歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

コスモスと実存 ー自然の概念

2007-04-06 |  宗教 Religion

自然の概念

 「自然」という言葉は、哲学・科学・宗教・文藝の諸領域に於いて、様々な意味で使用されてきた。それは決して一義的な語ではない。そこで、多義的なものを統一性を全く欠いた偶然的な多義性として放置するのではなく、ある基底的・焦点的な意味を定め、そこから、様々なる「自然」の意味を系統的に整序したうえで、それらを批判的に考察することを試みたい。

まず、さまざまな自然概念に共通して「ものの自体的なあり方」が合意されることに注意したい。列子の張湛の注に「自然とは、外より資らざるなり」とあるが、そこでは「自然とは他の力を借りないで、自ずからそうなること、もしくはそうであること」が含意されている。この意味での「自然」は、ギリシャ語の physis の用法に近い所がある。アリストテレスは「自己自身の内に運動の原因をもつもの」として physis を定義したが、そういう意味での自然概念には、運動ないし変化の原因を、外に求めずに内在化する考え方が現れている。

しかしながら、こういう哲学的議論は、我々の具体的なる経験の現場を離れて次第に抽象化され、やがては、我々自身の経験の現場を離れて、自然が対象化され、実体化されていく傾向性があることに注意しなければならない。そのように対象化された議論の枠組みにおいて、両立しがたい様々な体系――形而上学的なるものと反形而上学的なる物の双方がある――が構築されるからである。

たとえば、荘子の注釈者として著名な郭象の「無因自然」論をとってみよう。そこでは、「万物には主宰者は存在せず、個々の事物は、それぞれに存在根拠をもち、他者の介入を許さない」という意味での「自然」が強調される。これは、単に、万物の主宰者の存在を否定するという意味での無神論であるだけでなく、そもそも事物には原因なるものは存在しないと言う意味で包果を撥無する議論でもあった。これは形而上学を拒否する自然主義の一事例である。

それとは対照的に、単なる個物の感覚的認識ではなく、ものの原理と原因の認識を持って学的認識の特徴とするアリストテレスにおいては、いわゆる四原因論こそが自然学の基本となる。因果性を撥無するところには科学は生まれない。そして、自然界の全体的な認識のためには、第一の原因・原理の探求こそが要求されるのであって、かかる原因の探求は、究極するところでは、形而上学において完結する。それゆえにアリストテレスの伝統を継承する自然学は、最終的には、自己自身を越える根拠としての第一哲学=神学(テオロギケー)を必要とするのである。こちらのほうは形而上学に対して開かれた自然主義の事例である。

哲学的な思索においては、事物の原因の探求、あるいは事物の本来的なありかた、生成消滅の根拠と言う文脈において「自然」が語られるが、宗教においては、それと同時に、我々の救済の根拠を求めるという文脈で、「自然」という言葉が語られる。

仏教に於いては、「自然」という語は、良い意味でも悪い意味でも使われると言う点で両義的な用語である。救済の究極的な根拠を表現する場合にも使われるが、救済が実現されるためには否定されるべきものとして語られる場合もある。 中国仏教に於いては、無因自然のごとき考え方は、仏教の基本にある縁起説、因果の理法とは相容れぬものと扱われた。道教のいわゆる「無為自然」は「自然外道」と等置され、だから、仏教的な「空」の立場との混同を戒める議論も行われた。他方に於いて、親鸞の晩年の言葉を筆録した『末燈抄』では、「自然法爾」が、絶対他力の信心の究極を表す言葉として使用されている。

 <o:p></o:p>

「自然といふは、自はおのづからと言ふ、行者のはからひにあらず、しからしむといふ言葉なり。然といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。…すべて、人のはじめてはからざるなり。このゆゑに、他力には義なきを義とす、としるべきなり」

 <o:p></o:p>

『歎異抄』にも「わがはからはざるを自然とまうすなり。これすなはち他力にまします」ということばがあり、ここでは、自然は、人為のはからいを捨てて絶対他力に帰依信心のありかたを指しているのである。

キリスト教の場合、カトリックとプロテスタントの神学の相違点の一つは、啓示神学にたいする自然神学の位置づけである。バルトに於いて典型的に見られるように、聖書原理を重視するプロテスタントの神学は、基本的な傾向として、自然神学というものの価値を認めない。聖書の啓示こそが神学の与件であり、その与件に基づいて神学体系を組織する啓示神学のみが、本来の意味での神学である.その他に神学なるものはない。あるとすれば、それは神学の装いのもとに展開された世俗の哲学に過ぎない。

これに対し、カトリシズムの伝統に於いては、基本的に、自然神学の価値を承認する。それは、さしあたっては特定の経典に立脚せずに、異教徒にもキリスト者にも共通するもの、いわば両者が共に認める自然なる与件としての世界から議論を組み立てる。それは、古くはプラトンやアリストテレスのこころみた哲学的な神学(テオロギケー)の系譜を引くものであって、キリスト者と非キリスト者とが、ともに共通の場において議論可能な地平をもつ神学である。

すなわち、自然を重視し、そこから神学的な思索を行うことは、自己と異なる伝統に由来する他宗教との対話のために必要なことがらであり、自己の宗教のもつ特殊性、独自性を超える普遍性を獲得するために、必要な営みなのである。

自然の概念は、このように、仏教に於いてもキリスト教に於いても両義的である。このような両義性の由来を追尋することは、キリスト教的な創造論や救済論の文脈で自然を語る場合に於いても、あるいは大乗仏教に於ける仏性論との関係で自然を語る場合においても避けて通ることのできぬものであろう。さらに、如何なる宗教的な価値にたいしても中立的な自然科学的な意味での「自然」概念があり、これは宗教的な自然概念と如何に関係するかと言うことも、考察されるべき問題である。

Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« コスモスと実存 ー自然の概... | TOP | コスモスと実存ー円環的限定... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 宗教 Religion