今回は、「染付 山水文 壺」の紹介です。
正面(仮定)
正面から右に90度回転させた面
正面の反対面
正面から左に90度回転させた面
上から見たところ
底面
生 産 地 : 肥前・有田
製作年代: 江戸時代前期(寛文時代)
サ イズ : 口径;9.0cm 胴径;13.5cm 高さ;14.9cm 底径;7.0cm
ところで、この「染付 山水文 壺」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で、詳しく紹介しているところです。
そこで、その紹介文を、次に再度掲載することで、この「染付 山水文 壺」の紹介とさせていただきます。
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<古伊万里への誘い>
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*古伊万里ギャラリー118 古伊万里様式染付山水文壺 (平成20年2月1日登載)
この手の壺は、沈香壺と呼ばれ、元は甲高の蓋を伴ったものであるが、この壺では蓋を失っている。
盛んに輸出されたようで、里帰り品も多い。
遺品も多いし、形にも特徴があるし、製作年代も明らかでもあるし等から、評価も定まっている。
絵付けの上手・下手、保存状態の良し悪し(キズがあるかないか、色絵なら釉ハゲがあるかないか等)、器物の大小などで相場はおのずと決まるようである。
なお、この手の壺は、寛文時代に多く作られたこともあり、「寛文壺」と言う者もいる。
このように評価の定まった物については、わりと安心して購入出来るのであり、騙されるケースは少ないようだ。
ただ、「安宅コレクション余聞 美の猟犬」(伊藤郁太郎著 日本経済新聞出版社 2007年発行)の163ページには、「・・・・・このように既に定評のある名品ばかりを追い求めるコレクターもあり、それはそれで名品主義的な立場であると言うことができよう。しかし、この種のコレクションは、玄人筋からは、やや軽い扱いを受けがちである。自分の目で集めたものではなく、他人の目によって保証され、格付けされたものにしか目が向かなかったことに、露骨ではないが、やや軽侮の眼を向けるのである。したがって、一口に名品主義といっても、必ずしもプラス評価のものばかりではない。」とある。
既に評価が定まり、図録に載っているような物のみを追い求める行為は、これに同類といえよう。コレクターたるもの、肝に銘ずべき文言である。
江戸時代前期 口径:9.0cm 高さ:14.9cm
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*古伊万里バカ日誌56 古伊万里との対話(山水文の壺) (平成20年1月筆)
登場人物
主 人 (田舎の平凡なサラリーマン)
万理男 (古伊万里様式染付山水文壺)
・・・・・プロローグ・・・・・
主人は、前回、染付の小皿と対話したところである。そのせいか、今回も染付と対話をしたくなったらしい。そこで、押入れから染付を物色しようとしたが、主人の妻が時々花入れに使っている染付の壺を思い出し、さっそく、花器などが主に収められている押入れの中から引っ張り出してきて対話をはじめた。
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主人: お前のことは、妻が時々花入れに使っているので、時々は見ているから、「暫くぶり!」ということにはならないが、こうして対話をするのは暫くぶりだね。
万理男: そうですね。もっとも、ご主人は、私に美的価値があるなどとは思ってもいないから、無視しているんでしょうね。それに、奥様だって、私に水を入れても水が漏らないからということで時々花入れに使っているんでしょう・・・・・。
主人: あれっ! これはまた手厳しい。ま、ま、まっ、そうヒガミなさんな。
お前に美的価値がないから無視しているとか、単に水が漏らないから花入れに使用しているということでもないよ。
花入れに使用するにしても、水が漏らなければ何でもよいというわけにはいかないようだね。活けるお花の種類や活ける場所によって、写りの良いものと写りの悪いものとがあるようだね。お花を活けてもお花が引立たないとか、花入れの方が目立ちすぎて目障りだ、とか・・・・・。
それに、お花を活けてみて、肉眼では良く見えてもカメラに収めてみたらパットしないとか・・・・・。なかなか難しいもんだね。「美」というものはデリケートだな。
最近、「安宅コレクション余聞 美の猟犬」(伊藤郁太郎著 日本経済新聞出版社 2007年発行)という本(以下「美の猟犬」という。)を読んでいたら、面白いことが書いてあった。
展覧会の会場での出品物の陳列に際しては、「・・・・・安宅さんが適当だと思う間合いを推し量りながら調整するのは、かなり神経を使う作業である。動かし過ぎてもいけない。動かし足りなくてもいけない。阿吽の呼吸というものが要るのである。私はこのごく微妙な陳列の調整を、「1ミリ単位のディスプレイ」と呼ぶ。現在勤務中の美術館でも学芸員が陳列した後、丹念にギャラリーを見て廻り、自分一人で「1ミリ単位」の調整を加えていく。陳列された作品群はたちまちのうちに生気が満ちてきて、陳列全体にリズムが刻みつけられる。陳列の1ミリ単位の調整にこそ、展示作業の得も言えぬ楽しみがあり、安宅さん直伝の陳列術がある。」(「美の猟犬」47ページ)とあった。
ディスプレイも重要なんだね。一種の美の創造なんだろうね。私なんか、いい加減だから、お前の美を十分に発揮させていないのだろう。反省してるよ。
万理男: そうですか。それでは、私も、飾り方によっては名品に見えるわけでしょうか?
主人: また、また。すぐ調子に乗るからな。お前については、ディスプレイを変えたところで名品に化けることはないだろうよ。それほどの「美」は宿していないと思うよ。
ところで、「美の猟犬」には、「名品」についての一つの解釈ということで、次のようなことが書いてあった。(「美の猟犬」163~165ページ)
「およそ日本における古陶磁コレクションには、三つのジャンルがある。すなわち、鑑賞陶器、茶陶、民芸である。・・・・・
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日本のこのような三つのジャンルには、それぞれの制約を自ら孕(はら)んでいる。すなわち、鑑賞陶器では、研究的側面に焦点が当てられる余り、鑑賞の対象というより資料的価値に止まるものにまで目を広げる傾向が避けられなかった。学問的立場の限界とも、特殊性とも言えるだろう。民芸においては、量産品を是(ぜ)とするひとつのテーゼがあり、これに縛られると、官窯製品は選択の対象から外れてしまう傾向がある。・・・・・ましてや茶陶となると、やきものとしての価値と同等、いやそれ以上に伝来が珍重され、箱がないことが致命傷となり、寸法やかたちの選択に厳しいしきたりがある。・・・・・
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ここで、もう一つ蛇足ながら付け加えると、近年、大きく浮上している「骨董」という概念である。「味」というものにこだわる余り、或る場合には、自らやきものに味をつける行為に走り、またそうした行為を鑑賞するという奇妙な現象すら現れている。・・・・・
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鑑賞陶器、茶陶、民芸、骨董などの概念は、いずれも、日本の風土の中で生まれたもので、それと切り離すことは出来ない。見るにせよ、使うにせよ、日本という枠を抜け切れないのである。しかし、そうした枠組を解き放して、世界的な尺度でやきものを見渡すと、そこには晴れ晴れとした純粋の美術品としての領域が展開する。安宅氏はこのようないわばユニバーサルな尺度を収集の指針とし、規準とし、規範として収集に取り組んでいった。」
このような解釈から言ったら、お前の場合は、鑑賞の概念に属し、しかも、資料的価値をかなり宿したものということになるので、「名品」とは言えないんだろうね。ただ、評価としてはかなり定まっているようだから、「迷品」ではないだろう。
また、「美の猟犬」には次のようなことも書いてあった。
安宅さんという方は、日常生活の空間に美術品を置かなかったらしいが、「・・・・・日常の生活空間に美術品を置かないというライフ・スタイルは、日常空間をそれらしく飾らないという存念がある。敢えて言うと、生活を飾ることはそれだけ目線が低くなり、そこに安住することにも繋がっていく。それは目を下に向ける俯角視線の美学とでも言うべきものであろう。その理想の境地を確立したのが、青山二郎や白洲正子氏の世界である。それに反して安宅さんは敢えて水平、乃至は仰角視線を取る。それは、日常の世界とは全く切り離された純粋の鑑賞の世界である。」(「美の猟犬」123ページ)
このような意味でも、お前は、妻が時々花を活ける際の器として活躍しているので、我が家の日常生活の空間に置かれた美術品ということになるから、名品とは言えないだろう。
万理男: なるほど。安宅さんという方は、実に厳しい眼で美術品を蒐集されていたんですね。
主人: そうなんだ。私もそうだが、普通の人は、特に床の間なんかにはちょっとした気の利いたものを飾りたくなるだろう。特にコレクターだったらそうだろうね。ところが、そんなことをしていると目線が上向かないというんだね。美の基準が上がらないというんだ。
これからは、お前達を押入れに閉じ込めておくいい口実が見つかった。お前達を努めて見ないことにしよう。私の目線の向上のためだ(笑)。
今日は、いろいろとむずかしい話になってしまった。対話というよりは「美の猟犬」の紹介になってしまった感があるな。
ごく少数の人が言っているのかもしれませんが、私は、何度か聞いたことがあります。
「寛文壺」とは言ってますが、必ずしも「寛文」に作られたものには限らないようですね。「寛文」よりも後に作られたものも「寛文壺」と言ってるようです。「元禄伊万里」が「元禄」に作られた物に限らないのと同じですね。
確かに、「袋物=高い」ですよね。考えてみれば、各家庭でも、皿、鉢は多く所蔵していても、袋物は少ないですものね。もともと数が少ないですから、高いんですね。
この手の物は、大きいものは美術館で観ることは出来ても、小さい物は美術館にも展示してないので、なかなか観る機会は少ないかもしれませんね。
伊万里は安くなりましたが、この手は、それほど安くなってないように思います。
それで、今は、なかなか手が出せません。
私のコレクションは、気紛れが多いですから、これからも、統一性がなく登場してきてしまいますが、ご宥恕ください(~_~;)
故玩館は、守備範囲が広いですからね。目線は、自然と、水平乃至仰角になりますね。下などを向いている閑はないですものね(^-^*)
それはともかく、この手は、今は、高くて、なかなか手に入りませんね。
かといって、今更、妻の花生け使用を禁じるわけにもいきません(~_~;)
当分、我が家の花生けとして活躍しそうです。
この手の品は手に取ってみたことがないので知らなかったんですが
かなり上げ底に成形されているんですね、勉強になります。
渋めの染付の発色と絵付けがとても魅力的な品で、今ではほとんど見ることがない品ではないでしょうか
私の場合、初心者の頃に業者さんに教えられた「袋物=高い」という言葉が染みついており
なかなかこういった品に手が出ません。
気がついたら、目がすっかり色絵用になっていました。
上はとうに諦め、目線は常に下向きです。
結果として、私どもには入手できない壷です(^.^)