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Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

無双の花

2023年11月01日 13時34分09秒 | 読書

 「無双の花」(葉室 麟著 文藝春秋 2012年1月15日第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 内容は、筑後柳川城主立花宗茂に関する物語でした。その概要は、次のとおりです。

 宗茂は、関ヶ原の戦いのおりには、京極高次が守る大津城の攻防戦に手間取ったため、結局は、関ヶ原の戦いでの決戦に間に合わず、戦わずして敗軍側の将の一人となってしまいました。

 関ヶ原での敗報を聞いた宗茂は、急きょ大坂に引き揚げ、大坂城で籠城して東軍を迎え討つことを西軍の総大将の毛利輝元に進言しますが、決断が得られませんでした。

 憤った宗茂は、大坂から船で九州の自城の筑後柳川城に戻ってしまいます。

 しかし、筑後柳川城に戻ったものの、九州では、豊前の黒田如水と肥後の加藤清正が、既に徳川側につくと旗幟を鮮明にしていましたから、間もなく、柳川城は、黒田如水軍と加藤清正軍によって囲まれるのは必定でした。そこに、急きょ、肥前の鍋島直茂が、息子の勝茂が西軍に属していたのにもかかわらず、柳川城に攻め寄せてきました。裏切りですね。

 結局、柳川城は、黒田、加藤、鍋島の大軍に囲まれてしまい、宗茂は降伏し、柳川城を明け渡します。

 柳川城を去った宗茂は、加藤清正から千人扶持を与えられ、家臣の大部分も加藤清正に預かってもらい、何不自由のない生活を送っていました。

 しかし、宗茂は、豊臣秀吉からことのほか可愛がられ、柳川13万2千石の領地を与えられて大名となり、小田原攻めの際には、秀吉から、諸大名の前で、「東国にては本多忠勝、西国にては立花宗茂、ともに無双の者である」と褒め称えられているところです。また、その後も、朝鮮出兵の折りにも、「西国無双」の名に恥じない活躍を示してきたところです。

 そうした過去の栄光が忘れられないのか、宗茂は、どうしても大名に復帰したく、それを徳川家康に認めてもらうため、1年後の慶長6年(1601)には、京に登ります。

 慶長8年(1603)、家康が将軍となり、江戸に居ることが多くなったことに伴い、宗茂も江戸へと向かいます。

 慶長11年(1606)、やっと、2代将軍徳川秀忠との拝謁がかない、大番頭5千石で召し抱えられます。その後、間もなく、奥州の南郷に1万石を与えられ、遂に、大名に復帰することができました。

 その4年後の慶長15年(1610)には、3万石に加増されます。

 そして、遂に、元和6年(1620)、筑後柳川11万石に再封され、柳川復帰が実現します。

 その後、島原の乱でも参陣し、乱平定後、江戸に戻った宗茂は隠居を願い出て許され、その後も江戸在府を続けて家光に近侍し、4年後の寛永19年(1642)に没します。享年76。


茜唄(上)・(下)

2023年10月10日 12時41分29秒 | 読書

 「茜唄(上)・(下)」(今村翔吾著 角川春樹事務所 2023年3月18日第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 内容は、「平家物語」でした。

 「平家物語」の作者については不明とされていて、古来より多くの説があるようですね。

 この本では、「平家物語」は、平清盛の4男の平知盛(とももり)が日記代わりに書いていたものを、知盛が壇ノ浦の戦いで敗れて亡くなったあと、知盛の妻の希子(きこ)がその後の部分を補充し、琵琶をかき鳴らしながら、僧西仏(さいぶつ)に伝授して完成させたということになっています。

 平知盛は、清盛に最も嘱望され、最も愛された人物だったと書かれていました。清盛の死後は、長男、次男が若くして病死していましたので、3男の宗盛があとを継ぎますが、実質は、4男の知盛が平家一門を束ねていたとのことです。ですから、この本では、「平家物語」は、平家の興亡を最も良く知った人物によって作られたものだということになりますね。

 ところで、知盛の妻の希子ですが、彼女は、壇ノ浦の戦いの際にそこで亡くなったわけではなく、壇ノ浦の戦いの後は、高倉天皇の次子、守貞を守りつつ京に戻っています。その後、守貞が親王宣下を受け、持明院家ゆかりの持明院を御所として持明院宮に住むようになりましたので、守貞の乳母であった彼女もそこに住むようになったということです。

 また、僧西仏ですが、この本では、元は信濃国の名族滋野氏の嫡流で13代海野幸親の次男の海野幸長という武士でしたが、その後、仏門に入り、法然上人の門下となった人物ということです。


墨龍賦

2023年09月04日 18時36分18秒 | 読書

 「墨龍賦」(葉室麟著 PHP 2017年2月7日 第1版第1刷発行)を読みました。

 

 

 内容は、絵師海北友松の生涯を書いたものでした。

 この本の流れとしては、次のように構成されていました。

 京都に住む絵師小谷忠左衛門は、父親が高名な絵師であったことは知っていましたが、その父親がどのような人物であったのかをほとんど知らずに、京の片隅で、名もない絵師として35歳まで暮らしていました。

 ところが、突然、春日局から、京都所司代をとおして、江戸に下るようにとの命令が出されました。

 小谷忠左衛門は、おそるおそる江戸城に赴いたわけですが、そこで、春日局が、小谷忠左衛門に父海北友松の生涯について話して聞かせたという構成です。

 なお、ご承知のように、春日局は、斎藤内蔵助の娘の「お福」ですね。

 

 

 春日局の語った概要は次のようなものでした。

 海北友松は、近江の大名浅井長政の家臣海北善右ヱ門の子として生まれましたが、3男であったため、13歳の時に京の東福寺に入れられました。そして、その東福寺で、安芸国から来ていた恵瓊(後の安国寺恵瓊)と知り合います。

 二人は共に将来の夢を語り合います。恵瓊は外交僧となることを夢見、友松はいずれ還俗して武士に戻ることを夢見ますけれども、当面、絵にも才能のあることがわかったため、絵の修行と武芸の修練の両方に努めることとしました。

 恵瓊が外交僧となるため、諸国に赴いて天下の情勢を学ぶわけですが、二人はよく行動を共にしましたので、友松も自然と天下の情勢に明るくなっていきます。

 そのようなこともあり、この本には、当時の全国の有名な武将の名がきら星のように登場してきます。

 そうしたなか、友松は、たまたま、春日局の父親の美濃出身の斎藤内蔵助と知り合い、二人は生涯の友となります。

 ところで、浅井長政の居城小谷城が織田信長の猛攻によって落城するわけですが、その際、海北家も壊滅してしまいます。そこで、友松は、信長を討って海北家を再興しようと決意します。そのため、永年住み慣れた東福寺を後にし、狩野永徳の住む狩野屋敷に身を寄せます。

 といいますのは、以前、斎藤内蔵助から、斎藤道三から織田信長への「美濃譲り状」が妙覚寺に保管されているということを聞いていたからです。狩野派に入れば、妙覚寺への出入りがしやすくなると考えたわけですね。その「美濃譲り状」には何が書かれているのか、いったい、そもそも「美濃譲り状」というものが存在するのかどうかの秘密をつかめば、信長に仕える明智光秀たち美濃衆を離反させることができるかもしれないと考えたからでした。明智光秀たち美濃衆の力を借りて信長を討とうという思いを描いたわけです。

 なんとか、妙覚寺の住職(斎藤道三の息子の一人)に会うことが出来、住職から「美濃譲り状」なるものを渡されますが、そこには譲り状の文面はなく、我が子との別れを嘆く哀切な文言のみが書かれた父から子への手紙にすぎませんでした。つまり、「美濃譲り状」というものはなかったということがわかったわけです。

 それで、友松は、それを斎藤内蔵助に渡し、そこから更に明智光秀に渡してくれるように頼みますが、斎藤内蔵助は、それを信長の正妻の美濃出身の帰蝶に渡すように指示します。そして、後日、無事、帰蝶に渡すことができました。帰蝶から明智光秀に渡ったかどうかは明らかではありませんが、これが美濃衆の離反につながり、本能寺の変が起こったとしています。

 本能寺の変の後、斎藤内蔵助の首は本能寺の獄門台に、遺骸は粟田口で磔にされて晒されますが、友松は、その遺骸を処刑場から奪い、真如堂という寺に密かに弔っています。

 その後、友松は沈潜したかのように消息を絶ちますが、狩野永徳が亡くなってから数年後、独立した絵師として世間に顔を出すようになります。

 それからは、恵瓊が再興中の京の建仁寺で、恵瓊の伝手で、襖絵や障壁画などを描いています。

 また、64歳のとき、近江の浅井家に仕えた武士の娘で、友松の遠縁にあたる「清月」を娶り、2年後には長男が生まれています。

 そして、大坂夏の陣の直後、83歳で、戦国時代の終焉を見届けたかのように亡くなりました。

 なお、友松の最晩年、宮本武蔵が友松に師事してるとのことです。実際に武蔵が友松の弟子であったかどうかはともかく、「武人の気迫が込められた絵を描いた友松の系譜に連なることは間違いないだろう」ということです。

 

 

 ところで、友松の子の絵師小谷忠左衛門のその後については、次のように書かれていました。

 

「忠左衛門は春日局によって徳川家光への推挙を受け、江戸に屋敷を与えられた。そして海北家を再興して友雪の号を用いるようになる。

 また、狩野探幽の教えを仰いで明暦、寛文、延宝の内裏造営にともなう障壁画制作にも狩野派以外の絵師として参加した。後水尾上皇の御用もしばしば務めて法橋に叙せられた。

 狩野派の影響を受けながらも友松の画風を受け継ぎ、さらに大和絵の技法を生かして絵を描き続けた。

 やがて海北友雪は友松を思わせる妙心寺鱗祥院殿の、

   雲龍図

   西湖図

のほか、<一の谷合戦図屏風>、<花鳥図屏風>などの秀作を遺した。

 友松の画業は、斎藤内蔵助との奇縁により子に伝えられたのである。 P.284  」 


たいがいにせえ

2023年08月28日 20時43分49秒 | 読書

 「たいがいにせえ」(岩井三四二著 光文社 2007年12月25日初版第1刷発行)を読みました。

 

 

 この本は、図書館に読み終えた本を返却に行った際、今度は何を借りてきて読もうかなと書棚を眺めていましたところ、何となく目に留まったもので、また、何となく気安く読めるように感じたものですから、借りてきたものです。

 この本の「タイトル」が「たいがいにせえ」ということで、1冊の長編のように思われるかもしれませんが、実際には、

① 祇園祭に連れてって

② 一刻は千年

③ 太平寺殿のふしぎなる御くわだて

④ 信長の逃げ道

⑤ バテレン船は沖を漕ぐ

⑥ あまのかけ橋ふみならし

⑦ 迷惑太閤記

という、七つの中編を集めて1冊にしたものでした。また、それぞれの中編は、全く関連性がなく、それぞれが独立したものでした。

 そして、それぞれの中編の内容は、戦国時代の一つの小さな出来事をテーマにしたもので、いわば「戦国時代こぼれ話」というようなものでした。

 以下、それぞれの中編の概要を紹介いたします。

 

① 祇園祭に連れてって

 祇園祭は平安時代から連綿と行われてきていましたが、応仁の乱から33年間は中断したとのことです。復興したのは明応9(1500)年のことということですが、なにせ、33年間も中断していたものですから、その復興は大変だったようで、その復興に当たっての関係者の苦労話をまとめたものでした。

 

② 一刻は千年

 因島(いんのしま)を治める村上水軍の宿将の宮地氏の娘で、来島(くるしま)の村上氏に嫁いだ姫がいました。姫は、その後、来島の夫に先立たれ、実家に戻り、紹玉尼と称していました。

 紹玉尼は、若い頃から美人の誉れ高く、また、女傑でもあったとのことでした。嫁入り前の14歳の頃には、ルソンから来た若い男と駆け落ちしましたが、すぐに捕まって連れ戻されたとの噂がありました。

 ある者が、紹玉尼にその真偽を尋ねたところ、それは真実であると告げられたとのことで、また、すぐに捕まることを承知のうえで後先のことも考えずに駆け落ちしたが、そのルソンの男と過ごした一刻ほどが、千年にも万年にも思えたと語ったということでした。

 

③ 太平寺殿のふしぎなる御くわだて 

 安房の里見義弘と鎌倉太平寺の住持青岳尼とは、幼なじみでした。青岳尼は、下総国の小弓公方足利義明の娘で、元服したばかりの里見義弘は小弓公方の御所に出仕していました。

 しかし、小弓公方足利義明の軍勢が北条の軍勢に破れ、足利義明をはじめ、一族郎党はみな討ち死にし、娘は父の後生を弔うために尼とならざるをえず、鎌倉太平寺に入り青岳尼となります。そのようなことで、里見義弘と青岳尼とは、別れ別れとなりました。

 しかし、二人の間の思いは強く、二人は密かに連絡を取り合い、遂に、里見義弘は軍船を仕立て鎌倉の太平寺に赴き、青岳尼を救い出したという話です。その後、青岳尼は還俗して里見義弘の正妻となり、二人は仲睦まじく暮らしたということです。

 

④ 信長の逃げ道

 織田信長が越前の朝倉義景の攻撃に出向くわけですが、その際、同盟関係にあった妹婿の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕します。そのため、豊臣秀吉と信長の同盟軍の徳川家康をシンガリとし、信長本隊は信長勢力地まで帰還することになります。

 その際の信長の逃げ道となったのが山深い朽木越えの経路だったわけで、その際の、その朽木の地を領する朽木弥五郎元綱のとった行動を主とした内容でした。

 その後、朽木弥五郎元綱は信長に仕え、本能寺の変のあとは秀吉に仕えました。関ヶ原の合戦では、当初、西軍に属しましたが、途中で東軍に寝返って9,590石を知行します。江戸時代になっても家を保ち、信長の朽木越えから62年後の寛永9年(1632)、84歳で生涯を閉じたということです。

 

⑤ バテレン船は沖を漕ぐ

 大友宗麟からの指示で、バテレンを乗せた船が豊後の日出の湊を出て堺に向かいます。バテレンは、フロイス、ロレンソ、その他6人の計8人でした。

 船は、海賊たちに関銭を払いながら、順調に瀬戸内海を堺へと向かいます。ところが、何カ所かの湊を通過するうちに、海賊たちが、その船にはバテレンが乗っているらしいことに気付きます。

 バテレンたちも、乗っていることを勘づかれたらしいことに気付き、最後の湊には寄らず、沖合を漕いで突っ走るようにと、船頭たちを脅します。

 やむなく、船頭たちは最後の湊には寄らないことを決意し、沖合を漕ぎに漕いで、ぎりぎりセーフで堺に着いたという話しです。

 

⑥ あまのかけ橋ふみならし

 荒木村重は、信長に反旗を翻し、有岡城に籠もりますが、或る日、突然、城からいなくなりました。籠城中に城主がいなくなるという前代未聞の事態が発生したわけです。散々探しますが、そのうち、嫡子・新五郎が城主を務める尼崎城にいることがわかります。

 有岡城に残された側室のだし(正室が死亡しているので実質正妻)たちは、その後も頑張りますが、遂に、力尽きて降参します。

 その後の状況については、次のように書かれていました。

 「有岡城に籠もっていた女子供など122人は、天正7(1579)年12月13日に尼崎近くで織田の手の者に磔にかけられ、ほかに若党や下女など500人以上が、家4軒に押し込められて焼き殺された。だしたち荒木一門の者は京に送られ、大路を引き回された上、16日に六条河原で首を切られた。

 荒木村重自身は、尼崎城を抜け出して毛利へ下り、妻子が殺されたあともひとり生き延びた。本能寺で信長が憤死したあとは秀吉の元へ出仕し、茶人として利休七哲にも数えられ、天正14(1586)年、52歳で死去したという。

 残らず斬られたはずの荒木一族の中で、2歳の幼児だけが乳母の機転によって助かったという話も伝わっている。その子は長じて、岩佐又兵衛という有名な絵師となった。又兵衛がだしの子かどうかは不明である。 (P.239~240)」

 

⑦ 迷惑太閤記

 加賀藩士で200石取りの笠間儀兵衛は、70歳を過ぎても隠居もせずに、元気に城勤めをしていました。

 普段、昔、戦場で首を取ったという武勇伝を語り、昔の自慢話ばかりをしていて、周りからは煙たがられていました。

 ところが、或る時、「太閤記」なる書物が発刊されていることを、また、それを書いた者が、藩主の侍医であることを知りました。そうであれば、なおさらのこと、きっと、自分の働きのこと、自分が戦場で敵の首をとったことも書かれているに違いないと思うようになります。

 しかし、やっと手に入れて読んだ「太閤記」には、自分が戦場で首を取ったのではなく、鉄砲で打ち倒された者の首を取った、つまり「拾い首」をしたように書いてあることに気付きます。

 それでは、昔の自慢話も出来なくなるわけで、憤懣遣る方なしなわけですが、著者が藩主の侍医ではどうしようもありません。そこで、笠間儀兵衛は、「太閤記」の内容に不服である旨の書面を書き上げ、それを家老に提出したということです。

 その辺のことについて、この中編の最後には、次のように書かれていました。

「小瀬甫庵の書いた太閤記が版本として刊行されたのは、寛永11年(1634)以降と推定されている。刊行当初から娯楽本というより、歴史書として読まれ、これ以降書かれる種々の歴史書に、多くの頻度で引用されることになる。

 それだけに文中に自分や親の名を書かれた者たちは、その書かれように一喜一憂したようである。笠間儀兵衛は加賀藩家老あてに内容が不服である旨、書き上げたが、それに対して家老がどう対応したかは伝わっていない。 (P.280)」


気骨稜々なり

2023年08月19日 19時09分39秒 | 読書

 「気骨稜々なり」(火坂雅志著 小学館 2013年10月28日 初版第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 この本は、博多の豪商島井宗室の生涯を記したものでした。

 また、この本には、島井宗室に関連して、堺の豪商や、博多の豪商についても記してありました。

 そのため、私は、堺の豪商の津田宗及、今井宗久、千利休といった人物については、「堺」に関連してよく登場してきますので、少しは知識もあったのですが、博多の豪商の島井宗室、神屋宗湛といった人物についてはほとんど知りませんでしたけれど、これらの人物についても詳しく書かれていましたので、博多の豪商の島井宗室、神屋宗湛といった人物についても少しはわかるようになりました(^_^)

 内容の大部分には、島井宗室が、戦国の世に、博多の小さな商人から身を起こして博多屈指の豪商となり、九州のみならず天下の表舞台にまで現われて大活躍するさまが生き生きと書かれていました。

 時は移り、豊臣秀吉も亡くなり、関ヶ原の戦いも終り、徳川の天下となって政権が江戸に移り、博多の地も時勢の流れとは無縁ではなく、博多は、天下の博多から、九州の一大名の黒田氏の商都博多へと変貌するわけですが、天下の表舞台から去った島井宗室は、そこで、静かに、77歳の生涯を閉じたと、晩年の島井宗室についても書かれていました。

 なお、若き島井宗室は、茶道具商として財をなしたようですから、相当な目利きだったようで、この本の中でも、いろんな茶道具の天下の名品が登場してきます。

 著者は、かなり、茶道具に関する古美術品についての造形が深いのでしょうか、或いは、この本を書くために、茶道具古美術品の勉強を相当にされたのでしょうか、、、? この本には、かなりの専門用語も登場してきますし、茶道具の名品の名前も数多く登場してきます。それだけでも、古美術愛好家にとっては、この本は、楽しく、嬉しい内容かもしれません(^-^*)