2014年9月6日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
フェリックス・ヴァロットン 「ボール」
"Out of the black cave of Time, terrible and swathed in scarlet, rose the image of his sin."
--- Oscar Wilde, The Picture of Dorian Gray (Ch.18)
「時間の暗黒な洞窟の中から、かれの罪悪の影が真紅に包まれて、すさまじい様相で立ち上がって来るのだった。」 (福田恆存訳[新潮文庫])
ナサニエル・ホーソーンの代表作『緋文字』(The Scarlet Letter)や上に引用したワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の一節などを読むにつけ、英米文学における罪の意識の象徴としての緋色というものについて考えさせられる。
『文学シンボル事典』によれば、この意識の伝統は聖書のイザヤ書における「たとえ、お前たちの罪が緋(scarlet)のようでも雪のように白くなることができる」(新共同訳)という表現に由来するものらしい。
むろん、こうした文学的表現の伝統にはシャーロック・ホームズ物語の第一作目『緋色の研究』(A Study in Scarlet)における有名な一節のひとつ「人生という無色の糸桛(いとかせ)には、殺人というまっ赤な糸(the scarlet thread)がまざって巻きこまれている。それを解きほぐして分離し、端から端まで一インチきざみに明るみへさらけだして見せるのが、僕らの任務なんだ」(延原謙訳[新潮文庫])も含まれることだろう。
さて、今回の一作。
少女の追いかける「赤い」ボールが目を引くヴァロットンの《ボール》である。
この画家については、以前に放送された日曜美術館での特集の際にレビュー記事を書いている。
スイスからフランス・パリへ移ってきた世紀末の鬼才ヴァロットンの〈覗き見〉の視線の先にいるのは、一人の少女と二人の大人。
画面左を影、画面右を陽光の領域に分ける斜めの境界線。
番組内で紹介されていたことによると、この絵は二枚の写真を基にして描かれた。
一枚は手前の少女を含む人々を俯瞰して撮ったもの。
もう一枚は大人の女性を水平なアングルからとらえたもの。
そういわれてみれば、この絵は手前の陽光部分における俯瞰的な視線と奥の影の部分における水平的な視線とが混在しているような気がしてくる。
これを映画の移動撮影になぞらえる見方もある。
なお残る意味ありげな雰囲気。
番組内での解説はこうだ。
当時の画家は結婚して子どもが生まれたばかりだった。
相手の女性は富裕な家柄の出。
青年期にパリに移り住み、ボヘミアンな画家集団のなかに長らく身を置いていたかつての自分の境遇とはまるで異なるものであった。
新婚生活にどこか息苦しさを感じるなかで、画家は自由闊達な精神で作品制作に打ち込んでいた昔の独身生活に思いをはせる。
その当時の追憶が少女の気ままな姿に投影され、現在の家族生活の違和感が奥の陰に潜む大人たちの佇まいを生んだ。
そして少女の走る先には、さながら危険信号がともるかのように「赤い」ボールが転々と。
最後に、画家の〈覗き見〉の視線を追体験する動画をひとつ。
赤いボール。
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