歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

主の祈りについて(続き)

2006-05-01 | 宗教
「わたしたちの日毎の糧を今日もお与えください」(カトリック教会・聖公会共同口語訳)
この箇所、私ならば、原文のギリシャ語を
「私達のいのちのパンを今日お与え下さい」
と訳す。

「日用の」「日毎の」「毎日の」と訳されている原文のギリシャ語「エピウーシオン」は、特殊な言葉で、マタイ伝とルカ伝の主の祈りに表れるだけで他の箇所には出てこない。新約聖書以外の文献にも殆どみられない語である。現代では、この箇所を「毎日食べるパンを今日も下さい」と訳すことが多い。しかし、昔から、そのように訳していたわけではない。

古代の教会では、現在では「毎日の」と訳されている「エピウーシオン」という言葉を、ラテン語に直訳して、「supersubstantialem (形あるものを超える)」と訳していた。例えば、ヒエロニュモスのヴルガタ訳聖書では、おそらく古代の典礼の伝承を受けたと思われるが、そのように訳している。

「形あるものを超えるパン」とは何か。この言葉では直訳に過ぎて難しいので、私はそれをヨハネ伝の言葉を借りて「いのちのパン」と訳すのが良いと思う。

ヨハネ伝6-27には「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」

つまり、マタイ伝の主の祈りで言われている「パン」は、第一義的には、ヨハネ伝6-27で言われている「永遠の命に至る食べ物」の事である。

また、マタイ伝の「主の祈り」のすぐ後に、次の言葉がある。(6-25)

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」

「何を食べようか、何をのもうかと思い悩むな」と言うイエスの言葉を「主の祈り」の直後に置いているマタイが、「パンを下さい」というイエスの言葉を伝えたとき、はたして、彼は「形あるパン」のことだけを言っていたであろうか。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」という聖書の言葉もある。

カトリック教会では、聖体拝領の直前にこの祈りを唱えるが、それは、主の祈りのときに頂くパンを、神の言葉としてのキリストと同一視する古代教会の伝承に従っているからではないだろうか。

それゆえに、私は、主の祈りの正しい日本語訳は、

「私達のいのちのパンを今日お与え下さい」

だと思う。

「いのちのパン」という訳語ならば、意味の範囲が広く、文字どおり、私達が毎日食べているパン(これは通常の解釈)を意味することも出来るし、また、「私達を生かす神の言葉」という聖書的な意味も表すことができるし、また聖体拝領の時に頂くパン(キリストの体)を意味することも出来るからである。

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