お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

沢田城

2014-03-31 05:54:57 | 兵庫県
 沢田城

2014/3/16

兵庫県篠山市のお城めぐり

 八上城の波多野氏被官小林氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 沢田城
よみ: サワダ
別称:
所在地: 兵庫県篠山市沢田
現状: 小林寺・山
築城年代: 永正年間(1504-21)
築城者: 小林近江守
形式: 山城
遺構: 本丸・二之丸・出羽丸・堀切・馬場
規模: 150m×100m
文化財:
訪城日: 2011/10/18・2014/3/16


≪ 訪城記 ≫

八上城から沢田城へ向かう。

八上城登城口の春日神社を出て古美術店角を左折、重兵衛茶屋の角を左折して国道372号を西進、次の八上下三叉路信号を直進して県道77号を西進、糯ヶ坪三叉路信号を斜め右折、北西に進み篠山川に架かる橋を渡った京口橋北詰交差点信号を右折、川沿いに東進して集落を出たところに北へ行く広い道があり、この道へ行く三叉路を左折、北上して篠山中学校角を左折、約450m西進した沢田公民館前の小林寺へ入る交差点を左折、細い道を北上した突き当りに小林寺がある。寺の山門左側に寺の駐車場があり、ここに車を駐車させてもらう。

寺へ入り本堂の脇から裏山に登る階段があり、途中にある玄奘三蔵法師聖骨塔の左側から登った竹藪の山頂に沢田城址碑と説明板がある。この付近が本丸跡で竹藪の中は削平地で何段かに分かれているようです。
城址碑前の畝道を折れた竹を跨ぎながら東に行くと分かれ道があり、北奥に入ると二之丸跡、南へ行くと毘沙門堂のある出羽丸跡です。
南でた果樹園の間に東西に仕切る堀切、毘沙門堂西側に馬場跡がある。


≪ 歴 史 ≫

永正年間 (1504-21) 小林近江守が築城する。
天正七年 (1579) 明智光秀の丹波侵攻で最後の城主小林重範が討死し、沢田城も落城した。


≪ 写 真 ≫


沢田城本丸


沢田城址碑


二之丸付近


堀切


馬場跡


出羽丸の毘沙門堂


小林寺


本堂脇の登城階段


玄奘三蔵法師聖骨塔


玄奘三蔵法師聖骨塔左側の登城道


現地沢田城址平面図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR福知山線篠山口駅からバスで城北口下車、徒歩約600m、約15分。
<車>
舞鶴若狭道丹南篠山口ICで降りて丹南篠山口IC前信号を左折、舞鶴若狭道の高架下をくぐり県道大沢新篠山線バイパスを東進、東吹交差点信号を左折、北東へ進み、東吹下三叉路信号を斜め右折、県道36号を東進、東岡屋交差点信号を右折、県道77号を南東へ進み、河原町三叉路信号をを左折、北上して篠山交番前交差点信号を右折、約300m東進した沢田公民館前の小林寺へ入る交差点を右折、細い道を北上した突き当りに小林寺がある。寺の山門左側に寺の駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

沢田城


紹介したお城の数 198城



お城の手帖 戦国武将編 (タツミムック)
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辰巳出版




お城の手帖 (タツミムック)
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辰巳出版

八上城

2014-03-30 06:43:30 | 兵庫県
 八上城

2014/3/16

兵庫県篠山市のお城めぐり

 明智光秀の丹波攻略で滅びた波多野氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 八上城
よみ: ヤガミ
別称: 八上高城
所在地: 兵庫県篠山市殿町
現状: 山
築城年代: 永正五年(1508)
築城者: 波多野備前守元清(稙通)
形式: 山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・岡田丸・右衛門丸・主膳屋敷跡・鴻の巣・下の茶屋丸・中の壇・上の茶屋丸・朝路池・東池番所・西池番所・蔵屋敷・茶屋の壇・馬駈場・芥丸・大竪堀・石垣
規模: 400m×80m、標高462m、比高210m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2014/3/16


≪ 訪城記 ≫

篠山城から八上城へ向かう。

篠山城三の丸駐車場を出て北側の外堀沿いの道を西へ向かい、大きい道へ出る交差点を左折、南下して突き当りの風深三叉路交差点信号を左折、県道77号を東進、篠山川沿いの堤防道を進み京口橋北詰交差点信号を右折、橋を渡り南東へ進み糯ヶ坪三叉路信号を斜め直進、八上小学校前を通り、八上下三叉路信号を直進して県道372号を東進、約160m進んだ重兵衛茶屋へ入る十字路を右折して集落内に入り、重兵衛茶屋で左に曲がり約140m東進した古美術店の角を右折した先に春日神社があり、神社トイレの横に車1台分の空き地がある。今回、ラッキーにも空いていて車を駐車することが出来ました。

古美術店角の畑前に説明板が建っている。
鳥居をくぐって左側に古い春日神社の社殿があり、手前に登山道の案内板がって、南に進むと八上城主前田茂勝の屋敷がった主膳屋敷跡の広い削平地があり、西へ進み登り口に前田主膳正供養塔が建っている。登るとすぐに鴻の巣、下の茶屋丸、中の壇、上の茶屋丸と小さな削平地が尾根沿いにある。さらに登っていくと右衛門丸があり石垣跡が残っている。上に登ると三の丸、二の丸、その上の丘の上が本丸で波多野秀治公表忠碑、八上城趾碑、説明板がある。本丸からの眺めは絶景で篠山城も見えます。本丸南側に腰曲輪、北東下側に岡田丸があり、本丸北東側には石垣跡が残っている。本丸まで約50分。
本丸を南東側に降りていくと蔵屋敷、池東番所、さらに下に大竪堀が見られる。この大竪堀を西に行くと朝路池や池西番所へ行けるのですが、行かずに東の道を降りてしまいました残念。
途中に明智光秀の母が磔になった松の木があったようですが、今はなく説明板のみあります。この南側の杉林の中に削平地があり、さらに進むと茶屋の壇、馬駈場、芥丸を通って麓へ降りると東陽寺へ出ます。集落内の道へ出て春日神社を目指して西へ歩くと、途中に八上一里塚があります。


≪ 歴 史 ≫

永正五年 (1508) 波多野氏が丹波に勢力を広げ、郡奉行難波氏を八上から追い出し、清秀の子元清の時に八上城築城し、丹波一帯に勢力を広げ、元清は将軍足利義稙から偏諱を許され稙通と改名する。
大永六年 (1526) 稙通は弟柳本賢治と共に主家細川高国に叛旗を翻して、丹波から細川勢を駆逐する。その後、稙通の子元秀と柳本賢治は京都から細川高国を追い落とし、畿内一円を制圧、賢治が播磨別所氏の応援に出兵した東条城で暗殺される。
天文十八年 (1549) この頃、三好長慶と細川晴元が干戈を交え、敗れた晴元が将軍を擁して八上に難を避けたため、三好勢による八上城攻撃が始まる。天文十九年(1550)から弘治三年(1557)までに6回の攻撃を受ける。
弘治三年 (1557) 八上城が落城する。
永禄九年 (1566) 波多野晴通、秀治が八上城を奪回する。
天正三年六月 (1575) 織田信長の丹波侵攻が始まり、明智光秀が丹波奥地まで侵入する。
天正四年一月 (1576) 波多野・赤井連合軍が明智勢を撃退する。
天正六年十二月 (1578) 明智光秀が再び丹波へ侵攻して八上城包囲戦が開始され、籠城六か月、城は落城し、波多野三兄弟は安土へ送られ磔にされた。八上城には口丹波の土豪並河飛騨守が城代として置かれる。
明智氏滅亡後は、丹波少将羽柴(豊臣)秀勝が亀山に入り、八上城には家臣の浅野和泉守・余江長兵衛が城番となる。秀勝移封後は前田玄以が亀山城に入り、玄以の死後、前田主膳正茂勝が遺領を継ぎ八上城に居住した。
慶長十三年 (1608) 前田主膳正茂勝が重臣を殺害して出奔し、代わって常陸国笠間から松平(松井)康重が八上城主となる。
慶長十四年三月 (1609) 天下普請によって篠山城が完成して松平(松井)康重が移り、八上城は廃城となる。


≪ 写 真 ≫


八上城本丸


八上城趾碑


波多野秀治公表忠碑


岡田丸


本丸北東側の石垣跡


本丸南側の腰曲輪


二の丸


三の丸と切岸


三の丸


右衛門丸


右衛門丸の石垣跡


上の茶屋丸


中の壇


下の茶屋丸


鴻の巣


前田主膳正供養塔


主膳屋敷跡


春日神社前の登城口


春日神社


春日神社入口


蔵屋敷


池東番所


大竪堀


はりつけ松跡


茶屋の壇


馬駈場


芥丸


八上一里塚


現地八上城主郭部縄張図(リンク付サムネイル)


現地八上城跡周辺の中世城郭図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR福知山線篠山口駅からバスで重兵衛茶屋下車、本丸まで徒歩約50分。
<車>
舞鶴若狭道丹南篠山口ICで降りて丹南篠山口IC前信号を左折、舞鶴若狭道の高架下をくぐり県道大沢新篠山線バイパスを東進、糯ヶ坪三叉路信号を斜め直進、八上小学校前を通り、八上下三叉路信号を直進して県道372号を東進、約160m進んだ重兵衛茶屋へ入る十字路を右折して集落内に入り、重兵衛茶屋で左に曲がり約140m東進した古美術店の角を右折した先に春日神社があり、神社トイレの横に車1台分の空き地に駐車可能。


≪ 位置図 ≫

八上城


登城口の春日神社


紹介したお城の数 197城



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廃城をゆく 2 (イカロス・ムック)
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廃城をゆく (イカロス・ムック)
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篠山城

2014-03-29 05:34:59 | 兵庫県
 篠山城

2014/3/16

兵庫県篠山市のお城めぐり

 大坂城攻略の包囲態勢を整えるために天下普請で築かれた拠点  日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 篠山城
よみ: ササヤマ
別称: 桐ヶ城・丹波篠山城
所在地: 兵庫県篠山市北新町
現状: 篠山城跡・青山神社・篠山小学校・篠山幼稚園
築城年代: 慶長十四年(1609)
築城者: 徳川家康
形式: 平山城
遺構: 天守台・復元大書院・本丸・二の丸・三の丸・二の丸表門桝形虎口・埋門跡・石垣・犬走り・内堀・外堀・東馬出・南馬出・井戸
規模: 約400m×400m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2011/10/18・2014/3/16


≪ 訪城記 ≫

自宅から篠山城へ向かう。

舞鶴若狭道丹南篠山口ICで降りて丹南篠山口IC前信号を左折、舞鶴若狭道の高架下をくぐり県道大沢新篠山線バイパスを東進、東吹交差点信号を左折、北東へ進み、東吹下三叉路信号を斜め右折、県道36号を東進、東岡屋交差点信号を右折、県道77号を南東へ進み、風深三叉路信号を左折、約600m北上した交差点をまっすぐ進み、次の交差点を右折、商店街を東進して二つ目の篠山局交差点を右折、直進したら篠山城の大手門入口に出る。中に入った右側の三の丸有料駐車場に車を駐車する。

駐車場が三の丸跡で内堀沿いに篠山城の桝形虎口入口があり、篠山城趾碑や説明板がたくさんある。桝形虎口の石垣を抜け、復元大書院の前を通り過ぎて、先に大書院右側を抜けて広い二の丸、二の丸御殿跡で東側の石垣に囲まれた一段高い場所が本丸、入口の左側に天然石の岩盤が露出している。本丸に入ると正面に青山神社、南東隅に天守台がある。天守台北面石垣には天下普請の証拠である符号が見られる。二の丸の南面には埋門と井戸がある。そのあと、大書院内を見学する。入場料400円です。
そのあと、内堀西側沿いに立派な高石垣を見て、西側には三の丸で南西側に高い土塁、南面の立派な高石垣ですが、ちょうど南面内堀の修復工事中で近くで見られませんでした。南面の土塁の切れ間から外堀の土橋を渡った先が南馬出で方形の土塁と幅の広い堀に圧倒されます。さらに幅の広い外堀沿いに一周して、東馬出と堀を見ました。
ちょっと遠目に全景を見ると見事な石垣の城塞に見え感動です。


篠山城大書院の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

慶長十四年 (1609) 関ヶ原の戦いに勝った徳川家康が大坂城攻略の包囲態勢を整えるため、八上城に松平(松井)康重を配置して、康重に命じて篠山に新しく城を築いた。築城に当たり普請総奉行に姫路城主池田輝政、縄張奉行に津城主藤堂高虎を命じ、諸大名による天下普請で築かれる。
慶長十四年十二月 (1609) 篠山城初代城主松平(松井)康重が入城する。
元和五年 (1619) 松平康重が岸和田城へ移り、代わって高崎城から松平(藤井)信吉が入り、翌年、忠国が継ぐ。
慶安二年 (1649) 松平忠国が明石城へ移り、代わって高槻城から松平(形原)康信が入り、典信、信利、信庸、信岑と続く。
寛延元年 (1748) 松平信岑が丹波亀山城へ移り、代わって丹波亀山城から青山忠朝が入り、忠高、忠講、忠裕、忠良、忠敏と続き明治維新を迎え、明治四年(1871)廃藩となる。
明治五年 (1872) 城郭取払令が布達され、櫓や門が取り払われる。
昭和十九年一月 (1944) 大書院が焼失する。
平成十二年 (2000) 大書院が復元される。


≪ 写 真 ≫


篠山城


篠山城趾碑


二の丸御殿からの本丸


本丸入口


本丸の青山神社


天守台


本丸石垣の天然石の岩盤


大書院


大書院入口


天守台石垣の符号


二の丸埋門


二の丸からの内堀と石垣


二の丸からの三の丸土塁


大手入口の桝形虎口


大手入口


要塞のような大手入口高石垣


北西角の高石垣


南西角の高石垣


南面の高石垣


三の丸土塁の搦手入口


広い南側外堀


南馬出の土塁


南馬出の堀


広い東側外堀


天守台の高石垣


東馬出の石垣と堀


東馬出


大手馬出跡


現地篠山城跡鳥瞰図(リンク付サムネイル)


現地城下町周遊図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR福知山線篠山口駅からバスで二階町バス停下車、徒歩約10分。
<車>
舞鶴若狭道丹南篠山口ICで降りて丹南篠山口IC前信号を左折、舞鶴若狭道の高架下をくぐり県道大沢新篠山線バイパスを東進、東吹交差点信号を左折、北東へ進み、東吹下三叉路信号を斜め右折、県道36号を東進、東岡屋交差点信号を右折、県道77号を南東へ進み、風深三叉路信号を左折、約600m北上した交差点をまっすぐ進み、次の交差点を右折、商店街を東進して二つ目の篠山局交差点を右折、直進したら篠山城の大手門入口に出る。中にの三の丸有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

篠山城


紹介したお城の数 196城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




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豊岡城

2013-05-21 05:51:04 | 兵庫県
 豊岡城

2013/4/28  但馬遠征(2泊3日)

兵庫県豊岡市のお城めぐり

 宮部善祥房継潤が構築した居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 豊岡城
よみ: トヨオカ
別称: 亀城・神武山
所在地: 兵庫県豊岡市京町12-91
現状: 神武山公園・市立図書館
築城年代: 天正八年(1580)
築城者: 宮部善祥房継潤
形式: 平山城
遺構: 天守台跡・本丸跡・萩の丸跡・笠の丸跡・旧豊岡県庁の正門
規模: 400m×100m
文化財:
訪城日: 2013/4/28


≪ 訪城記 ≫

但馬遠征(2泊3日)  2日目、八木城から豊岡城へ向かう。

下八木公民館を出て、国道9号を東へ進み、つるぎが丘三叉路信号を斜め左折、山陽道を道なりに進み宮越三叉路信号を左折、国道312号を円山川沿いに北上、上小田北三叉路信号を道なりに北上、土居西交差点信号を右折、東進して円山川の堤防道へ出る。国道312号をそのまま北上、豊岡市内に入り、豊岡市民会館前三叉路信号を左折、約100mで神戸地方裁判所前の三叉路を右折、裁判所前を通って道なりに約150m北上した交差点を左折、約60mで突き当りが豊岡市立図書館で正面に「旧豊岡県庁の正門」がある。突き当りのクランクを左に曲がり、すぐに右に曲がって約60m進み、道の左側に図書館の無料駐車場がある。ここに車を駐車させてもらう。さらに西へ行くともう一か所駐車場がある。

まずは豊岡陣屋跡の図書館と「旧豊岡県庁の正門」を見に行き、門の横に説明板があります。
駐車場の東側に神武山公園に入る遊歩道があり、入り口に神武山公園の案内板があります。
山を山頂まで登ると本丸跡と天守台跡があり、説明板と「元禄15年豊岡城下絵図」が設置されていますが、遺構らしきものはなにもありません。
天守台跡から下ったところの端に萩の丸跡、水道施設の水源地に笠の丸跡の標柱があるのみです。


≪ 歴 史 ≫

天正八年 (1580) 羽柴秀吉が但馬を攻めて、有子山城を攻略した。その後、豊岡に宮部継潤を置いた。この時に豊岡城を築城した。
天正十年 (1582) 秀吉が鳥取城を攻略し、宮部継潤を鳥取城主に移し、豊岡城主は木下重堅、尾藤知定、明石則実、福原道高と次々交代した。
慶長二年 (1597) 杉原伯耆守長房が肥前の臼杵城から入り、長重、重元と杉原氏が三代続いた。その後、承応二年(1653)十月、重元が早世し杉原氏は断絶、豊岡城も廃城となる。
寛文八年五月 (1668) 京極伊勢守高盛が丹後の田辺城から入部した時には城はなく、陣屋があるのみだった。


≪ 写 真 ≫


豊岡市立図書館


旧豊岡県庁の正門


図書館駐車場と神武山公園入口


天守台跡


本丸跡


頂上の公園


萩の丸跡


笠の丸跡


現地神武山公園案内板(リンク付サムネイル)


現地元禄15年豊岡城下絵図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR山陰本線豊岡駅より徒歩約20分。
<車>
播但連絡有料道路和田山ICを降りて国道312号を北上、一本柳交差点信号を左折、国道9号を北へ進み、上野南三叉路信号を斜め右折、国道312号を円山川沿いに北上、上小田北三叉路信号を道なりに北上、土居西交差点信号を右折、東進して円山川の堤防道へ出る。国道312号をそのまま北上、豊岡市内に入り、豊岡市民会館前三叉路信号を左折、約100mで神戸地方裁判所前の三叉路を右折、裁判所前を通って道なりに約150m北上した交差点を左折、約60mで突き当りが豊岡市立図書館で正面に「旧豊岡県庁の正門」がある。突き当りのクランクを左に曲がり、すぐに右に曲がって約60m進み、道の左側に図書館の無料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

豊岡城(神武山公園)


豊岡市立図書館


紹介したお城の数 66城



Nikon デジタル一眼レフカメラ D3200 200mmダブルズームキット 18-55mm/55-200mm付属 ブラック D3200WZ200BK
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八木土城

2013-05-20 05:20:37 | 兵庫県
 八木土城

2013/4/28  但馬遠征(2泊3日)

兵庫県養父市のお城めぐり

 山名四天王の一人八木氏が築いた土の城

≪ お城の概要 ≫

城名: 八木土城
よみ: ヤギツチ
別称:
所在地: 兵庫県養父市八鹿町八木
現状: 山
築城年代: 鎌倉時代
築城者: 閉伊氏とも
形式: 山城
遺構: 本丸・段曲輪・土塁・堀切・虎口・井戸
規模: 全長約370m、標高409m、比高310m
文化財: 市指定重要文化財
訪城日: 2013/4/28


≪ 訪城記 ≫

但馬遠征(2泊3日)  2日目、八木城から八木土城へ向かう。

竹田城第1駐車場から出た道が一方通行のため、左折して山の道を降りていく、降りたところで左折してJR播但線の踏切、円山川を越えて国道312号へ出る交差点信号を左折、このまま国道312号を北上、一本柳交差点信号を左折、国道9号を北西に進み新和田山トンネル、和田山トンネルを通って、南但馬トンネルで大きく左へ曲がり、そのまま西進する。八木の集落に入ったところに八木城跡の案内板があり、最初の信号を右折すると八木城への登城口がある。この信号を左折して、集落の中に入った最初の交差点を右折、約150mで下八木公民館に着く。公民前の空き地に駐車可能です。ここに車を駐車させてもらう。

八木城の本丸南側高石垣の下の脇道を通って、大きな堀切を過ぎて500m先に八木土城がある。
それほど距離はないが、道は細い尾根道が続き、城跡へ入る前はほぼ直登で険しい。
登りきると削平地に出て、ここから北に6段の土塁で囲まれた曲輪が良好に残っている。2段目の曲輪には井戸跡も残っている。
段曲輪の土塁上を登って頂上の一番高いところが本丸で南側には登り口がない。北側へ廻って急な踏みつけ道をほぼ直登すると削平された台状地があり、ここが本丸跡です。
本丸北側にも1段曲輪があり、その北に大きな堀切があります。
八木城から約20分で八木土城の本丸へ着く。


≪ 歴 史 ≫

平安時代末期に閉伊氏が築いたとも、鎌倉時代に朝倉高清の次男が八木氏を称して居城としたとも言われている。
以後、代々八木氏が在城する。
南北朝期に八木城を築き移り、八木土城は八木城の詰の城として存続し、八木城とともに廃城となる。


≪ 写 真 ≫


入り口の曲輪


南へ6段目の曲輪


南へ5段目の曲輪の土塁


南へ5段目の曲輪


南へ4段目の曲輪の土塁


南へ4段目の曲輪


南へ3段目の曲輪


南へ2段目の井戸のある曲輪


南へ1段目の曲輪入り口の虎口


南へ1段目の曲輪


本丸


北へ1段目の曲輪


北へ1段目の曲輪の北側の大きな堀切

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR山陰本線八鹿駅からバスで下八木下車、徒歩約65分。
<車>
播但連絡有料道路和田山ICを降りて国道312号を北上、一本柳交差点信号を左折、国道9号を北西に進み新和田山トンネル、和田山トンネルを通って、南但馬トンネルで大きく左へ曲がり、そのまま西進する。八木の集落に入ったところに八木城跡の案内板があり、最初の信号を右折すると八木城への登城口がある。この信号を左折して、集落の中に入った最初の交差点を右折、約150mで下八木公民館に着く。公民前の空き地に駐車可能です。


≪ 位置図 ≫

八木城登城口


八木土城


下八木公民館


紹介したお城の数 65城



日本の城 完全名鑑 増補改訂版 (廣済堂ベストムック)
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