣
掛川城御殿
土塀
天守閣からの御殿
天守閣からの太鼓櫓
天守閣近影
霧吹き井戸
本丸跡
登城路からの太鼓櫓
天守下門
登城路
登城路入口
本丸跡からの掛川城
四足門
十露盤堀
三日月堀
掛川城入り口
天守と太鼓櫓
勝手台所井戸跡
黒土塁
松尾池跡
復元大手門
番所
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現地見取図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR東海道本線掛川駅から徒歩約15分。
<車>
東名高速掛川ICを降りて掛川IC入口信号を右折、上張南交差点信号を右折、県道38号を北上、東名高速高架下をくぐり、JR東海道新幹線と東海道本線の高架下をくぐり、仁藤町交差点信号を直進、北上した二つ目の信号のある交差点を左折、約150m西進した道の南側に大手門有料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
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紹介したお城の数 233城
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