お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

苗木城

2013-12-29 11:47:16 | 岐阜県
 苗木城

2013/11/24

岐阜県中津川市のお城めぐり

 巨岩の上に天守があった苗木遠山氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 苗木城
よみ: ナエギ
別称: 赤壁城・高森城
所在地: 岐阜県中津川市苗木
現状: 山
築城年代: 天文年間(1532-1555)
築城者: 遠山直廉
形式: 山城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・居館跡・大矢倉跡・風吹門跡・北門跡・駈門跡・大門跡・綿蔵門跡・坂下門跡・菱櫓門跡・本丸口門跡・不明門跡・御朱印蔵跡・武器蔵跡・具足蔵跡・笠置矢倉跡・龍王院門跡・足軽長屋跡・井戸・石垣・馬洗岩
規模: 130m×315m、標高423m、比高126m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2011/9/6・2013/11/24


≪ 訪城記 ≫

飯羽間城から苗木城へ向かう。

県道406号を東進、中切三叉路信号を左折、国道257号を北進して小沢山トンネル、阿木川湖、花無山トンネル、ヘアピンカーブを抜けて、正家交差点信号を右折、国道19号中山道を東進、中央道の高架下を通り、中央道沿いに進み、中津川IC入口を過ぎた次の二俣に分かれた三叉路を左側に進み、国道257号をJR中央本線沿いに北上、青木三叉路信号を左折、JR中央線の高架を通り木曽川に架かる城山大橋を渡ったすぐの苗木城跡の案内板のある交差点を右折、青邨記念館前を左に曲がり登っていくと苗木遠山史料館があり、史料館の駐車場に車を駐車する。

史料館の裏にある道を東へ登ってすぐに石垣のある登城口に着く。左側に駐車場もある。
登城口を入ってすぐの右側に足軽屋敷跡と龍王院跡がある。
しばらく登ると二俣の道にでる。右側に行くと二の丸下の曲輪に出る。発掘中の石垣や居館跡の礎石が見られ、見上げると巨岩の石垣に目を奪われてしまう。さらに奥には不明門跡がある。
道を引き返し、二俣の右側を登ると風吹門跡にでる。風吹門の左側には大きな石の上に石垣を配置した大矢倉があり、北側には北門跡と馬用の飲み水池がある。
広い三の丸を南へ進むと大門跡、二の丸へ入り巨岩の石垣沿いにつづれ折れの道を綿蔵門跡、坂下門跡、菱櫓門跡と上がっていくと本丸下に帯曲輪の的場、千石井戸、菱櫓の石垣、本丸口門を抜けたところに武器蔵と具足蔵跡があり、奥に笠置矢倉跡、この上が天守跡で巨岩の上に天守があったそうです。現在は巨岩の上に展望台が設置されていて、木曽川の絶景が見渡せます。北を見下ろすとマチュピチュ遺跡風に見える大矢倉石垣がすばらしい。本丸南側の下には巨岩の馬洗岩が今にも落ちてしまいそうな体制で鎮座しています。
下山して苗木遠山史料館を見学、入場料310円、中には風吹門が飾られている。


苗木城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

諸説あるが恵那郡内を領有していた小笠原氏が内紛で衰退して勢力が弱まった天文年間に岩村城城主遠山景友の次子一雲入道が直廉と称して苗木城を築く。
元亀元年 (1570) 遠山直廉が没し、代わって飯羽間城主遠山友勝・友忠が苗木城を継ぐ。
元亀三年 (1572) 武田信玄の将高遠城主秋山信友が美濃に侵入して、飯羽間・岩村の両城が落城したが苗木城は信長方で戦う。
天正十一年 (1583) 兼山城主森長可と争い遠山友忠・友政父子は徳川家康を頼り苗木城を出奔、苗木城は長可の弟忠政が城主となり、続いて川尻直次が城主となる。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の役で遠山友政が苗木・岩村城を攻略を家康から命じられ、苗木城を奪還、以後、明治維新まで苗木遠山氏が居城とする。


≪ 写 真 ≫


苗木遠山史料館


苗木遠山史料館裏の登城道


登城口


足軽長屋と龍王院跡


二の丸下の石垣


発掘中の石垣


不明門跡


居館跡の礎石


風吹門跡


北門跡


馬用の飲み水池


大矢倉跡


駈門跡


大門跡


御朱印蔵跡


綿蔵門跡


坂下門跡


菱櫓門跡


的場(帯曲輪)


菱櫓石垣と千石井戸


本丸口門跡


武器蔵・具足蔵跡


笠置矢倉跡


マチュピチュ遺跡風に見える大矢倉


巨石上の天守展望台


木曽川の絶景


展望台


馬洗岩


天守南面石垣


現地案内板(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR中央本線中津川駅から北恵那バスで付知・加子母方面行約15分、苗木バス停下車、徒歩約35分で苗木遠山史料館
<車>
中央道中津川ICを降りて国道19号を東進、次の二俣に分かれた三叉路を左側に進み、国道257号をJR中央本線沿いに北上、青木三叉路信号を左折、JR中央線の高架を通り木曽川に架かる城山大橋を渡ったすぐの苗木城跡の案内板のある交差点を右折、青邨記念館前を左に曲がり登っていくと苗木遠山史料館に着く。史料館の駐車場を利用すると良い。
史料館から徒歩約20分で大矢倉跡。


≪ 位置図 ≫

苗木城


苗木遠山史料館


紹介したお城の数 160城



岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版

飯羽間城

2013-12-21 20:07:47 | 岐阜県
 飯羽間城

2013/11/24

岐阜県恵那市のお城めぐり

 遠山飯羽間氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 飯羽間城
よみ: イイバマ
別称:
所在地: 岐阜県恵那市岩村町飯羽間
現状: 山
築城年代: 十六世紀中頃
築城者: 遠山飯羽間氏
形式: 平山城
遺構: 曲輪・切岸
規模: 標高530m、比高20m
文化財:
訪城日: 2011/9/6・2013/11/24


≪ 訪城記 ≫

岩村城から飯羽間城へ向かう。

岩村歴史資料館前の広場を出て坂道を降り、突き当りを左折、商店街へ出る三叉路を右折、商店街の次の交差点を左折して国道257号へ出る三叉路を右折、国道257号を西進、一色三叉路信号を直進してすぐに道が右へ曲り、約400m北上した三叉路を左折して山の中の住宅街へ入る道を直進、山の中の住宅街を降りて行った突き当りを右折してすぐの三叉路の西側の丘のような小山が飯羽間城で大きな看板が出ている。この三叉路のゼブラゾーンに車を駐車させてもらう。

三叉路の西側に川があり、この川沿いに小山の麓へ行くと、飯羽間城趾碑が建っていて、通常はここから山へ登れるが、今はがけ崩れで通行止めです。
三叉路から西へ向かう道を約100m行くと山の麓を右へ行く農道があり、約50mで川を渡ったところが登城口で案内板がある。さらに竹藪の中を山へ登る途中に地元の老人会の方がたくさん説明板を立てておられ良く分かる。
竹藪を抜けた山頂下の切岸沿いに東へ歩くと、山頂へ入る入口があり、山頂には削平された曲輪があり、西側中央に飯羽間城将士の供養塔が建てられてる。この曲輪の東側には一段低い出曲輪がある。


≪ 歴 史 ≫

元亀年間 (1570-73) 遠山一族の遠山飯羽間氏の遠山友勝・友忠父子が城主あった。
元亀三年 (1572) 岩村城の遠山景任、苗木城の遠山直廉が病没して、苗木城を遠山友勝・友忠父子が継承し、飯羽間城は友忠の長子信友が継承した。
天正二年 (1574) 武田勝頼の東美濃侵攻で落城、武田方の城となる。


≪ 写 真 ≫


飯羽間城全景


麓の飯羽間城趾碑


西の登城口


山頂曲輪の下、削平地


山頂曲輪


飯羽間城将士の供養塔


東側の一段下曲輪


切岸

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
明知鉄道極楽駅から徒歩約40分。
<車>
中央道恵那ICで降りて県道68号を南東へ坂の上複合交差点信号を斜め右折、県道66号を南進、国道19号中山道の高架下手前の側道に左折、国道19号に合流して東進、正家交差点信号を右折、国道257号を南進、山間部へ入り、途中ヘアピンカーブを通り、阿木川湖に架かる阿木川大橋を渡り、絶景の景色を眺めながら長い小沢山トンネルを抜け、中切三叉路信号を右折、西へ約2.2km行った道が右へ曲がるところの小山に飯羽間城の看板があるのですぐわかる。
駐車場はない。


≪ 位置図 ≫

飯羽間城


登城口


紹介したお城の数 159城



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岩村城

2013-12-19 16:00:28 | 岐阜県
 岩村城

2013/11/24

岐阜県恵那市のお城めぐり

 武田信玄と織田信長の間で争奪戦が繰り広げられた遠山氏の居城

 日本三大山城 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 岩村城
よみ: イワムラ
別称: 霧ヶ城
所在地: 岐阜県恵那市岩村町
現状: 山
築城年代: 文治元年(1185)
築城者: 加藤景廉
形式: 山城
遺構: 本丸・二ノ丸・出丸・東曲輪・南曲輪・八幡曲輪・埋門・長局埋門・六段壁・二ノ丸菱櫓跡・八幡神社・霧ヶ井・追手門跡・三重櫓跡・畳橋跡・土岐門跡・一之門跡・初門跡・藤坂・藩主邸跡・石垣・空堀・土橋
規模: 260m×640m、標高721m、比高153m
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2011/9/6・2013/11/24


≪ 訪城記 ≫

自宅を出て岩村城へ向かう。

中央道恵那ICで降りて県道68号を南東へ坂の上複合交差点信号を斜め右折、県道66号を南進、国道19号中山道の高架下手前の側道に左折、国道19号に合流して東進、正家交差点信号を右折、国道257号を南進、山間部へ入り、途中ヘアピンカーブを通り、阿木川湖に架かる阿木川大橋を渡り、絶景の景色を眺めながら長い小沢山トンネルを抜け、一色三叉路信号を直進、南東方向へ裏山三叉路信号を左折、次の信号を右折して旧岩村市街へ入り、商店街を通り抜け、交差点を直進して信号から約300mの次の三叉路を左折、川を渡り道が右に曲がった先に復元された太鼓櫓が見える。その東側を南に入った奥に岩村歴史資料館がある。資料館前の広場に車を駐車する。

岩村歴史資料館前の広い広場が藩主邸跡で、太鼓櫓のある岩村藩校知新館東側に山へ入る登城道があり、登城口の案内板がある。
石畳の道を登っていくと、まず藤坂、初門、一之門と続き、一之門付近から苔むした石垣が道の脇に見られるようになる。
土岐門を過ぎ、畳橋、追手門、三重櫓の見ごたえのある石垣群を見ながら進むと、竜神の井、左側の削平地が八幡曲輪で、八幡櫓跡、八幡神社があり、三重櫓からまっすぐ進んだ先に霧ヶ城の名の由来となった霧ヶ井がある。
霧ヶ井を過ぎると右側に二の丸菱櫓の石垣、左側に俄門があるが、俄門は現在通行止めとなっている。さらに進むと有名な六段壁が見られる。
六段壁手前の通路から右手に入ったところが本丸の埋門で、その北側の雑木林の中が二の丸で中央に弁天池の跡がある。
六段壁を過ぎたところに東曲輪への石段を登り、東曲輪から本丸長局埋門を通り、本丸へ着く。
本丸は南北に長い削平地で南側が一段高くなっていて櫓跡のような構造です。ここに木製の岩村城址碑があり、説明板もある。南東隅には昇龍の井戸、西側の石垣上には多聞櫓があった感じがします。北側のは桝形の埋門、埋門から西側の石垣下の通路を通って本丸南西下の出丸、ここにも説明板があり、氷餅蔵が復元されています。
本丸の南側下には南曲輪があり、ここは石垣ではなく土の曲輪で堀切や土橋を見られます。
壮観な石垣群には見とれてしまいます。


岩村城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

文治元年 (1185) 源頼朝の重臣、加藤景廉が築いたと言われている。以後、景廉の長子景朝が遠山姓を名乗り代々居城した。
永正年間 (1504-21) 遠山頼景が在城する。
大永四年 (1524) 城主遠山景友が没する。
弘治二年 (1556) 城主遠山景前が没する。
元亀元年 (1570) 武田信玄が高遠城主秋山信友に岩村城を攻撃させるが、岩村城主遠山景任は織田信長に救援を頼む。
元亀三年 (1572) 岩村城主遠山景任が病没し、信長の六男御坊丸(勝長)を養子として家督を相続させ、信長の叔母で景任の妻おつやの方が女城主となるが、再び秋山信友に攻められ、おつやの方と信友が婚約、幼主の養育を条件に和議が成立、武田方の秋山信友の居城となる。御坊丸は人質として甲府に送られた。
天正元年 (1573) 武田と織田が岩村城を巡って戦う。
天正三年 (1575) 長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れ、秋山信友の岩村城も織田信忠軍に攻められ落城する。以後、織田方の武将川尻秀隆が城主となる。
天正十年三月 (1582) 武田勝頼滅亡によって川尻秀隆が甲斐一国を与えられ、代わって森蘭丸が岩村城主となるが、在城せず、留守代として森家の家老各務兵庫が在城する。
天正十年六月 (1582) 本能寺の変で主君信長に森蘭丸が殉じ、蘭丸の兄長可が跡を継ぎ、長可の領地となる。
天正十二年 (1584) 小牧・長久手の戦いで森長可が討死し、長可の末弟忠政が遺領を継ぐ。
慶長四年 (1599) 森忠政が信濃川中島へ転封となる。森氏三代の間、各務兵庫が城代を務める。代わって田丸直昌が入城する。
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦で田丸直昌が西軍に与したため除封される。
慶長六年 (1601) 大給松平家乗が入り、近世岩村藩が成立する。
寛永十五年 (1638) 家乗の子乗寿が遠江浜松に転じ、代わって三河伊保から丹羽氏信が入り、氏定、氏純、氏明、氏音と続く。
元禄十五年 (1702) 家中騒動で氏音が左遷され、代わって信濃小諸から大給石川松平乗紀が入封、乗賢、乗薀、乗保、乗美、乗喬、乗命と続く。
明治二年 (1869) 版籍奉還により廃城となる。
明治六年 (1873) 建造物がすべて取り壊され、石垣を残すのみとなる。


≪ 写 真 ≫


復元された旧藩主邸と太鼓櫓


登城口


藤坂


初門


一之門


一之門の石垣


土岐門


畳橋


三重櫓石垣


追手門


竜神の井


八幡曲輪入口


八幡神社


霧ヶ井


二ノ丸菱櫓石垣


二ノ丸弁天池


六段壁


東側からの六段壁


長局埋門


本丸南側


本丸


本丸昇龍の井戸


本丸北側埋門枡形


本丸桝形虎口


岩村城址碑


出丸


本丸西側石垣


南曲輪


南曲輪の堀切


現地岩村城案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
明知鉄道岩村駅から岩村歴史資料館まで徒歩約20分。資料館から本丸まで徒歩約20分。
<車>
中央道恵那ICで降りて県道68号を南東へ坂の上複合交差点信号を斜め右折、県道66号を南進、国道19号中山道の高架下手前の側道に左折、国道19号に合流して東進、正家交差点信号を右折、国道257号を南進、山間部へ入り、途中ヘアピンカーブを通り、阿木川湖に架かる阿木川大橋を渡り、絶景の景色を眺めながら長い小沢山トンネルを抜け、一色三叉路信号を直進、南東方向へ裏山三叉路信号を左折、次の信号を右折して旧岩村市街へ入り、商店街を通り抜け、交差点を直進して信号から約300mの次の三叉路を左折、川を渡り道が右に曲がった先に復元された太鼓櫓が見える。その東側を南に入った奥に岩村歴史資料館の広場に駐車可能。


≪ 位置図 ≫

岩村城


岩村歴史資料館(藩主邸跡)


紹介したお城の数 158城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版

若山城

2013-12-15 09:40:10 | 三重県
 若山城

2013/11/23

三重県亀山市のお城めぐり

 関氏代々の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 若山城
よみ: ワカヤマ
別称: 丹陵城・亀山古城
所在地: 三重県亀山市若山町
現状: 住宅地
築城年代: 文永二年(1265)
築城者: 関実忠
形式: 平山城
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2013/11/23


≪ 訪城記 ≫

伊勢亀山城から徒歩で若山城へ向かう。

伊勢亀山城の関見櫓跡を西へ歩き、突き当りの県道を北上、坂の道を亀山市歴史博物館の方向へ約130m行き、住宅街へ入る南東への斜め道を入ってすぐ、道の北側に説明板と亀山古城址碑がひっそりと建っているのみで遺構はない。
説明板の裏側の丘が城跡のように見えます。
その北側が亀山市歴史博物館で、ここの駐車場を利用すると良いでしょう。


≪ 歴 史 ≫

文永二年 (1265) 関実忠が致仕して関に帰り、翌年、若山の地に若山城を築く。
貞治六年(正平二十二年、 1367) 関盛政は領地を五人の子に分け与える。長男盛澄は神戸沢城を築いて神戸氏、次男盛門は国府城を築いて国府氏、三男盛繁は関本家を継いで亀山城(若山城)、四男盛宗は鹿伏兎城を築いて鹿伏兎氏、五男政実は川崎峯城を築いて峯氏を称する。
永禄十年 (1567) 織田信長が北伊勢に兵を出し高岡城に迫る。翌十一年(1568)、再び攻め寄せ、信長の三男信孝を神戸氏の養子とすることで和睦、関一族は信長に従うこととなる。
元亀二年 (1571) 長島一向一揆に関盛信が通じたため、信長は盛信を幽閉する。
天正十年 (1582) 神戸信孝が四国攻めを命じられ、関盛信も幽閉を許され従う。しかし、本能寺の変で信長が倒れたので亀山に帰り、長男一政を還俗させ後嗣とする。
天正十一年 (1583) 関盛信、一政父子が羽柴秀吉を訪れている隙に、柴田勝家に仕える次男盛清を推す岩間八左衛門が滝川一益の兵を亀山城(若山城)へ入れる。盛信は秀吉の援軍を得て、一益の将佐治新助が守る亀山城(若山城)を攻撃して奪還する。
天正十八年 (1590) 小田原攻めの功績で蒲生氏郷が松阪から会津へ移封となり、関一政も従って奥州白河へ移り、亀山城(若山城)には岡本下野守宗憲が城主となる。しかし、城が狭く腐朽がひどいため新城を築き、若山城は廃城となる。


≪ 写 真 ≫


亀山古城の説明板付近


亀山古城址碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR関西本線亀山駅から徒歩約10分。
<車>
東名阪道亀山ICを降りて国道1号亀山バイパスを東進、羽若町交差点信号を右折して南下し、江ヶ室交番前信号を右折、亀山市役所前の三叉路を直進して亀山公園に入り、亀山神社前を通って突き当りの三叉路を右折、約260m北上した亀山市歴史博物館の駐車場を利用すると良い。博物館から徒歩で西側の坂の道を約100m南下した住宅街へ入る南東への斜め道を入ってすぐ、道の北側に説明板と亀山古城址碑がある。


≪ 位置図 ≫

若山城(亀山古城)


紹介したお城の数 157城



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ニコン

伊勢亀山城

2013-12-14 21:54:09 | 三重県
 伊勢亀山城

2013/11/23

三重県亀山市のお城めぐり

 岡本宗憲が関氏の古城を大改修して築いた居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 伊勢亀山城
よみ: イセカメヤマ
別称: 亀山城・粉蝶城
所在地: 三重県亀山市本丸町
現状: 亀山公園・亀山神社・亀山市役所・亀山西小学校
築城年代: 天正十八年(1590)
築城者: 岡本下野守宗憲
形式: 平山城
遺構: 現存本丸多聞櫓・本丸三重櫓跡・二之丸帯曲輪・埋門・石坂門跡・太鼓櫓跡・太鼓門跡・東三之丸跡・大手門跡・江ヶ室門跡・神戸櫓跡・関見櫓跡・石垣・土塁
規模: 473m×327m、標高78m
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2011/8/1・2013/11/23


≪ 訪城記 ≫

神戸城から伊勢亀山城へ向かう。

鈴鹿市文化会館の駐車場を出て商工会議所東交差点信号を右折、県道54号を西進、汲川原橋南詰信号を右折、汲川原橋を渡り、汲川原町信号を左折、国道1号東海道を西進、川合町信号から国道1号亀山バイパスを通り、羽若町交差点信号を左折して南下し、江ヶ室交番前信号を右折、亀山市役所前の三叉路を直進して亀山公園に入り、亀山神社前の公園駐車場に車を駐車する。

駐車場の北側に盛り上がった土塁跡があり、駐車場の東側へ歩いていくと、道の南側に亀山神社、その東側に現存多聞櫓と石垣が残っていて、道の北側の児童公園北隅に三重櫓跡と、その東側に二の丸帯曲輪、埋門跡、復元された土塀がある。
多聞櫓の内部が無料公開されている。
多聞櫓東側に亀山城址碑、亀山市役所南側の池付近に石坂門跡と石井兄弟敵討の石碑がある。
亀山西小学校の東側通りには太鼓櫓跡と太鼓門跡、江ヶ室交番前信号付近が大手門跡、信号の西側付近が東三之丸跡、太鼓櫓跡から北の辻付近に江ヶ室門跡、神戸櫓跡、駐車場から西のテニスコート西南隅に関見櫓跡と亀山公園から亀山市役所付近に説明板がたくさんありわかりやすい。


≪ 歴 史 ≫

文永元年 (1264) 関実忠が致仕して関に帰り、若山の地に若山城を築く。
貞治六年(正平二十二年、 1367) 関盛政は領地を五人の子に分け与える。長男盛澄は神戸沢城を築いて神戸氏、次男盛門は国府城を築いて国府氏、三男盛繁は関本家を継いで亀山城(若山城)、四男盛宗は鹿伏兎城を築いて鹿伏兎氏、五男政実は川崎峯城を築いて峯氏を称する。
永禄十年 (1567) 織田信長が北伊勢に兵を出し高岡城に迫る。翌十一年(1568)、再び攻め寄せ、信長の三男信孝を神戸氏の養子とすることで和睦、関一族は信長に従うこととなる。
元亀二年 (1571) 長島一向一揆に関盛信が通じたため、信長は盛信を幽閉する。
天正十年 (1582) 神戸信孝が四国攻めを命じられ、関盛信も幽閉を許され従う。しかし、本能寺の変で信長が倒れたので亀山に帰り、長男一政を還俗させ後嗣とする。
天正十一年 (1583) 関盛信、一政父子が羽柴秀吉を訪れている隙に、柴田勝家に仕える次男盛清を推す岩間八左衛門が滝川一益の兵を亀山城(若山城)へ入れる。盛信は秀吉の援軍を得て、一益の将佐治新助が守る亀山城(若山城)を攻撃して奪還する。
天正十八年 (1590) 小田原攻めの功績で蒲生氏郷が松阪から会津へ移封となり、関一政も従って奥州白河へ移り、亀山城(若山城)には岡本下野守宗憲が城主となる。しかし、城が狭く腐朽がひどいため新城を築く。これが伊勢亀山城です。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の役で岡本宗憲が西軍に味方したため領地を没収され、武蔵国瓶尻の三宅康貞が亀山城の守備をする。
慶長九年 (1604) 美濃国多良から関長門守一政が再び城主となる。
慶長十五年 (1610) 関一政が伯耆国黒坂城に移封となり、代わって三河国作手から松平忠明が入封する。
元和元年 (1615) 松平忠明が大坂城へ移り、亀山城は四日市代官水谷九左衛門光勝の預かりとなる。
元和五年 (1620) 三河国挙母から三宅康貞の子康信が入封する。
寛永九年 (1632) 幕府から堀尾忠晴が丹波亀山城の修築を命じられた際、伊勢亀山城と間違えて、康信の子康盛に天守閣を解体させ石垣の修理にかからせたところ、丹波亀山城の間違いと分かったが、以後、天守閣が再建されることはなかった。
寛永十三年 (1636) 三河国西尾城主本多俊次が入封して、櫓などの大修築を行い三重櫓を天守閣の代用とした。
慶安四年 (1651) 石川昌勝が入封する。
寛文九年 (1669) 板倉重常が入封し、重冬、重治と続く。
宝永七年 (1710) 松平乗邑が入封する。
享保二年 (1717) 再び板倉重治が入封する。
延享元年 (1744) 板倉勝澄が備中国松山城へ移り、代わって備中国松山城から石川総慶が亀山城となり、十一代世襲して明治維新まで続く。


≪ 写 真 ≫


亀山公園駐車場北側の土塁跡


三重櫓跡


復元された二之丸帯曲輪の埋門


現存多聞櫓


亀山神社


亀山城址碑


石坂門跡と石井兄弟敵討の碑


南からの多聞櫓と石垣


亀山中学校からの多聞櫓


太鼓門跡


東三之丸跡


太鼓櫓跡


江ヶ室門・神戸櫓跡


復元された二之丸帯曲輪の土塀


関見櫓跡


現地伊勢亀山城平面図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR関西本線亀山駅から徒歩約10分。
<車>
東名阪道亀山ICを降りて国道1号亀山バイパスを東進、羽若町交差点信号を右折して南下し、江ヶ室交番前信号を右折、亀山市役所前の三叉路を直進して亀山公園に入り、亀山神社前に公園駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

亀山城多聞櫓


紹介したお城の数 156城



三重の山城ベスト50を歩く
福井 健二,竹田 憲治,中井 均
サンライズ出版