お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

若山城

2013-12-15 09:40:10 | 三重県
 若山城

2013/11/23

三重県亀山市のお城めぐり

 関氏代々の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 若山城
よみ: ワカヤマ
別称: 丹陵城・亀山古城
所在地: 三重県亀山市若山町
現状: 住宅地
築城年代: 文永二年(1265)
築城者: 関実忠
形式: 平山城
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2013/11/23


≪ 訪城記 ≫

伊勢亀山城から徒歩で若山城へ向かう。

伊勢亀山城の関見櫓跡を西へ歩き、突き当りの県道を北上、坂の道を亀山市歴史博物館の方向へ約130m行き、住宅街へ入る南東への斜め道を入ってすぐ、道の北側に説明板と亀山古城址碑がひっそりと建っているのみで遺構はない。
説明板の裏側の丘が城跡のように見えます。
その北側が亀山市歴史博物館で、ここの駐車場を利用すると良いでしょう。


≪ 歴 史 ≫

文永二年 (1265) 関実忠が致仕して関に帰り、翌年、若山の地に若山城を築く。
貞治六年(正平二十二年、 1367) 関盛政は領地を五人の子に分け与える。長男盛澄は神戸沢城を築いて神戸氏、次男盛門は国府城を築いて国府氏、三男盛繁は関本家を継いで亀山城(若山城)、四男盛宗は鹿伏兎城を築いて鹿伏兎氏、五男政実は川崎峯城を築いて峯氏を称する。
永禄十年 (1567) 織田信長が北伊勢に兵を出し高岡城に迫る。翌十一年(1568)、再び攻め寄せ、信長の三男信孝を神戸氏の養子とすることで和睦、関一族は信長に従うこととなる。
元亀二年 (1571) 長島一向一揆に関盛信が通じたため、信長は盛信を幽閉する。
天正十年 (1582) 神戸信孝が四国攻めを命じられ、関盛信も幽閉を許され従う。しかし、本能寺の変で信長が倒れたので亀山に帰り、長男一政を還俗させ後嗣とする。
天正十一年 (1583) 関盛信、一政父子が羽柴秀吉を訪れている隙に、柴田勝家に仕える次男盛清を推す岩間八左衛門が滝川一益の兵を亀山城(若山城)へ入れる。盛信は秀吉の援軍を得て、一益の将佐治新助が守る亀山城(若山城)を攻撃して奪還する。
天正十八年 (1590) 小田原攻めの功績で蒲生氏郷が松阪から会津へ移封となり、関一政も従って奥州白河へ移り、亀山城(若山城)には岡本下野守宗憲が城主となる。しかし、城が狭く腐朽がひどいため新城を築き、若山城は廃城となる。


≪ 写 真 ≫


亀山古城の説明板付近


亀山古城址碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR関西本線亀山駅から徒歩約10分。
<車>
東名阪道亀山ICを降りて国道1号亀山バイパスを東進、羽若町交差点信号を右折して南下し、江ヶ室交番前信号を右折、亀山市役所前の三叉路を直進して亀山公園に入り、亀山神社前を通って突き当りの三叉路を右折、約260m北上した亀山市歴史博物館の駐車場を利用すると良い。博物館から徒歩で西側の坂の道を約100m南下した住宅街へ入る南東への斜め道を入ってすぐ、道の北側に説明板と亀山古城址碑がある。


≪ 位置図 ≫

若山城(亀山古城)


紹介したお城の数 157城



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クリエーター情報なし
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伊勢亀山城

2013-12-14 21:54:09 | 三重県
 伊勢亀山城

2013/11/23

三重県亀山市のお城めぐり

 岡本宗憲が関氏の古城を大改修して築いた居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 伊勢亀山城
よみ: イセカメヤマ
別称: 亀山城・粉蝶城
所在地: 三重県亀山市本丸町
現状: 亀山公園・亀山神社・亀山市役所・亀山西小学校
築城年代: 天正十八年(1590)
築城者: 岡本下野守宗憲
形式: 平山城
遺構: 現存本丸多聞櫓・本丸三重櫓跡・二之丸帯曲輪・埋門・石坂門跡・太鼓櫓跡・太鼓門跡・東三之丸跡・大手門跡・江ヶ室門跡・神戸櫓跡・関見櫓跡・石垣・土塁
規模: 473m×327m、標高78m
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2011/8/1・2013/11/23


≪ 訪城記 ≫

神戸城から伊勢亀山城へ向かう。

鈴鹿市文化会館の駐車場を出て商工会議所東交差点信号を右折、県道54号を西進、汲川原橋南詰信号を右折、汲川原橋を渡り、汲川原町信号を左折、国道1号東海道を西進、川合町信号から国道1号亀山バイパスを通り、羽若町交差点信号を左折して南下し、江ヶ室交番前信号を右折、亀山市役所前の三叉路を直進して亀山公園に入り、亀山神社前の公園駐車場に車を駐車する。

駐車場の北側に盛り上がった土塁跡があり、駐車場の東側へ歩いていくと、道の南側に亀山神社、その東側に現存多聞櫓と石垣が残っていて、道の北側の児童公園北隅に三重櫓跡と、その東側に二の丸帯曲輪、埋門跡、復元された土塀がある。
多聞櫓の内部が無料公開されている。
多聞櫓東側に亀山城址碑、亀山市役所南側の池付近に石坂門跡と石井兄弟敵討の石碑がある。
亀山西小学校の東側通りには太鼓櫓跡と太鼓門跡、江ヶ室交番前信号付近が大手門跡、信号の西側付近が東三之丸跡、太鼓櫓跡から北の辻付近に江ヶ室門跡、神戸櫓跡、駐車場から西のテニスコート西南隅に関見櫓跡と亀山公園から亀山市役所付近に説明板がたくさんありわかりやすい。


≪ 歴 史 ≫

文永元年 (1264) 関実忠が致仕して関に帰り、若山の地に若山城を築く。
貞治六年(正平二十二年、 1367) 関盛政は領地を五人の子に分け与える。長男盛澄は神戸沢城を築いて神戸氏、次男盛門は国府城を築いて国府氏、三男盛繁は関本家を継いで亀山城(若山城)、四男盛宗は鹿伏兎城を築いて鹿伏兎氏、五男政実は川崎峯城を築いて峯氏を称する。
永禄十年 (1567) 織田信長が北伊勢に兵を出し高岡城に迫る。翌十一年(1568)、再び攻め寄せ、信長の三男信孝を神戸氏の養子とすることで和睦、関一族は信長に従うこととなる。
元亀二年 (1571) 長島一向一揆に関盛信が通じたため、信長は盛信を幽閉する。
天正十年 (1582) 神戸信孝が四国攻めを命じられ、関盛信も幽閉を許され従う。しかし、本能寺の変で信長が倒れたので亀山に帰り、長男一政を還俗させ後嗣とする。
天正十一年 (1583) 関盛信、一政父子が羽柴秀吉を訪れている隙に、柴田勝家に仕える次男盛清を推す岩間八左衛門が滝川一益の兵を亀山城(若山城)へ入れる。盛信は秀吉の援軍を得て、一益の将佐治新助が守る亀山城(若山城)を攻撃して奪還する。
天正十八年 (1590) 小田原攻めの功績で蒲生氏郷が松阪から会津へ移封となり、関一政も従って奥州白河へ移り、亀山城(若山城)には岡本下野守宗憲が城主となる。しかし、城が狭く腐朽がひどいため新城を築く。これが伊勢亀山城です。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の役で岡本宗憲が西軍に味方したため領地を没収され、武蔵国瓶尻の三宅康貞が亀山城の守備をする。
慶長九年 (1604) 美濃国多良から関長門守一政が再び城主となる。
慶長十五年 (1610) 関一政が伯耆国黒坂城に移封となり、代わって三河国作手から松平忠明が入封する。
元和元年 (1615) 松平忠明が大坂城へ移り、亀山城は四日市代官水谷九左衛門光勝の預かりとなる。
元和五年 (1620) 三河国挙母から三宅康貞の子康信が入封する。
寛永九年 (1632) 幕府から堀尾忠晴が丹波亀山城の修築を命じられた際、伊勢亀山城と間違えて、康信の子康盛に天守閣を解体させ石垣の修理にかからせたところ、丹波亀山城の間違いと分かったが、以後、天守閣が再建されることはなかった。
寛永十三年 (1636) 三河国西尾城主本多俊次が入封して、櫓などの大修築を行い三重櫓を天守閣の代用とした。
慶安四年 (1651) 石川昌勝が入封する。
寛文九年 (1669) 板倉重常が入封し、重冬、重治と続く。
宝永七年 (1710) 松平乗邑が入封する。
享保二年 (1717) 再び板倉重治が入封する。
延享元年 (1744) 板倉勝澄が備中国松山城へ移り、代わって備中国松山城から石川総慶が亀山城となり、十一代世襲して明治維新まで続く。


≪ 写 真 ≫


亀山公園駐車場北側の土塁跡


三重櫓跡


復元された二之丸帯曲輪の埋門


現存多聞櫓


亀山神社


亀山城址碑


石坂門跡と石井兄弟敵討の碑


南からの多聞櫓と石垣


亀山中学校からの多聞櫓


太鼓門跡


東三之丸跡


太鼓櫓跡


江ヶ室門・神戸櫓跡


復元された二之丸帯曲輪の土塀


関見櫓跡


現地伊勢亀山城平面図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR関西本線亀山駅から徒歩約10分。
<車>
東名阪道亀山ICを降りて国道1号亀山バイパスを東進、羽若町交差点信号を右折して南下し、江ヶ室交番前信号を右折、亀山市役所前の三叉路を直進して亀山公園に入り、亀山神社前に公園駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

亀山城多聞櫓


紹介したお城の数 156城



三重の山城ベスト50を歩く
福井 健二,竹田 憲治,中井 均
サンライズ出版

沢城

2013-12-08 13:53:09 | 三重県
 沢城

2013/11/23

三重県鈴鹿市のお城めぐり

 関氏一党、神戸氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 沢城
よみ: サワ
別称: 神戸西城・西条城
所在地: 三重県鈴鹿市飯野寺家町321-1
現状: 倉庫・水田
築城年代: 貞治六年(正平二十二、1367)
築城者: 関盛澄
形式: 平城
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2012/5/31・2013/11/23


≪ 訪城記 ≫

神戸城から徒歩で沢城へ向かう。

神戸公園から鈴鹿市文化会館東側の道まで戻り、道沿いの歩道を南下、商工会議所東交差点信号を渡り右折、県道54号の道路南側歩道を約330m西進した次の信号のある「大阪カルビ鈴鹿店」交差点を左折、約130m南下した川の手前、道路の東側の倉庫敷地の南西隅に大きな石の沢城趾碑と説明板があるのみです。


≪ 歴 史 ≫

貞治六年(正平二十二年、 1367) 関盛政の長子盛澄が沢の地に城を築き神戸氏の祖となる。
以後、実重、為盛、養子具盛(国司北畠材親の子)、長盛、利盛と続き、具盛のときに天文年間(1532-55)に神戸城を築き沢から移ったとも、利盛のときに弘治年間(1555-58)に神戸城を築いて移ったと言われている。
永禄十一年 (1568) 利盛の弟友盛のときに織田信長に攻められ、信長の三男信孝を養子とすることで和睦する。
元亀二年 (1571) 友盛が隠居させられ沢城が隠居城となる。


≪ 写 真 ≫


沢城趾碑


沢城付近


現地説明板図面(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅から徒歩約25分。
<車>
東名阪道鈴鹿ICを降りて県道27号を南東へ進み、加佐登小学校西信号で道が合流し、直進して突き当りの加佐登西三叉路信号を右折、県道673号を南下、津賀町西信号を左折、県道673号バイパスを進み、汲川原町交差点信号を直進、鈴鹿川に架かる汲川原橋を渡り、汲川原橋南詰信号を左折、県道54号を東進、商工会議所東交差点信号を左折、約100m北上した道の西側にある鈴鹿市文化会館の駐車場を利用すると良い。徒歩約10分。


≪ 位置図 ≫

沢城


紹介したお城の数 155城



城めぐりがもっと楽しくなる!お城の地図帳 (タツミムック)
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神戸城

2013-12-07 17:27:54 | 三重県
 神戸城

2013/11/23

三重県鈴鹿市のお城めぐり

 織田信長の三男信孝が養子となった神戸氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 神戸城
よみ: カンベ
別称: 本多城
所在地: 三重県鈴鹿市神戸5丁目10-22
現状: 神戸公園
築城年代: 弘治年間(1555-58)
築城者: 神戸利盛
形式: 平城
遺構: 本丸・天守台・土塁・堀
規模: 約900m×600m、標高10m
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2012/5/31・2013/11/23


≪ 訪城記 ≫

伊賀上野城から神戸城へ向かう。

伊賀上野城の有料駐車場を出て伊賀市役所前の丸之内交差点信号を左折、国道163号を東進、中瀬インター信号を左折、国道25号名阪国道の側道から本線に合流して北へ、しばらくして道が東へ曲がり、道なりに東進する。伊勢道関JCTを通り過ぎ、道が大きく北へ曲がり、鈴鹿川を越えたあたりで国道1号へ向かい大きく右へ曲がり、そのまま亀山バイパスを東進、汲川原町交差点信号を右折、鈴鹿川に架かる汲川原橋を渡り、汲川原橋南詰信号を左折、県道54号を東進、商工会議所東交差点信号を左折、約100m北上した道の西側にある鈴鹿市文化会館の駐車場に車を駐車させてもらう。

文化会館東側の道を渡り、北側の遊歩道を約180m東進した本多町公園付近で遊歩道が北東に曲がり、そのまま約130m進んだ突き当りが神戸公園入口で、公園中央付近に堀のある小高い丘があり、堀の西側の橋から入ると、すぐに荒い石でできた天守台ががあり、東側から登ることが出来る。本丸西面と南面に土塁の跡があり、東側の入口付近に説明板と神戸城趾碑が建てられている。


≪ 歴 史 ≫

弘治年間 (1555-58) 神戸利盛のときに神戸城を築き、居城を沢城から神戸城に移す。
弘治三年 (1557) 近江の佐々木六角氏の将小倉三河守が佐脇氏の柿城を攻めたとき、神戸利盛が救援に向かった隙をついた近江軍に内応した岸岡城主佐藤中務父子に神戸城を奪われる。佐藤氏の家臣古市与助の内応や長野城主工藤氏の応援もあって、神戸城の奪還に成功している。
永禄十年 (1567) 北伊勢を平定した織田信長は、滝川一益に神戸城の支城高岡城を攻めさせる。
永禄十一年 (1568) 高岡城を包囲したまま、利盛の跡を継いだ弟具盛に和睦の使者を送り、信長の三男三七郎信孝を具盛の養子とすることで和睦が成立する。
元亀二年 (1571) 具盛を沢城に隠居させ、信孝が神戸城主となる。
天正八年 (1580) 信孝が神戸城の拡張工事を行う。
天正十年 (1582) 本能寺の変で父信長が討たれたため、七月に岐阜城に移る。神戸城には信孝の異父兄小島兵部少輔が入った。
天正十一年 (1583) 信孝が兄信雄と対立したため、信雄の臣林与五郎が小島兵部を討ち神戸城主となる。
天正十二年 (1584) 織田信雄は徳川家康と結び、羽柴秀吉と戦った小牧・長久手の戦いのとき、林与五郎は秀吉方に敗れ、秀吉方の生駒親正が神戸城主となる。
天正十三年 (1585) 織田信雄が秀吉と和睦し、信雄の臣滝川雄利が神戸城主となる。
天正十五年七月 (1587) 水野忠重が三河国刈谷から入る。
文禄元年 (1592) 水野忠重が旧地三河国刈谷に移封となり、再び滝川雄利が城主となる。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の役で滝川雄利が石田三成方に味方したため領地を没収される。
慶長六年 (1601) 尾張国黒田城主一柳監物直盛が神戸城主となる。
寛永十三年 (1636) 一柳直盛が伊予国西条に移封となり、天領として四日市代官佐野平兵衛が支配し、神戸城は破却される。
慶安三年 (1650) 石川総長が入封、総良、総茂と続く。
享保十七年 (1732) 河内国から本多忠統が神戸城主となるが、城は荒廃したままであった。
延享三年 (1746) 城郭改築の許可が下り、十月着工、二年後の寛延元年(1748)九月に完成する。以後、明治維新まで本多氏が代々世襲する。


≪ 写 真 ≫


神戸公園入口


本丸西側の堀跡


北西側からの天守台石垣


南東側からの天守台石垣


天守台


本丸南西側の土塁跡


神戸城趾碑


本丸南側の土塁跡


本丸


本丸南西側の土塁と堀


現地案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅から徒歩約15分。
<車>
東名阪道鈴鹿ICを降りて県道27号を南東へ進み、加佐登小学校西信号で道が合流し、直進して突き当りの加佐登西三叉路信号を右折、県道673号を南下、津賀町西信号を左折、県道673号バイパスを進み、汲川原町交差点信号を直進、鈴鹿川に架かる汲川原橋を渡り、汲川原橋南詰信号を左折、県道54号を東進、商工会議所東交差点信号を左折、約100m北上した道の西側にある鈴鹿市文化会館の駐車場を利用すると良い。徒歩約5分。


≪ 位置図 ≫

神戸城(神戸公園)


鈴鹿市文化会館


紹介したお城の数 154城



三重の山城ベスト50を歩く
福井 健二,竹田 憲治,中井 均
サンライズ出版

伊賀上野城

2013-12-06 20:11:06 | 三重県
 伊賀上野城

2013/11/23

三重県伊賀市のお城めぐり

 筒井定次が築き、藤堂高虎が大改修した高石垣の根城 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 伊賀上野城
よみ: イガウエノ
別称: 上野城・白鳳城
所在地: 三重県伊賀市上野丸之内
現状: 上野公園
築城年代: 天正十三年(1585)
築城者: 筒井定次
形式: 平山城
遺構: 復興天守・本丸・城代役所跡(筒井城本丸)・石垣・内堀・空堀
規模: 1200m×700m、標高184m、比高47m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2011/8/1・2013/11/23


≪ 訪城記 ≫

自宅を出て伊賀上野城へ向かう。

自宅を出て国道8号を南下、彦根市に入り外町交差点信号を左折、国道306号を名神高速彦根IC方向へ向かい、名神高速に乗らず、そのまま道なりに国道306号を南下、多賀交差点信号を直進、国道307号を南下、日野町に入り日田交差点信号を直進、日野水口グリーンバイパスを通り、国道1号手前で左折して国道1号の側道を上がり、国道1号を東進、頓宮交差点信号を右折、県道24号を道なりに南下、新名神高速高架下をくぐり、鳥居野交差点信号を左折、県道24号のまま相模三叉路信号を左折して南下、甲賀支所前を通り、大原市場交差点信号を左折、県道4号をJR草津線沿いに南東へ進む、田堵野西信号を左折して県道4号のまま南下、三重県に入り、国道25号名阪国道上柘植インターガード下をくぐり、右折して側道を通って国道25号を西進、中瀬インターで降りて右折、国道163号伊賀街道を西進、伊賀市役所前の丸之内交差点信号を右折、だんじり会館前の信号を左折すると上野公園の有料駐車場に着く。ここに車を駐車する。

駐車場前の上野公園観光案内所で案内図をもらい坂道を登っていくと、分かれ道があり、天守閣方向に登る。この付近に深い空堀がある。水道タンクのある奥が城代役所跡で広い曲輪と見ごたえのある石垣、郭の奥の高台に旧筒井城天守台跡の碑が建てられている。
城代役所跡から石段の虎口を降りると復興天守閣がある本丸で、天守閣内に入ると藤堂宝虎坐像が出迎えてくれる。藤堂家ゆかりの展示物が見られ、入場料は500円です。
天守閣の西側が高石垣と内堀で、内堀から見るそびえ立つ高石垣は圧巻です。


伊賀上野城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天正十三年八月 (1585) 大和郡山城主筒井定次(順慶の養子)が伊賀守に任ぜられ伊賀国に移封となり、旧伊賀守護仁木氏の館跡に築城をする。
慶長六年 (1600) 関ヶ原の役で筒井定次は会津の上杉氏討伐に参加、上野城には兄筒井十郎玄蕃が留守居をしていたが、西軍の高槻城主新庄直頼、直定父子が上野城を攻撃、玄蕃は城を開け渡し逃げてしまった。定次は軍を引き返し、城を奪還する。
慶長十三年六月 (1607) 失政の多い、筒井定次は領地を没収され鳥居忠政に預けられる。
慶長十三年八月 (1607) 藤堂和泉守高虎が伊予国今治から伊賀・伊勢の地を与えられる。
慶長十六年 (1610) 伊賀上野城の大改修に着手、大坂方に備えるため城の西側に高石垣を築く。
慶長十七年九月二日 (1611) 完成間近の天守閣が暴風雨によって倒壊してしまい、以後、天守閣は再建されなかった。
元和六年 (1620) 高虎の弟藤堂高清が城代となる。
寛永十七年 (1640) 高清の死後、藤堂采女が城代となり、明治維新まで世襲した。明治に入り城は破却される。
明治二十年 (1887) 東大手門が解体。
明治四十年 (1907) 西大手門が解体。
昭和十年 (1935) 復興天守閣が建てられる。


≪ 写 真 ≫


登城口横の空堀


城代役所跡(筒井城本丸)


筒井城天守跡の碑


復興天守閣


復興天守閣入口の藤堂高虎坐像


天守閣望楼からの筒井城本丸


東からの復興天守閣


西からの復興天守閣


城代役所跡の石垣


本丸入口の上野城址碑


北西櫓跡の高石垣


南西櫓跡の高石垣


高石垣


白鳳門


南面の石垣


現地上野公園案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
近鉄伊賀線上野市駅から徒歩約8分。
<車>
東名阪道亀山ICを降りて国道25号名阪国道を西進、中瀬インターで降りて右折、国道163号伊賀街道を西進、伊賀市役所前の丸之内交差点信号を右折、だんじり会館前の信号を左折すると上野公園の有料駐車場に着く。


≪ 位置図 ≫

伊賀上野城


紹介したお城の数 153城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




三重の山城ベスト50を歩く
福井 健二,竹田 憲治,中井 均
サンライズ出版