お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

真田丸出城

2013-02-23 19:56:52 | 大阪府
 真田丸出城

2013/2/11

大阪府大阪市のお城めぐり

 大坂城の弱点である南面に真田幸村が築いた出城

≪ お城の概要 ≫

城名: 真田丸出城
よみ: サナダマルデジロ
別称: 偃月城・真田丸
所在地: 大阪府大阪市天王寺区餌差町・玉造本町・真田山町
現状: 宰相山公園・真田山公園・寺院・住宅地
築城年代: 慶長十九年(1614)
築城者: 真田幸村
形式: 平城
遺構:
規模: 142m×216m
文化財:
訪城日: 2013/2/11


≪ 訪城記 ≫

大坂城から真田丸出城へ向かう。

大阪城公園駐車場を出て本町通りを西に向かい、馬場町交差点を左折、法円坂で阪神高速の高架下を南進、上本町1を左折、長堀通りを東進、玉造交差点を右折、次の信号を右折、150m程西進すると西宰相山公園に着く、この公園斜め北に有料駐車場があるので駐車する。

徒歩で西宰相山公園東の道を南に進むとすぐに鳥居があり、その奥が三光神社で、神社にあがる階段の南前に真田幸村公の像と真田の抜穴跡がある。
その南が宰相山公園で西の奥の高所に旧陸軍の戦没者墓地があり、整然とお墓が並んでいる。
その南が真田山小学校、道を挟んで南に真田山公園、この公園の西に明星高校、円珠庵あたりまでが真田丸出城だったようです。


≪ 歴 史 ≫

慶長十九年十月 (1614) 真田幸村が九度山から手勢を率いて大坂城に入城し、総構の南面の防備が弱いことを見抜き、三日月型の出城を築く。
大坂冬の陣ではこの出丸で前田利常、松平忠直の軍勢に多大な犠牲者を出させ、撃退している。その後、和議の条件で破壊された。


≪ 写 真 ≫


三光神社前にある真田幸村公の像


真田の抜穴跡


三光神社

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR大阪環状線玉造駅から徒歩3分。
<車>
阪神高速13号東大阪線を法円坂で降りて、阪神高速の高架下を南進、上本町1を左折、長堀通りを東進、玉造交差点を右折、次の信号を右折、150m程西進すると西宰相山公園に着く、この公園斜め北に有料駐車場があるので駐車する。


≪ 位置図 ≫

三光神社


紹介したお城の数 32城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

石山本願寺

2013-02-22 21:51:39 | 大阪府
 石山本願寺

2013/2/11

大阪府大阪市のお城めぐり

 十一年に及ぶ織田信長との石山合戦に耐えた本願寺門徒の本拠地

≪ お城の概要 ≫

城名: 石山本願寺
よみ: イシヤマホンガンジ
別称: 石山本願寺城・大坂城
所在地: 大阪府大阪市中央区大阪城1-1
現状: 大阪城公園
築城年代: 天文二年(1533)
築城者: 証如
形式: 平城
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2011/8/30・2013/2/11


≪ 訪城記 ≫

大坂城と重複する場所に存在したため、大阪城の訪城記を参考にしてください。

玉造口の参道脇に蓮如上人袈裟懸けの松があり、説明板と碑が建てられた裏側の東屋の中に切株が残っている。

六番櫓の北、修道館の西側の一角に説明板と石山本願寺推定地の碑が建っている。

豊臣秀吉の大坂城築城によって、石山本願寺の上に豊臣大坂城が建ち、その後徳川氏による大坂城が豊臣大坂城の上に築城されているため、石山本願寺の正確な位置がわからないようです。


≪ 歴 史 ≫

明応五年 (1496) 蓮如上人が大坂の地を得て、坊舎を建立したことに始まる。
永正三年 (1506) 河内で細川政元と畠山義豊が争った際に、政元からの支援要請で実如が参戦に踏み切らざるを得なくなり、この時から本願寺の武装化と武士勢力への加担が始まった。
天文元年六月、畠山義宣と筒井順慶の連合軍が飯盛山城の木沢長政を攻撃した際に、細川晴元の要請で証如が門徒二万人をい率いて義宣・順慶連合軍を打ち破り、その余勢をかって、堺の三好元長(三好長慶の父)を死に追いやり、その後勢力が急激に拡大した。
この勢いに細川晴元も敵対することなり、同年八月から本願寺への細川勢の攻撃が始まる。同年八月二十三日、山科本願寺は焼き討ちにあい焼失してしまう。
天文二年七月二十五日 (1533) 山科から運び出された祖像が石山御坊に遷座される。これより石山本願寺が城郭としての防備を固め、「摂州第一の名城」と謳われ、要害堅固を誇るようになる。
元亀元年九月十二日 (1570) 織田信長と対立し、石山合戦が勃発、十一年に及ぶ長い戦争が始まる。
天正八年閏三月五日 (1580) 天皇の調停により、和議が成立し、顕如は四月九日、祖像を奉じて大坂を退去して紀州鷺の森へ移る。
その後、信長から秀吉の時代に移り、石山本願寺の跡に大阪城が築城され、さらにその上に徳川氏の大阪城が築かれる。


≪ 写 真 ≫


石山本願寺推定地


蓮如上人袈裟懸けの松の碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR大阪環状線森ノ宮駅、大阪城公園駅から徒歩すぐ。
地下鉄谷町線、中央線谷町四丁目駅から徒歩約15分。
<車>
名神高速道路豊中ICで阪神高速11号池田線に乗り南下、新淀川を渡り、しばらく走って道なりに大きく右に曲がる。中之島の上で大きく左に曲がり、阪神高速1号環状線に乗る。中之島の終わりで大きく右に曲がる。そのまま南下して、中央区役前で大きく左に曲がり、阪神高速13号東大阪線に乗り、法円坂で阪神高速を降りて、阪神高速の側道を東へ進む。森ノ宮入路の信号で左折、すぐをまた左折して、本町通りに出て、Uターンしてすぐに大阪城の有料駐車場の入り口があり、乗用車専用駐車場に入る。


≪ 位置図 ≫

石山本願寺推定地


紹介したお城の数 31城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

大坂城

2013-02-21 22:18:58 | 大阪府
 大坂城

2013/2/11

大阪府大阪市のお城めぐり

 豊臣秀吉が天下統一の拠点として築いた惣構の巨城 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 大坂城
よみ: オオサカ
別称: 錦城・金城・浪華城
所在地: 大阪府大阪市中央区大阪城1-1
現状: 大阪城公園
築城年代: 天正十一年(1583)
築城者: 豊臣秀吉
形式: 平城
遺構: 復興天守閣・本丸・二の丸・西の丸庭園・桜門・大手門・多聞櫓・青屋門・一番櫓・六番櫓・千貫櫓・乾櫓・焔硝蔵・金蔵・石垣・内堀・空堀・外堀
規模: 約1,000m×1,000m
文化財: 国指定特別史跡・重要文化財
訪城日: 2011/8/30・2013/2/11


≪ 訪城記 ≫

名神高速道路豊中ICで阪神高速11号池田線に乗り南下、新淀川を渡り、しばらく走って道なりに大きく右に曲がる。中之島の上で大きく左に曲がり、阪神高速1号環状線に乗る。中之島の終わりで大きく右に曲がる。そのまま南下して、中央区役前で大きく左に曲がり、阪神高速13号東大阪線に乗り、法円坂で阪神高速を降りて、阪神高速の側道を東へ進む。森ノ宮入路の信号で左折、すぐをまた左折して、本町通りに出て、Uターンしてすぐに大阪城の有料駐車場の入り口があり、乗用車専用駐車場に入る。

駐車場に車を置き、駐車場北側の広い南外堀を見て、六番櫓、堀の入り組んだ石垣は見事で美しい、大手門、多聞櫓、千貫櫓を見て、多聞櫓前には大手桝形の巨石「大手見付石」がある。西外堀沿いを歩き、次に北西角の乾櫓、京橋口、京橋口桝形の巨石「肥後石」、北外堀沿いに歩き、伏見櫓跡、北東の青屋門、東外堀沿いに石垣を見て、玉造口から一番櫓を見て、玉造口から二の丸に入る。内堀、空堀見ながら左手に豊国神社、正面入り口桜門、空堀に架かる土橋を渡り、桜門から本丸に入る。残念ながら、桜門は修復作業中で見ることができなかった。門をくぐって左に銀明水、桝形正面に一番大きい桜門枡形巨石「蛸石」を見られる。桝形を抜けると、緑瓦と金箔がまぶしい復興天守閣が美しい。天守閣の内部を見て回り、最上階から本丸跡を見下ろす景色がすばらしい。ちなみに入場料は600円です。天守閣入口には金明水、号砲という大砲が置いてあります。
天守閣裏側になる山里口へ行き、桝形や刻印石広場、秀頼・淀殿自刃の地の碑を見て、ここで秀頼が最後を迎えたのかと感慨ひとしきりでした。
桜門へ戻り、西の丸庭園へ行き、内側から千貫櫓、乾櫓を見て、焔硝蔵を見て、また引き返し、梅林側から内堀、極楽橋を見て駐車場に帰りました。
見学に約6時間もかけてしまい、一日中堀や石垣を見ていても飽きないと思います。


大阪城の詳細  ………  ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天正十一年 (1583) 秀吉大坂へ赴き、築城計画をたて、大坂城普請を命じる。
天正十二年 (1584) 秀吉大坂城に移る。
文禄三年 (1594) 大坂城惣構の普請を始める。
慶長三年八月十八日(1598) 秀吉死す。
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦の敗北で豊臣秀頼が一大名に落される。
慶長十九年 (1614) 大坂冬の陣、和睦の条件で徳川方が城塁を破却し堀を埋める。
元和元年 (1615) 大坂夏の陣で秀頼、淀殿自害し徳川方が勝ち、大坂城は焼失する。戦後処理で松平忠明が大坂城主となる。
元和二年 (1616) 大坂城を修築。
元和五年 (1619) 大坂城を江戸幕府直轄とし、城代を置く。
元和六年 (1620) 天下普請で大阪城を修築。
寛永三年 (1626) 天守、本丸が竣工する。
寛永六年 (1628) 徳川氏による大坂城築城が完成する。
寛文五年 (1665) 落雷により天守閣全焼する。以後、再建されなかった。
安政五年 (1585) 大坂城の大修理完成する。
明治元年 (1868) 鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍が大阪城に入る。長州藩兵の来攻により幕府軍は大阪城から敗走、その後に城中から出火、ほとんどが灰燼に帰す。
明治四年 (1871) 明治政府が大阪城に鎮台を設置。
明治十九年 (1886) 大阪鎮台を第四師団とし、和歌山城二の丸御殿を本丸に移築。
明治二十年 (1887) 本丸桜門を再建する。
昭和六年 (1931) 大阪市の御大典記念として、市民の寄付により復興天守閣が完成する。
昭和二十年 (1945) 太平洋戦争の空襲で二番・三番・伏見・坤の四櫓が焼失する。終戦後、大阪城は米軍に接収される。
昭和二十二年 (1947) 本丸紀州御殿が全焼する。
昭和二十三年 (1948) 米軍が撤収し、大阪城が大阪市に返還される。
昭和二十八年 (1953) 大阪城が国の特別史跡に指定され、城内13棟の古建造物が国の重要文化財に指定される。


≪ 写 真 ≫


現存 六番櫓


現存 大手門


現存 多聞櫓


大手桝形の巨石「大手見付石」


現存 千貫櫓


現存 乾櫓


京橋口桝形の巨石「肥後石」


伏見櫓跡


青屋門


内堀の石垣


東外堀からの天守


現存 一番櫓


南外堀の石垣


本丸南東の石垣


桜門枡形の巨石「蛸石」


天守閣


山里丸にある豊臣秀頼・淀殿自刃の地の石碑


山里丸の石垣


山里口出枡形石垣


刻印石広場


煌びやかな天守閣


天守閣入口前にある大砲「号砲」


天守閣8階展望台から見る本丸


金の鯱


天守閣8階展望台から見る山里口と極楽橋


大阪城御殿跡にある大坂城址碑


空堀の石垣


西の丸から見る天守閣


焔硝蔵

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR大阪環状線森ノ宮駅、大阪城公園駅から徒歩すぐ。
地下鉄谷町線、中央線谷町四丁目駅から徒歩約15分。
<車>
名神高速道路豊中ICで阪神高速11号池田線に乗り南下、新淀川を渡り、しばらく走って道なりに大きく右に曲がる。中之島の上で大きく左に曲がり、阪神高速1号環状線に乗る。中之島の終わりで大きく右に曲がる。そのまま南下して、中央区役前で大きく左に曲がり、阪神高速13号東大阪線に乗り、法円坂で阪神高速を降りて、阪神高速の側道を東へ進む。森ノ宮入路の信号で左折、すぐをまた左折して、本町通りに出て、Uターンしてすぐに大阪城の有料駐車場の入り口があり、乗用車専用駐車場に入る。


≪ 位置図 ≫

大阪城


大阪城公園有料駐車場


紹介したお城の数 30城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社

常楽寺城

2013-02-16 14:41:38 | 滋賀県
 常楽寺城

2013/2/3

滋賀県近江八幡市の城めぐり

 安土町奉行の木村氏の館跡

≪ お城の概要 ≫

城名: 常楽寺城
よみ: ジョウラクジ
別称: 木村城
所在地: 滋賀県近江八幡市安土町常楽寺
現状: 畑
築城年代:
築城者: 木村氏
形式: 館
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2013/2/3


≪ 訪城記 ≫

安土城から徒歩で常楽寺城へ向かう。

安土城百々橋口から西の川を渡り、下豊浦の集落内を西進、すぐの十字路を斜め南に進むと、左手に新宮大社があり、さらに約200m進むと、県道2号下豊浦北の信号をさらに直進して、約70mでぼうや地蔵堂の交差点があり、ここを左折して、約80mで右折するとセミナリヨ跡に着く、ぼうや地蔵堂まで戻り、さらに南進し、約120mで右折、約150mで左折、約170mで松原の信号で大きい道に出て、この道を右折、約500m西進すると、県道2号に出る常楽寺の信号がある、県道2号へ出ないで左折し、住宅街へ入る。約80m道なりに行くと、川に架かる橋があり、右手側が常楽寺港跡で公園になっている。さらに160m程進むと、また川に架かる橋があり、その橋右側が常浜で、橋のたもとに説明板があり、常楽寺港の船溜まり跡だそうです。さらに30m程すすんだところで右の路地に入り、この路地を80m西に進み、突き当りを右折すると、すぐに右側に常浜の船溜まりがあり、その角を左折したところに川があり、その川に架かる橋を渡った右側の畑が木村氏の館跡で、常楽寺城跡です。
遺構は何もありません。
ここに着くまで何度か道に迷いました。

ここから常浜への道を安土駅に向かって160m程南下すると、十字路南右側からポコポコと音がするので、見に行くとそこには「梅の川」という、武井夕庵が織田信長にお茶を入れる時に使用した水が湧き出ていました。前には説明板があります。

常楽寺城の城主、木村次郎左衛門尉はもともと安土の土豪で、安土町奉行だったそうです。


≪ 歴 史 ≫

もともと木村氏は六角氏に仕えていましたが、織田信長の近江進出によって、織田信長に仕え、安土町奉行となり、安土城の築城も尽力しました。

≪ 写 真 ≫


常楽寺城(木村城)跡の畑


常楽寺港(常浜)跡の船溜まり


「梅の川」

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR琵琶湖線安土駅から徒歩5分。
<車>
安土駅東口前の安土城郭資料館無料駐車場を利用すると良いでしょう。


≪ 位置図 ≫

常楽寺城(木村城)跡の畑


「梅の川」


紹介したお城の数 29城



城めぐりがもっと楽しくなる!お城の地図帳 (タツミムック)
クリエーター情報なし
辰巳出版

安土城

2013-02-13 22:26:33 | 滋賀県
 安土城

2013/2/3

滋賀県近江八幡市のお城めぐり

 織田信長の「天下統一」の拠点として総石垣造りの近世城郭の手本となった「幻の城」

 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 安土城
よみ: アヅチ
別称:
所在地: 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦・東近江市南須田町
現状: 山・そう見寺
築城年代: 天正四年(1576)
築城者: 織田信長
形式: 山城
遺構: 天守台・本丸・二の丸・三の丸・八角平・薬師平・黒金門跡・東門跡・土塁・石垣・堀・井戸・屋敷跡
規模: 1,000m×1,500m、標高199.2m、比高105m
文化財: 特別史跡
訪城日: 2010/3/22・2011/11/22・2013/2/3


≪ 訪城記 ≫

安土城へは3度目の訪城です。
あの織田信長の最後の居城で、天主がどんな形をしていたのか、謎の多いお城で、今回はまだ訪れていない 「信長の館」、「安土城考古博物館」、 「安土城郭資料館」を見学します。

長浜市から湖岸道路を走り、県道2号を南下、左にきぬがさ山が見えてきたら、峠のような北腰越を通り抜けると、右手の山が安土城のある安土山で、左手は観音寺城のある観音寺山です。
北腰越から約500m進むと山裾に安土城跡の大きな看板があり、この看板を過ぎた安土城址前信号を右折すると安土城で前に有料駐車場があります。今回は、この看板までに左折して、農道を南東へ進み東海道本線のガードしたを潜りまっすぐ進むと「信長の館」のある安土文芸の郷に着きます。この北には「安土城考古博物館」もあります。
安土文芸の郷に車を駐車して、ここから徒歩で5分程で安土城に着きます。

安土城址前信号を渡ってすぐ右側に安土城址碑と一段高くなった削平地に桜の木が沢山植わっている場所が江藤加賀右衛門邸跡です。左側は駐車場で、道をまっすぐに進んでいくと、大手門跡に着きます。
大手門跡には段々になった帯曲輪と石垣の虎口等が復元されています。
中央の参道を登ると、受付があり入山料が500円を払って中に入ります。
入るとすぐに右手の曲輪が伝前田利家邸跡で奥に石垣で出来た木樋跡があり、左手には石垣で二段曲輪となった伝羽柴秀吉邸跡で建物の礎石が残っています。前田邸に上が伝徳川家康邸で、現在はそう見寺の仮本堂となっています。
そして驚くのは、真ん中に通る広くて一段一段が大きい階段で、両側に石造りの排水溝まで備えています。
この階段を左へ曲がり、右へ曲がった左手が武井夕庵邸跡で井戸跡があります。
階段を登りきると道が左へ曲がり、そう見寺と本丸へ行く分かれ道があり、その角の削平地が織田信忠邸跡で、分かれ道を右に曲がり、もう一つ右に曲がった階段を登ると、黒金門跡の桝形で石垣が大きいです。
桝形を出て、左の奥が伝長谷川秀一邸跡で、織田信雄四代供養塔がありす。
まっすぐ行くと、左手に二の丸石垣を見ながら、突き当りに仏足石があり、そこで階段が左に曲がり、二の丸に登る階段があります。二の丸には信長公本廟があります。
二の丸に登らず、右に曲がって石垣の間を通りに抜けると、本丸跡です。
本丸左手奥に天主跡に登る階段があり、登ってまた左に曲がって階段を登りきった所に天主跡があります。
天主跡は石垣に囲まれた礎石が残っています。ここに五重七階の壮麗な天主があったそうです。
琵琶湖方面の見晴しがひじょうに良いです。
ちなみに天守のことを天主と言うのは安土城だけです。

現在、三の丸方面と六角平方面は立入禁止区域になっています。残念。
来た道を引き返し、そう見寺跡へそう見寺本堂跡、三重塔、二王門を見て百々橋方面へ、百々橋へも通行止めで山裾行くと秀吉邸に出られます。受付から大手へ戻る。

大手の復元された曲輪群を見ながら百々橋方面へ、そこから徒歩でセミナリヨ跡、常楽寺城跡、安土駅前東口にある 「安土城郭資料館」を見学し、「信長の館」、「安土城考古博物館」 まで帰り見学しました。


「信長の館」の詳細        ……… ここをクリック

「安土城考古博物館」の詳細  ……… ここをクリック

「安土城郭資料館」の詳細    ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天正四年 (1576) 1月中旬に着工し、1か月後には信長が岐阜から安土へと移っている。
天正五年八月二十四日 (1577) 天主の普請を始める。
天正七年五月十一日 (1579) 天主が完成して、信長が天守に移り住む。
天正十年六月二日 (1582) 本能寺の変で信長が斃れ、その後、安土城も明智秀満が火をかけたとも、織田信雄が城下に放った火が城に燃え移り、天主類が焼失したと言われている。


≪ 写 真 ≫


安土城全景


安土城址碑


広い登城階段と両脇の排水溝


伝前田利家邸跡


前田利家邸奥の木樋跡


伝羽柴秀吉邸跡


徳川家康邸跡(そう見寺仮本堂)


伝武井夕庵邸跡


武井夕庵邸の井戸跡


織田信忠邸跡


黒金門跡の桝形


二の丸石垣


二の丸の信長公本廟


信長公本廟内部


本丸への通路石垣


天主石垣


天主前階段


天主礎石


そう見寺本堂跡


そう見寺跡から見る西の湖


三重塔


二王門


百々橋口


セミナリヨ跡


安土城郭資料館


安土城郭資料館内の安土城ひな型模型


信長の館


金ぴかの天主最上階内部


天主5階


現地案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR琵琶湖線安土駅下車、徒歩25分
<車>
名神高速道路八日市ICを降りて国道421号八風街道を北西方向に進み、近江鉄道を越えた小脇町交差点を斜め直進し、県道208号を北西方向に進む。国道8号と東海道新幹線を越えて県道201号をそのまま直進、加賀団地口の交差点を直進し、東海道本線を越えてフレンドマートの突き当たりを左折、約300mで安土郵便局前交差点を右折、約250mで下豊浦交差点を右折、県道2号を約900m西進した安土城址前信号を左折すると、安土城跡で、大手前に有料駐車場があります。


≪ 位置図 ≫

安土城大手前駐車場


安土城


百々橋口


セミナリヨ跡


安土城郭資料館


信長の館


安土城考古博物館


紹介したお城の数 28城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




近江の山城ベスト50を歩く
中井 均
サンライズ出版