goo blog サービス終了のお知らせ 

歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「小さき声」を聴くこと

2008-03-20 |  宗教 Religion
「聖書は読むものではなくて聴くものなのだ」ということを、私はあるベルギー人の神父から云われたことがある。読むことと書くことも大事ではあるが、生きた言葉というものは、聴く言葉、語る言葉なのだというのである。日本の信徒が、「言葉の典礼」の時に、紙に書かれた聖書の文字を追いながら朗読を聴いているのが彼にとっては不思議でならなかったらしい。彼にとっては「活字」はすこしも活きていない言葉、言ってみれば記憶のための補助に過ぎないのであった。活きた言葉とは、聴く言葉であり、書物に頼らずに、自らが語る言葉なのであった。

松本馨さんの「小さき声」を復刻しながら、私はこの神父のことを思い出した。松本さんにとって聖書とは、何よりも聴くものであり、また、それについて語るものであり、そして何度も暗誦する内に、それを記憶し、いつでも必要に応じて、書物からではなく、自らの記憶の中からとりだして語ることのできるものだったのではなかったろうか。

松本さんの場合、聖書を朗読してくれる人がおり、また、自分のメッセージを口述筆記する人が常にいた。これは非常なハンディキャップであったように思う人が多いが、けっしてマイナスばかりであったとは言い切れない。松本さんと聖書との対話は、完全な孤独の中でおこなわれたのではなく、常に「汝」と呼びかけることの出来る隣人を前にして行われたのである。たしかに、自分自身で誤植をチェックしたり、資料にあたって正確を期すということはできなかったから、細々とした事実関係に関しては、思い違いや誤解が時々見受けられる。そのことを否定するつもりはない。しかし、松本さんのいっていることは、たとえどれほど極端に見えたとしても、大筋に於いて事柄の本質を突いていたという印象を与える。それは、彼の言葉が常に聖書に基づいた活きた「声」であったからだろう。

「小さき声」を復刻するに際しても、私はもとのテキストが持っていた対話性というものを見失わないようにしたいと思っている。復刻本を作るというプロセスの中で、松本さんの活きた言葉に触れることを大切にしていきたい。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沈黙の声

2008-03-20 |  宗教 Religion
今から25年ほど前のことであるが、今井館で、関根正雄の旧約聖書講義を聴いたことがある。その時の主題は旧約聖書に於ける「沈黙の声」というものであった。旧約聖書では、言葉だけでなく沈黙も又主題となるが、関根正雄の講義で特に印象深かったのは、旧約聖書列王記19:11-13の釈義であった。
「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
 新共同訳聖書で、「静かにささやく声」と訳されているヘブライ語を、関根正雄は「火の後で、かすかな沈黙の声があった」と訳していた。私は、この旧約聖書講義を聞いて、はじめて目を開かれる思いがしたのを記憶している。のちに、このときの講義は、講談社から「古代イスラエルの思想家達」として出版されたが、その本のなかで関根正雄は、上の該当箇所を次のように釈義している。
「神の不在の確認の後の「声」は、テリエン(旧約學者)の考えるような神の現在の自覺の準備云々という程度のリアリティではなく、すでにそれ自身神の霊的現実であったと我々は解する。だからこそ、この声ならざる声を聞いてエリヤはその顔をマントで覆い、出て行って洞窟の口に立ったのではないか。(中略)沈黙の声すら霊的に聞けないものに、神はどのようにして語り得たであろう。肉の耳をもってではなく、霊の耳をもって神の声を聞いた経験のない人が、「神は語られる」といってもそれはテキストをなぞっているにすぎない。(中略)エリヤの聴いた「沈黙の声」についてデイヴィッドソンが1970年の論文で記していることは我々には示唆的である。風や地震や火を通してという今まで受け入れられてきた信仰のカテゴリーが死に絶えるときに、神は新しく見出される、という意味のことをデイヴィッドソンは言っているのである。」
「沈黙の声」という表現は私にとっては自然である。聖書自体がそのような声に満ちているようにさえ思われる。たとえば、神の創造された世界は「沈黙の声」を語ります。「話すこと」なく、「語ること」なく、その「声」も聞こえないのに、「天は神の栄光を語り、大空は御手の業を示し、昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る」(詩編19)このような栄光に満ちた沈黙だけでなく、試練のなかでの沈黙もある。沈黙を破る言葉があるだけでなく、言葉を破る沈黙というものもある。聖書の中で示される「沈黙」を理解することによって、はじめて我々は聖書の言葉を理解できるということがあるだろう。やかましく響き渡る声よりもはるかに我々の心に響く沈黙というものがある。そして聖書自体、様々な箇所でそういう「沈黙の声」を主題としている。そういう「沈黙の声」を旧約聖書の様々なコンテキストの中で聴くということを私は関根正雄の旧約講義から教えられた。そして、それは決して関根正雄だけのことでなく、現代に生きるユダヤ教徒の(旧約)聖書釈義のなかにも見られるものである。たとえば、アンドレ・ネエルは『言葉の捕囚-聖書の沈黙からアウシュビッツの沈黙へ』(西村俊昭訳 創文社 昭和59年)のなかで、問題になっている列王記の箇所について次のように言っている。
「神は嵐の中にも、つむじ風のなかにも、火の中にも(カルメルの火)おられない。かれは<ささやくような小さき声>コル デママー ダッカー(19-12)のなかにおられるのだ。この表現もまた、きわめて皮肉な表現である。というのはそれは、神の唯一の声は「その沈黙」であることを、人間に教えているからである。こうして、二度の逆転がカルメルとホレブの継続場面の結合の中で同時に行われる。言葉の観念は価値を失い、沈黙の観念は積極的な価値に達する。神の言葉は自動的ではない。それは無価値であることを表明しうるし、失敗をももたらしうるのである。また、沈黙はもはや神の怒りないし神の拒否のしるしではない。それは言葉と同様、またそれ以上に、神の「現在」を表現する。この二枚織りの絵を通して、神の沈黙は象徴を変える。不活動の水準から、生命の水準に達する。カルメルの場面の夕べ、民は声を揃えて、「言葉」と「応答」の神こそ、生ける神と叫んでいた。そして今、ホレブの場面の夕べ、預言者エリヤは孤独のなかで理解する。生ける神とは「沈黙」と「引退」の神であることを。(中略)聖書は、たといそれがか細くとも、「沈黙の声」を語るとき、聖書自身が我々に聴くように招いているのではないだろうか」
かつては「言葉」と「応答」という雄弁なる対話の(政治的)世界にいた預言者も、孤独の中で、生ける神の「沈黙の声」に耳を澄ませますー「沈黙」と「引退」のただなかで、彼も又、自らの沈黙の言葉を語るであろう。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本馨の信仰と自治会活動 その1

2007-09-12 |  宗教 Religion
松本馨のキリスト教信仰と自治会活動―(全生園での講演記録)

唯今ご紹介に与りました田中と申します。簡単に自己紹介いたしますが、私は、ここから自転車で40分くらいかかる東久留米市に住んでおります。日曜日には、とくに特別な用がなければ、ハンセン病図書館の近くにあるカトリック教会に来ております。今日は、朝の9時という大変早い時間にお集まり頂きましたが、日曜日のこの時間帯には、いつも全生園にいることが多いのです。
全生園では、ミサに出た後で、私は毎日曜日にする仕事の一つとして、三年ほど前から、入園者の方が、戦前ないし終戦直後のもっとも困難な時代に、書き残された文藝作品や宗教的な手記等を編集、あるいは製本するという作業を続けてきました。
昨年の3月は、北條民雄の友人であり、彼によって「いのちの友」と呼ばれた詩人、東條耿一さんの作品を収録した著作集を編集しまして、そしてその当時はお元気でした川島教さんに印刷して頂き、山下道輔さんのところで製本したものをハンセン病図書館に収めました。その時に、たいへんハンセン病図書館にお世話になりましたし、また、関連する多くの資料を読ませて頂きました。私は図書館友の会の会員の一人として、この図書館が閉鎖されることなく、今迄と同じように、これからも一般の人々に利用できるようになることを心から望んでおります。
東條耿一は昭和17年に亡くなっています。松本馨さんは、東條耿一のことを知っていますが、基本的に東條耿一は戦前の時代、松本馨さんは戦後の時代を生きたかたです。二人ともキリスト者ですが、一方はカトリックであり、他方は無教会というようにその宗派的な立脚点は異なっていますが、どちらもそれぞれの於かれた時代的な状況を誤魔化すところなく真正面から引き受けて、文藝の創作やキリスト教の伝道を通じて、自己の成り立つ根源をどこまでも探求しようとしたところは共通していました。
松本さんは1962年から「小さき声」という無教会の個人的な伝道誌を毎月刊行されるようになりますが、最初に書かれたものは、松本さんご自身の回心の記が主体になっていますが、そのほかにご自身の書かれた詩や小説も含まれています。小説は、おそらくドストイェフスキーの作品からヒントを得られたのでしょうが、「死の家の記録」というタイトルで連載されています。その小説は、松本さんが出会われた戦前戦中の療養者の方々がモデルになっており、それに託してなんらかの形で、当時の療養者の生活の記録を後世に伝えたいと考えられたようです。
この連載が終わった後で、松本さんの自治会活動が始まり、その後「小さき声」は、伝道活動と自治会活動の二つが主となり、文藝の創作は影を潜めますが、松本さんは自治会活動を辞められた後で、「零点状況」と言う小説を書かれています。この小説に、「1パーセントの神」という付録があることから分かりますように、松本さんの書かれる文藝作品は、彼のキリスト教伝道活動と不可分の關係がありましたが、それと同じように、彼の自治会での活動もまた、松本さんの内面に於いては、独自の形で実践された無教会のキリスト教の信仰と別々のものではありませんでした。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本馨の信仰と自治会活動 その2

2007-09-11 |  宗教 Religion
一昨年に松本さんが亡くなられた後で、追悼講演会が全生園でありました。 そのとき私は司会を致しましたが、そのとき講演者の大谷藤郎先生から、松本馨さんの伝道誌「小さき聲」を本にして再刊したいものだというお話しがありました。 松本さんご自身も、口述筆記故の誤植を含むこの個人誌を推敲した上で出版したいという願いをもっておられたので、2003年5月から、今日この会場にお見えになっている前田靖晴先生のご協力を得て、校正と推敲の作業が行われました。諸般の事情で、復刻版の出版というわけにはいきませんでしたが、2004年7月に、松本さんご自身によって修正された原本を拡大コピーし全巻を製本したものが数部作成され、一部が全生園のハンセン病図書館に収められました。無教会キリスト教の施設、今井館教友会の図書室にも、初出の「小さき聲」をそのまま複写・製本したものが全巻収められています。また、「小さき聲」の一部はWEB(http://members2.jcom.home.ne.jp/yutaka_tanaka/matumoto/matumoto_index.htm)上でも復刻されていますので、それらを私達は自由に閲覧することが出来ます。
「小さき聲」は、1962年9月17日より1986年の3月1日までの24年間、これが第一期ですが、その間ほぼ毎月刊行され、全部で276号になります。自治会を辞められてから、これは、松本さんご自身が出版を意図されて書かれたと思いますが、第二期の「小さき聲」が、1987年6月15日から1991年の4月15日まで、全部で35号が発行されています。おそらく松本さんが書かれた本の中で最も読まれたものと思いますが、1993年に教文館から出版された「生まれたのは何のために」という本の中に、この第二期の「小さき聲」の一部が収録されています。
それ以外にも松本さんは1971年に、「この病は死に至らず」という本をキリスト教夜間講座出版部から出されています。この本はハンセン病図書館にはありますが、現在では入手しにくい本になっています。この本は、二つの部分から構成されていて、ひとつは第一期の「小さき聲」最初の9年間に書かれたものからの抜粋であり、もう一つは、「多磨」誌に掲載された松本さんの論説が七つ収録されています。その論説は、皆さんに配布された「ハンセン病資料セミナー2007年」という製本された資料にも入っております。つまり1971年当時、松本さんが最初に本を出版されたときに、どうしても一般の方に読んで頂きたい論説として、選んだものです。そのなかに「世界医療センター」、「最後の一人のために」があり、松本馨さんの当時の将来構想の基本になる論文があります。また、「全生園は病んでいる」「組合が強くなるとなぜ患者が泣くのか」のようにセミナー資料には入っていない時局的な論文、「自由を奪うもの」という重要な論文があります。
この「自由」という言葉が、伝道誌「小さき聲」でも多磨誌に書かれた評論でもキーワードになっています。「小さき聲」ではキリスト者の自由とは何かということが繰り返し問われ、また多摩誌に書かれた評論では、隔離された療養所の患者運動の原則はなんであるか、それは自由を求めることであるいう文脈で使われています。つまり自由という言葉が信仰と療養所の患者運動の二つの領域を結びつける役割を果たしています。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本馨の信仰と自治会活動 その3

2007-09-10 |  宗教 Religion
「この病は死に至らず」に含まれている四番目の評論「世界医療センター」は、いうなればリアルタイムで書かれたものです。1971年当時、まだ松本さんは、自治会長ではなく総務部長でした。1966年に自治会が解散された後で、3年間自治会のない状態が続いたので、松本さんは、自治会を再建することが自分の使命であると考えられたようです。そのことは当時の多磨の評論や「小さき聲」を読むとただちに分かります。
今日はキリスト者としての松本さんについて詳しくお話しすることは出来ませんが、キリスト者の自由ということについて、三つのことを申し上げたいと思います。
松本さんは1918年に生まれ、17歳の時、つまり1935年に慈恵医大でハンセン病であるという診断を受けます。そして、その当時の多くの患者さんと同じく、自殺しようと思ったと書かれています。松本さんの少年時代に、兄が自殺をしており、それを目撃した松本さんは大きな衝撃を受けたのですが、後になってから自分と同じ病であったことが分かります。松本さんご自身も荒川の吊り橋から身を投げようとしたのですが、その瞬間に、「一体俺は何のために生まれたんだろうか」という疑問を起こし、どうしてもその答を知りたいと思い自殺を思いとどまったということを書かれています。そして、多磨の療養所に入所された。先ほど云いました「生まれたのは何のために」という本のタイトルは、このときの問いかけから来ているのですが、松本さんは、その問の解答が別に得られたわけではなかったけれども、実はその答えは問の中にあったのだと云うことを最後に書かれています。つまり神様は、そういう問を自分に与えることによって、今まで自分を生かながらえさせて下さったのだというのです。そういう問を問い続けることこそが、17歳の時より80歳になるまでの自分の生涯であったと言っておられます。
入所間もなく、松本さんは療養所の図書館に行って、一人で岩波文庫の文学書・哲学書を数十冊のノートに書き写しながら、勉強を開始します。とくにドストエフスキーの小説に登場する人物に共感し、彼の作品を通じて次第に聖書に対する関心が目覚め、「俺は何のためにうまれたのか」という問いにたいする答えは聖書の他にはないと思うようになります。またキリスト者の原田嘉悦さんから大きな影響を受け、内村鑑三の著作に接します。このころの集中的な勉強が、のちに失明の障害を克服して文書伝道するときに大いに役だったと書かれています。
松本さんは1941年に当時開設された全生常会の役員だった原田嘉悦さんに依頼されて少年舎の寮父となり、学校の先生の代わりを勤めます。そのときの松本さんの教育方針は、子供達に自己を表現する習慣を付けさせるために、毎月、作文と詩を一編づつ作り、短歌や俳句は二首以上作るというものでしたが、このような作文重視の教育の背後には

「苦難のただなかで言葉ももたず、獣のように死んでいくほど悲惨なことはない」

という松本さんの思いがありました。松本さんから教えられた人達に、山下道輔さんや、谺雄二さんがいます。
少年舎の療父を引き受けたのを機会に、松本さんは洗礼を受けて秋津教会の教会員になります。当時の心境を、松本さんはあとになってから回想して、「罪と罰」の登場人物であるソーニャが、教会の門を叩くことをすすめてくれたのだと書いています。律法によれば石で撃ち殺される罪の女であるソーニャの「神」とは、「カラマーゾフの兄弟」の大審問官によって捨てられたイエスにほかならない、松本さんはそのように文学的に直観されたのです。そして、松本さんは、自己が執拗に問い続け、求めていたものは自己のうちにはなく、この捨てられたイエスにあることに心の目がひらかれたのだと書かれています。
ずいぶんと文学的な書き方ですし、教会の門の中に入っても、洗礼や信仰告白などの形式に躓き、そこではまだ決して生きた信仰には触れることができなかったとも書かれていますが、50年後に過去を振り返って、松本さんは、「ソーニャの神は捨てられたイエスに他ならない」というそのときの直観は、決して間違ってはいなかったと云っています。
松本さんは秋津教会で、のちに結婚される田中義子さんと知り合うのですが、義子さんは、目黒慰廃園から転園してきた方でした。当時は、療養所の整理統合が進んでおり、米国からの資金援助が途絶えた目黒慰廢園が解散され、療養者がすべて強制的に全生園に転園させられました。松本さんは原田嘉悦さんの薦めで、義子さんと1945年に結婚されましたが、この結婚生活は長くは続きませんでした。奥様は結核も併発しており、新薬プロミンの副作用もあって、1950年に結核性腹膜炎で亡くなられます。そして松本さんご自身もその後すぐに失明されます。このときに松本さんの経験された大きな試練と苦しみについては、「小さき聲」の自伝的回想、のちに書かれた「生まれたのは何のために」などに詳しく書かれていますが、このような悲惨な境遇に出会われたとき、松本さんはそれを、偶然的な不運によるものとは決して考えず、そこには必然的な理由があること、それは自己の無信仰の罪の結果だったのだと受け止められたようです。松本さんがおののいていたのは「自己を裁く神」であり、そのような神をリアリティを以て受け容れたときに十字架のイエスによる「赦し」が、はじめて分かったと書かれています。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本馨の信仰と自治会活動 その4

2007-09-08 |  宗教 Religion
1950年代といいますと、ハンセン病療養所は、そのありかたをめぐってまさに激動の時代を迎えていました。それは新薬プロミンによって生きる希望を与えられた療養者達が、新憲法で保証された人権の保障をもとめて、国家に対して団結して、らい予防法改正運動を推し進めていった時期に当たります。松本さんは、1970年代以降、自治会と全患協の活動に深くコミットするようになった後では、「患者運動の原点は、らい予防法改正運動であり、これをはずしてしまった単なる処遇改善運動は、もはや患者運動ではない」ということを強調されますが、1952年、53年の予防法改正運動の頃は、ご自身は活動に参加できる状況では有りませんでした。失明と肢体の不自由さという身体的な条件に加えて、心の支えであった妻の死、二重三重の苦しみの中で、自己の魂の救済を第一に考えること、どうしたら自己自身の罪と無信仰、「死に至る病」である絶望から癒されるのか、そういうことのほうが当時の松本さんにとっては根本問題であったのです。
松本さんは1950年に、友人にロマ書3章21―26節を朗読してもらっているときに、「自己を苦しめた審判の神と、祈っても叫んでも遂に答えなかった隠れた愛の神が、十字架の一点で一つになった」という回心経験をします。そしてその後、松本さんが始めたことは、聖書を心に一字一句刻みつけることでした。教会の方々の朗読の助けを借りて、松本さんは四福音書とパウロ書簡、詩編、そしてヨブ記を暗誦されたと書かれています。
そのころ松本さんのために聖書を朗読した友人の一人が野上寛二さんですが、彼を通じて松本さんは関根正雄の「預言と福音」を読むようになり、1952年に全生園に来られた関根正雄の聖書講義を聴きます。そして、関根正雄との出会いが、松本さんにとって第2の転機となります。松本さんがキリスト教信仰に基づいて自治会活動を始めるようになったことは、関根正雄の無教会主義キリスト教の精神に触れたことが大きな機縁となっていたと思います。
松本さんは、第一回目の回心の後では、神を愛することかけては誰にも負けないつもりであったが、他人を愛することがどうしてもできなかったと告白しています。 他人からは、「十字架狂い」といわれるくらい、ただ一筋に信仰を求めていったけれども、自分の身近にいる他者を愛することが、どうしてもできないという事実に非常に苦しまれたのです。そのような自己中心的な信仰、他のものをすべて犠牲にしてひたすらその中に逃避しようとした信仰そのものが全く否定されて、そういう自己自身に絶望したときに初めて、魂に十字架の刻印が捺されるのだ、ということを関根正雄から初めて聞かされます。松本さんは、その説教に深く共鳴します。そして、ただひとりになって、十字架の言葉を受け取りつつ祈っているときに、松本さんは第二回目の回心を経験したと書かれています。
その後、信仰による決断に従って、松本さんは関根正雄に教えられた無教会主義キリスト教の道を歩むようになり、1962年から無教会の個人伝道誌「小さき聲」を発刊されます。この伝道誌を読んでいきますと、最初はご自身の救済、自己の回心経験をつづることが主になっていますが、次第にその内容が変化していきます。その変化は、「私の救い」だけではなく、「私たちの救い」、つまり療養所で自分と共にかつて生きてきた人たちのために、そして現在、療養所の中と外で、「私とともに」生きている人たち、そしてそういうひとたちが将来直面するであろう様々な問題のために書くというように、松本さんの関心が、個人的な信仰を出発点としつつも、療養所の内から外へ、そして日本だけでなく世界全体へと広がっていく、そういう社会性の広がりと同時に深まりを読むものに感じさせます。個人の魂の救済を原点に据えながらも、そこにとどまらずに、個人のもつ掛け替えのない生きる権利を大切にして社会運動をすると言う、教会の壁の中に閉じ籠もらない普遍的なキリスト教信仰のあり方を示しているように思います。
そのことは、とくに自治会活動にコミットされ始めたころから「小さき声」にもうけられた療養通信という記事によく示されています。そこでは、狭い意味でのキリスト教に関することではなく、当時の全生園の自治会や、松本さんが支部長を務められた全患協のなかで、療養者の生きる権利を守るためにどのような運動がなされているか、またそこにはどんな困難な問題がまだ未解決なものとして残されているのか、そのことを療養所の外部にいる人たちにも伝えるという意味を持っていました。いうなれば、それは、松本さんの伝道誌を通じて、松本さん個人だけではなく全生園そのものの社会復帰をめざす活動でもあったわけです。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本馨の信仰と自治会活動 その5

2007-09-07 |  宗教 Religion
関根正雄のいう「無信仰」の徹底的な自覺ということ、自己が信仰であると思っていたものを捨て去ったときに、始めてキリストの信仰が与えられ、「魂に十字架を刻印された」ということ-それが、松本さん自身の如実なる体験として繰り返し語っていることです。
そして、このようなキリスト教の原点が確立された後、松本さんは、自己の問題だけでなく、療友のための活動に邁進するようになります。強制隔離に対する補償要求、生活と医療の改善を求める自治会活動に精魂を傾けるようになります。それは、松本さんにとって、「世俗に於ける福音」の実践でもありました。松本さんは、既成のキリスト教の枠組みを超えて、共産党系の活動家を含む全患協のメンバー達とも連帯して、独自の視点から自治会の再建を呼びかけたのです。
松本さんは何故、自治会再建を呼びかけたのでしょうか。それを示すものとして、
「多磨」誌への寄稿のなかに、「自由を奪うもの(1967年4月)」という評論があります。これは、隔離医療から解放医療へとむかう混乱期のなかで自治会が解散された頃に書かれたものですが、キリスト教的な主題である「自由」の問題を、入所者の生活と直結した政治上の問題としての「自由」に重ねて論じたものといってよいでしょう。
 この論文の冒頭で、松本さんは、バビロンの捕囚から解放されたユダヤ人の心情を吐露した旧約聖書の次の言葉を引用しています。
「あなたがたの神は言われる。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」
松本さんにとって、囚われ人に解放を告げるこの聖句が、そのまま、敗戦直後の日本へのメッセージとなります。米国も又、広島と長崎への原爆投下という大量殺戮を犯した戦争犯罪の責任は決して免れるものではありませんが、米国の日本に果たした歴史的役割は、嘗て、キュロス王がユダヤ民族に果たした役割と類比的であって、結果的には、迫害され抑圧されたものに解放の福音をあたえることととなった、と松本さんは言います。
治らい薬がもたらされ、選挙権と人権を保障する憲法が制定されたことによって、療養所に隔離されたものに自由への希望が生まれた。しかしながら、閉鎖的な隔離医療から、解放医療への転換にともなう混乱状況の中で、療養者の「自由」を妨げているものが厳然としてある。それは何であるのか、というのが松本さんの問です。
 そして、このエッセイには、隔離政策を推進した光田健輔への松本さんの批判が述べられています。医師としての光田の業績と献身を松本さんは決して否定するわけではありません。しかしながら、解放医療の思想に反対して光田の復権を叫ぶ一部の声に対して、松本さんは次のように明言しています。
「彼のあやまちを指摘することは監房で首を縊って死んだものや、監督の下でうらみをのんで世を去っていった先輩に対して、残っている私たちの義務でもある。自由の行き過ぎと、光田の隔離政策を礼讃する反動的な人たちの動きに対して、私たちは警戒し、自由を守らねばならない」
このエッセイの中に、シュワイツアーの名前が出てくるのは、おそらく、当時、光田を「シュワイツアー以上の偉人」として顕彰した内田守のことを念頭においているのでしょう。
 また、閉鎖された嘗ての自治会のあり方に対しても松本さんは手厳しい批判の言葉を述べている。自治会活動が、かならずしも療養者の爲を思って為されたわけではなかったということを率直に認めて、その原因を徹底して明らかにした上で、見せかけの開放感に浸ることなく、療養者の真の自由がどのようにして得られるかを問いつつ、
青空は一時的なもので、台風の目の中なのである。こうした中で、われわれは、自由を奪うものは誰か、自己に問い続け、その答えを求めなければならない。
という言葉でこのエッセイは締めくくられています。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本馨の信仰と自治会活動 その6

2007-09-04 |  宗教 Religion
次に、松本さんの評論「最後の一人のために」を取り上げます。これは、いまから、37年前に書かれたもので、当時の全患協の運動に呼応して、再建されるべき自治会の活動の基本について述べたものです。この論文の冒頭に明記されているように、松本さんは

一、強制隔離政策による損失補償。
二、身体障害者-老令者をも含む-に、拠出年金に替る特別措置を考慮してもらうことと日用品費の増額。
三、作業賃の増額。
四、居住様式の改善。
五、治療棟と病棟の改築

という全患協多磨支部の主張を引用・支援しつつ、独自の論陣を張っています。
ここでとくに注目すべきは、1の強制隔離政策による損失補償の項目でしょう。松本さんは、強制隔離による損失補償に消極的な意見を要約して次のように云っています。

「強制隔離収容によって、私も家族も損失を受けたおぼえは無い、かえって助かったのだ。もし、隔離収容所が無かったならば、家族は私の一生の面倒を見なければならず、それによって受ける家族の犠牲は、金銭で量ることはできない。もし又、私の病気が世間に知れれば私は家を出て、生命の尽きるまで、あてもなく地をさ迷わなければならなかったであろう。強制隔離は、私にとって救いだったのである。」

このような考え方は、国賠法訴訟の裁判が終わった現在では、影を潜めましたが、35年前においては、まだまだ根強い意見であったと思います。それに対して松本さんは次のように反論しています。

もし隔離収容所がなかったらと云う前提のもとに、強制隔離を肯定することは、強制隔離の是非とは無関係である。現実の悲惨を、それよりも更に重い悲惨を過去に想像して、美化することもありうるからである。私が問題にしているのは、半世紀の歴史を持つ隔離収容所で、何が行なわれ何が起つたかと云うことである。

そして、次に、米国のキング牧師の例を挙げ、

黒人指導者キングは兇弾に斃れて既にこの世には居ないが、黒人の抗議デモは今後も継続されるであろう。それの止む時は死か、白人と平等の自由を獲得した時である。キングは私達にもまた、如何にして人間を回復するか、国民と平等の自由を確保するか、を教えている。それは諸要求に対する運動を通してのみ受取らされるのである。損失補償要求が出来るか出来ないかは、その人が人間性を回復しているか、回復していないか位、私にとっては重要なことに思われる。

と云っています。また、戦前から引き続いて行われていた軽症患者による重症患者の介護という制度を、患者自身の「相愛互助」の精神によるものと美化してきた考え方が、如何に実情とかけ離れたものであったか、その背後に患者が労働しなければ生活できない現実があり、患者の労働に頼らなければ運営できなかった療養所の実態があったことを指摘しています。
松本さんは、また、医療センターについての独自の構想についても言及し、

一万人の内の二十分の一、三十分の一、或いは最後の一人のために医療センターは設立しておかねばならない。生活の諸要求の声に消されてしまっている病棟の奥深くに、医療センターの設立を望む人達が居るのである。死と斗っている人達である。この人達のためにも、医療センターは設立させなければならないし、その責任が療養所に関係する総ての人にある。その声は弱く細く、小さければ小さいほど、関係者は謙虚に耳を傾けなければならない。私達もまた謙虚に病友の細き声に聞かなければならない。人の生命は世界よりも重い、それはキリストの教えなのである。

と結んでいます。「小さき声」とは、松本さん御自身の伝道文書のタイトルですが、それがここでは、ご自身だけではなく、病苦に悩む療友の「細き声」に聴こうという意味で使われています。
  それでは、この論文の中で言及されている医療センターについて松本さんはどのような構想を持っていたのでしょうか。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本馨の信仰と自治会活動 その7

2007-09-02 |  宗教 Religion
「世界医療センター-療養所の終末」という松本さんの「将来構想」を示す基本的な論文は、1967年12月に発表されたものですが、そのときの松本さんの肩書きは、「本園入園者」です。これは自治会が再建される前に発表されたもので、療養所が終末期を迎えて、医師不在の場所になりつつある現実を踏まえて書かれたものですが、その議論を要約すると次のようになるでしょう。

1 療養所が「終末」に近づいたからと言って、療養所の統廃合はすべきでないこと。不自由舎にいる長期療養者の心情を考慮しなければならない。
2 「医師不在の療養所」という将来的に差し迫った危機に対処するために、また、統廃合に替わる対策として、全生園を医療センターとして整備することを提案する。
3 その医療センターは、沖縄をも含めた国立療養所と私立病院とを傘下におさめた医療センターでなければならない。場所は、全生園の敷地の約半分をそれにあてる。
4 その医療センターは、総合医療センターであり、療養者の生活の場からは切り離す。
5 その医療センターは、将来的には、「世界医療センター」として、アジア・アフリカの救癩センターとしての機能を持たせるようにする。

当時(1967年6月)の全患協ニュースをみますと、第14回定期支部長会議(多磨支部は欠席)の運動方針の最初に「療養する権利を守り医療を充実させる運動」があげられ、その第二項に「二 十一施設毎に高度な医療専門的治療を充実させる。なおその他に最高度の専門医療が受けられる治療センターを設ける。医療の充実。機能療法士。職能療法士。義肢技工士の定員化」という文言がある。また自治会閉鎖のため欠席した多磨支部へのメッセージがあります。
このころ入所者の平均年齢は当時50歳です。これはほぼ当時の松本さんの年齢ですが、療養所の医師の平均年齢はそれよりも数歳上であり、あらたに療養所に緒勤務を希望する医師がきわめて少なかったので、そのまま放置すれば療養所は医師のいない療養所になってしまうと言う危機感が背景にあります。さらに療養所では高度の医療は受けられず、療養所の外部の病院を利用することが、らい予防法のもとでは困難であった時代において、療養者の医療を充実させることが焦眉の課題であったわけです。
また、全患協ニュース(1967年1月―1967年6月)に連載された、「療養生活研究委員会」の答申書「将来の療養所像について」の四項に

「ハンセン氏病の治療が、今後解放医療に向かうとしても、治療の主力機関は既存の療養所に置くべきである。したがって、欠陥に満ちた既存療養所の施設、スタッフ、システム(体系)の確立が先決である。なお、その他に最高度の専門医療(基本治療、一般治療、整形、形成外科的治療)が受けられる治療センター(病院形態)を設けて、外来および入院治療を行いうるようにすることが望ましい。」

これはいうなれば40年前の全患協の将来構想といってもよいでしょう。
松本さんが多磨誌に1967年12月に書かれた「世界医療センター」という論文と同時期の全患協の「将来構想」とを具体的に比較してみますとつぎのような顕著な違いがあります。
まず、「療養生活研究会」の答申では、資料の主力機関は既存の療養所に置くべきであるとなっていますが、松本さんの提案は、医師不足が深刻化していた当時において、事実上日本全体の医療センターの役割を云わされていた全生園に、入園者の生活の場からは独立した大きな医療センターを設置するというものでした。そして将来的には、そこを日本のみならず世界のハンセン病者のための医療センターとして整備するという提案を含んでいます。日本ではハンセン病の療養所は週末を迎えているけれども、その経験を生かして世界の病者のために貢献できる施設を設置するということ、そういう意味で、目を日本だけに向けるのではなく地球的な規模で考えているところが、松本さんの論文の独自性です。  
そこには、日本でハンセン病医療を志す医師を確保するという目的もありました。があり、若い医師にとってハンセン病医療の重要性を訴えるという意味があります。
松本さんは自治会が再建されますと、1967年の世界医療センターの設置を提案した論文で述べたご自身のアイデアを実現するための具体的な行動に出られます。それは、「小さき声」第二期 22号のなかで、松本さんご自身が次のように当時を回想していますので、それを紹介しましょう。

自治会発足間もなく、会長の平田(平沢)と私は、厚生省陳情を行なったが、多摩支部が単独で陳情を行なったのは、創立以来初めての事であった。ライ予防法闘争以後、厚生省陳情の道は開かれ、各支部は単独陳情を行なっていたが、多摩支部は全患協本部所在地として全体の事を考え、単独陳情はしなかった。
陳情の目的は、11万坪の敷地の一部を売って多摩研究所を合併し、ライセンターとして全生園の全面的整備をしてもらうことであった。現実に、多摩全生園は医療センターとしての機能を果たしてきた。
プロミンが科学治療薬として採用されたのは1949年で、20年経過していた。沖縄を除く本土では新発生患者はゼロになろうとしていた。それに合わせるかの様に、各施設共医師の欠員が目立っていった。特に、ライの専門医が不足し、基本治療科の充実した全生園に全国の新発生患者が送られてきた。また、各園共児童の新発生患者がなくなり小中学校を閉鎖していったが残りの小中学生もまた、全生園に集められた。それでも10人に達しなかった。急速に、療養所は終焉に向かっていたのである。
この他に、僻地の施設では治療できない者もまた、全生園に一時転院し治療を受けた。社会復帰者もまた全生園を利用し常時30人前後が病棟に居た。外来患者の利用者も年間1000人を超えていた。これに対して、センターとして正式に認められていなかったが為に、厚生省は必要な予算処置をとらず、全生園の患者と職員の犠牲によって運営し、両方から不満が出ていた。
平田と私は厚生省ロビーで野津療養所課長外4名と会った。陳情書は私が作成し、前もって課長の元へ届けておいたので、平田と私が陳情書に基づいて交互に説明したが、第一回は課長にしてやられた、という思いを強くした。
「終息に向かっている療養所にセンターが必要であろうか?」
と軽くあしらわれてしまったのである。
終息に向かっているが故にセンターは必要なのである。
現状のまま放置しておけば患者が居なくなる前に医師看護婦が居なくなってしまうだろう。既にその兆候が表われ、危機的状況に追い込まれていたのである。第一回の陳情は、厚生省優勢の中に何の成果も得ずに終った。帰りの車の中で平田は、「これからだ」と言った。「初めての経験で僕も固くなってたけれども、課長も固くなっていた様な気がする……」「僕達が恐がったのだよ。今頃はロビーの消毒で大騒ぎしているだろう。」平田と私は笑った。日頃近寄り難い恐い存在である役人の消毒姿が滑稽に思えたのだった。

ここでは、「終息に向かっている療養所にセンターが必要であろうか?」という当時の厚生省の官僚の言葉と、「終息に向かっているが故にセンターは必要なのである」という松本さんの考え方の対比が実に明瞭に出ています。当時の入所者の平均年齢は50歳で、これは松本さんの年齢でもありました。これに対して療養所の医師の平均年齢はそれよりも数歳上であり、療養所に勤務を希望する若い医師が以内という現実をどうするか、この問題をふまえて、世界医療センターという論文が書かれたわけですが、そこには、多磨療養所の土地の一部を売却してその資金を得るという具体的な提言も含まれていたわけです。
この「世界医療センター」というアイデアは、のちに成田先生によって、ライセンター構想として取り上げられ、松本さんもそれに賛成されて、その実現のために努力されましたが、様々な反対にあって結局の所は実現しませんでした。その間の事情については、松本さんの書かれた「生まれたのは何のために」に松本さんの立場から要約されています。現実には、全生園には東部地区の医療センターの役割を果たす病棟が新設されたわけですが、松本さんは、それが将来的には世界医療センターとなるべきものだという希望は持ち続けられたようです。たとえば、1979年の全患協ニュースの「将来の療養所の在り方について」特集号に、松本さんは、「世界医療センター」と題してつぎのような投稿をしています。

多磨全生園を利用した外来客は1971年が990人であるが、72年は11月現在ですでに1000人を超えている。入院者は病棟整備のため制限したが71年よりも増えている。 このことは斜陽化の一途をたどっている療養所の医療の枯渇化と、多磨全生園のセンター的性格が年毎に深められていることを意味する。
 一九支部長会議は、東部五園の医療センターとして多磨全生園を指定したが、私の希望は未開発国に集中している幾百万という病友に、医療の手をさしのべるセンターとして設立されることである。多磨の敷地内には世界で唯一のハ氏病研究所と高等看護学院がある。 周辺には国立療養所や大学があり、医療提携と進んだ技術を導入することができる。
 国内の医療センターとして整備されても、若い医師の魅力とはならない。海外の医療派遣、国際的知名人の医学者や留学生を招くことによって、眠り勝ちなハ氏病医学界の目をさますと共に、若い医師や看護婦に希望を与えることになるだろう。
 この考えの背景には日本の救らい事業が外国宣教師によって行われたこと、それに報いて欲しいという願望がある。世界の同病者が癒されるまで私達は共に苦しみ、医療センター運動を続けなければならない。

現実に実現した医療センターは、松本さんが本来考えておられたものとはほど遠いものであったとはいえ、松本さんのアイデア自身は、あとで講演されます國本さんの「国際ハンセン病センター」へと引き継がれていきましたので、それについては次の講演でお話があると思います。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本馨の信仰と自治会活動 その8

2007-09-01 |  宗教 Religion
当時の松本さんのお考えをもっともよく表している文章として、「小さき声」(1976年9月)を引用しておきたいと思います。それは、松本さんがご自身の自治会活動の目的をはっきりと語っている文章です。

私(松本馨)は自治活動をする上で、いくつかの目標を立てて来ました。唯、漫然と自治活動をするには、犠牲があまりにも大きく、それを払うだけの意義なり、目的がなければなりません。その目標は、一つは斜陽の道を辿っているハンセン病療養所の医療を守るためのセンターを作ることです。このセンターは、日本に於けるハンセン病患者の医療の最後をみることになるでしょう。二つには、ハンセン病患者の文献を収集し後世に残しておくことです。私が自治活動を決意したのは、自治会を閉鎖した時で、1966年のことです。自治会閉鎖の原因は種々ありますが、そのひとつは不良職員追放という不幸な事件が大きな要因となっていました。決意したときから10年になり、自治会を再建してから7年になります。そして私の願ったセンターの基礎となるべき治療棟の落成式が、8月10日に厚生省療養所課長、地方医務局次長、近接の国立療養所所長等を迎えて行われました。私はその席上で、センターはハンセン病医療の最後を見る責任を負っていること、センターの内容作りには多磨研究所と全生園、基礎医学と臨床医学が協力しなければならないこと、そのために両者が統合をも含めた協力を真剣に考えるよう訴えました。ハンセン病文庫の図書館は、9月に着工し、12月には完成することになっています。7年目にして私の願ったことは実現することになりました。それゆえに何時でも自治会を辞めたいと思っていますが、昨年頃より私の使命は、センターとハンセン病図書館だけでは終わっていないことに気がつきました。癩予防法というハンセン病患者の社会復帰を妨害している問題があることに気づいたからです。
私達は全国ハンセン病患者協議会という組織をもっていますが、この協議会は、強制隔離収容によって奪われた人権を回復するための組織です。その根源にあるものが癩予防法であり、そこに規定されている内容は、患者の人間としての権利をことごとく奪っております。その骨子は、患者を終身隔離すること、健康保険の利用を禁止していること、精神病患者とおなじように、ワゼクトミーを規定していること等です。患者運動は、この法律によって奪われているもの、つまり強制隔離収容所の解放、所長の懲戒検束権および監房の廃止、強制労働からの解放、日用品費の確立、収容所の病院化等、全患協が獲得してきた成果は数え切れないほどですが、最後に突き当たるものは、癩予防法でした。癩予防法は、昔も今も変わることなく、患者の諸権利を認めていません。その権利とは、社会人として復帰するための条件を言います。
私は自治活動をするのに二つの目標、日用品費の確立をいれると三つになりますが、今日まで活動を続けてきた訳ですが、これだけでは目標に達しないことに気が付きました。目標に達しないとは、私の考えの根柢にあるものは、ハンセン病の終末であり、その終末的立場から目標を掲げ、運動をしてきたわけですが、その終末的目標とは癩予防法を廃案にする事です。このことが実現しない限り、ハンセン病患者に対する偏見と差別は日本から無くなることはないでしょう。
患者運動の目標が癩予防法の改正にあるとは既に書きましたが、このことが実現しない限り、患者運動の終わるときがないでしょう。たとえ患者がいなくなっても、癩予防法が存在する限り、運動を継続しなければなりません。癩予防法は患者の人権を侵害し、抑圧しているからです。
会員のなかには、現在解放政策がとられ、外出は自由であり、日用品費は確立し、医療面でも或る程度向上し、あまり大きな不満はない。患者の平均年齢は57歳であり、先が見えた今日、現状の変更を望む必要はない、と考えているものが多くいます。つまり癩予防法を存続させるほうが現状を守るためには有利だと判断しているのです。癩は不治の病として、世が忌み嫌っても、現実には癩から解放されており療養するには何等障害となっておらず、苦しみもありません。それ故に今更改正をする必要は無いというのです、名をすてて実をとる、ということなのです。或いは既成事実をつくることによって、らい予防法を死文化していくのだ、とも言っています。
私は、このような考え方には真っ向から反対します。それは自ら人間であることを放棄し、奴隷の地位に甘んじることだからです。高い処遇を受けられ、外出の自由が保障されるならば、癩予防法が存続しても構わない、ということは、私には自ら人間を放棄する事に思われます。癩予防法の廃止によって、私達が貧しく苦しい生活が待っているにしても、それによって死が来るとしても私はらい予防法の廃止を強く望みます。それが今日の癩からの解放でありましょう。しかし、こうした私の考えに賛成するものは、ごく少数であります。このような考えは信仰がないと理解に苦しむからです。
「キリストは自由を得さしめる為に我等を解放したまえり。さらば固く立ちて再び奴隷のくびきに繋がれるな」
とパウロはガラテヤ書のなかで書いています。癩予防法は私達を縛る奴隷のくびきであります。それからの解放が癩からの解放でありましょう。現在日本には9千人の患者が施設にいますが、この人達は癩によって拘束されているのではなく、なぜなら、その80%は菌陰性者であり患者ではないからです。この人達を拘束しているもの、隔離しているもの、自由を奪っているもの、それが癩予防法だからです。

長い引用ですが、松本さんご自身に語って頂きました。ここではっきりと言われているように、松本さんにとって患者運動の原点はらい予防法の廃止です。ご承知のように1976年の時点では、全患協のなかではこれは少数意見でした。らい予防法を存続させたうえで療養所の処遇の改善を図るということが患者運動の実態であったわけですが、松本さんはあくまでも運動の原点が予防法の廃止にあったことを強調されています。私たちは予防法が廃止され、国賠法訴訟の判決が出た後で、療養所の将来構想を現在問題にしているわけですが、松本さんの場合は、その順序がまったく逆であったと言うこともいえます。
つまり、強制隔離による損失補償として、当時の劣悪な医療環境、生活環境を改善するための運動が最初になされました。松本さんは、損失補償を要求することの正当性を明確に主張された。つぎに療養所の将来、とくに医療危機に備えて医療センターを作り、それと同時に、日本だけでなく世界のハンセン病者のために我々は何をすべきかを考えて、世界医療センターというアイデアをしめされた。そして、療養所の将来構想を示された後で、もろもろの問題の根源にあるらい予防法を廃止すべきであるという主張を、最後になされたのです。
ところで、「将来構想」という言葉自体は、松本さんご自身は使われていないということに注意する必要があります。とくに「構想」という言葉には、何か、官僚的な響きがありますので。厚生省とか所長連盟とか、そういうところからは「構想」という言葉がお役所言葉として出てくるのは当然と思いますが、終末に直面している療養者自身から「構想」という言葉が自然に出てくるとは思われません。むしろ、療養所を管理する立場、あるいは療養所ではたらく職員の立場から、「将来構想」なるものが先行的に提示され、それに対して療養者自身が自分たちの問題としてどのようなかたちで応答するかという文脈で、後を追いかける形で論議されることが多いように思います。
これに対して、松本さんの場合は、来たるべき療養所の終末に備えて、自分たちは何をなすべきか、という視点から常に語ります。松本さんが、療養所の将来について語ることは、療養所の過去について語ることと切り離されていません。過去の療養所の人権を奪われた世代に対して自分たちはどんな責任を負っているか、それをきちんとふまえた上で、将来の世代に対して、自分たちは何を残すことができるか、と言う文脈で、来るべき療養所の終末にそなえて「共同の闘いをおこなう」(「小さき聲」創刊の辞)ことが松本さんの基本的な考え方なのです。したがって、松本さんは、自治会長をつとめられたときに書いた評論「創立七十周年に寄せて」のなかで、ハンセン病図書館を残すこと、患者自身の立場から全生園の歴史を書き残すこと、東村山の市民のために全生園を緑の森として残すこと、提案され、それを実行されたわけです。松本さんの「将来構想」としての「世界医療センター」も、療養所の終末に直面して、自分たちのことだけではなく、将来の世代に向けて自分たちは何を遺すことができるか、という視点のあることに留意して読むべきであると私は思いました。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西田幾多郎を読む 1

2007-07-12 |  宗教 Religion

「場所的論理と宗教的世界観」(全集11巻376-377) で西田は次の如く云う。

絶對矛盾的自己同一として、眞にそれ自身によって有り、それ自身によって動く世界は、何處までも自己否定的に、自己表現的に、同時存在的に、空間的なると共に、否定の否定として自己肯定的に、限定せられたものから限定するものへと、暇なく動的に時間的である。 

時が空間を否定すると共に空間が時を否定し、時と空間との矛盾的自己同一的に、作られたものから作るものへと、無基底的に、何處までも自己自身を形成し行く、創造的世界である。此の如き世界を、私は絶對現在の自己限定の世界と云ふ。

 かゝる世界に於てのみ、我々は眞に自己自身によって動くもの、自覺的なるものを考へ得るのである。 かゝる世界に於て、物と物とが相對立し、相互否定即肯定的に相働くと云ふことは、主語的に考へられる所謂物と物との對立的關係ではなくして、世界と世界との對立的關係でなければならない。働くものは、何れも自己自身が一つの世界として、他の一つの世界に對するのである。

私がいつも個が個に對すると云ふのは、之に他ならない。我々の自己が意識的に働くと云ふのは、我々の自己が世界の一表現點として、世界を自己に表現することによって世界を形成することである。

第1段落 では「絶對矛盾的自己同一として、眞にそれ自身によって有り、それ自身によって動く世界」に言及があった。これは端的に言えば、「創造的世界」であるが、「それ自身」とは「世界自身」という意味ではない。もしそうであるならば、世界は単なる自己同一として、スピノザの云う意味での「能産的自然=汎神論の神」のごときものとなるであろう 。しかるに矛盾的自己同一としての世界は実体的な自己同一をもたぬのである。自然およびその中に生きる人間は、ともに「作られて作るもの」であり、自己自身の内に自己同一を有つものではない。それは自己自身のうちにではなく「絶対の他」において自己同一を有つものである。

西田哲学にとっての究極的な超越は、「存在」としての神ではなく「絶対無」としての神である。「絶対無」とは、有限なる世界を超越する無の場所、世界の中にある一切の存在が、そこにおいて無限の超越に晒される場所である。

絶対無とは、實在の実在的自覺の生起する場所であり、我々が我々自身よりも近き根源的リアリティを自覚する場所である。

西田の云う「絶対の他」とは誰のことか。それは無の場所において捉えられた他者であり、この他者に媒介されて我々は他ならぬ自己を自覚するのである。

「絶対の他」とは、決して単なる超越的存在ではなく、我々自身よりも我々に近き「汝」であり、我々の最も身近なる他者経験を通して、すなわち決して私自身の内に回収されぬ他者経験を通して、直下に捉えられるものでなければならない。

西田哲学が問題としているのは超越的「存在」としての神ではなく、絶対無の自己限定、すなわち絶対無に由来する個物の自己限定である。すなわち個物とはそれ自身が矛盾的自己同一であり、個物と個物の相互限定のただなかにおいてこそ、我々は一つの世界として他なる世界と相対するのである。世界の中に神は存在しない。

矛盾的自己同一とは神無き世界において、かかる世界を通して神を表現することに他ならない。そのとき個は真の意味において「創造的世界の創造的要素」として働き、そこにおいて生死するのである。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「場所的論理と宗教的世界観」を読む

2007-06-09 |  宗教 Religion

371_2: 宗教は心霊上の事實である。哲學者が自己の體系の上から宗
教を捏造すべきではない。哲學者はこの心霊上の事實を説明せなけれ
ばならない。それには、先づ自己に、或程度にまで宗教心と云ふもの
を理解してゐなければならない。眞の體驗は宗教家の事である。併し
芸術家ならざる人も、少くも芸術と云ふものを理解し得る如くに、人
は宗教と云ふものを理解し得るであらう。

私は上の言葉を、誰か特定の哲学者ーたとえば田辺元ーへの批判として述べたと云うよりは、西田自身をふくめた哲学者の自戒の言葉として受け取っている。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造するのではなく、哲学に先立ってある心霊上の事実を説明することーこれが西田の宗教論の第一の特質である。場所の論理と言っても、そういう論理が概念的に先行させて、それに経験の事実をあてはめているわけではない。もちろん、西田にもそういう傾向は免れなかったであろうし、まして西田の影響を受けて彼の言語をそのまま譲り受けて議論を展開する注釈家にとってはそういう傾向はなかなか免れがたいものであったろう。また、371_1および371_3では西田が、倫理も藝術も宗教も、選ばれた人間だけのものではなくて、潜在的には万人のものであることを指摘していることにも注意したい。良心をもたぬ人間がいないのと同じく宗教心を持たぬ人間はいないのである。宗教心と言う言葉を西田は良心と対にして「つかっている。西田は自分を「宗教を説く資格のあるもの」とは位置づけていない。彼は哲学者であって宗教家ではない。しかし、哲学者は、宗教の説教はしないが、宗教という「心霊上の事実」を説明することはできる。その説明が適切なものであるかどうかは、読者が各自の宗教心の深浅に応じて判定するであろう。

372_2: 宗教と云ふものを論ずる前に、我々は先づ宗教とは如何なる
ものかを明にせなければならない。宗教とは如何なるものなるかを明
にするには、先づ宗教心とは、如何なるものなるかを明にせなければ
ならない。神なくして、宗教と云ふものはない。神が宗教の根本概念
である。

神が宗教の根本である、と西田は云う。「善の研究」以来、西田は宗教論では絶対者を「神」と呼ぶのが原則である。西田自身の宗教的な背景は、臨済禅と浄土真宗であったは、仏ではなく神を以て宗教の根本概念とするところが、西田の宗教哲学の特徴である。この点は、いわゆる京都学派に属する西谷啓治、阿部正雄らの「禅的な」宗教哲学、無神論的な宗教哲学とは異なる点である。ここでいう「神」は、西欧キリスト教でいう「神」に限定されず、たとえば浄土真宗の「阿弥陀仏」のように、人格性をもった仏をも含む広義の「神」であると理解するのが適当であると思われる。

373_4: それでは宗教的意識、宗教心とは、如何なるものであるか。
此の問題は主観的に又客観的に深く究明すべきであらう。併し私は今
かゝる研究に入らうとするのではない。唯、私は對象論理の立場に於
ては、宗教的事實を論ずることはできないのみならず、宗教的問題す
らも出て来ないと考へるのである。

この論文では、宗教的意識、宗教心の問題は主題的には論じられず、ただ、宗教的事実を論じるには対象論理の立場ではなく、それをよりも深くかつ普遍的なる場所的論理の立場が必要であることが指摘される。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コスモスと実存 ー自然の概念

2007-04-06 |  宗教 Religion

自然の概念

 「自然」という言葉は、哲学・科学・宗教・文藝の諸領域に於いて、様々な意味で使用されてきた。それは決して一義的な語ではない。そこで、多義的なものを統一性を全く欠いた偶然的な多義性として放置するのではなく、ある基底的・焦点的な意味を定め、そこから、様々なる「自然」の意味を系統的に整序したうえで、それらを批判的に考察することを試みたい。

まず、さまざまな自然概念に共通して「ものの自体的なあり方」が合意されることに注意したい。列子の張湛の注に「自然とは、外より資らざるなり」とあるが、そこでは「自然とは他の力を借りないで、自ずからそうなること、もしくはそうであること」が含意されている。この意味での「自然」は、ギリシャ語の physis の用法に近い所がある。アリストテレスは「自己自身の内に運動の原因をもつもの」として physis を定義したが、そういう意味での自然概念には、運動ないし変化の原因を、外に求めずに内在化する考え方が現れている。

しかしながら、こういう哲学的議論は、我々の具体的なる経験の現場を離れて次第に抽象化され、やがては、我々自身の経験の現場を離れて、自然が対象化され、実体化されていく傾向性があることに注意しなければならない。そのように対象化された議論の枠組みにおいて、両立しがたい様々な体系――形而上学的なるものと反形而上学的なる物の双方がある――が構築されるからである。

たとえば、荘子の注釈者として著名な郭象の「無因自然」論をとってみよう。そこでは、「万物には主宰者は存在せず、個々の事物は、それぞれに存在根拠をもち、他者の介入を許さない」という意味での「自然」が強調される。これは、単に、万物の主宰者の存在を否定するという意味での無神論であるだけでなく、そもそも事物には原因なるものは存在しないと言う意味で包果を撥無する議論でもあった。これは形而上学を拒否する自然主義の一事例である。

それとは対照的に、単なる個物の感覚的認識ではなく、ものの原理と原因の認識を持って学的認識の特徴とするアリストテレスにおいては、いわゆる四原因論こそが自然学の基本となる。因果性を撥無するところには科学は生まれない。そして、自然界の全体的な認識のためには、第一の原因・原理の探求こそが要求されるのであって、かかる原因の探求は、究極するところでは、形而上学において完結する。それゆえにアリストテレスの伝統を継承する自然学は、最終的には、自己自身を越える根拠としての第一哲学=神学(テオロギケー)を必要とするのである。こちらのほうは形而上学に対して開かれた自然主義の事例である。

哲学的な思索においては、事物の原因の探求、あるいは事物の本来的なありかた、生成消滅の根拠と言う文脈において「自然」が語られるが、宗教においては、それと同時に、我々の救済の根拠を求めるという文脈で、「自然」という言葉が語られる。

仏教に於いては、「自然」という語は、良い意味でも悪い意味でも使われると言う点で両義的な用語である。救済の究極的な根拠を表現する場合にも使われるが、救済が実現されるためには否定されるべきものとして語られる場合もある。 中国仏教に於いては、無因自然のごとき考え方は、仏教の基本にある縁起説、因果の理法とは相容れぬものと扱われた。道教のいわゆる「無為自然」は「自然外道」と等置され、だから、仏教的な「空」の立場との混同を戒める議論も行われた。他方に於いて、親鸞の晩年の言葉を筆録した『末燈抄』では、「自然法爾」が、絶対他力の信心の究極を表す言葉として使用されている。

 <o:p></o:p>

「自然といふは、自はおのづからと言ふ、行者のはからひにあらず、しからしむといふ言葉なり。然といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。…すべて、人のはじめてはからざるなり。このゆゑに、他力には義なきを義とす、としるべきなり」

 <o:p></o:p>

『歎異抄』にも「わがはからはざるを自然とまうすなり。これすなはち他力にまします」ということばがあり、ここでは、自然は、人為のはからいを捨てて絶対他力に帰依信心のありかたを指しているのである。

キリスト教の場合、カトリックとプロテスタントの神学の相違点の一つは、啓示神学にたいする自然神学の位置づけである。バルトに於いて典型的に見られるように、聖書原理を重視するプロテスタントの神学は、基本的な傾向として、自然神学というものの価値を認めない。聖書の啓示こそが神学の与件であり、その与件に基づいて神学体系を組織する啓示神学のみが、本来の意味での神学である.その他に神学なるものはない。あるとすれば、それは神学の装いのもとに展開された世俗の哲学に過ぎない。

これに対し、カトリシズムの伝統に於いては、基本的に、自然神学の価値を承認する。それは、さしあたっては特定の経典に立脚せずに、異教徒にもキリスト者にも共通するもの、いわば両者が共に認める自然なる与件としての世界から議論を組み立てる。それは、古くはプラトンやアリストテレスのこころみた哲学的な神学(テオロギケー)の系譜を引くものであって、キリスト者と非キリスト者とが、ともに共通の場において議論可能な地平をもつ神学である。

すなわち、自然を重視し、そこから神学的な思索を行うことは、自己と異なる伝統に由来する他宗教との対話のために必要なことがらであり、自己の宗教のもつ特殊性、独自性を超える普遍性を獲得するために、必要な営みなのである。

自然の概念は、このように、仏教に於いてもキリスト教に於いても両義的である。このような両義性の由来を追尋することは、キリスト教的な創造論や救済論の文脈で自然を語る場合に於いても、あるいは大乗仏教に於ける仏性論との関係で自然を語る場合においても避けて通ることのできぬものであろう。さらに、如何なる宗教的な価値にたいしても中立的な自然科学的な意味での「自然」概念があり、これは宗教的な自然概念と如何に関係するかと言うことも、考察されるべき問題である。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コスモスと実存 ー自然の概念(2)

2007-04-02 |  宗教 Religion

「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」

というトマス・アクィナスの言葉がある。

歴史的に見れば、この言葉は、キリスト教が自然を学問的に研究するアリストテレスの哲学を受容したあとで、信仰と理性という相反する二つの立場を、信仰の側から統合する立場を表明したものである。これは、カトリシズムに於ける啓示神学と自然神学との根本的な関係を表明したものとして良く引用される。この言葉は、単に西欧のキリスト教の歴史のある段階に於いて発せられた特殊な命題であるにすぎないものではない。およそ、恩寵という言葉が宗教的な救済の出来事を表すものであり、自然という語が、我々の本性に由来する物を表すとするならば、この言葉は、宗教の成立する根幹にかかわる問題を指示している。いいかえれば、それは現在に於いても、我々に対して、思索を促すだけの普遍性をもっているのである。

この言葉は、トマスの言う意味での「普遍の信仰」の立場を述べたものであるから、それを単に、中世西欧のキリスト教的思惟という歴史的な文脈で理解するだけではなく、時代と思想の風土も異なる現代の日本において、我々の思索を促すものとして採り上げよう。

すなわち、我々は、あらためて、次のように問うのである。

「恩寵は自然を破棄せずに、却って完成させる」という、そのことは、如何にして可能となるのであろうか。

さしあたっては、我々が事物を経験するときの、そのものの「自然なありかた」、および経験する主体である我々の「自己のありかた」の様態を形容するものとして、すなわち「ものはどのように生成するのか」、「私はどのように生きているのか」を言い表す語としての「自然」に焦点を定めたい。そういう考察に於いては、経験する主体を捨象したうえで対象化された事物の総体としての自然ではなく、対象と経験する主体との間の不可分なる具体的な関係性そのものが問題となろう。

このような「生成の〈如何に〉」を表現する「自然」は、「しぜん」というよりも「じねん」と言う、より古い読み仮名で表現する方が適切であるかもしれない。今日、「自然(しぜん)」は、主体抜きの純然たる客体、ないし客体の総体としての世界、即ち近代以後の自然科学の対象世界を指す意味で使われることが多くなったからである。しかし、自然科学が扱う自然の概念を如何に位置づけるかと言うことも我々の議論の射程に入る。現代に於いては、自然科学で言う意味での自然概念が如何にして生まれるかという問題を追尋することなくして、自然一般を論じるだけでは不充分である。自然科学で対象化された自然も又「生成の〈如何に〉」を表示する基底的な自然概念から派生するものとして議論することが出来るものでなければならない。

「生成の〈如何に〉」を表す意味での自然を第一義とする場合、それは、神と世界という二元的な対立図式の片方のみ、すなわち神から区別された世界のあり方のみを指すと固定して考えるべきではない。「自然(じねん)」を専ら神と区別された世界に限定することは、ひとつの先入主である。それは、神と世界をそれぞれ別個の「もの」として実体化した後で、時間的生成という働きを世界の側に帰し、神を自然的世界から峻別された非時間的なる存在として捉える考えを既に前提してしまっているからである。しかるに「生成する神」の概念は受肉と歴史が本質的な意味を持つキリスト教にとって必要不可欠である。

ここで、現代に於ける自然神学の一つの試みとして、神学に於ける「自然」概念の根柢は、「世界の自然」にではなく、「神の自然」にあるという考え方を提唱したい。

この提唱は、直接的には、先程提示した「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成する」というトマスの言葉の可能根拠を指し示すものである。すなわち、恩寵とは「神の自然」に他ならず、普通言われる意味での「世界の自然」を完成するという意味である。

もちろん、こういったからといって、トマスの命題の意味するところ、その意味の全幅的な射程を覆い尽くしたなどと主張するつもりはない。そうではなくで、トマスの命題を受容し、そこから、形而上的なるもの(神的なるもの)へと開かれた自然主義の、新しい形態を出きる限り明晰に述べること、そのために必要な概念を提示するひとつの試みなのである。

そういう概念の適合性ないし有効性を判定する基準は、あくまでも我々自身の直接経験の現場以外にはない。各自が、自己自身の宗教的経験が、はたして有効に解釈され照明されるか、それを判定していただかなければならない。

「神の自然」は、「自然」というそのありかたにおいて「世界の自然」と通底している。そのゆえに、かかる「世界の自然」のありかたを深く捉えることが、「神の自然」を捉えることに繋がり、かかる「神の自然」を捉えることによって、始めて「世界の自然」の捉え方が完成する――これが、「神の自然」という概念の意味するところである。

もし、このような言い方が許されるとするならば、「恩寵」とは、まさに、かかる「神の自然」の働きに他ならず、この「神の自然」の働きこそが、「世界の自然を破棄せずに、これを完成させる」ことの可能なる所以を与えるのではないか。

しかしながら、この間題はさらに突き詰めて考察する必要があろう。神と世界の「自然」について論ずることは、両者の区別と関係性を如何に語るかという問題の考察を要求するからである。

世界の「自然」が、単に「自己自身のうちに生成の根拠を持つ」ことにつきるのであるならば、「恩寵」はそのような自己を否定するという意味を持つはずである。仏教徒の表現を借りるならば、「自力作善」の立場が根柢から否定されると言うことが、「恩寵」には本来含まれる。神の「自然」には、世界の「自然」の自己充足性を突破するものが含まれているのでなければならない。したがって、我々は、神と世界との区別と関係性を、如実に述べるために必要にして適切なる範疇とは何であるか、それを省察することを求められるのである。我々にとっては「世界の自然」の方が先立つものであるが、事柄自体としては、「神の自然」こそが「世界の自然」に先行し、それを可能ならしめるものである。しかし、そのことは、我々にいかに如実に経験されるのか、それが経験される場というのはいかなるものであるのかが指示されなければならない。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コスモスと実存 自然と歴史

2007-04-01 |  宗教 Religion

自然と歴史

 我々は、前節に於いて、自然を客体として対象化する以前に、第一義的には「生成の〈如何に〉」を表現するものとして論じた。客体としての「存在」が何であるかは、この「生成の〈如何に〉」によって、そこから論じられねばならない。前節において、「神の自然」と「世界の自然」について語ったが、その場合、神の「存在」と世界の「存在」を実体的に区別して、両者の関係を述べるという文脈で、自然について語ったのではない。実体―属性という範疇は、ここで問題にしている自然が、第一義的に語られる場ではないからである。

西谷啓治は、「自然」について語られる場は、実体という範疇では捉えられぬことを次のように指摘する。 (H・ヴァルデンフェルス『絶対無』180頁、西谷啓治『宗教とは何か』141頁以下参照)

 「有の枠」がない「自然」では、aはa自体であり、bはb自体でありながら(a=a、b=bでありながら)同時にaとbとが相入している。いはゆる「自他不二」である。固定してゐなくて、a・bの間が「融通無碍」である。(a=b、むしろa←→bである)。aのうちにもbのうちにも「有の枠」はない。仏教的に言えば、aもbも「無自性」であり「無自性空」である。aがa自身であり、bがb自身であることと、abの不二ということとは、形式論的には矛盾ですが、「自然的」な有では矛盾ではなく、却って同じ事の両面であるといふことにあります。それは有が「有の枠」のない有だからです。仏教で「色即是空、空即是色」といふのが、さういふあり方を指してゐると思ゐます。それが、「おのずから」にして「みずから」に、つまり「ひとりで」にあるというふ有り方、「おのずからしかある有り方」といふことになります。

 ここでは、「自然」は、「有の枠」を越えて、事物が「不一不二」のありかたで、すなわち西谷が外のところで「回互的関係」とよぶありかたで、「おのずからしかある」ことが、「空の場」において考察されている。二つのものが「相入」しつつ、「一つ」ではないという「あり方」、諸事物が互いに妨げあうことなしに調和ある全体を為すというコスモロジーが語られている。華厳の「事事無礙法界」という存在把握を現代化したともいうべき西谷の言葉を手掛かりとして、さらなる考察を続けよう。

実体的な「有の枠組」を外して、事物を「事事無礙」の相でみることは、それだけでは、まだ、「自然」にとって本質的な、事物の「生成」が言及されていない。「空の場」において、時間や歴史というものが語られ得るためには、かかる回互的な「物の有り方」を述べるだけでは不十分である。ものの「生成」という次元を捨象せずに語ること、言うなれば非時間的な永遠の相において語られる「円環的な限定」においてのみ事事無礙を語るのではなく、同時に時間や歴史という「直線的限定」を語ることが必要である。それは、「無常」の相に於いてある自然なる時間的世界を如実に見るために、万物が一即一切、一切即一であることを語る「即」の論理にとどまることなく、この「即」の一字によって言い表されている事態をさらに具体的に、生成変化するものの位相において語ることである。かつてのキリスト教神学が、父と子と聖霊の内的な三位一体のペリコーレーシス(相互内在)だけではなく、歴史的世界に於てもまた三位一体論的な思索を展開したように、我々は、ひとり神こついてだけ語るのではなくて、世界について語るときにも、三位一体論的な思索を必要とするからである。

「自然」というあり方に歴史性を見ると言うことは、歴史的世界を、人為的なる世界に限定せずに、それを越えて万物のあり方にまで一般化する事を意味する。「自然」は、その根柢に於いて歴史的であり、歴史的生成ということをその中に含む――このことが強調されねばならない。それは、近代の科学で前提されてきたような自然概念――歴史なき必然的法則に支配される世界という概念――から、我々の言う自然を理解すべきではなく、逆に、近代の自然科学が立脚していた自然概念のほうが、我々のいう意味での「自然」把握からの一面的なる抽象の所産であることを意味している。

万物が歴史的世界においてあると言うことは、二〇世紀後半の自然科学によって見いだされた新しい自然観でもある.物質には歴史があり、その諸元素は歴史的なプロセスの中で生成した物であって、永遠の昔から存在していた物ではない。宇宙全体が、不可逆的に進化するシステムであり、その進化のプロセスから、生命と意識を持つ人間が登場したこと、人類の歴史は、かかる広大なる宇宙の歴史過程のなかに位置づけられるべき事――これらは、アポステリオリに認識された科学的知見ではあるが、歴史性の欠如した近代科学の自然概念を根本的に修正するものである。存在するものの総体としての宇宙は不可逆的な歴史をもち、未来に向かって開かれている。そのような歴史性が、生物に於いて、そして人間のような高度に進化した有機体に於いて、はじめて自覚されるようになる。ポスト近代的なる自然科学で扱われる自然については、いまここで詳しく論じる余裕はないが、すくなくも、近代科学で前提されていた非歴史的自然という概念は、一面的な抽象に過ぎなかったことは、今日では自然科学自身が明らかにしている。

さて、自然が根柢に於いて歴史的であり、進化するものであると言うことを、自然科学の議論ではなく、一般的なる形而上学の議論として採り上げる場合、それは次の様な提題として定式化できるであろう。

歴史的世界に於いては、「ものが生成する」と言うことが、そのものの現実的な活動を第一義的に言い表すものであり、それが「対象として存在する」ということは、第二義的なことである。

諸々の対象的存在とは常に既成の存在であり、新たなる個々の生成を制約する諸条件を形作る。ものの相互内在と言うことは、生成という次元を考慮して始めて抽象性を免れ、現実的な意味を獲得するのである。すなわち、どのものも既成の存在として、あらたなる個々の生成のための歴史的な条件として機能する、という意味で、そのものは一切の生成する事物の中に内在している。しかしながら、将来の生成が如何なるものであるかは、既成の過去の存在によって制約されはしても、決定されているわけではない。その意味での未来の開放性は、歴史的世界の存立のための不可欠の条件である。

しかしながら、過去の既定性と未来の開放性がそこに於いてある現在の活動そのものは、歴史のただ中にあって歴史を越えるものに直結している。現在は、過去とは違って未来の生成のための条件なのではなく、それ自身が常に完結し、充実した活動である。それは、我々自身の自己と切り離された対象的事物の生成変化ではなく、一切の対象的事物の変化が、そこにおいて語られる場所である。このような活動そのものを、対象的事物の単なる生成変化から区別して、「現成」と呼ぶことにしよう。

この語は、日本仏教の中で独自の時間論を展開した道元の用いたキーワードでもあった。道元の《正法眼蔵》の要語索引によれば、『現成』は単に『現成公案』の巻だけでなく、全体にわたって実に二六二箇所にわたる用例があり、すべてが絶対に肯定的意味で使用されている。これに対して、『無』はたかだか三〇の用例を、『空』は虚空という日常的な意味を含めても五一の用例を数えるのみで、それらは肯定的な文脈で使用されることもあれば、『無にあらず、有にあらず』『空を破し有を破す』というごとく否定的な文脈でも使用されている。これは、道元にとっては、有と無との相対的対立を越えるものを指す根源語は『(絶対)無』や『(真)空』ではなくて、寧ろ『現成』であったことを示唆している。

「現成」がたんなる対象的事物の「生成」から区別される点は、それが時間に於いて生じる出来事ではなくて、時間そのものを可能ならしめる出来事であるということである。しかし、それは単なる「有」と「無」という二つの相反する範疇を統合する「生成」の現実態であるがゆえに、「現成」を「有」というも「無」というも、ともに一面的な抽象となる。

かかる意味での「現成」においては、無限に生成と消滅を繰り返す直線的な時間的限定そのものが、その都度の「今此処」において統合され、現実化される。その意味で、世界の自然に於ける「生成の如何に」は、かかる円環的な生成にほかならぬ「現成」によって、一切の潜在性をもたぬ完全現実態となる。その意味ではそれぞれの「今―此処」は完結しており、その都度、歴史に一つの区切りをつける非連続性であるが、このような区切りが入ること、そのことによって、過去は破棄されるわけではなく、反復・継承というかたちで復活する。すなわち、歴史的世界に於ける直線的なる限定そのものが、「現成」という円環的限定によって可能となるのである。

「生死即涅槃」あるいは「恩寵は自然を破棄せずに、却ってこれを完成させる」ということは、仏教的に言うならば「生死」の世界、すなわち生成と消滅によって特徴付けられる世界、キリスト教的に言うならば、福音のめぐみに与る以前の自然的世界を、実在性を欠いた単なる仮象として破棄しないということである。そのような世界の「自然」というあり方が、世界の内部において自己充足するものではなく、「神の自然」によって根拠付けられており、それによって可能となるものであること――それことは、まさに時間の中において生きている我々の直接経験から、すなわち「真理がそこに住まう内なる人」に還り(アウグスチヌス)、自己そのものの現成に他ならぬ時間性に徹底することによって知られるべき事柄であろう。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする