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小谷城

2013-05-02 22:35:27 | 滋賀県
 小谷城

2013/4/14

滋賀県長浜市のお城めぐり

 浅井氏三代の巨大山城 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 小谷城
よみ: オダニ
別称:
所在地: 滋賀県長浜市湖北町伊部・小谷郡上町
現状: 山
築城年代: 永正十三年(1516)~大永四年(1524)
築城者: 浅井亮政
形式: 山城
遺構: 天守台跡・本丸・大広間・黒金御門・桜馬場・馬洗池・御茶屋・番所・金吾丸・出丸・赤尾屋敷・中の丸・京極丸・小丸・山王丸・六坊・月所丸・大嶽城・福寿丸・山崎丸・石垣・堀切・空堀・土塁
規模: 1,000m×1,800m、標高495.1m、比高230m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2009/10/30・2012/8/31・2013/4/14


≪ 訪城記 ≫

自宅から国道8号を北上し、速水中央三叉路信号を右折、県道265号を東進、高時川を渡り、JR北陸本線河毛駅南側の踏切を渡り、北陸自動車道の下をくぐり、郡上交差点信号を右折、国道365号を南東へ進み、北側の山並みが小谷城跡で、山肌に見える大きな「小谷城址」の看板を越えて、郡上南の信号から約400mで案内看板のある道を左折、約200mで「戦国ガイドステーション」の無料駐車場に着く。ここに車を駐車する。

駐車場の北に登城口があり、舗装道路を北西に登って、ぐるっと山裾を迂回すると出丸に着く。先端部分に土塁跡がある。
出丸から道の反対側に追手道があり、追手道を登っていくと途中に間柄峠があり、碑と説明板がある。さらに登っていくと金吾丸に着く。金吾丸を降りたところに大きな地図の案内板があり、すぐに番所跡です。次に御茶屋跡、その上に馬洗池、その南西の低い場所に御馬屋跡、次に首据石、すぐに分かれ道があり、右の山裾道を行くと赤尾屋敷があり、中央に浅井長政自刃の碑がある。赤尾屋敷は上下3段の段曲輪です。分かれ道まで戻って、すぐ上が黒門跡で石垣跡と石段が残っています。黒門の南西に桜馬場があり、西側が低くなっていて左右の段曲輪です。桜馬場入口には浅井氏及び家臣の供養塔があり、その上に小谷城址碑があります。黒門から入ると広い大広間で奥に石垣の残る本丸跡、一段高い丘の上が天守台跡です。天守台登り口に井戸跡もあります。
天守台の左脇を通って、途中に御局屋敷跡へ降りる道があり、降りていくと狭い場所です。
戻り進むと、天守台の裏側に10mはあろうかと思う広い大堀切があります。
次に中丸で3段の曲輪の一番東奥に刀洗池、ここから京極丸へ入る。京極丸は秀吉が最初に攻略した場所です。次に小丸で浅井長政の父久政が自刃したところです。左右の段曲輪、小丸から山王丸へ入る曲輪の東裾に回り込んだところに大石垣が残っている。
山王丸、六坊を過ぎると大嶽城、清水谷、月所丸の分かれ道に着く。まずは右の山裾道を通って月所丸へ、土塁を迂回して進むとコの字状の虎口があり、越えたところに大小の堀切が3つある。
分かれ道に戻って、次にまっすぐの険しい山道を登って大嶽城へ、登りきったところに碑と説明板があり、北側に畝状の起伏が多くある。中央の窪んだところに大嶽城址碑が建てられている。信長に攻められた長政を救援に来た朝倉義景が陣を敷いた場所です。さらにここから西の尾根沿いに降りたところに朝倉家臣木村福寿庵が築いた福寿丸、山崎吉家が築いた山崎丸があり、どちらも前後に虎口を持つ砦で、はっきりとした遺構が残っています。
西の尾根を降りて、小谷城戦国歴史資料館前を通って清水谷からもう一度登りました。途中に竪堀がいくつか見られ、三田村屋敷跡と大野木屋敷跡では石垣跡や曲輪跡が見られます。
六坊の分かれ道から本丸跡を通って最初に登って来た追手道を下山しました。
ほぼ1日かけて登ったり降りたりを繰り返し、攻略に疲れ果てるほど巨大な山城です。


小谷城戦国歴史資料館の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

大永三年 (1523) 浅井亮政が北近江守護京極高清の家督争いに乗じて京極氏の重臣上坂信光を失脚させ、北近江を支配する。
大永四年 (1524) 小谷城京極丸で京極高清を饗応している。この頃築城と思われる。
大永五年 (1525) 六角定頼の攻撃を受け、越前の朝倉教景(宗滴)の来援により退けている。このとき朝倉教景が陣を敷いたところが金吾丸です。
天文三年八月二十日(1534) 京極高清・高延父子を清水谷の居館で饗応する。
天文十一年 (1542) 亮政が死去し、久政が家督を継ぐ。
永禄三年 (1560) 久政は子の長政に譲り、小丸に隠居する。
永禄十年頃 (1567) 長政は織田信長の妹お市を娶る。
元亀元年 (1570) 織田信長が越前の朝倉義景を攻めた際、長政は信長に反旗をひるがえす。金ヶ崎の退き口です。
元亀元年六月二十一日 姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に敗れる。
天正元年 (1570) 朝倉勢は大嶽城を攻め落とされ、越前へ退却、これを織田勢が追撃し、朝倉氏は滅んでしまい、八月二十七日、長政の本丸と久政の小丸の間の京極丸を羽柴秀吉に攻め落とされ、長政父子が分断され、小丸の父久政が自刃にする。翌二十八日には本丸を攻められ、長政も自刃し浅井氏は滅亡する。
小谷城落城後、羽柴秀吉が小谷城に入ったが、すぐに長浜城を築き移った。このとき小谷城の建物の多くが長浜城に移された。
彦根城の西の丸三重櫓は長浜城の天守と言われ、すなわち小谷城の天守と伝えられている。


≪ 写 真 ≫


登城口付近の小谷城址碑


出丸跡


追手道


金吾丸跡


番所跡


御茶屋跡


御馬屋跡


馬洗池


首据石


赤尾屋敷跡


赤尾屋敷跡にある浅井長政自刃の碑


黒金門跡


桜馬場跡


大広間前の小谷城址碑


大広間


本丸跡の石垣


御局屋敷跡


天守台と中丸の間の大堀切


中丸跡


京極丸の土塁


小丸跡


大石垣


山王丸跡


六坊の土塁


月所丸


大嶽城の畝堀


福寿丸


山崎丸


三田村屋敷跡の石垣


大野木屋敷跡の石垣


現地案内板(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR北陸本線河毛駅から徒歩約30分。バスでコミュニティバスで約10分。本丸まで約40分。
<車>
北陸自動車道長浜ICを降りて左折、県道37号を東進し、国道東上坂交差点信号を左折、国道365号を北上、姉川古戦場を通り過ぎ、約7㎞で小谷城跡の案内板が見えてきたら右折、戦国ガイドステーション前に無料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

戦国ガイドステーションと登城口


小谷城跡


大嶽城跡


小谷城戦国歴史資料館


紹介したお城の数 58城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社


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