お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

勝竜寺城

2013-07-14 09:35:02 | 京都府
 勝竜寺城

2013/6/16

京都府長岡京市のお城めぐり

 織田信長から与えられた細川藤孝の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 勝竜寺城
よみ: ショウリュウジ
別称:
所在地: 京都府長岡京市勝竜寺13-1
現状: 勝竜寺城公園・神足神社
築城年代: 室町時代中期
築城者: 畠山義就
形式: 平城
遺構: 本丸・沼田丸・模擬天守・多聞櫓・南門・北門跡・井戸・土塁・空堀
規模: 100m×600m、標高20m
文化財:
訪城日: 2010/11/3・2013/6/16


≪ 訪城記 ≫

淀城から勝竜寺城へ向かう。

淀城を出て京阪電車淀駅前の通りを通って旧京阪国道の納所複合交差点信号を斜め左を直進、桂川に架かる宮前橋を渡り、府道204号を西進、名神高速の高架下をくぐり、小畑川手前の落合橋交差点信号を右折、堤防沿いの府道211号を北上、大門橋で道なりに左へ曲がり、大門橋を渡ってガラシャ通りを北上すると左側に勝竜寺城公園が見える。勝竜寺城の内堀沿いの道を西へ入って行くと沼田丸にある「ガラシャのおもかげ水」の前に5~6台分の駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場の北側が沼田丸で「ガラシャのおもかげ水」の横に井戸跡、入口に沼田丸跡の説明板、北端に空堀跡がある。
沼田丸の東側が本丸跡で南門前に説明板、「明智光秀公三女玉お輿入れの城」ほ石碑、橋を渡ったところに本丸跡の説明板があり、門をくぐると模擬天守、本丸西側に土塁跡、北門跡、北東隅に多聞櫓と土塁が復元されている。
井戸跡もいくつかあり、本丸内にも「ガラシャのおもかげ水」が置かれていて、南東側に細川忠興・玉(ガラシャ)の像がある。
本丸から200m程北に行くと神足神社があり、神社の西側竹藪内に土塁と空堀跡が見られる。
大門橋北詰にも大門橋の説明板がある。


勝竜寺城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

応仁の乱ごろに山城守護畠山義就が郡代役所として築く。
永禄九年ごろ (1566) 三好三人衆の一人、岩成友通が守っていた。
永禄十一年九月二十九日 (1568) 織田信長の攻撃により落城、以後、細川藤孝が配される。
天正九年 (1581) 細川藤孝が丹後国へ入封すると、京都所司代村井貞勝の被官矢部善七郎と猪子兵助が城代として配される。
天正十年 (1582) 本能寺の変後は明智光秀の支配下に置かれ、山崎の戦いで落城、廃城となる。


≪ 写 真 ≫


南門と模擬天守


明智光秀公三女玉お輿入れの城の石碑


南門虎口


南門


沼田丸の井戸跡


沼田丸


沼田丸北側の空堀跡


本丸西側の土塁


北門跡


本丸にあるガラシャのおもかげ水


本丸井戸跡


細川忠興・玉(ガラシャ)の像


東側土塁と土塀


本丸側からの多聞櫓


多聞櫓


内堀


神足神社


神足神社の西側土塁


神足神社の西側空堀


大門橋


現地説明板細川藤孝居城時の復元図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線長岡京駅から徒歩約15分。
<車>
名神高速大山崎ICで降りて国道171号を名神高速沿いに北東へ進み、勝竜寺交差点信号を左折、小畑川手前の落合橋交差点信号を右折、堤防沿いの府道211号を北上、大門橋で道なりに左へ曲がり、大門橋を渡ってガラシャ通りを北上すると左側に勝竜寺城公園が見える。勝竜寺城の内堀沿いの道を西へ入って行くと沼田丸にある「ガラシャのおもかげ水」の前に5~6台分の駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

勝竜寺城(勝竜寺城公園)


神足神社


大門橋


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西東社

淀古城

2013-07-13 05:08:53 | 京都府
 淀古城

2013/6/16

京都府京都市のお城めぐり

 豊臣秀吉が側室淀殿に与えたお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 淀古城
よみ: ヨド
別称: 藤岡城
所在地: 京都府京都市伏見区納所北城堀46
現状: 妙教寺
築城年代: 室町時代中期
築城者: 畠山政長
形式: 平城
遺構:
規模: 標高15m
文化財:
訪城日: 2010/11/3・2013/6/16


≪ 訪城記 ≫

淀城から徒歩で淀古城へ向かう。

淀城跡公園を出て淀駅前の通りを西北へ歩き、旧京阪国道の納所変速交差点信号を渡り、北へ向かう千本通りを300m程住宅街の道を進んだ三叉路を右折するとすぐに妙教寺の門が見える。
門を入ったすぐの鐘楼堂の隅に淀古城址碑がひっそりとあり、戊辰戦争のときに大砲の弾が御堂を貫通したことが書かれている。
妙教寺付近が淀城跡です。


≪ 歴 史 ≫

応仁の乱の折、畠山政長が西軍の畠山義就に備えるため守護所を勝龍寺から淀城に移したの始まりのようです。
明応二年 (1493) 細川氏の山城国掌握によって守護代級の被官が守りについている。
永正元年九月 (1504) 摂津守護代薬師寺元長が淀城に拠って細川政元に反旗を翻す。
永禄二年八月 (1559) 三好長慶は細川氏綱を淀城に配置するが、同六年ごろに氏綱が死去、以後は三好義継、松永久秀の部将が配置されている。
永禄九年七月 (1566) 三好三人衆に奪回され、三好長逸の手の者が入部する。
永禄十一年 (1568) 織田信長の入京により落城する。
天正十年六月 (1582) 本能寺の変後、明智光秀によって修理される。
天正十七年三月 (1589) 羽柴秀長が淀城を修築し、豊臣秀吉の側室淀殿が入る。
文禄元年 (1592) 木村常陸介が居城とする。
文禄四年 (1595) 廃城となる。


≪ 写 真 ≫


妙教寺の門


淀古城址碑


妙教寺の御堂

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
京阪電車京阪本線淀駅から徒歩10分。
<車>
名神高速京都南ICを降りて国道1号京阪国道を南下、大手筋交差点信号を斜めに右折、府道13号旧京阪国道を南西に進み、納所複合交差点信号を左折、京阪本線淀駅へ向かう。駅前の路地を南に向かい、京阪本線に沿いの道を斜め右に行くと踏切前のサンクス裏に与杼神社の有料駐車場がある。納所交差点付近にも有料駐車場有、ここから徒歩約5分。


≪ 位置図 ≫

淀古城(妙教寺)


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淀城

2013-07-12 18:16:29 | 京都府
 淀城

2013/6/16

京都府京都市のお城めぐり

 二代将軍徳川秀忠の命で松平定綱が築いたお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 淀城
よみ: ヨド
別称:
所在地: 京都府京都市伏見区淀本町
現状: 淀城跡公園
築城年代: 元和九年(1623)
築城者: 松平定綱
形式: 平城
遺構: 本丸・天守台・石垣・内堀
規模: 450m×300m、標高20m
文化財:
訪城日: 2010/11/3・2013/6/16


≪ 訪城記 ≫

伏見城から淀城へ向かう。

伏見桃山城跡運動公園有料駐車場を出て住宅街のぐねぐね坂を降りて、桃山駅北側の通りに出て、桃山駅北側のJR奈良線踏切を渡り西進、御香宮神社前の道を西へ大手筋交差点信号を斜め左に直進、府道13号旧京阪国道を南西に進み、納所複合交差点信号を左折、京阪本線淀駅へ向かう。駅前の路地を南に向かい、京阪本線に沿いの道を斜め右に行くと踏切前のサンクス裏に与杼神社の有料駐車場がある。ここに車を駐車する。

与杼神社と稲葉神社の参道を西へ歩くとすぐに天守台跡の前に説明板が建てられている。天守台跡は崩れやすくなっているため立入禁止で中に入れません。
南西側に石垣と内堀跡が残っていて、南西方向と北西方向に櫓台跡があり、西側石垣中央下に淀城址碑が建っている。
内堀南側の京都競馬場臨時駐車場から内堀と石垣を見ることが出来ます。
石垣はかなり草が生えていて管理状態は良くないし、内堀も水が滞留していて蚊が多くて残念です。
一般的に淀城と言うと豊臣秀吉が淀殿に与えたお城のイメージが強いですが、この城は徳川幕府の初期に松平定綱が淀に入部して築城した新しいお城です。


≪ 歴 史 ≫

元和九年閏八月 (1623) 二代将軍徳川秀忠から淀を与えられた松平定綱が築城を開始し、寛永二年(1625)に完成、二条城の旧天守閣が移築されたと言われている。
寛永十年 (1633) 松平定綱が美濃国へ転封、代わって永井尚政が入部する。
寛文九年 (1669) 永井尚往が丹後国へ転封、代わって石川憲之が入部する。
宝永八年 (1711) 石川総慶が転封、代わって戸田光熙が入部する。
享保二年 (1717) 松平乗邑が入封する。
享保八年 (1723) 松平乗邑が下総国へ転封、代わって稲葉正知が入封して幕末に至る。
慶応四年 (1868) 鳥羽伏見の戦いで幕府軍を城に入れなかった。


≪ 写 真 ≫


天守台


天守台正面


天守台内部


南面石垣の土塁


西面石垣の土塁


北西櫓台の石垣


淀城址碑


稲葉神社


内堀側からの北西櫓台


内堀と南西櫓台の石垣


西側内堀と石垣


内堀と石垣


内堀側からの天守台石垣


南側内堀と石垣

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
京阪電車京阪本線淀駅から徒歩5分。
<車>
名神高速京都南ICを降りて国道1号京阪国道を南下、大手筋交差点信号を斜めに右折、府道13号旧京阪国道を南西に進み、納所複合交差点信号を左折、京阪本線淀駅へ向かう。駅前の路地を南に向かい、京阪本線に沿いの道を斜め右に行くと踏切前のサンクス裏に与杼神社の有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

淀城


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西東社

伏見城

2013-07-08 05:08:42 | 京都府
 伏見城

2013/6/16

京都府京都市のお城めぐり

 豊臣秀吉が隠居城として築いたお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 伏見城
よみ: フシミ
別称: 伏見桃山城・桃山城・指月城・木幡山城
所在地: 京都府京都市伏見区桃山町大蔵45
現状: 伏見桃山城運動公園・伏見北堀公園・明治天皇陵・昭憲皇太后陵
築城年代: 文禄元年(1592)
築城者: 豊臣秀吉
形式: 山城
遺構: 復興天守・外堀跡・移築大手門
規模: 1,000m×1,100m、標高100m、比高80m
文化財:
訪城日: 2010/11/2・2013/6/16


≪ 訪城記 ≫

名神高速京都南ICを降りて国道1号京阪国道を南下、大手筋交差点信号を左折、大手筋通を東進、阪神高速8号京都線の高架下を通り、京阪本線、近鉄京都線の高架下を通って御香宮神社のある御香宮前交差点信号を直進、JR奈良線桃山駅前の踏切を渡って次の信号を左折、住宅街を山手へ登っていく。約800mぐねぐね道を登った突き当りに伏見桃山城運動公園有料駐車場がある。ここに車を駐車する。

2010年に来たときは公園が閉鎖されていて自由に出入りができたのですが、今回は運動公園として運営されているようで、野球場などの利用客で駐車場もほぼ一杯になっていました。
駐車場北側の立派な大手門をくぐったすぐに伏見城大天守、小天守が並んで復興されていて壮観です。しかし、中の見学は出来ないようで閉鎖されています。中も見てみたかった。
野球場を通り越して北へ向かうと伏見北堀公園があり、体育館の東側が堀底のように人工的に低くなっている場所が外堀跡で池があります。
現在、復興天守の建っている場所は本丸跡ではなく、本丸は明治天皇陵となっています。
駐車場を出て住宅街を抜け、桃山駅東側の信号を左折してすぐの分かれ道を右に、直進は宮内庁管轄なので柵がしてあり入れません。さらに進み次の分かれ道の直進側柵に手前の空き地に車を駐車して、そこから徒歩で東へ進むと明治天皇陵へ登る急な階段のある道を北へ、階段を途中休憩しながら登った先が明治天皇陵で本丸跡です。右が昭憲皇太后陵で名護屋丸だそうです。左の宮内庁施設側が二の丸跡だそうです。
御香宮前まで戻り、御香宮の表門が伏見城の大手門が移築されているので見に行きました。


≪ 歴 史 ≫

文禄元年八月 (1592) 豊臣秀吉の新たな隠居所として造営を指月の地に開始する。
文禄三年 (1594) 明の講和使節を引見するため本格的な築城工事が始まり、淀古城の天守と櫓が移築される。
文禄四年七月 (1595) 聚楽第を解体して伏見城に移築する。
慶長元年七月 (1596) 大地震によって指月新城が倒壊、新たに木幡山に伏見城を再建する。同十月には本丸が、翌二年五月には天守が完成している。
慶長三年八月 (1598) 豊臣秀吉が死去する。
慶長四年三月十三日 (1599) 徳川家康が伏見城に入城する。
慶長五年七月十九日 (1600) 関ヶ原合戦の前哨戦で鳥居元忠が留守を守る伏見城は西軍に攻撃され、八月一日に陥落し、すべて焼失した。
慶長六年 (1601) 徳川家康が伏見城の再建に取り掛かり、小堀政次を作事奉行、藤堂高虎を普請奉行に任命し、天下普請を行い、十二月に家康は伏見城に入っている。
慶長七年二月 (1602) 徳川家康が伏見城で将軍宣下を受ける。
慶長十年 (1605) 徳川秀忠が伏見城で将軍宣下を受ける。
元和九年七月 (1623) 徳川家光の将軍宣下を最後に廃城となり淀城に建造物を移す。


≪ 写 真 ≫


大手門


大手門脇の伏見城址碑


復興天守


大天守


小天守


大天守・小天守


外堀跡


大手門付近からの復興天守


本丸跡の明治天皇陵


御香宮神社の移築大手門


現地伏見桃山城運動公園案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR奈良線桃山駅から徒歩約20分。
<車>
名神高速京都南ICを降りて国道1号京阪国道を南下、大手筋交差点信号を左折、大手筋通を東進、阪神高速8号京都線の高架下を通り、京阪本線、近鉄京都線の高架下を通って御香宮神社のある御香宮前交差点信号を直進、JR奈良線桃山駅前の踏切を渡って次の信号を左折、住宅街を山手へ登っていく。約800mぐねぐね道を登った突き当りに伏見桃山城運動公園有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

伏見城復興天守(伏見桃山城運動公園)


本丸跡(明治天皇陵)


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ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

玄蕃尾城

2013-07-07 05:08:52 | 滋賀県
 玄蕃尾城

2013/6/8

滋賀県長浜市のお城めぐり

 賤ヶ岳合戦で柴田勝家が本陣として築いた陣城

≪ お城の概要 ≫

城名: 玄蕃尾城
よみ: ゲンバオ
別称: 内中尾山城・柳瀬城
所在地: 滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬・福井県敦賀市刀根
現状: 山
築城年代: 天正十一年(1583)
築城者: 柴田勝家
形式: 山城
遺構: 主郭・虎口郭・馬出郭・腰郭・張出郭・櫓台・空堀・土塁
規模: 標高468.2m、比高210m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2010/9/5・2012/10/25・2013/6/8


≪ 訪城記 ≫

自宅から国道8号を北上し、木之本三叉路信号を左折、北陸道木之本IC前の木之本IC口交差点信号を右折、国道365号北国街道を北上し、柳ヶ瀬集落を通り越して北陸道の柳ヶ瀬トンネル手前の三叉路を右側道の県道140号へ、片側交互通行の車1台が通れる隧道トンネルを通り抜け福井県敦賀市刀根に入り、隧道を抜けたすぐを右折、林道へ入る橋を渡り、北陸道の高架下を大きく右へ曲がり、林道をひたすら登って行った突き当りに駐車できるスペースと簡易トイレが置いてある広場へ出る。ここに車を駐車する。

駐車スペースの南側に登城口があり、約5分で久々坂峠に着き、案内板のある左脇道を登って桜並木のなだらかな尾根道を約15分進むと縄張図付の説明板のある入口の虎口に着く。
大手道にあたる南虎口郭から入り、東虎口を通って主郭前の馬出、空堀に架かる土橋を渡ると主郭に入る。主郭の北東隅には一段高い天守台と言われる櫓台跡、各郭とも周りを高い土塁と深い空堀で囲まれている。
主郭東側の土塁の切れ込みを出ると腰郭に、北側の虎口を出ると空堀を挟み馬出、搦手郭があり、ここも土塁と空堀で囲まれている。
賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が本陣として築いた土の城で、現在も遺構が良く残り、地元の方々が下草の刈込をしておられ、何時来ても綺麗です。
2010年に初めて訪城した時は、柳ヶ瀬集落の北端にある玄蕃尾城の説明板のある小さな広場に車を置いて、北の山の山道を登ること約30分で久々坂峠に到着しました。


≪ 歴 史 ≫

天正十一年 1583 賤ヶ岳合戦で柴田勝家が本陣として陣城を築き布陣したが、敗戦で廃絶されたようです。

≪ 写 真 ≫


登城口


久々坂峠の分かれ道


南虎口


大手郭


大手郭の土塁


大手郭の空堀


東虎口郭


東虎口


東虎口郭の土塁


東虎口郭の空堀


主郭前の馬出


主郭入口の土橋と虎口


主郭


櫓台


主郭の土塁


主郭北側の虎口


主郭東側土塁の切れ込み


主郭東側の空堀


主郭東側の腰郭


主郭東側腰郭の空堀


主郭北側の馬出


主郭北側馬出の空堀


搦手郭


搦手郭の北虎口


搦手郭の空堀


搦手郭の土塁


搦手郭の土塁と空堀


現地玄蕃尾城縄張図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<車>
北陸道木之本ICを降りて木之本IC口交差点信号を直進、国道365号北国街道を北上し、柳ヶ瀬集落を通り越して北陸道の柳ヶ瀬トンネル手前の三叉路を右側道の県道140号へ、片側交互通行の車1台が通れる隧道トンネルを通り抜け福井県敦賀市刀根に入り、隧道を抜けたすぐを右折、林道へ入る橋を渡り、北陸道の高架下を大きく右へ曲がり、林道をひたすら登って行った突き当りに駐車できるスペースと簡易トイレが置いてある広場へ出る。


≪ 位置図 ≫

玄蕃尾城


林道側登城口


柳ヶ瀬側登城口


紹介したお城の数 92城



近江の山城ベスト50を歩く
中井 均
サンライズ出版