お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

妻女山

2013-06-23 05:08:43 | 長野県
妻女山

2013/5/6  信州北部遠征(3泊4日)

長野県長野市のお城めぐり

 第四次川中島の戦いで上杉謙信が布陣した陣城

≪ お城の概要 ≫

城名: 妻女山
よみ: サイジョサン
別称:
所在地: 長野県長野市松代町清野
現状: 山
築城年代: 永禄四年(1561)
築城者: 上杉謙信
形式: 陣城
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2011/6/17・2013/5/6


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  4日目、八幡原史跡公園から妻女山へ向かう。

八幡原史跡公園前の県道35号を南下、上信越道の高架下をくぐってすぐの長野インター南三叉路信号を右折、そのまま上信越道沿いの道を南西へ進む、途中、松代城への案内板のある分かれ道を直進、松代PA付近の中道島三叉路信号を斜めに右折、国道403号を西進、上信越道の高架下をくぐって約500mで道路沿いに妻女山の案内板がある三叉路を左折、もう一度上信越道の高架下をくぐってすぐのT字路を右折、山に登っていく、対面通行が難しい狭い道を登っていくと最初のカーブ右側に上杉謙信槍尻の泉の碑と説明板があり、さらにヘアピンカーブを二つ越えると、坂道の右側に展望台と説明板が建てられていて、展望台から八幡原方面が良く見渡せます。
さらに登っていくと道路が広がった場所にでて、ここの道路脇に車を駐車できます。
この辺り一帯が第四次川中島の戦いで上杉謙信が海津城が良く見える妻女山に陣を張った場所です。


≪ 歴 史 ≫

永禄四年 (1561) 第四次川中島の戦いで上杉謙信が海津城を見渡せる妻女山に陣を張る。

≪ 写 真 ≫


妻女山


妻女山展望台と説明板


妻女山展望台からの八幡原遠望


上杉謙信槍尻の泉

≪ アクセス ≫

<車>
上信越道長野ICを降りて県道35号を南下、上信越道の高架下をくぐり、突き当りの長野インター南三叉路信号を右折、そのまま上信越道沿いの道を南西へ進む、途中、松代城への案内板のある分かれ道を直進、松代PA付近の中道島三叉路信号を斜めに右折、国道403号を西進、上信越道の高架下をくぐって約500mで道路沿いに妻女山の案内板がある三叉路を左折、もう一度上信越道の高架下をくぐってすぐのT字路を右折、山に登っていく、対面通行が難しい狭い道を登っていく、アピンカーブを三つ越えると、坂道の右側に展望台があり、この辺りが上杉謙信の布陣した場所で、さらに登ると道路脇の駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

妻女山展望台


紹介したお城の数 87城



武将たちの軌跡を追う戦国古戦場ガイドブック
全国合戦場研究会
メイツ出版

八幡原古戦場

2013-06-22 05:11:07 | 長野県
 八幡原古戦場

2013/5/6  信州北部遠征(3泊4日)

長野県長野市のお城めぐり

 武田信玄と上杉謙信が一騎打ちをした川中島古戦場

≪ お城の概要 ≫

城名: 八幡原古戦場
よみ: ハチマンバラ
別称:
所在地: 長野県長野市小島田町1362-1
現状: 八幡原史跡公園
築城年代:
築城者:
形式: 陣跡
遺構:
規模: 35m×45m
文化財:
訪城日: 2011/6/17・2013/5/6


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  4日目、大峰城から引き返し八幡原史跡公園に向かう。

信州北部遠征の4日間で何度も目の前を通り過ぎていた、武田信玄と上杉謙信が一騎打ちをした川中島の戦いの場所が県道35号沿いの東側八幡原史跡公園で、南側に無料駐車場があります。
公園の北側が八幡社が祀られている川中島古戦場跡です。
八幡社境内に入ると左側に大きな川中島大合戦図が建てられていて、まっすぐ北に進むと八幡社、その左に武田信玄と上杉謙信の一騎打ち像、道路側に首塚、八幡社の右に三太刀七太刀之跡の碑があります。
日本城郭大系に土塁跡があると書いていましたが、よく分かりませんでした。

八幡原古戦場は城跡ではないですが、「日本城郭大系」に載っているので、お城めぐり入れました。


≪ 歴 史 ≫

永禄四年九月 (1561) 第四次川中島の戦いがこの地で起こりました。
妻女山に布陣した上杉謙信を追い落とすため、山本勘助の「きつつき戦法」を入れ、武田信玄は自軍を二手に分け、別働隊が妻女山の上杉軍を背後から攻める手はずでしたが、いち早くこれに気づいた謙信は朝霧を利用して八幡原へと移動し、信玄本陣を攻めました。この戦いで武田軍側は信玄の弟武田信繁や軍師山本勘助を始め重臣を数多く失いました。一時は信玄の本陣まで攻め寄り、この時起こったのが有名な信玄と謙信の一騎打ちです。この戦いは別働隊に背後から攻められ上杉軍が引き上げました。


≪ 写 真 ≫


八幡原史跡公園北側の川中島古戦場入口


首塚


武田信玄と上杉謙信の一騎打ち像


三太刀七太刀之跡


八幡社


現地川中島大合戦図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR長野新幹線・信越本線長野駅からバス約20分で川中島古戦場下車。
<車>
上信越道長野ICを降りて長野インター入口を北西に進み、松代大橋を渡ると八幡原史跡公園が道の右側に見えてきます。公園の南側に駐車場があります。


≪ 位置図 ≫

八幡原史跡公園


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武将たちの軌跡を追う戦国古戦場ガイドブック
全国合戦場研究会
メイツ出版

大峰城

2013-06-21 05:07:30 | 長野県
 大峰城

2013/5/6  信州北部遠征(3泊4日)

長野県長野市のお城めぐり

 武田氏と上杉氏の争奪戦の舞台となったお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 大峰城
よみ: オオミネ
別称: 大峯城
所在地: 長野県長野市長野
現状: 大峰山公園
築城年代: 十六世紀
築城者:
形式: 山城
遺構: 模擬天守・堀切
規模: 標高828m
文化財:
訪城日: 2013/5/6


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  4日目、松代城から大峰城へ向かう。

松代城南側の駐車場を出て真田邸前の道を東へ、次の北への曲がり角を左折して松代駅前を右折して東へ進み、中町三叉路信号を左折、次の荒神町Y字路信号を斜め左に進み、北西に進み突き当りの上高相三叉路信号を右折、次の長野インター南三叉路信号を左折、上信越道の高架下をくぐり、県道35号を北上、長野インター入口付近から北西に進み、松代大橋を渡り、八幡原史跡公園前を通り、古戦場入口交差点信号を直進、下氷鉋交差点信号から国道117号に代わり青木島三叉路信号を斜め右に曲がり、そのまま北上し、犀川に架かる丹波島橋を渡り、長野県庁前を通り、突き当りの信大前三叉路信号を右折、次の若松町信号で左折、北上して横沢町信号を直進、次の交差点を左折、細い道を北西に進み、「高森りんご園」のある交差点を右折、戸隠バードラインへ向かう七曲りの山道を進み、途中連続する屋根付のヘアピンカーブを抜けて、突き当りのT字路で右折、戸隠バードラインを走り、途中から長野市大峰斎場へ向かう山道へ入る。途中道路工事をしていて斎場からは通行止めとなっている。幸いこの日は工事をしていなかったので、そのまま大峰城前の駐車場まで行けました。

残念なことに大峰城は現在休館中で、駐車場も人が入ってないようで砂ほこりが堆積していました。
遺構もよくわからない状態ですが、模擬天守の北側に堀切の跡がはっきりと残っています。


≪ 歴 史 ≫

築城時期や城主は明らかではありませんが、川中島合戦の頃に築城され、武田氏・上杉氏の争奪戦の舞台となったと想像されます。

≪ 写 真 ≫


模擬天守入口の門


西側からの模擬天守


南側からの模擬天守


模擬天守北側の堀切

≪ アクセス ≫

<車>
上信越道長野ICを降りて長野インター入口を北西に進み、松代大橋を渡り、八幡原史跡公園前を通り、古戦場入口交差点信号を直進、下氷鉋交差点信号から国道117号に代わり青木島三叉路信号を斜め右に曲がり、そのまま北上し、犀川に架かる丹波島橋を渡り、長野県庁前を通り、突き当りの信大前三叉路信号を右折、次の若松町信号で左折、北上して横沢町信号を直進、次の交差点を左折、細い道を北西に進み、「高森りんご園」のある交差点を右折、戸隠バードラインへ向かう七曲りの山道を進み、途中連続する屋根付のヘアピンカーブを抜けて、突き当りのT字路で右折、戸隠バードラインを走り、途中から長野市大峰斎場へ向かう山道へ入る。途中道路工事をしていて斎場からは通行止めとなっている。幸いこの日は工事をしていなかったので、そのまま大峰城前の駐車場まで行けました。大峰斎場駐車場から徒歩20分。


≪ 位置図 ≫

大峰城


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長野の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
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松代城

2013-06-16 05:09:00 | 長野県
 松代城

2013/5/6  信州北部遠征(3泊4日)

長野県長野市のお城めぐり

 武田氏の北信濃攻略の最前線基地、その後、真田氏の居城 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 松代城
よみ: マツシロ
別称: 海津城・侍城・松城・貝津城
所在地: 長野県長野市松代町松代
現状: 海津城跡公園
築城年代: 永禄年間(1558-70)
築城者: 武田信玄
形式: 平城
遺構: 本丸・二の丸・天守台・復元太鼓門・北不明門・東不明門・二の丸南門・石場門・石垣・土塁・内堀・外堀跡
規模: 本丸72.4m四方、惣構え1.2km×1.0km、標高357m
文化財: 国史跡指定
訪城日: 2011/6/17・2013/5/6


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  4日目、ホテルを出て松代城へ向かう。

長野駅前を通って中御所北交差点信号を左折、国道19号を南下、犀川を渡り国道171号をさらに南下、青木島三叉路信号を斜めに左折、そのまま南下する。古戦場入口交差点信号を直進、八幡原史跡公園(川中島古戦場)の前を通り、千曲川に架かる松代大橋を渡り、上信越道の高架下をくぐり、突き当りの長野インター南三叉路信号を右折、次の上高相信号を高速道路に沿って直進、約350m進んだところに松代城駐車場の案内看板のある左折道を南へ走るとすぐに駐車場がある。
朝が早かったために駐車場がまだ空いていなかった。しかたなく住宅街の細い路地を通って南側の池田満寿夫美術館北側の駐車場に車を駐車する。

駐車場から長野電鉄屋代線の線路を渡り、二の丸南門前を通って城内へ、ここも早かったため太鼓門等がまだ空いていない。しかたなく二の丸をぐるっと一周する。開門時間は朝9時からです。
復元された太鼓門や前橋と石垣、内堀・土塁を眺めながら時計回りに北へ出て、天守台跡の石垣に見とれ、北不明門、新堀、外堀跡、東に回り土塁に囲まれた二の丸御殿跡、石場門を見ているうちに、東不明門が空いていたのでここから本丸内へ、内から天守台、北不明門、太鼓門を堪能しました。
本丸は意外と小さな正方形をしていて、真ん中に本丸御殿があったそうです。
北不明門から入った右側に大きく立派な海津城址碑があります。
城の南側には真田邸や真田宝物館があります。
ちなみにもともと松代城は川中島の戦いに備えて武田信玄が構えた城で海津城と呼ばれていました。その後、城主が代わることに名前も変わり、森忠政時代には侍城、松平忠輝時代には松城、真田氏の時代になり松代城と呼ばれ明治維新を迎えています。


長野市教育委員会の松代城環境整備のホームページ ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

永禄三年 (1560) 武田信玄が上杉謙信との川中島の戦いに備え海津城を築城したと言われています。
天正十年 (1582) 武田氏滅亡後、織田信長の家臣森長可が入城し、織田信長が本能寺の変で斃れると上杉景勝の支配下に入り、村上義清の子景国が入城するが、副将の屋代秀正の謀反で罷免され、代わって景勝の妹婿上条義春が入城する。
天正十二年 (1584) 城主が須田相模守満親に代わる。
天正十三年 (1585) 第1次上田合戦が起こり、上杉景勝に助けを求めた上田城の真田昌幸を海津城主須田満親が助勢している。その後、上杉景勝の合津移封に伴い海津城は豊臣秀吉の蔵入地となり、田丸直昌が支配する。
慶長五年 (1600) 徳川家康は田丸氏に代わって森長可の弟森忠政を海津城主とする。
慶長八年 (1603) 徳川家康の六男松平忠輝が入り、花井吉成が城代となる。
元和三年 (1617) 大坂夏の陣の折の旗本殺害事件の責任から松平忠輝から家康の孫松平忠昌、酒井忠勝と代わる。
元和八年 (1622) 真田信之が海津城主となり、明治四年(1871)の廃藩置県まで真田氏が代々松代を治めた。
明治五年 (1872) 廃城となる。
明治六年 (1873) 火事で全焼して本丸を残して取り去られる。
昭和五十六年 (1981) 国指定史跡に指定される。
平成十六年 (2004) 太鼓門、前橋、北不明門、二の丸土塁が復元される。


≪ 写 真 ≫


二の丸南門


二の丸南門入口にある松代城址碑


二の丸土塁(南側)


太鼓門と太鼓門前橋


南西側の内堀と石垣


土塁に開けられた門


天守台


北不明門入口


井戸


北側の新堀


北側の外堀跡


二の丸土塁(北側)


北東方面からの全景


北東側の石垣


東側の内堀と石垣


二の丸御殿跡と土塁


東不明門と前橋


南東側の内堀と石垣


二の丸石場門


太鼓門


本丸御殿跡


本丸内からの天守台


本丸内の海津城址碑


北不明門


北不明門虎口


真田邸


真田宝物館


現地松代城案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR長野駅からバスで約30分、松代駅下車、徒歩約5分。
長野電鉄屋代線松代駅から徒歩約5分。
<車>
上信越道長野ICを降りて県道35号を南下、上信越道の高架下をくぐり、突き当りの長野インター南三叉路信号を右折、次の上高相信号を高速道路に沿って直進、約350m進んだところに松代城駐車場の案内看板のある左折道を南へ走るとすぐに駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

松代城


松代城無料駐車場


真田邸


紹介したお城の数 84城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




長野の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版

屋代城

2013-06-15 05:16:59 | 長野県
 屋代城

2013/5/5  信州北部遠征(3泊4日)

長野県千曲市のお城めぐり

 村上氏の一族屋代氏の最初の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 屋代城
よみ: ヤシロ
別称: 一重山城
所在地: 長野県千曲市屋代・小島
現状: 山
築城年代: 永正-天文年間(1504-55)頃
築城者: 屋代能登守信光
形式: 山城
遺構: 本郭・二の郭・三の郭・段郭・堀切・土塁
規模: 標高458m、比高93m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2013/5/5


≪ 訪城記 ≫

信州北部遠征(3泊4日)  3日目、荒砥城から屋代城へ向かう。

荒砥城跡の城山史跡公園を出て来た山道を上山田温泉側に降りて、城山入口交差点信号を直進、千曲川を渡って、戸倉上山田温泉入口三叉路信号を左折、国道18号を北上、杭瀬下交差点信号を右折、屋代駅方向に進み、屋代駅前交差点信号を左折、県道392号を北上して横町三叉路信号を右折、しなの鉄道線踏切を越えた道路右側に成田山不動尊への登り口があり、手前の空き地に駐車可能。ここに車を駐車する。

成田山不動尊の登り口が屋代城の登城口で、階段を登り成田山不動尊の脇を通って墓地を過ぎ、御嶽神社、矢代神社と続く、矢代神社を通り過ぎたあたりから屋代城の城域に入る。
矢代神社南側に堀切らしき空堀があり、削平地、堀切が続き、長い緩やかな山道を30分程登り、土塁のある堀切に着く。土塁の前の削平地が三の郭で、堀切を越えると二の郭に出る。
広い削平地で南に一段高くなっている鉄塔のあるところから本郭で説明板が建てられている。
本郭も広い削平地で土塁等はない。さらに南側にも段々に郭があったようですが、現在は破壊されてしまっていてなにも残っていない。


≪ 歴 史 ≫

永正-天文年間 (1504-55) 村上氏の一族屋代氏によって築城される。
天文二十二年 (1553) 武田氏の侵攻に際して屋代政国は村上氏を離反して武田氏に服属し、葛尾城が落城して村上氏は越後の長尾景虎を頼って落ち延びる。
永禄年間 (1558-70) 屋代氏が荒砥城へ移った時点で屋代城は廃城となったようです。
天正十年 (1582) 武田氏が滅んだのち、上杉景勝の勢力下に入り、村上義清の子景国が海津城の城将として入り、その副将として屋代政国の子秀正が海津城二の丸に居住を命ぜられ、持城の荒砥城を他氏に入られ、徳川氏に内応したが、上杉氏に攻められ逃れる。


≪ 写 真 ≫


登城口の成田山不動尊登り口


矢代神社


矢代神社南側の登り口


尾根道


途中の広場前の堀切


途中の広場


途中の削平地


堀切


二の郭前の土塁と堀切


二の郭と土塁の間の堀切


二の郭


本郭

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JRしなの鉄道屋代駅から成田山不動尊を経由して、徒歩約40分。
<車>
長野道更埴ICを降りて国道18号を南下、次の屋代三叉路信号を斜めに左折、南下して横町三叉路信号を左折、しなの鉄道線踏切を越えた道路右側に成田山不動尊への登り口があり、手前の空き地に駐車可能。近くの県立歴史館にも駐車場有。


≪ 位置図 ≫

屋代城


登城口の成田山不動尊


紹介したお城の数 83城



長野の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
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