子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。
残念なことに、わたしたちの多くは大人になる前に、澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力を鈍らせて、あるときはまったく失ってしまいます。
もしも、私が、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性」を授けてほしいと頼むでしょう。
この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、私たちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。
妖精の力に頼らないで、生まれつき備わっている子どもの「センス・オブ・ワンダー」をいつも新鮮に保ち続けるためには、私たちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、少なくともひとり、そばにいる必要があります。
多くの親は、熱心で繊細な子どもの好奇心にふれるたびに、さまざまな生き物たちが住む複雑な自然界について自分が何も知らないことに気がつき、しばしば、どうしてよいか分からなくなります。
「自分の子供に自然のことを教えるなんて、どうしたらできるというのでしょう。私はそこにいる鳥の名前すら知らないのに!」と嘆きの声をあげるのです。
私は、子どもにとって、どのようにして子どもを教育すべきが頭を悩ませている親にとっても、
「知る」ということは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
子どもが出会う事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、さまざまな情緒や豊かな感性は、この種子を育む肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。
美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知のものに触れたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情など様々な形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについて、もっと知りたいと思うようになります。そのようにして見つけ出した知識は、しっかりと身につきます。
消化する能力がまだ備わっていない子どもに、事実を鵜呑みにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切り開いてやることのほうが、どんなに大切であるかわかりません。
(レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』より)
「センス・オブ・ワンダー」とは、すべての子どもが生まれながらに持っている「神秘さや不思議さに目を見はる感性」のこと。
カーソンは、自然というのは、何も、大自然の中に、森の中に子どもたちを連れて行かなければならないのではなくて、小さな植木鉢の中で芽が出ていくのを見る、ビルの谷間でヒューヒュー鳴っている風の音に耳を澄まし、空を見上げた中にも感じる、そういうもの。無理に出かけなくても街路樹の一本、空き地の雑草、それだけでも自然は感じられると言っています。
花一輪の中にも、物質を超えたものを見れる、それが、センス・オブ・ワンダー。
いくら森が近くにあっても、周りの大人がそのことに注意を向けなかったら、単に自然に恵まれていた…で終ってしまいます。
化学物質(農薬など)による環境汚染に対して、世界に最初に警告を発したと言われている、レーチェル・カーソンの「沈黙の春」は有名。彼女は、物書きになるか、海洋生物学者になるか悩んでいたほどの文才の持ち主。
昔々、生物学をかじっていた私にとって、海洋生物学者としても、女性としても、尊敬する人物のひとり。
すべての生命の源、海を愛したレイチェル・カーソン。
ごめんなさい、日本は、あなたの愛した海に、放射性物質を流してしまいました…。
きっとお怒りのことでしょう。
残念なことに、わたしたちの多くは大人になる前に、澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力を鈍らせて、あるときはまったく失ってしまいます。
もしも、私が、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性」を授けてほしいと頼むでしょう。
この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、私たちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。
妖精の力に頼らないで、生まれつき備わっている子どもの「センス・オブ・ワンダー」をいつも新鮮に保ち続けるためには、私たちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、少なくともひとり、そばにいる必要があります。
多くの親は、熱心で繊細な子どもの好奇心にふれるたびに、さまざまな生き物たちが住む複雑な自然界について自分が何も知らないことに気がつき、しばしば、どうしてよいか分からなくなります。
「自分の子供に自然のことを教えるなんて、どうしたらできるというのでしょう。私はそこにいる鳥の名前すら知らないのに!」と嘆きの声をあげるのです。
私は、子どもにとって、どのようにして子どもを教育すべきが頭を悩ませている親にとっても、
「知る」ということは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
子どもが出会う事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、さまざまな情緒や豊かな感性は、この種子を育む肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。
美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知のものに触れたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情など様々な形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについて、もっと知りたいと思うようになります。そのようにして見つけ出した知識は、しっかりと身につきます。
消化する能力がまだ備わっていない子どもに、事実を鵜呑みにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切り開いてやることのほうが、どんなに大切であるかわかりません。
(レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』より)
「センス・オブ・ワンダー」とは、すべての子どもが生まれながらに持っている「神秘さや不思議さに目を見はる感性」のこと。
カーソンは、自然というのは、何も、大自然の中に、森の中に子どもたちを連れて行かなければならないのではなくて、小さな植木鉢の中で芽が出ていくのを見る、ビルの谷間でヒューヒュー鳴っている風の音に耳を澄まし、空を見上げた中にも感じる、そういうもの。無理に出かけなくても街路樹の一本、空き地の雑草、それだけでも自然は感じられると言っています。
花一輪の中にも、物質を超えたものを見れる、それが、センス・オブ・ワンダー。
いくら森が近くにあっても、周りの大人がそのことに注意を向けなかったら、単に自然に恵まれていた…で終ってしまいます。
化学物質(農薬など)による環境汚染に対して、世界に最初に警告を発したと言われている、レーチェル・カーソンの「沈黙の春」は有名。彼女は、物書きになるか、海洋生物学者になるか悩んでいたほどの文才の持ち主。
昔々、生物学をかじっていた私にとって、海洋生物学者としても、女性としても、尊敬する人物のひとり。
すべての生命の源、海を愛したレイチェル・カーソン。
ごめんなさい、日本は、あなたの愛した海に、放射性物質を流してしまいました…。
きっとお怒りのことでしょう。