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Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

極楽 征夷大将軍

2024年06月16日 12時20分47秒 | 読書

「極楽 征夷大将軍」(垣根 涼介著 文藝春秋 2023年7月25日第2刷発行)を読みました。

 

 

 

 内容は、鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の樹立までを纏めたものでした。

 なお、極楽 征夷大将軍とは、足利尊氏のことでした。

 この辺の歴史につきましては、錯綜していて解りずらいですし、また、少し調べても混乱してしまい、ますます解らなくなってしまいますので、知らなくても生活に支障が生ずるわけでもありませんから、そのままに放置していたところです(~_~;)

 例えば、お隣の県の栃木県足利市には元は足利氏の館だったという鑁阿寺(ばんなじ)というところがあるのですが、そしてそこには2~3度訪れてはいたのですけれども、私は、てっきり、足利尊氏は、ここから兵を発して室町幕府を樹立したのかな~と思っていました(~_~;)

 ところが、この本を読みますと、鎌倉時代には、足利氏は鎌倉幕府内最大の御家人だったようで、あちこちに領地を持ち、栃木県足利市の足利荘は本貫の地であったにすぎないことが解りました。足利氏は、鎌倉時代には鎌倉に住んでいたのですね(~_~;) ですので、足利尊氏は、この鑁阿寺から兵を発して室町幕府を樹立したのではなかったのですね(~_~;)

 また、朝廷も南と北とに分れ、南北朝時代を迎えることになったわけですが、どうしてそのようなことになったのかの経緯も解らなかったのですけれども、そのようなことを知らなくとも、日常の生活に支障があるわけでもありませんので、特に調べることもなく、現在に至っていました(~_~;)

 この本では、そのような、朝廷が南と北とに分れるに至った経緯も、事細かに、詳細に書かれていました。

 この本は、歴史小説というよりは、詳しい歴史教科書みたいなものですね。

 この本を書くには、相当に勉強もしなければならなかったでしょうから、大変だったのだろうな~と思いました。

 ただ、この本は、鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の成立までの経過が、詳細によく纏められているとは思いますが、読むのが大変ですね(~_~;) 549ページもあり、しかも、1ページが上下二段の分かれていて、それぞれが小さな文字で埋め尽されていますから、、、(~_~;)


童(わらべ)の神

2024年05月12日 16時16分29秒 | 読書

 「童(わらべ)の神」(今村翔吾著 角川春樹事務所 2018年10月8日第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 内容は、丹波大江山の酒呑童子伝説を題材とした歴史小説でした。この本の題名の「童(わらべ)の神」というのは酒呑童子のことを言っているようです。

 ただ、時代背景が、平安時代という古い時代の出来事でありますし、また、記録もほとんど残っていないような伝説的な内容の話なものですから、読んでいて、何処までが歴史的な事実に基づくものなのか、何処からがフィクションなのかがよく分りませんでした(~_~;)

 でも、酒呑童子伝説に関連して、酒呑童子という鬼退治に向かう渡辺綱とか、源頼光とか、坂田金時等々、名前はバラバラに登場してくるわけですが、この本では、それらの人物の結びつきを再構築しています。多分、その辺の登場人物の再構築は歴史的事実なのかもしれません。

 ということで、登場人物の繋がりのおおよそは歴史的な事実なのかもしれませんが、その他の多くはフィクションかもしれません。それを前提にして読めば、読み物としては面白いと思いました。


黒牢城

2024年04月04日 14時38分50秒 | 読書

 「黒牢城」(米澤穂信著 角川書店 2021年11月25日3版発行)を読みました。

 

 

 内容は、荒木村重は織田信長に反旗を翻し、広大な総構えの有岡城に籠城するわけですが、その籠城の様子を描いたものでした。

 荒木村重は、当初、毛利が救援に駆けつけてくれることを予定して籠城したわけですけれど、その当てにしていた毛利は何時まで経っても救援に駆けつけてきませんでした。籠城は、救援の当てがあって初めて意味があるわけですね。結局、時とともに、城内には、だんだんと、厭戦気分が漂ってくるわけですね。

 ところで、荒木村重の有岡城籠城というと、黒田官兵衛の有岡城での幽閉が有名ですよね。

 黒田官兵衛は、有岡城に乗り込んで、荒木村重が織田信長に侘びて開城するようにすすめるわけですが、荒木村重はそれを拒否し、黒田官兵衛を捉え、城内の土牢に閉じ込めてしまったわけですよね。

 この本でも、当然、そのことが書かれています、というか、黒田官兵衛が準主役のような形で登場してきます。そして、それは、次のような形で登場してきます。

 籠城が長くなってきますと、城内では、厭戦気分や様々な思惑やらが原因で、いろいろとトラブルも生じ、また、何度か、ミステリアスな事件も発生してくるわけですね。そのうちの4件について、荒木村重が土牢に赴き、牢内の黒田官兵衛にその謎解きを請うという設定で登場させているわけです。

 その辺のことは、この作家さんがミステリー作家でもあることから出た発想で、多分、それは史実ではなく、フィクションではないかと思われますが、この本を読み物としては面白くしているところかもしれません。

 最後は、荒木村重が自分自身で直接毛利に救援を頼みに赴くために有岡城を脱出するわけですね。

 荒木村重の有岡城脱出後、有岡城は、間もなく内応によって落城し、武将らの妻子親族は、その多くが処刑されました。

 なお、荒木村重につきましては、

「生き延びた。有岡城を脱け出した後も尼崎城、花隈城を頼りに、さらに翌年7月まで戦い続けた。毛利を待っていたのだろう。花隈城が落ちても村重は、毛利領内に逃れて生き延びた。

 後に茶人として摂津に戻り、有岡落城から7年後に天寿を全うした。辞世は、おそらくあったのだろうが、知られていない。誰もかれのことばを書き残さなかったのだろうか。(P.436)」

と書かれていました。


「山桜記」

2024年03月08日 16時29分24秒 | 読書

 「山桜記(やまざくらき)」(葉室 麟著 文藝春秋 2014年1月第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 この本のタイトルは「山桜記(やまざくらき)」となっていますが、内容は、次の7つの短編から構成されていました。

① 汐の恋文

② 氷雨降る

③ 花の陰

④ ぎんぎんじょ

⑤ くのないように

⑥ 牡丹咲くころ

⑦ 天草の賦

 

 今回、この本につきましては、それぞれの短編がそれぞれ独立していたこともあり、一気に読んだのではなく、のんびりと読んでいたものですから、全部読み終えるのに2ヶ月以上もかかってしまいました(><)

 それで、最初の頃に読んだ内容は忘れかけてしまいました(~_~;)

 そんなことで、この本の内容の紹介は、ごく簡単にいたしたいと思います(~_~;)

 

「① 汐の恋文」について

 物語は、「油紙に包まれた黒漆塗りの小箱が、九州、博多の津に打ち上げられた。浜で拾った漁師が紙を開いてみたところ、蒔絵がほどこされた立派な文箱が出てきた。驚いた漁師は、あわてて地元の役人に届け出た。」というところから始まります。

 当時は、豊臣秀吉が朝鮮に兵を出した文禄の役の時で、軍船の渡海が相次いでなされていましたが、悪天候が続いて難破する船も多くあったようで、小箱はそうした沈んだ船から流れ着いたものと思われました。

 その小箱には書状が入っていて、その中身は、役人が調べたところ、肥前佐嘉の大名龍造寺政家の家臣瀬川采女の妻が、戦地にいる夫へ宛てたラブレターだとわかりました。

 そして、そのラブレターは豊臣秀吉のところにまで届けられ、一悶着起こすという内容でした。

 

「② 氷雨降る」について

 九州の島原半島に4万石を領する有馬晴信(キリシタン洗礼名ドン・ジョアン)とその妻(京の公家中山親綱の娘・キリシタン洗礼名ジュスタ)に関する物語でした。

 

「③ 花の陰」について

 細川忠興の嫡男忠隆とその妻千世(前田利家の娘)に関する物語でした。

 細川忠興は、嫡男忠隆の妻千世が、関ヶ原の戦いの折、細川忠興の妻ガラシャ夫人を連れて前田屋敷に一緒に逃げなかったことを理由に、忠隆に妻千世を離縁するように申しつけますが、忠隆はそれに従いませんでした。それで、忠興は忠隆を廃嫡します。

 廃嫡された後、忠隆は祖父幽斎の庇護を受けて生活していましたが、幽斎没後はその庇護を受けられなくなりました。そこで、娘たちの将来を考えた千世は、忠隆と話し合ったすえ、離縁して加賀に戻りました。

 それにより、忠隆は、細川家から3千石の隠居料が送られるようになり、茶の湯と能に通じて風雅の道を歩み、数奇者の名を高くしていったということです。

 一方、千世は、加賀に戻ると、村井長次に再嫁したということです。村井家では子を生さず、嫁して3年後に長次は亡くなりましたが、千世は、養子、養女にかしずかれ、母芳春院(まつ)に孝養を尽す穏やかな生涯を送ったとのことです。

 なお、この短編のタイトルの「花の陰」の「花」とは、ガラシャ夫人のことのようです。

 

「④ ぎんぎんじょ」について

 龍造寺隆信(龍造寺家当主)の母慶誾尼は、隆信没後、49歳の時、家臣の鍋島清房のところに押しかけて妻となります。それによって、竜造寺家当主龍造寺政家(隆信の子)の祖母となり、鍋島家当主鍋島直茂(清房の子)の母ともなったわけで、竜造寺家と鍋島家との内紛を未然に防いだ大人物でした。

 鍋島直茂の妻彦鶴とそのような大人物の慶誾尼との日々のやりとりを綴った内容でした。

 

「⑤ くのないように」について

 加藤清正の娘「八十姫」に関する物語でした。

 八と十の間には、本来は九があるわけですが、清正は、苦労がないようにと願い、九を除いた八十という名前を付けたということです。

 八十姫は、徳川家康の十男徳川頼宣(紀州和歌山初代藩主)に嫁しますが、子には恵まれなかったようです。しかし、側室が生んだ光貞を嫡母として心豊かに養育したので、光貞は八十姫を実の母のように敬慕したということです。光貞の四男が後に八代将軍となる吉宗です。

 

「⑥ 牡丹咲くころ」について

 いわゆる「伊達騒動」を扱ったものでした。

 

「⑦ 天草の賦」について

 「天草の乱」に「黒田騒動」を絡めた内容のものでした。

 「黒田騒動」の際、幕府によって天下に生き恥を晒された黒田長政の嫡子黒田忠之は、天草の乱を汚名挽回の好機とばかりに奮闘し、一番の手柄をあげますが、その時、こっそりと、落城する原城から天草四郎が脱出するのを見逃します。そして、一人静かに、恥をかかせた幕府に逆らったことへの喜びを噛みしめ、溜飲を下げたというお話です。

 なお、この短編の中に、黒田如水が有岡城に幽閉されていたおりに牢番を務めていた者の子を後に如水が養子としてしていることが書かれていました。その者は、黒田美作という人物で、武芸に長じ、黒田八虎の一人に数えられ、黒田家の重臣となったようですね。


「蹴れ、彦五郎」

2023年12月29日 14時39分05秒 | 読書

 「蹴れ、彦五郎」(今村翔吾著 祥伝社 令和4年7月20日初版第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 この本のタイトルは、「蹴れ、彦五郎」となっていますが、実際には、次の、

① 蹴れ、彦五郎

② 黄金(こがね)

③ 三人目の人形師

④ 瞬(まばたき)の城

⑤ 青鬼の涙

⑥ 山茶花(さざんか)の人

⑦ 晴れのち月

⑧ 狐の城

という、八編の短編から成っていました。

 

 「① 蹴れ、彦五郎」は、今川義元の嫡男今川彦五郎氏真に関する物語を書いたものでした。

 彦五郎は、蹴鞠と歌を何よりも好み、名家を没落させた武将として有名ですが、その当時には無い考え方の「職業選択の自由」を貫いた武将であったという側面から描いた内容のものでした。

 

 「② 黄金(こがね)」は、織田信長の嫡孫織田秀信に関する物語でした。

 織田秀信は、関ヶ原の戦いの際には西軍について破れ、高野山に送られますが、そこからも追放され、その後1月足らずで25歳の若さで没したということです。

 なお、一部の史料には、陸奥棚倉1万石で大名に復帰したという記述もあるということが付記されていました。

 

 「③ 三人目の人形師」は、他の七編とは趣の異なる、生人形(いきにんぎょう)師にまつわる、ホラー的な内容のものでした。

 

 「④ 瞬(まばたき)の城」には、「星ヶ岡城」という太田道灌の頃に築城されたという城にまつわる物語が書かれていました。

 そこには、太田道灌や、太田道灌に、「貧しくて蓑がないので貸せない」という意味を込めた歌に山吹の枝を添えて差し出したという謎の女性が登場してきます。

 

 「⑤ 青鬼の涙」は、鯖江藩第7代藩主間部詮勝という人物に関する物語でした。

 幕末の井伊直弼は赤鬼と呼ばれて有名ですが、鯖江藩第7代藩主間部詮勝は「鯖江の青鬼」と呼ばれていたとのことです。

 彼は明治の世を見ることになりますが、明治になって、東京向島の屋敷から、一人、元の領地であった鯖江に旅立ち、そこで、若殿の時代に食べていた羊羹を買ったという内容でした。

 

 「⑥ 山茶花(さざんか)の人」は、上杉家の猛将新発田重家に関する物語でした。

 新発田重家は上杉家に反旗を翻し、義の家である上杉家に刃向かったわけですが、それは、彼が悪なのか、それとも、彼には彼なりの義があったからなのかという視点から書かれたものでした。

 

 「⑦ 晴れのち月」は、武田信玄の嫡男武田太郎義信を主人公としたものでした。

  武田信玄は、武田太郎義信が謀叛を企てたということで、彼を廃嫡するわけですが、それを、後日、信玄が後悔するという内容でした。

 その辺の記述は次のようなものでした。

 

「・・・義信の死から五年後の元亀三年(1572)、かつて義信が予見したように美濃を得た織田家は一気に膨張し、武田家を大きく上回る勢力になっていた。このままではさらに国力の差が広がると見た信玄は、織田家と断絶し、それを討たんと西上作戦を決行した。

 織田家との決戦を急いだ理由はもう一つある。

 それは信玄の労咳の症状が悪化し、残された時が僅かであることを悟っていたのである。

 初戦から武田軍の連戦連勝であったが、西上の途中、信玄は倒れた。

 「今少し時があれば・・・・・口惜しい」

 病床で痩けた頬を震わせながら信玄は零した。

 跡取りの勝頼は勇猛であるが人を惹きつける魅力に欠ける。さらに一度諏訪家に養子に出していたこともあり、くせ者揃いの家中を纏めるには至らないと考えていた。

 「太郎が生きておれば・・・・・」

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「その通りだな・・・・・」

 その譫言が最後の言葉であった。      (P.330~331) 」

 

 

 最後の「⑧ 狐の城」は、北条氏康の4男北条氏規(うじのり)に関する物語でした。

 豊臣秀吉による北条攻めの際、彼は、韮山城に籠もって激しく抵抗します。しかし、多勢に無勢、遂に韮山城を明け渡すこととしますが、その際、明け渡しの条件として北条家当主北条氏直の助命と相模など一部の領地の安堵などを申し出ます。

 その後、氏規の努力により、氏直は赦され、河内及び関東に1万石を与えられ大名に復します。

 なお、その後の北条家の推移については、次のように書かれていました。

 

「しかし、氏直は、11月4日に大坂で病死した。

 小田原北条氏五代当主、北条氏直。三十歳という若さだった。

 氏直の死後、氏規の嫡子である氏盛が、遺領のうち4千石を相続した。

 氏規は河内国丹南郡に2千石、後に河内に約7千石を宛てがわれた。

 慶長3年(1598)には隠居し、氏盛に己の全ての知行地を任せた。

 領地を併せたことにより、氏盛は1万1千石の大名となった。北条宗家は、河内狭山藩主としてその血脈を幕末に至るまで紡ぐのである。    (P.377~378) 」

 

 ちなみに、北条氏直の妻督姫は徳川家康の娘です。北条氏規のことを「狐」と称するのは、秀吉が、家康を「狸」と言い、氏規のことを「狐」と言ったことを、自らがいたく気に入り、両人をそのように称したことに由来するようです。