松山櫨(はぜ)復活奮闘日記

失われてしまった松山櫨の景観を復活させようと奮闘していく日々の記録。

山太郎蟹と櫨とイノベーション その2

2014-08-13 11:51:34 | 櫨ものがたり
櫨栽培のはじまりで一番早いとされている記録は、永禄年間(1558~1570)、薩摩藩の彌寝重永(ねじめ・しげなが)が中国から苗を取り寄せて栽培を始めたものです(彌寝家伝承)。

それに続いて天正19年(1591)、博多の豪商・神屋宗湛が製蝋目的で櫨の種子を支那大陸の南方から取り寄せて唐津に植えたり、福岡藩で広めていたというもの。

他にも3説ほどありますが、うち二つは薩摩藩です。

それから150年ぐらい後の時代になる享保15年(1730)。

久留米藩竹野郡亀王村では、27歳の庄屋・竹下武兵衛が、櫨の苗木作りを始めました。

その頃、久留米藩ではまだ櫨をまともに育てている人はいませんでした。

櫨自体はじわじわと各地に広まっていたようですが、なんせ種から一本の樹木が育って実をつけるには数年かかります。育ててみたものの、あまり良くない実だったり、枯れたりと、栽培は全て手探り状態の時代です。

どうやったら良い櫨ができるのか。

その決め手は接ぎ木です。良い櫨を接げば良い実がなるからです。

しかし接ぎ木は、元となる優秀な木の枝が必要です。

当時、最も優秀な櫨のある場所は、薩摩藩です。いちはやく櫨の栽培を始めていたからです。

もちろん薩摩藩は櫨の持ち出しを厳しく禁止していました。

しかし、相次ぐ天災や享保の大飢饉(享保17年・1732)を経験した人々の櫨への熱意は、薩摩藩の厳しい管制を上回っていたのです。

福岡藩那珂川郡山田村では若き庄屋・高橋善蔵が薩摩藩からおにぎりの中に櫨の種を入れ、必死の思いで持ち帰りました。没後に建てられた善蔵の墓はおにぎりの形をしています。

武兵衛にしても、少しでも良い櫨を得るため熱心に研究したと「農人錦の嚢」に書かれています。

そして同じ藩内にいる好奇心旺盛な笠九郎兵衛もまた、そんな貴重な櫨に興味がないわけがありません。

寛保2年(1742)、九郎兵衛は近くの御井郡国分村鞍打に櫨を植えました。

その出来事は久留米藩の豪商・石原家の「石原家記」に記されていることから、石原家が櫨の植栽に関わっていたことも窺われます。

記録はないものの、当時39才の武兵衛と52才の九郎兵衛は交流があり、九郎兵衛が鞍打の畑で雁爪を使って耕して植えた櫨苗は、武兵衛が仕立てた苗であるという可能性が高いと思います。

その後、武兵衛は櫨苗栽培の改良を繰り返すうちに、近くの耳納山で「松山櫨」という突然変異で生まれた優秀な品種を発見し、接ぎ木によって九州に苗を広めていきます。

竹下武兵衛による松山櫨と笠九郎兵衛の雁爪は、後に革新的影響を及ぼした農業のイノベーションだったのです。

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